プロローグ
真っ暗な闇のなかを彷徨っている。誰もいなくて、ずっと一人ぼっちで、とにかく寂しかった。
前後左右の全ての視界が闇に染まっているのに、自分の体だけは視認できた。
ここはどこだろう。なんで来たんだろう。
そんなことを思っていた矢先、頭上から月光が注がれた。闇の海に浮かぶ一個の大きな星である。それはまるで光の柱であった。その光彩に反射して視界に映ったのは、ゆらゆらと揺れるグレー色の何かだった。
炎のように揺らめく、柔らかい何か。
足を動かし接近して、よく目を凝らして見つめると、それは獣の尻尾だった。グレー色の毛。とても滑らかで触り心地の良い尻尾。毛の塊だ。
テュランはそれを見て、目を見開き驚愕すると、乗り出すように手を伸ばした。
届け。ミルに届け。
しかしその手はミルの尻尾をすり抜けてしまう。どれだけ触れようと足掻けど、絶対に触ることができない。
テュランは声を失い、奈落に落ちた気分だった。
でもその瞬間、光が差すようにテュランは朧気ながら思い出した。
——あぁ。僕がこうなることを選んだんじゃないか。
「うぅ……」
再び、見覚えのある天井が目に映った。咄嗟に起き上がろうとして、体を本来曲げるべきでない方向に曲げてしまった。痛みに悶えていると、その激痛をきっかけにして様々な記憶が蘇ってきた。
パッツァオ邸での戦い、イカロゼの死亡、白い空間で白い体液事件、パッツァオのピストル、≪
そして、激闘の果てに救出したミルのこと。
ミルは元気だろうか。今、どこにいるんだろう。早く会いたい。
あらゆる感情が混濁して、テュランは大きくため息を吐いた。
あの夜での戦闘は、悲劇の連続であった。何度も「死」を覚悟した。今でもあの夜の悪夢に身震いしそうである。だからこそ、ミルに会いたかった。
「目が覚めたわね」
「おはようございます」
部屋に入ってきたのは、この家の
「元気そうで良かったわ」
ヴァイオレットは近くの席に座り、リボンは前回と同じく紅茶を渡してくれた。その温かい紅茶を飲みながらテュランは訊いた。
「ミルはどこにいるの?」
テュランが質問すると、二人は互いに顔を合わせて眉尻を下げた。伝えにくい真実でもあるのだろうか。ヴァイオレットたちは言葉を選ぶようにして沈黙を流し、しばらく経ったあと、ようやく口を開いた。
「ミルさんは……アケローンシティを去りました」
自信なさげにそう語ったのは、リボンだった。
それを聞いた瞬間、テュランは胸の奥にぽっかりと穴を開けた気持ちになった。足場がなくなって、奈落に落ちていきそうだった。
元々二人は、出会ってから数日しか経ってない仲だった。数日の間、特別な夢を見ていたと思えば気が楽になりそうだった……というわけでもなく、テュランはただただ胸部の痛みを受け止めることしかできなかった。
無理矢理に心を落ち着かせようと思ったが、やはり我慢できなかった。テュランは、乗り出すように訊いた。
「どうしていなくなったんですか?」
「旅に出たい、とのこと……です」
リボンの言葉は、とても曖昧で不明瞭だった。
——旅に出たい。
そんなことは一度も聞いていない。一度だって話してくれなかった。
テュランは泣きそうだった。
するとヴァイオレットが立ち上がって、テュランの肩を優しく叩いた。
「人には、多かれ少なかれ他人には言いたくないことがあるのよ。テュラン、彼女は彼女なりに色々な葛藤があったんだと思うよ」
「そう、だけど……」
諭されているようで不愉快な気分だった。一方的に突き放された気がして、テュランは「見捨てられたんだ」と勝手に結論付けて拗ねてしまった。
「どうせ僕なんて……ミルにとっては邪魔でしかなかったんだ」
「そんなことないわよ」
珍しくも、ヴァイオレットが優しい声をかける。だがテュランは毛布に包まって、その身に宿った膨大な孤独を飼い慣らさなければならなかった。
——会いたい。会いたい。会いたい。
そう思えば思うほどに、気持ちは高鳴る一方だった。
暑さと寒さを繰り返しながら、テュランは永遠と毛布のなかに包まっていた。ミルが去ってから、かなりの時間が経った。日々は数えていない。テュランはヴァイオレットの家で生活することになったが、同居人の彼らとは殆ど口を利かなかった。というのも、ずっとベッドの中で蹲っていたからである。案外、こういう時はヴァイオレットが強引に外へ引き剥がすものかと思っていたが、彼女はテュランに寛容的だった。
ベッドに潜り込んでミルのことを考えている間、テュランはひたすら彼女との思い出を回顧した。初めて会った日、一緒に湖を見に行った日、〈
そもそもこれらの日々は、テュランの一方的な行為と願望から始まった時間だった。実際のところ、彼女がどんなふうに思って時間を過ごしていたのか見当もつかない。
こうして忽然と姿を消したというは、やはり一般的に言われるような「失恋」という状態に嵌っているのだろうか。ミルに対する愛情は、ただの一方的な片思いだったのかもしれない。そういうふうに解釈してみると、俄然と納得がいってすっきりした。心の
テュランは自分を慰めるように外に出た。久方ぶりの太陽は、テュランの体に新たな活力を与えてくれた。テュランは大通りを道なりに沿って歩いて、人混みに紛れながら川を目指した。歩いていると、町の喧騒に混じった露店の声が聞こえてきた。
「うまい林檎売ってるよー。よぉーし、是非買っていきなー」
そういう町の声を聞いていくうちに、テュランの心は純粋な心持ちでミルを思い出すことができた。
ミルは、今も生きている。
それで充分じゃないか。僕は、彼女が生きているだけ充分だ。
そう思うことができた時、テュランはこの町の川が世界で美しい場所だと思うことができた。
”支部隊長室”の戸棚の奥には、一個の〈生命石〉が置いてある。その石は粉々に砕け散り、光彩を失っていた。
誰ガ為魔王物語 やきとり @adgjm1597
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