第2話 水の羽音
自由な言葉を持って、語ることではなく、思考し始めたのはいつ頃だろうか。僕が持ちうる限りの最初の記憶。言葉を持ってその感情を表現しようとした初めての日。それはおそらく水の羽音と共に始まったと思う。あの深く、暗く、ただ耳の周りにまとわりつく水の重たい音。
それが何歳だったかは覚えていない。というより、年齢というものを気にしたことがなかった。そもそも、いつ誕生日なのかすら知らない。だから正確な年齢は知らないけど、少なくとも、今これを書いている時間から数えた限りでは15年前になる。
自我、ともいうべき意識が目覚めたのは暗い水の底。泳ぎ方もわからず、手足をばたつかせ、余計に浮力を失ったまま沈んでいく。目の痛みを感じながらも、しっかりと目を開けて、沈んでいく体の大きさを理解していく。太陽の光は表層で留まって水の奥まで浸透してこない。恐怖を感じながら、その光景がどうしても忘れられない。
ジタバタするだけの体力はすでになく、身体中から力が抜け、ただ恐怖という感情に支配されていく。だから、必死に考えた。初めて考えるということを覚えた。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい
この、言葉にできない感情に襲われながら意識が消えていった。
後々知ったのは、仮死状態のためか、体の主要機能がダメージを受けなかったこと。あと数分発見が遅れれば脳機能へのダメージが許容値を超え、何かしらの障害が残るかもしれなかったことだった。人の体は不思議なもので、自己の保存に関しては人間の理解を超える。あと、多分幼かったのも生き残った理由になるのだろう。脳死状態の人間は基本的に目が覚めることはない。でも、幼少の脳はまだ未完成であり、発展の過程で修復が行われるという。
僕がその類とは思わないがそれでも一つの理由だと思っている。
あの一件以来全てが歪に思えるようになった。『先生』はこの歪さを成長といって、『同志諸君』全員が通る道と教えた。でも、あの歪な感覚が誰かと共有しているとは思えなかった。だからか『先生』はいつも困り果てていた。理解できないわけではない。おそらく、周りと同じように答えることもできた。でも、そんな生き方を5歳の自分ができたとは思えないし、たとえ、10歳になってもできたわけではない。むしろ、周りから離れていることへの恐怖や劣等感なんかが襲ってきて、どうしようもない絶望へと繋がっていく。
そんなどうしようもない恐怖を和らげたのは『先生』でもなければ、『同志諸君』でもなかった。部屋には何もなくとも、施設には図書室と呼ばれる少し大きい部屋があった。そこにはいくつかの棚が無造作に置かれており、どの棚にも『永久繁栄を約束されし党大綱』と名付けられた赤い本が置かれていた。全20巻というあまりにも長いその本を手にとって、意味もわからず読むことはあるかどうかすらわからない外の世界とのつながりを保つ一つの方法だった。
基本的にそこに書かれていることの意味はわからない。時々「世界」とか「宇宙」とか「エントロピー」とかと抽象的で定義をそこで話さない、ただ宙に浮いた意味のない言葉の羅列が行われる。
まるで、思考を限定するための言葉。捲し立てるように、巻き上げるように思考を限定する。それ以上考えることなく、それ以下にすることもない。
「あなたのことを私は知っている。あなたのことを私たちは知っている」
“I know who you are. We know who you are”
この言葉だけ、全てにおいて意味をなしていた。
そして頭に刻まれる。この言葉の限りそれ以上にもそれ以下にもならない。一体、何者になれるというのだろうか。僕が僕である以上の僕に、そんなものあっていいのだろうか。あの水の中で覚えた僕という限界とそこから解き放たれる可能性を持った僕。それを知ってしまったのだから。苦痛が、死が僕を解き放つ。その可能性。なんとも魅力的だった。
溺れたあの時の静寂と羽音。孤独なはずが最も美しくそして魅力に溢れていた。
もし死ぬのなら、死ぬことが許されるのなら、きっと、最も静寂で美しい死なのだろうな。
そう考えることで圧倒的な不安からいくらか解放された。
深く、深く、落ちる、落ちる。 初瀬みちる @Shokun
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