第30話
健康診断の日・前
健康診断。
毎年これが楽しみだという奇特な人も居るのだろうか。
自分は今年で32歳となり、この為に健康センターへ出向き、多くの人と共に検査を行うのだ。
正直な話をすれば、面倒である。
ただ、この時期が近づくと年上の上司や取引相手の方から「小田中さんまだまだ若いけど、健康なのは今だけだから」だの「新陳代謝落ちて凄い太っちゃうから」という警告や助言をよく貰う。
それが理由では無いが、ふと気になって今年の健康診断へは、追加の診察を希望した。
胃カメラや肺のレントゲンから、ピロリ菌の検査など複数の項目にチェックして提出したのが1か月前の話だ。
「――これは……他の検査はまだですよね? 全部終わったら、後で医師の方からご説明がありますので、上の待合室でお待ちください」
「……はい?」
レントゲンの結果はすぐに出るんだろうか――普通は後日、会社へ一括して送られてくるもんだと思うのだが……。
「まぁいいか」
俺はその後、残りの診断を受けて、男性更衣室でいつもの格好へ着替える。
謎の絵画やツボが置いてあるのを眺めながら、待合室でしばらく待っていると――。
「あれ先輩、もう終わったんじゃないの?」
後ろから声を掛けられる。
その声に振り向くと、その茶色い髪を一束に結んで紺色の女性用スーツを着たモナカが居た。
笑うと八重歯が見えるのは可愛らしいとは思うが、背も低い彼女はスーツで無ければ中学生くらいに見えるだろう。
「なんか、この後でお医者さんから説明があるみたいで……」
「追加のやつです? 胃カメラとか、絶対イヤだなぁ」
「慣れると案外、平気ですよ。鼻から入れると少し楽だし、喉を通る感触はありますが」
「……想像したら気持ち悪くなってきた」
自分の喉をさすりながら「うぇぇ……」となっていたモナカだったが、気を取り直して手に持っていたカードキーを見せびらかす。
「――じゃあ先輩。アタシは先に会社に戻ってますんで」
「ああ。お疲れ様」
彼女を見送り、俺は待合室の椅子に座り、無料のホットコーヒーでも飲みながらスマホで適当に時間を潰している――そうしていると、
「417番の小田中さん。3番の診察室にお入りください」
「あっ、はい」
残りを一気飲みして紙コップをゴミ箱に捨て、言われた通りの部屋の前に立つ。
コンコン――。
「――どうぞお入りください」
「失礼します」
ドアを開けて入ると、そこには白衣を着た初老の医師が椅子に座っていた。
部屋の中は6畳ほどで狭く、ドアを閉めて目の前の椅子に座るだけで医師との距離は1mほどだ。
モニターに映し出されるデータをマウスで送りながら見ているようだ――恐らくは、俺の診断結果を見ているのだろう。
「小田中さん、だったね」
「えぇ」
「血液検査とかそういうのは後日じゃないと結果が分からないんだけどね――このレントゲン写真を見て欲しいんだわ」
そう言ってモニターに映し出されたのは、黒い背景に白い骨が写った写真だ。これはさっき撮ったレントゲンなのだろうが――。
「ここに白い影があるの、見えるよね」
「……見えますね」
肺、いや胃のあたりだろうか。
白いモノのせいで、それらの存在が隠れてしまっている。
「ちょっとぉ、この写真だけじゃまだ詳しく分からないのよね。1週間後くらいに、他の検査結果が出揃ってから色々と送りますので、それ持って大きな病院で詳しい検査を受けて下さいね」
「……これは、いわゆる“ガン”というやつですか」
ガン。
それは医療ドラマなどではよく聞く病気だが、身近では全く持って縁が無い病気だ。
しかし、症状が重ければその部位の摘出する手術を受けたり、抗生物質による長い投薬生活は患者の精神の安定を削るほど大変なものであると聞く。
「ううん。まだそう結論するには早すぎるからね。紹介状書いてあげるから、これ持って行ってね。決して早まってはダメよ」
「は、はぁ……」
医師はこちらの目を見て励ましてくれているのだが――俺の視線は、モニターのレントゲン写真の――白い影に目が釘付けだった。
◇
健康センターを後にして、俺は電話で部長へ連絡する。
午後から取引相手の人に呼び出されたので、そのまま直帰すると――。
もちろん嘘だ。
このまま帰っても仕事に身が入るとは思えないし、帰るにしてもその理由を話すのは、どこか気が引ける。
何より、まだ詳しい事は何もわかってないのだ。無駄に上司や同僚を心配させても仕方が無い――。
「――ガンか」
俺は適当に立ち寄った本で、医療コーナーへと足を運んだ。
立ち読みでガンに関する本を適当に立ち読みしつつ、考える。
両親は早くに事故で亡くなり、引き取られた親戚の叔父さんも高血圧くらいで後は健康そのものだった。
自分も健康には気を使っている。たまにジムやプールへと行き、通勤も徒歩を多く取り入れている。
朝は野菜ジュースと全粒粉パン。昼は普通に食べることもあるが、夜はたまに水やコーヒーのみで済ませる日もある。
そういった生活をしながら、たまに異世界へ行っては美味しい料理を食べる――。
「……気を使ってても、これか」
呼吸にも異常はないし、料理を食べていても――。
「いや、でも最近――」
油たっぷりで揚げた天ぷらやトンカツ。
食べていても胸焼けなんてした事もなかったが、最近は大根おろしなどでさっぱりと頂く事が増えた気がする。
ラーメンも、前は飲んでいたこってりドロっとしたスープも、今は半分くらいで胸がいっぱいになり残してしまう――。
「……」
胃の辺りを触ってみる。
特に異常は感じられないように思っていても、それは確実に俺の身体を蝕んでいたのだろう。
気付けば、スーツを強く握りしめていた――。
「……帰るか」
誰かに見つかっても面倒だと思い、本はそのまま戻す。
読むつもりはないが、久々に漫画雑誌を購入し……そのまま帰路へと着こうと店を出て、空を見上げる。
空はどんよりとした曇りで、まるで俺の心中を反映したかのようである。
このまま帰っても、陰鬱とした気持ちで部屋に居ると――良からぬ事でもやってしまいそうだ。
「――もし入院とかなったら、自由には行けなくなるな」
俺は懐から白い鍵を取り出すと――暗闇のような路地へと向けて、足を進めた。
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