美少年史

柏木祥子

美少年史

 美少年が互いに己の存在を見たとき、初めにあったのはどちらが先にフェラチオを行うかと云うことと、その場合それはオート・フェラチオにあたるのかということであった。ご存知の通り、オート・フェラチオとは自らの男性器を自らで咥える行為を言い、通常であれば特殊な訓練か才能が必要になる。美少年が互いを自分と認めて、自分の目から見ればオート・フェラチオであるというのは簡単だが、彼(ら)はまたご存知の通り、面倒な気質で、しかし主観で、そんなにも安易に物事を定めてしまってよいか二人とも疑問だったために、もう一人の自分にフェラチオをさせると、それがオート・フェラチオなのかわからず、まず互いの同一性を証明せねばならない。姿かたちは、互いに同じだろうと認めた。もっと小さな単位で見れば差があったかも知らんが、だとしてもわからないと勘定に入れなかった。美少年は互いに脱がせ合って右の肩甲骨と、同じく大腿骨の少し上、右側の黒子を確認し、舌の色や瞳の淀みを見せあった。ついでに耳垢も見せあったが、すべて同じのように見えた。美少年はこれ以上は目で判断できないと同時に気が付き、これが同時だったことに喜んだものの、すぐ冷静になって記憶のあわせした。


 美少年の住む町は城南という寂れた海沿いの町だった。かれは元漁師の息子で、海にほど近い、古びた木造建築に住んでいた。一階の台所の白熱電球は切れかけていて、ふらふらと明滅していて、幽霊のように影を途切れ途切れにさせる廊下の先を行って階段を上ると、奥方に彼(ら)の部屋へ通じる藤柄のふすまが見えた。彼(ら)の歳は17で、数か月で18になろうというところだった。背は170.4㎝で、体重は58㎏だった。好きな本はドン・ジュアンで、これは中学時代の同級生に勧められ買った本だった。いつもは勧められた本を読むことはまずないのだが、この時は自分でもよくわからない理由から本を読み、いたく気に入り、運命論にしばし傾倒したものの、全ての行動が神によって運命づけられている、というフレーズが癇に障り、運命はともかく縁みたいなものはあるのだろうとした。これは縁だろうか?縁かもしれない。二人の記憶は過去に見たテレビ番組から昨晩の夕食に出た煮びたしに乗っていた梅肉はいつ買ったものかどうかまで同じだ。「最後になるけれど」ベッド際のほうにいた美少年が言った。歳の割に幼さを残していた。「今気づいたことではあるんだけど」「僕も気づいたよ」学習机の椅子に座っていたほうの美少年が同意する。声については同様である。「僕たちが違う場所に存在しているのはどう説明できるんだろうね。別の場所にいて同一人物と言えるかね」


 場所が違うのは確かなのだ。場所が同じであるなら彼(ら)は互いを感じることはできない。にも拘わらず感じているというのは彼らが同一存在でないことを証明しているだろうか。いや、そうか?別の場所にいるというだけで同一存在でないと言えるのか?自分たちの偏見や常識に引っ張られていやしないか?なにしろこの状況はどう繕っても尋常ではない。だというのに、この期に及んで古い価値観を使って判断してよいものだろうか…?この議論は良く続く。二人の間に論が飛び交う。しかし自らと自らの説が、互いの説を反対にするか、肉付けをするかのどちらかだということには気づかなかった。とうとう、言葉がつまり、知恵熱まで感じてくると、奇妙なことに愚にもつかない結論に飛びついてしまう。そのうちに気分が萎えてしまったか、ここで彼(ら)は一時休憩にして、彼(ら)はじゃんけんをして、勝ったほうが負けたほうにフェラチオをして、負けたほうもその後で勝ったほうのペニスに口をつけた。


【ここでベッドを美少年A、学習机を美少年Bとする。この決定はどちらかに優劣をつけるものではなく、便宜のためであり、単に偶然によるものである】


 問答を中断したところで、現実的な話をすると、彼(ら)は生活スタイルを確立すべきだと考えねばならない。なにも難しい話でない。彼(ら)は二つになっているわけだから、今までの彼らの消費物は、すべて半分になると考えてよい。それも半分とは総量の話であって、例えば食事の場に二つで立つわけにはいかず、両親がいないときならまだしも、いるとき片方は上で空腹をしなければならない。「そんなのはごめんだね」美少年Aが言った。「そうだよね」美少年Bも同意した。「僕はお前に無意味なを掛けたくはないんだ。自分だしね」「それだけ?」「いや…いや、わかってるでしょう。そっちだって同じ気持ちのはずだ」「意地が悪かったかな?」「言われるとは思ってたよ」


 ベッドに腰かけていた美少年Aが美少年Bの肩に手をかけた。縫うように迫ってみせると、瞳が合い、長い睫毛が強くそよげば触れそうだった。美少年が、仮にこのようにして他人に近づけば、ほとんどの場合、大きな動揺がある。しかし美少年Aが片割れに見出したのはそうしたものでなく、深い愛情であった。


 殊更に強調することではないと思われるが、美少年は好き合っていた。もともと、自己愛の強い性格ではあったが、ここではさながら池に映った自分を見続けて餓死したナルキッソスのような耽溺具合であって、彼(ら)は自分に対し、ちょっとでも苦労や面倒をかけたくなかったのである。

「でも実際食事は一人分しかないし、一人の人生を生きるには僕らはちょっとばかし多いね」「じゃあどうしよう」「わからないけどお腹はすいたね」わからなかったのでとりあえず出てきた食事を上に運び、二等分にして分け合った。

 彼(ら)は自分たちのそれが外に露にされたとき、どのような反応があるかをミュレートする。1,彼らは本当に双子ではないか2,ただ気味悪がられるか3,テレビ出演が殺到するか4,軍事転用できるか調べられるか5,解剖されてしまうか6,芥川龍之介について訊かれるか。後半へ行くにつれてどうにもネガティヴになってきたので、結局やめることにする。次いで、やはり下手に露にするものではないということも再確認もする。

 しかし問題がある以上わからないではすまないのだ。彼らは次の策として、食事中にトイレへ行って入れ替わったり親のいないときに食事を作ってみたりといろいろ試してみたが、しばらくすると怪しまれてしまった。原因は必ずしも彼らにあるのではない。母親が実に煩いのだ…父親は全然全く気にしていないらしいのに…母親はとても口うるさい。思えば父親が漁師をやめ、町金で働きだして以来ずっと苛々している。以前のほうが暮らしは貧しかったはずだし、我慢だって多かったはずなのに…。美少年は結局、分け合って足りないならどこかから足さなければならず、足せばどこかから減って、そのどこかが煩いのでは上手く行きようもないのだと結論付け、片方が学校に行っている間、もう片方は堤防まで行って釣りでもすることにした。日に焼けて差が出るといけないので、日焼け止めをたっぷり塗って頭に大きなストローハットを被った。

 誰かに見つかる可能性は依然としてあったが、田舎故か学校をさぼっても大したことじゃないとするような気風で、見つかっても深刻なことはないと思ったので、ただ具体的な会話はしないことにして二人は交代で学校と堤防を通う。

 7月14日は抜けるような青空で、美少年Aが堤防へ行く番だった。程よく遠いところまで帽子をかぶり、氷の入ったクーラーボックスと簡素な釣り竿、それから餌を抱え、満島というでくの坊の住む家の前の堤防を昇り、テトラポットに腰かけた。テトラポットで釣りをするときは、テトラポットとテトラポットの隙間に糸を垂らし、そこに住む魚を狙うのがよい。魚拓を取りたくなるような獲物を望むことはできないが、小食の美少年の腹を満たすぐらいは難しいことではない。彼はテトラポットの隙間を注視した。昔どこかの識者が深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いているのだ、などと言ったそうだが、ここでは実際に、暗い水面の下から魚がこちらを窺う。美少年は一歩その場から下がり、針の先につけた餌を少しばかり揺らした。

 釣りは釣りであるからして、向こうがとりつくまで動くことはできない。太陽が肌を照り付け、日焼け止めの上からでも焼かれるようだった。麦わら帽子の影ばかりが冷静で、その頭でどうして半そでを着てきたのだろう、長袖を着れば太陽光を防げたのに、と曖昧に意識をもたげさせると、ちょうど望んだように、美少年の体に影がかかった。美少年はしばらく背後に立った人物に気づかず、釣り竿を上下に振っていたが、やがて腰の疲れから足元を直すと待ちつかれた背後の人物は濡れた重苦しい声で、美少年に話しかけた。「そんところは危ないぞ。堤防の上からにしろ」美少年はその震え声に聞き覚えがあった。ストローハットを押さえて見上げると、口元の付きだした岩石のような顔つきの男が百鬼夜行の渦中を通ったような仏頂面でこちらを見下ろしていた。「満島じゃん」美少年は同級生の兄の名を呼んだ。「どうしたの」

 満島康夫は満島直夫の兄で、去年の春から地元の製販会社に勤めている。大学時代は力士から筋肉分の体重を抜いたような男で、最近は会社勤めでやつれたせいか、やや肉付きは減り、これとともに目が窪み、欲求全部を捨てた容姿をしていた。

 しかし今は、その目に暗い情動を宿している…なにしろ仕方のないことなのだ。満島は女に縁がなかった。中学時代から自分の腹回りの肉と、ジャガイモを叩いてどうにか人を見出したような容姿から、女子に近づく気にはなれず、それでも女子に笑顔を向けられると、すぐさま好きになってしまう惚れっぽさだった。しかしいかに惚れていようと振り向いてくれようもなく、色気より食を選べるようになるまで物を食い、しかしその裏、自分のみじめさに泣き、恋愛はあきらめたかと思えば、彼の豪快な食べっぷりを面白がる女子にからかわれて、またその子に惚れてみたりするのだった。ついに大学では仏教サークルに入ろうとしたが、太っていたので拒否されてしまった。つくづく太っているせいで女とは縁がない。就職を機に風俗へでも行くべきだと諭されるも、決心つかず、今日まで過ごしてきたのだ。

 だから男に走ったというわけではない。満島康夫は美少年を知っていた。弟が彼を始めて家に連れてきたとき、どきりとして後姿を見送った自分を覚えていた。

 今まさに彼は思い出したのだった。そして、これまで誰にも与えられなかったリビドーを、目の前の美少年へすべて押し付けたい気持ちになった。満島は女が怖かった。軽々しくこちらの心を翻弄する女を、本心憎らしく思っているのは事実だった。満島は相手が女ゆえにぶつけられなかった憎悪を、美少年に感じていた。

 とにもかくにも、そのような理由だったのである。

「どうした?」訝しんで美少年が言った。

 満島は黙ってテトラポットに降り立ち、美少年は釣り竿を上げて立って満島と相対する。口を噤んだままじろじろこちらを見る満島に、美少年はある予感を覚えている。美少年は華奢な体で、しらうおのような指先をしている。細いが、確かに男だとわかる腕で、なで肩ながら、今まで見た(もちろん液晶や紙面ではあるが)女性とは違う肉や骨の付き方で、顔立ちにもそれは出ている。しかしながら、美しいという点では、また、満島のリビドーを刺激したという点では、細かい特徴や性別も、ここでは関係がない。

 満島は目を瞑った。自分の手が美少年の細い腕を掴み、こちらに引き寄せた。美少年の顔がぐっと近くなる。目が瞬いている。映っているのは恐慌や困惑、それから…性の光を、奥のほうに見出す…見出したのだ!満島は我慢ならなかった。ここまで手に入らなかったものがあっさりと篭絡するのを見て、彼はその淫乱さがどうにも辛抱ならなかった。美少年がなにか言おうとしたが、近づいていた顔をさらに近づけ、尖がった唇で美少年の薄いピンクの唇の、合う――ほんの少し上を、食むようにしてくっつけた。初めての接吻だった。美少年の、押し出された一瞬の吐息がした唇の内側をかすめ、満島はますます、興奮を高めていった。舌を挿し入れ、腰を抱き、テトラポットに美少年を押し倒した。美少年の舌は小鳥のような小ささで、腰は固く、しかし細い。唾液を流し込むと零れる形で美少年のそれがあふれ出し、甘露に似た淡い甘さにじれったさを覚えつつも、満島は美少年からいったん顔を離し――この時、唾液が飛び散った――サテン地のシャツのボタンをまくると、うっすらとあばらの浮いた胸と、ライチのへたのようなそれを舐め、吸った。美少年はほとんど抵抗を見せずシャツを開いた時に一度「日焼け止めを…」と言ったが、これの後はただされるがままになっていた。蝉や波や、夏を表す音の間に、ぴちゃぴちゃと水音があった。満島はそそりたったペニスを布地の上から美少年に押し付け、美少年のそれがカプリ丈のジョガーパンツの下でかたくなっていることを確認した。一部は妄想で、一部は真実だった。

「重いよ」美少年がももたに体重をかけられたことで文句を言った。「重いって」

 満島は構わず、むしろこの細やかな抵抗に、憤慨しながら、または興奮を覚え、ますます体を押し付け、膝の先が美少年の腿の内側に入ろうとする。これには美少年も怒りを覚え、やや強い口調と手つきで、自分の薄い胸板に縋り付く満島の頭をたしなめるように叩き「おい!重いと言うのに!」と言った。

 とはいえ、美少年は本心満島を嫌っているわけでも、気持ち悪がっているわけでもないため、その手に込められた力は、彼の暴挙を是正するほどのものではない。せいぜいが鬱陶しいぐらいである。満島の中の征服欲は大きくなっていた。それは満たされれば満たされるほど曖昧に、奥のほうへ進んでいった。満島は美少年の手を押さえつけ、引っ付けていた体を離した。

 美少年は美少年であるからして、その息をつき、悦びのためか、息苦しさのためか、頬を染め、肩を上気させる姿は、満島をさらなる大胆へ赴かせるには十分な効果を発揮した。ここで彼がこれ以上の暴挙に――例えば、どんなリスクも気にしないような無謀さを現さなかったのは、堤防の内に知った声を聞いたせいだ。「康夫ぉーッ!今どこにいるぅーッ!?」母親の声だった。二人の脳裏に髪の薄い初老の女性の姿が顔にしわを刻み、息子の名を呼ぶ姿が想起された。

 満島は堤防の向こうを見透かすように、テトラポットの上からコンクリートにあいまいな目線を送っている。まるで美少年の存在を忘れたような様子に呆れた美少年は「馬鹿馬鹿しいねまったく」と零す。はっとした満島が自分の影に覆われた彼を見下ろし、そして、ぶるぶると震えだす。身の恐ろしさについてようやく気付くに至った満島は自らの破滅と罪業に対する悔恨を一挙に抱え、母を誤魔化すでもなく、美少年からどくでもなく、呼吸の難しさを覚え、過呼吸を発症しそうになる。美少年はこの場を支配できることに気づいた。悪戯っぽい笑顔をこぼし、動揺する満島のよだれを髪と耳の先に感じながらも、美少年は少年のような気の浮き沈みを覚える。それは至上の楽しみである。一方的な蹂躙。「意味を考えるべきだよね」美少年が言う。「知り合いをさ、犯すなんてさ、後先まったくないよね」満島は体の震えを一層強くした。上に乗れば贅肉が減りそうなぐらい。「漫画なんかではほら、こういうのも許されるじゃない。勇気っていう形でさ、恋愛至上主義っぽいアレで、恋と戦争に手段はないというのと同じで。関係を変えたかった?」そうではない。まったくそうではない。いかなる場所にも、納得のできる大義名分などない。元来、まじめな満島である。この美少年の言葉とえくぼに完全にやられてしまい、顔を真っ赤にしたり真っ青にしたり今にも意識を失いそうになる。美少年はあまりに満島が震えるので、まさか落ちてこないだろうかと思う。「そんなこと…」もともと満島の情動は情動ゆえ。肉体の力では勝っていても、精神的に美少年を屈服させるのは土台無理な話だったのだ。

「でもね、僕は見ての通り、あなたに対して嫌悪感を持っているわけじゃないんだよ」美少年が言う。彼の声は年の割に幼く、見た目との乖離が、非現実的なモニュメントを思わせる。澄み渡る霧や、熱のない光に似たその声は、パニックで自分を失った満島の耳にも、溶け込むように入っていく。

「でもね、僕は見ての通りあなたを嫌がっているわけじゃないんだぜ」

 満島は顔を上げる。期待と嫌悪を含んだ表情である。美少年はやけに緩慢な動作で満島の下から抜け出し、乱れた服を直した。途中なで肩がシャツを滑らせ、暗い中にぽつりと白い肌を浮かび上がらせた。「ねえ、わかるだろ?」美少年。美少年は満島を立たせる。

 美少年は膝立ちになり、膝に軽い痛みを感じながらも満島に近づく。満島はされるがままだ。だがそれはさっきまでの美少年のような、受容の心を以てのことではない。ただなにをすればよいかわからず、美少年にはそれがわかっているように見えたのである。事実美少年は何もかも解決できる気になっていた。彼の思い付きは最近、最も気の合う人物のおかげで、より強く、何のしがらみもない領域に達していたのだ。

 満島は母になにも答えず、美少年もまた満島の母に助けを求めない。美少年は性交渉に際して最も円滑で、最も後腐れなく、最も公正な手段として、いくらかの金を払うよう提案する。現金にて3万5千円。美少年は相場などの知識こそなかったが、それぐらいがよかろうとし、満島は――それが比較的安価な値段だと知っていたが、ここで思い出すことはなかった。かくして美少年は満島のズボンを下ろし、ボクサーパンツの下で圧迫されたペニスを撫でる。「ずいぶんだね…」と呟いた美少年は、そうしたことに慣れた様子であり、満島はある種の安心感を覚えた…美少年は実際慣れていたが、満島のペニスが自分のそれよりもはるかにグロテスクだったため、少しばかり扱いを慎重にして、ぐっと強く握りしめる。満島のうめき声…これが間違っている筈はない。美少年は満島の表情を窺いながら、ペニスを握った手を上下に動かした。下へ行くにつれて締め上げられ、上へ行くとひと時の開放があり…美少年は手のひらに脈動を感じる…まるで湧き水のようなそれを、手のひらで受け止めるようにして、満島が次第に、恐怖や怒り以外の感情から、体を震わせることに気づく。美少年はさっとペニスの射線から顔をずらして/強く押して出たリビドーの行く末を海の藻屑とする。

「早いね」美少年は手についたスペルマを手を振って掃い、堤防に擦り付けた。

 満島はテトラポッドに尻餅をついていたが、辛抱たまらない様子である。ざわついたコンクリートの禿を注視し、陰嚢に溜まった残りの精を思う。渇望とともに首を上げ、なにか後光を持った美少年と、その手に滴った。自らのスペルマの中に、またしても性欲を見るのだ。

 射精によって一時的に硬さを和らげていたペニスが再び血管に血を通した。完全に顔を晒し、背中から倒れるように美少年へ逸らしてみせると、鎌首をもたげたペニスが美少年の手や、口や、またどこかを求め、尿道に残った精液をカウパーが押し出した。

 美少年はニッと笑った。彼はまるでアガペーを与えるかのように、亀頭の先に祝福のキスをするのだった。

 ところでこのような出来事が海岸のテトラポッドの上で行われている間、美少年――美少年Bが何もしていなかったわけではない。彼は彼としてまた、己のやるべき用を済ませていたのだった。

 彼(ら)の用とは、即ち、今までと同じように過ごすことであるが、基本的にそれは通学と帰宅のみである。なにしろ彼(ら)は自己愛的で、話すような仲の相手がいないではないものの、関係を進展させたくなるような、その場しのぎの用事以外の因縁を持った学友と言うと、これが一人としていなかった。それでもこれまではそれなりの付き合いを持つこともあったが、彼(ら)が互いの(この言葉は不適切である)姿を見るようになればそんな必要もない。寧ろ同一であろうとする彼らにとっては実感を持たせることのできない関係をどこかに作るのは不本意なことであった。

 そのため一日を交代で過ごすという案にもはじめ多くの疑問が呈されたのだ。ここでわざわざ言うところではないがこの宇宙にまったく同じ瞬間は一度として存在しない。交代は公平、公正さを持った案ではあるが、本質的に妥協が含まれており、彼(ら)の言葉通りに進めるのであれば、一つにでもならない限り実現はあり得ない。

 彼(ら)は人格としても他人と関わらなかったが、事情としても関わることが出来なかった。その通り、彼(ら)がどう思っていようと体は二つあるのだから…。

「顔色が悪いようだけど」

 昼前、誰かがそう言った。美少年Bは笑って返したがやはり気力は以前の半分ほどであった。これはA、B、ともに抱えた問題であって、やはり現実問題として、全ての物を半分で分ければ、人体に影響が出るのは当然だった。

 それでもここまで引っ張ってきたのは、偏に愛があるからだ。なにしろこの美少年、昼は気力がなくとも夜になると相手の顔が見れるので疲労が吹っ飛んでしまう。さながら4、5歳の娘に迎えられた父親のようである。それもここのところが限界かもしれない。美少年Bはとぼとぼと帰路を歩き、家について部屋へ小石を投げ、合図を見て母親が出かけていることを確認し、帰宅すると、高そうな寿司を前にあぐらをかいた美少年がいた。

「やあ」美少年はつばきを嚥下した。「なにそれ」

「臨時収入があってね」

 美少年が得意げに言った。

 そこで美少年Bがくんと鼻を鳴らし、

「風呂に入ったの?」

「そんなところ」

「それにしても高そうだな」

「高そうというか実際高いからね。さ、食べよう」

「臨時収入って?」

 美少年Aは肩をすくめた。

「突発的に入ってくるお金のこと」

 美少年Bは寿司を見下ろした。桶二つ。ピンク色の鮪ばかりが入ったもので、今までは漁師だった父親が貰ってきたものが切り身で出てくるぐらいだった。美少年はつばきを嚥下した。

「なにか隠してやしないかい」

 美少年Aは不満げに鼻息をこぼし、手に持っていた割りばしを床に置いた。

「別に危ないことをしたわけじゃないんだけどね。堤防に行ったとき、ほら、いつも奴の家の近くになるだろう。満島の。あれとやったんだ」

「弟?兄?両方?」

「兄のほう」

「ああ」美少年Bは息を吐いた。「あっちか。確かにそうか。僕も奴に見られたことがある。遠くからだけど」

「直夫となにかあったの?」「なに?」「いや、心当たりがあるみたいだから」美少年Bが居心地悪そうに身をゆすり、割りばしを手に取った。

「ちょっとね。告白されたんだ。うっかり断ってしまったが、いいだろ」

「別にいいよ」

 美少年Bが美少年Aから皿を受け取り、二人とも醤油を皿へ流した。「それで?」と美少年A。「それで?」と美少年B。「なにもないよ。少しばかり面倒があっただけさ」

 二人は談笑しながら寿司を食べた。

 やつは僕に俺を変態にした責任を取れと言ったよ。それで?知るかと。勝手に好きになったのはそっちだろうと言ったよ。

 時折冗談が飛び交った。二人とも両親の帰りを気にすることなく、自由に過ごした。ある冗談があったとき、二人はヒーヒー言いながら転げまわり、こうした明らかな隙や遠慮のなさは、何者かが望んだかのように誰とも知らず葬り去られた。

 きっと本当にそうだったのかもしれない。この世界の誰かが色んな願いを二人へ乗せたのかもしれない。だって彼(ら)はそうされるに値する立場だったのだ…。世界は動いている。着実な方向へ向かって、全ては蓋然性に従って動いている。

 三万五千円でなにができる?彼(ら)はそれだけの金を手に入れたが、それでどれだけのことができるだろう。特上の寿司は一人当たり3980円した。一日の食費は500円から1000円か?ほかにどんなことに使う?

 どんなことに使うにしろ、いずれなくなるというのは確かで、そうなるとまたひもじい生活に逆戻り。美少年はもちろん自分としてもそんな思いはしたくなかったし、相手にそんな思いをさせたくもない。となるとバイトでもすべきだなのだが、二人の社会性と言えばとんと低くあるもので、それに、どうバイトしてよいものかもわからない。二人と言うことを有効活用して掛け持ちをしてみるか、バレるかもしれない。片割れだけがバイトして今と同じように交代制としてみるか、バレないかもしれないが、今以上に過ごす時間が少なくなってしまう。言い訳ぐらいいくらでも思いついたが、辿り着くのはそれだ。美少年は美少年を愛していた故、会えないのは嫌だし、労働に関しても、あまり課したくはない。しかし金を集めなければ問題の解決は望めそうにないわけで。

 議論は煮詰まる。

 そも解決法からして初めから見つかってはいるのだ。ただこの二人はあーだこーだ言い合うのが嫌いでなかったし、臨時だとか突発的だとかいう言葉に引っ張られ気味でもあった。いやしかし、目に入れても痛くない間柄で議論をする不毛さのなんたることか、反対意見であってもやや曖昧な表現を使う上、肯定するときばかりは勢いがいいので、しばらくすると【学校からやや離れたバイト先でなるべく隣接しているものを二つ見つけてそれぞれシフトに入り、できるだけ互いの姿の見えるところで仕事をしつつバレないようにほかの店員の目をブロックする】などといった後方伸身三回転ひねりの途中でダブルピースをするようなまだるっこしい、希望をかなえただけの案が生まれたりする。

 それで結局、二人がどうすることにしたかと言えば、問題を保留にしてしまうのである。難しい顔をして、一先ず寿司を片付けてしまうと、ベッドメイクをして昨日先に風呂へ入ったのは誰だったかと話す。面倒ごとというのは探してみればすぐ見つかるもので、大事なことを棚上げにする大義名分を保つには十分だ。彼(ら)は皿洗いをしたり、庭の雑草を刈ったり、買って投げだした英語のテキストを埋めたりして、次々面倒ごとを片付け、一方で金を稼ぐ手段はと言えば、とっくに見つかっているのであって、お金が無くなってくると、いかにも最後の手段か何かであったかのように満島の話が持ち上がってくる。

 一回支払ったことのある料金をどう拒否しようか、クレームを入れたくなるような出来事であったならともかく、あれは満島の康夫にとって快楽を一方的にぶつけたような案件であり、美少年はこれを限りない寛容の心で受け止めたようなものである。(当然、事実であるかは重要ではない)。だから例え美少年があからさまに金目当てであろうと、満島からすればそれは拒否できるようなものではないのだ。そしてまた、ついでのようであれ、声をかけられた満島の直夫はただ当然のようでありながら、喜び勇んで、兄ともども美少年を腕に収める。

 いや、とはいえ美少年は互いの存在を知られたいとは思っていないし、康夫は仕事をしているからすぐにとは行かない。そこで美少年はまず直夫の相手だけすることにして、満島の家へ向かう。

 満島の家は父親がガス屋で、母親もたまにその手伝いをしている。誰かの家のガスがなくなると、その日の早朝に配達へ行く。母親はガスをトラックに載せる。父親と母親、同時にいなくなるのは集金の時だ。満島の父親はなんだか複雑な病名の脳障害を患っていて、数字の計算ができない。だから念のために満島の母親は夫に同行して金を集める。これを不誠実だと、客を疑うのかと憤る人もいるが、見当違いだ。満島の母親は、何枚もの紙幣を数えるのが好きなのである。

「親何時までいないの」美少年が言った。直夫の部屋には旅館みたいにしてシーツのかかった布団が敷かれていた。

 直夫は爛々と目を輝かせていた。美少年は彼の名を呼んだ。

「直夫」

「なんだよ?」

「これ」

 美少年はグラスを差し出した。

 中には薄茶色の液体と氷が入っていた。直夫はこれを受け取り、美少年の顔をまじまじと見た。「お酒。これ飲んで」美少年が言った。

 彼(ら)には考えがある。

 美少年に言われるがまま酒を口にした直夫は、アルコールの匂いに顔をしかめながらも、更なる高揚に身を焦がしていた。

 するすると酒を飲み下しながら美少年の顔を窺った。美少年は腕を抱き、直夫へ体を向けながらなにか襖の外も気にしているようだった。「なあなんで」直夫が言った。「なんで俺とやろうって気になったんだよ?」

 直夫は言ってから少し後悔した。彼は少し前に美少年に告白したばかりだったし、にも拘らず彼について図りかねているところが多々あった。

 なにしろ美少年はものを語らない。彼が一体、あの、美しい顔や肢体の下になにを持っているのかはっきりと知る者はいないだろう。

 そこが魅力的なのだ――と直夫は思う。きっとまったく訳の分からない、ある意味で可能性ばかりをまき散らすようなところが、美少年をただの”美少年”たらしめない部分であることは間違いがない。時に怒り、時に笑い、そこに蓋然性を見出すことが出来ないことこそ直夫が美少年を好きであろうとした理由であり、彼の気まぐれがよくないことを引き起こすかもしれないという、綱渡りめいた信頼でもあるとして、直夫が美少年に対して抱く、複雑ないら立ちの一部でもある。

「お金」

 美少年は言った。親切さの欠落した率直な返事だったが、美少年が悪戯っぽく、こちらを気に掛けるような微笑みをするので、直夫は虚を突かれてしまった。

「あとは、その他もろもろ」

 直夫は眉根を曲げ、またアルコールを一口含んだ。

 やがてそれから二人は思い出話をいくつかして、直夫はそれが進むにつれ脳が溶けるような感覚を味わうこととなった。それは彼にとって美少年の声や仕草、これから起こることのせいだったが、間違いない。酒の力である。直夫は酒を飲むとむっつり黙る気質だった。普段は言いづらいことをはっきりと言うし、自分の感情も隠しはしないが、これが彼の本性と言えばそうかもしれない。直夫は一言、二言、単語を口にするたび詰まるようになった。

「ここらでいいでしょ」

「な」に?と直夫。

「これ何本に見える?」

 彼には23本に見える。

 直夫は答えなかったが、ふらふらと視線があちこちに戦ぐので納得してもう一度、襖の向こうでずっと待機していた美少年Bへ声をかけた。

「ねえ、もういいよ」「もういいの?」「いいと思うけれど」

 襖が開き、美少年が現れた。

「うわ酒クサ」

「まあウィスキー飲めばね」

「ここでやらないとダメなの?」

 美少年Aが肩をすくめた。「ほかに場所があるならまあ」

「廊下でよくないか。君テトラポッドでヤったんだろ」

 美少年Aは人ひとりしか通れないぐらい狭い廊下を見やった。

「いやまあ、君がそれでいいんならいいけどね」

 廊下へ布団を出そうとしてまた、酒臭い布団なんぞ出したら意味がないと言い、それなら直夫はもっと臭いと返す。それでもあの部屋でやるよかマシだと食い下がるのでとうとう折れてしまい、美少年は直夫を廊下へ寝かせた。その間、直夫は虚空を見つめたり、不思議そうに右手を眺めたりしていた。

「まったく決まってることではあるけどね」

 美少年Aは直夫の部屋から身を乗り出すようにして直夫の上半身に触れ、美少年Bは足元に膝をついた。

 直夫はぐったりとしている。力を入れようとするだけの意識はあるようだが、ほとんどうまくはいかないし、なんで手を上げようとしているかもわかっていない。それを敢えて背爪するのであれば、頭上で、同じ顔をした二人の美少年が、互いの口を付けているからだった。

 彼(ら)はふと目を合わせ、どちらからともなく床へ腕をついて体を支えた。体を曲げ、口で触れあった。軽いキスだ。二人とも舌を入れたりはしなかった。5秒ほどだろうか、ただ粘膜を重ね合わせ、ただ離れた。

「なんで?」美少年Bが訊いた。「さあね」美少年Aが答えた。

 美少年Bは怪訝な顔をしながらも、もう一度、顔を近づけて、今度は自分から相手の唇を奪った。美少年Aが身を引き、美少年Bが前のめりになると、屹立した直夫のペニスが腕にぶつかった。

「ああ、ああ、ごめんね。ほったらかしで」

 美少年は彼のペニスをハンドルのように扱った。小さく、白く、力を込めても大したことはできない美少年の手は、児戯のようにこそばゆく、未成熟な遠慮のなさである。亀頭を手のひらでぐりぐりと虐め、手相を擦り付けるようにして、

 美少年は直夫の口を手で押さえ、逆さのまま圧し掛かり、直夫の引き締まった腹に頬を寄せた。窒息しないよう、みぞおちの下で口を塞ぐ手にスペースを作り、息を吐く。唾液腺から零れたつばきが糸を引き、直夫の腹を濡らす。直夫が低く呻いた。息苦しさからと、美少年がペニスの根元を抑え、折れんばかりに体重をかけるからだった。

 やりたいようにしてやろう、と美少年は思った。そうなのだ。美少年がやりたいようにすれば喜ぶ人はいる。美少年を愛するならば、それが変化するよう望むことはすべてを否定することと同じだからである。無償の愛というのはそういうものだ。

「とはいえ」美少年は舌で直夫のペニスを包み、唇を窄めて干からびたガーリックみたいな陰嚢を吸う。金銭を貰う。

 金銭と言う大義名分を以て無償の愛は否定されるわけだが、当人たちの間にとって、美少年とのセックスは金のやり取りではなかったし、美少年の性奉仕もまた、息の長い仕事ではなくある意味の見返りのようなものだった。

 実際どうだったかはともかくとして、美少年と被奉仕者との関係は娼婦と客のそれではない。美少年は普通の娼婦ではない。なぜかって娼婦でなく男娼だという話ではなく、美少年はただの娼婦と違う神秘性を纏っている。

 彼(ら)は人類未踏の美貌である。声は溶けいる砂糖を流したようで、素肌は粗い継ぎ目のシルクに似て、煽情的な仕草がひどく上手い。なかでも美少年の魅力を唯一無二足らしめたのは、彼(ら)が一人でありながら、まるで二人の手で愛撫するような感覚に陥らせる部分であった。もちろんある者は知っていよう、彼(ら)は二つである。彼(ら)は酒をしきりに飲ませたため、実は本当に二人でやっているのではないかという向きもある。しかし美少年が一人しかいないことは周知の事実だったため、大方にして全ては彼の魔術もしくは魔術的技法だとされた。

 このようにして美少年は男娼となったのである。直夫のペニスをしごき、アヌスに指先を入れ、体の隅々を舐り、鈴口を吐き気で揺らし、彼を満足させると、目覚めた後に金を請求する。康夫に対しても大体は同じである。

 哀れ彼らの財布は冬虫夏草。3万と5000円、これは市場価格で言えば高いほうではないものの、学生はもちろん社会人だってそう何度も気軽に払っていい金額ではない。美少年の懐は高速で温まっていったが、それもピークに達すると、あとは緩やかに…というほど、規則的ではなかったが、下がっていった。二、三か月は満島兄弟の(専ら兄の)金が彼(ら)の生活を担う。

 そして美少年と満島兄弟のセックスが社会の片隅でルーティーンとなったあと、満島兄弟が困窮を極め、だましだましも無理が混んでくると、美少年は康夫に誰か客を紹介してくれないかと提案した。

 康夫は当然紹介した。せざるを得なかった。美少年がいかに美しかろうと同性愛で、売春となると簡単に引き受けるものも少ない。康夫はまず自分の勤める製販会社に人を求め、失敗し、気味悪がられ、製販会社でも一番軽かった男にまで康夫がゲイなんじゃないかという疑惑から忌避されるようになり、学生時代の友人のほうを訪ねていく。製販会社での失敗を踏まえ、慎重に、美少年を偏見から退かせない人間を選ぼうとしたが、これを上手いこと判断できるほどの目は康夫にはなかった。そのうちにじれったくなった美少年は自分から町へと繰り出し、あっさりと最初の客を見つけるのだった。

 美少年の評判はすこぶる良い。

 女子高生を売春する中年、ピンサロにはまる中堅の社員、結婚後早々にレスになった社会人何年目の若者やその他もろもろ.女性経験があったりなかったり男性経験があったりなかったり…。

 それはまるで無償の愛のようだった。無償の愛を定義したときに生ずる論理的矛盾は、美少年の神秘性と、金銭をまるで金銭とは思わなくなったこと、美少年が金銭に対する対価を対価と思わなかったことですべてが無視されていた。

 ただ康夫はそうでなかった。彼以外の客たちは、つまり、金銭や奉仕や神秘や技術を前提にしていたが、康夫はテトラポッドの上であったことがずっと頭にあった。

 12月になったある日、康夫が美少年のもとを訪れた。美少年Bが彼を出迎えた。

 美少年Aがその場にいなかったため中に招き入れようとしたが、康夫は玄関でいいと言った。彼が数日前に買ったルイボスティーのティーバッグは一か月後40ℓのゴミ袋の底で中華のデリバリーセットの容器とバナナの皮の間で腐っていった。

「そうなの?入らないと言うなら別に構わないけど」

「ああ…ああ…」康夫は苦し気にそう言った。

 美少年Bは康夫に怪訝な顔を向けた。彼は康夫に頼みごとをしたことをもちろん憶えている。それを彼が達成できなかったことも。そして自分に責める気がないことも。

 康夫には間違いなく美少年にぶつけたいものがあった。しかし実際に美少年を前にすると、様々な思いがよみがえり、言葉を詰まらせてしまう。康夫が何も言わないので美少年は玄関横の柱に寄りかかり、腕組をした。

「別段今さら照れなくたって」と美少年B。「ここでやったっていいんだぜ」

「もう俺のことは放っておいてくれ」康夫はようやくそれだけ言った。

 彼は美少年が憎くて仕方がなかった。人の顔色を見て、人に忖度を繰り返して、人を妥協し続けてきた康夫にとって、美少年はひたすらに届かない存在だ。美少年の真似をすることはできない。美少年のようになることはできない。康夫の倫理観からすれば、美少年のような人間は最低で、忌むべきものと言っても過言ではない。だがそうした感情は、かつてテトラポッドの上で自らの倫理観を裏切ったおかげで、忠誠性を失ったただの薄っぺらいイデオロギーへと身を堕としている。

「それはなんていうか…まあ仕方ないことだけど。僕はもともと、貴方を縛り付けたりはしていないよ。行きたいなら好きなところへ行きなよ」

 美少年には康夫の言っていることがよくわからなかったが、彼がどういった返答を求めているのかはなんとなくわかった。それは間違っていた。

 康夫の顔が強張る。時間が凍結したように固まった康夫は、美少年の言葉が全身にしみこむのを感じた。康夫は薄氷の上に立ち、そして、

 これがガラガラと崩れていく音を明瞭に聞き取った。

 康夫は身を翻した。もはや自分がなにを言いたかったのかも判然として…いや、そんなものは初めからはっきりとしていなかった。ここで起こったこと全てが曖昧だったのだ。

 美少年は土間に裸足で降りて、ガラス戸から顔を出してしばし、康夫の背中を見送っていたが、やがて興味を失ったように空を向き、長くなった髪を揺らして屋内へ戻った。


               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「二人の同一人物がいるとき、互いに口淫をするなら、それはオート・フェラチオと言えるかどうか?」

 と、ドクター・フィールグッドは言った。

「難しい問題だね…まず同一人物が二人いることから考えなくてはならない…まず、現実に本来ないものをあるとするなら曲がりなりにも論理が必要だ…こじつけであれ誰かを騙せるようなね。きっと量子力学とか形而上学なんかに詳しい人ならほんともっともらしい高説をうたえるんだろうけど、僕にはちょっと難しいな」

 ドクター・フィールグッドは美少年の客の中でも異質なほうと言えた。なにしろ彼は全身をジッパーで彩ったラバースーツで固めていて、頭は歯を剥いた鮫のようだ。商店街裏通りにある、安いビジネスホテルにやってきた彼は、自分は講師をやっていると言った。

 彼は話をするだけでもいいと言った。

 初めてじゃない。

 時折そういう客がやってくる。

 美少年に性奉仕以外のものを求める客が。

「しかしまあ、論理的に解決する能力がなくても、物事を導く手段はある」ドクター・フィールグッドが指を立てる。「先例に頼ること」

「少し遠回りになってしまうが、天照大神の性別については知っているかな」

「女性でしょう?」と美少年。

「基本的にはそうだね。日本書紀で弟のスサノオに姉と呼ばれているし、絵画も女性として描いたものが多い。しかしだ。平安時代にはこれに対して男性説を唱えるものもあった。根拠は伊勢神宮に奉納する衣装が男性用だったこと。男性体の天照を奉っている神社もある。もうちょっとあとには両性具有説なんてのもあった」

「なに?」

「ふたなり。天照は竿の生えた女なんじゃないかってことだよ…まあ、何が言いたいかと言えば確かめようのない事実というものは、その事実から離れていくにつれ考察され、改変され、解釈されるものだってこと。神話なんて言うのは特にそう」

「それとオート・フェラチオとがどう関係してくるわけ?」

 美少年は裸のままベッドから立ち上がり、冷蔵庫からペットボトルの水を出して一口飲んだ。控えめな喉仏が脈動した。美少年はドクター・フィールグッドにも水を薦めたが、彼はラバーで包まれた手で制止した。

「そうだね。君たちの話だった。現代の…そう現代のエジプト神話。エジプト神話にはラーという神がいる。知ってるかもね。太陽神のラーだ」ドクター・フィールグッドは咳払いをした。「ラーにはこんな話がある。自分のペニスを、そう自分の陰茎を咥え、飛び出た精子が大地に降り注いだことでシューとテフヌトという神が創り出したとね。まあここまではよくある神話なんだが、肝心なのは彼がヘリオポリス九柱神(エジプト神話における創世神話に関わる神々のこと)の一人…になることもあるってこと。まあ単純にそうだって説と違うって説があるだけなんだが…ここからが面白い。ラーは実のところ九柱神の一人かどうかは曖昧だ。でもその筆頭、アトゥムと同一視されることがある。そしてアトゥムにはさっき話したラーの神話と大体同じ話があるんだ…アトゥムは最初の神だったから、彼以外の神というものは存在していなかった。そこで…そこでじゃないか。アトゥムは自慰をした。すると何が生まれたか」

「…さっきのやつ?」

「そう!シューとテフヌトだよ。大気の神と湿気の女神。でもおかしいよな…プロセスが欠落してる。だろ?ラーの話は…まあ大地を母として、母なるとか言うだろ?そんな風にして考えれば、納得できないこともない。でも自慰でなにか生まれるか?そこで後年になってアトゥムには妻がいることになった。イウサーだかなんだか…名前はいい。でもアトゥムは最初の神だ…そこは変えられない。だからアトゥムの妻は独立した存在でなく、アトゥムの一部に神格が与えられたものだってことになる。アトゥムの女性的な部分が分裂したのがイウ、あー、あー、ちょっと待てよ…?出かかってる…」「イウサーアス?」「そうだ!なんで知ってる?」「今ケータイで調べたんだよ」「ああそう…で、えーとどこまで話したんだったかな…そう、イウサーアス、イウサーアス。イウサーアスはアトゥムの一部だ。ようするにやや広義的な解釈だが、イウサーアスはアトゥムであり、アトゥムはイウサーアスだと言える。なにかの一部ってのは一部にとっては自分の一部なわけだからね。そこで思い出すものがないか?そう。ラーだ。ラーとアトゥムは同一視されることがある。ここまできたらもう僕がなにを言いたいかわかっただろう。つまりラーはオート・フェラチオで二神を創った。アトゥムは自慰で創ったが、後に妻とのセックスでできたことになった。厳密に言うとペニスと口だ。アトゥムはペニスと手、もしくは奥さんの膣…。そしてここではラーとアトゥムとイウサーアスは同一の存在だ。ラーの口とアトゥムの手、イウサーアスの膣は同じものなんだよ。アトゥムとイウサーアスがセックスに耽るのはラーが口で扱くのと変わらない。エジプト神話ではそうなってる。従って同一人物が互いのペニスを咥えるとき、それはオート・フェラチオだと言うことになるってわけ。わかった?ちょっと長かったかな」

 ドクター・フィールグッドはすべての説明を終えるとようやく美少年から水を受け取った。500mlのそれを一気に飲み干すと、充実した息を吐いた。

「満足してくれたかな?」


                  2

 

 変な客だったな、と美少年はホテルの片づけをしながらそう思った。美少年はいつも先に客を帰らせる。それで、ペニスから出た精液だとか、コンドームだとか玩具だとか、奉仕の跡を片付ける。

 ビジネスホテルには細やかながら机が設けられていて、濃い茶色でニスを塗ったような光沢の椅子の背にスキニージーンズとニルヴァーナのTシャツが引っかかっていた。美少年はスキニーを手に取ったが、ふと窓の外に目を向け、裸のまま椅子に腰を下ろした。足元の肩掛けの鞄をまさぐり、茶封筒を取り出した。携帯を確認すると美少年Bから二件の不在着信があった。携帯からだ…携帯は一人の人間が二つ持つことができるし、互いにかけることもできる。

 リダイアル。

 リダイアル。

 ル、ル、ル、ル、ル。

『忙しかった?』美少年Bが言った。

「少し。どうかしたの?」

『ちょっとね。いろいろあって連絡しないとと思ったの』

「そう?」と美少年A。

 彼らは体を売って金を稼ぐようになってから学校を休みがちになっていた。必要がなかったからだ。一回で三万と五千円。これを繰り返せば金は山のよう。気がかりなこともないわけではなかった――母親とか酒とか――が、こちらからどうこうする気にはなれず、放っておいて大抵は好きにやっている。化学教師が来てからはますますそうだった。学校を好きに休んで好きに体を売って好きに過ごす…とはいえ、化学の出席は足りるとして、ほかの授業はそうじゃない。だから時々はまた交代で通学していた。

「あ、ちょっと待って。誰か来た」

 すごく目的のある足。

 ここに来る人はたいていうしろめたさをもっている。慣れてない人も慣れてる人も、みんなセックスを枠に囲って秘めている。だからヤりに来てない人は簡単にわかってしまう。

 美少年Aは髪を整え、椅子の下に畳まれた下着を身に着け、椅子の背に引っ掛けてあったスキニージーンズとニルヴァ―ナのTシャツを手に取った。

 果たして現れたのは真っ黒な風貌の男で、ある者の代理人だという。この辺りの会話は重要ではない。普通なら間違いなく面倒ごとではあるが、美少年にとって彼の来訪は必要なことだったのだ。

 彼(ら)はとうに生活の改善を果たしていた。また、彼(ら)はお買い物中毒な私になることは望んでいなかった。被奉仕者から受け取った3万5000円は生活費と一部交遊費を除いても半分以上残るし、それがいくつも重なれば貯金は出来る。彼(ら)の部屋の学習机の上には札束の詰まった豚の貯金箱が紙だけで体重を二倍以上にしている。

 それでも彼(ら)は依然として被奉仕者を募り続け…城南近辺の風俗店の売り上げに少しばかり影響し、この男が現れたというわけなのである…そうまでして美少年が金を稼ぎ続けたのは、目的があったからだ。

 美少年はもう一人分の衣食住を確保すると、もっと互いに尽くしたいという気持ちになっていた。しかしまた互いもわかっての通り、美少年には物欲の薄い性格で、時折妙な調度品を買ってくることはあっても、これと言って贈り物になるものはない。

 彼(ら)がオールタイム好きと言えるのは美少年だけであり、尽くすことこそ互いの望むところなのだ。愛を確かめることに金を使うのでもいい。そこで彼(ら)はもう一つの戸籍を欲しがった。ただ家族になりたかったのではない。彼(ら)は家族でなく同一人物であり、もし戸籍に入るなら配偶者と決めていた。

 美少年は結婚がしたかった。それにはもう一つの戸籍が必要で、これを買うには特殊なコネクションと大量の金が必要だった。

 黒服の男をやり込め、戸籍を作るための道を整えた美少年は、このあと戸籍に必要な金額が1500万円すると知って驚いた。3万5000円で計算し、何年かかりそうかと算出する前にどれぐらい被奉仕者を増やせばいいのかと考えるあたりが、彼の彼らしいところといえるだろう。

 すると凡そ400程度であるとわかる。これ自体は二年待たずに達成できるだろうが、ここから諸経費を抜き、抜くと、600人。これに性転換費用の分もあわせて…こうなると結婚は三年先だ。

 三年。普通、愛しい相手と三年で結婚できると知ったら、どうだろうか。まず結婚できることを喜ぶかもしれず、次に三年という月日を子供のような高揚で向かい入れるのではないか。対して美少年が思ったのは一つ、遠い。三年は遠い。

 今まで好きにやってきただけに、美少年はまだまだ先に、いずれ辿り着けるとしても届かないものがあるということが信じられなかったに違いない。彼は黒服が去ったあと、複雑な顔で唸った。

【しかし美少年Aは知らない。このあとに更なる驚きが待ち受けていることを】

 ビジネスホテルのある裏通りを出て、電飾の増えた表通りを歩いていると、横からぶつかってくるものがあった。ナイロンのような光沢の明るい茶髪で、城南高校の指定制服を着て、膝丈のスカートの裾から黒いストッキングとチャコールグレーの革靴が伸びていた。美少年Bだ。

「今までどこいたの」

「ちょっと着替えるとこ探してて時間かかっちゃった。ごめんね」

「いいけど」

 なにも美少年Bに女装癖があるわけではない。美少年は二人になって以降、外出時は基本的に片割れは家で待機していたが、数多の人間に体を売るようになってからは変装して一緒にいることにしていた。変装としては謎の紳士、ホームレス、ドッペルゲンガーなどがあったが、最後のは冗談である上に残りはどうやっても美少年の美しさを消しきることができず、よく見ればバレてしまうため、いっそ女装してしまおうということになる。実際にそうしてみると、マスクやウィッグで顔を隠したりしても美人であるということはわかってしまうが、美少年だとはわからなかった。そのため現在の形に落ち着いた。

「なにかあったって言ってた?」美少年Aが言った。

「うん」と美少年B。「さっき言いそびれちゃったんだけどあっちのね」あっちには駅があり、この辺りよりも大きなホテル街がある。

「あっちのほうでお母さん見た。男連れてた」

「お母さん?」

 美少年Bが言うに、高校の帰り、美少年Aから連絡を受けた自分は着替えられる場所を探していた(ここはさっきと同じ)。駅前を歩き、公衆便所などで目立たず着替えたかったが周囲の目があるため容易には場所を決められない。そこで近くの廃ビルを探し、誰もいないところを見計らって屋内に侵入、着替えて出たところ遠くの方に母親を見つけたのだという。

「遠くの方に見ただけならかもって言うよ。あれはお母さん」根拠も何も、と美少年Bはつづけた。「そうかもなってぐらいならあんなにびっくりしないし、家に電話をかけたけど誰も出なかった」

「それはなんていうか…」

 美少年Aは口ごもった。当然だ。美少年Bの言うことを信じていないわけではないが、あの母親が不貞を働くなんて言う話は、彼(ら)にとってかなりぶっ飛んでいる。

 美少年の母親は名を弘美と言い、城南生まれ城南育ちであった。本人が言うところの”それなりのお嬢様”であり、小学校の頃からわざわざ18駅むこうの女子高に通っていた。そのせいか礼節は完ぺきと言って差し支えないが、元来はもっとガサツな気質である。

 確かに来客の前では良妻賢母であるし、他人の目がなくても常時鍋奉行をやっているような母親ぶりで、油断はほとんど許さない。しかしそれ以外となると別である。まずしょっちゅう忘れ物をする。日にちをどう覚えているのか、12日だった運動会を21だと思っていたことがある。指摘されると怒り狂ってその人のマナーの悪さをぐちぐち言ったりする。昔はもう少し優しかった気もするが、最近はまったくいつもイライラしているように見える。

 ともあれ、間違いをすることはあるし、素直に認めないこともあるが、ともあれ。自分から率先して悪事を働こうとするとは思えないのだ。そんな人物がまさか不貞を働くなんて、ということは、身近に暮らしてきた美少年なら湧くはずの疑問である。

 確認しようかしまいか美少年Aは迷ったし、美少年Bはすっかりその気だった。しかしともあれ今本当に重要なことは、とすると母も…もちろん重要だが、目的のほうが優先順位は高い。

 1500万。これを稼ぐことは容易ではない。

 それに美少年はせっかちで、稼ぐ方法があるならすぐ稼ぎたかった。

 パーティーを開くことにした。

 

                  3

 

 パーティー開催の知らせは今までの被奉仕者を中心に広がっていった。開催地は城南周辺でも特に巨大な部屋を持つグランジ・モーテルで、当日は20人程度を想定していた。600人中の20人、とすれば…それほど悪くない数字である。

 当日は雨であった。太陽はどこへ行ったのか、少しもその存在を主張することなく、雨の向こうに続くのは灰色の雲ばかり。その下を思い思いの場所へ向かう人々が所せましと歩き回る。その内にはグランジ・モーテルへゆく人もいる。

 やってきたのは37人であった。

 美少年は少し焦った。バスルームの中で、二人。グランジ・モーテルの大部屋にはすでに37人の被奉仕者が集まって談話している。ここまでその声は聞こえてくる。

「どうしてこんなに来たんだ?」

「困ってるなんて言っちゃったからだ。知ってる人に話してもしかするとその人も呼んだりなんかしちゃったんだ」

「よく入れたなあ」

「なんかもう高級なタコ部屋みたいだね」

 美少年Aがクッ、と吹き出すのをこらえ、口元に手を当てた。

 部屋には37人おり、美少年を入れれば39人であった。20人程度は入れる部屋を選んだが、まだ足りずなかなか見るに堪えない光景が広がっている。しかし時間は進む。いつまでも被奉仕者達を待たせているわけにはいかない。美少年Aがまず部屋を出た。全員が美少年の方を向いた。

「どうもみなさん」美少年Aは部屋を見渡した。老若問わず男ばかりだ。「今日はお集まりいただいて…しかし、まあ、僕は政治家ではないので、話すこともありません。こんな風に宣言してやるのはどうかなとは思いますが、これからパーティーをしたいと思います。その前に」

 美少年Aはバスルームに舞い戻って大きな壺を持ってきた。

「この香炉を焚いて。雰囲気作りでもしましょうか」

 火を灯して壺に放り込むと、アロエに似た甘い匂いがそこら中に漂い始めた。アンプからユーリズミックスの音楽が流れだし、元々その気だった被奉仕者たちのペニスに生気を注いだ。美少年は試しに一番近くにいた線の細い男の肩を撫でた。男は低く痙攣していた。美少年は彼の後ろに回り、うなじに手を滑らせる。その手の一振りが、人を惑わせ、性欲を持ち上げさせる。美少年は被奉仕者の反応を見るのが、楽しくて仕方ないらしかった。口はつぐんで、靨を作り、シャツを脱がすと、彼の汗っぽい肩に舌を這わせる。被奉仕者たちはこれをじっと見る。目に宿っているのは渇望ではない。痩身の男が美少年の愛撫を受けるごとに、まるで自分がそれているかのように背筋へ刺激が走るのだ。言うまでも香炉の効果である。よく考えなくても37人を相手にするのは厳しく、時間も足りない。そこで調達した催眠効果のある香炉で感覚を曖昧にし、ある意味で共感覚性を高めたのだ。「そろそろ入ってきていいんじゃないかな」美少年Aが言い、バスルームの美少年Bが現れた。

 驚いたのは37人の被奉仕者である。これまでも美少年と関係を持つ際、酒を飲まされた後にそうした現象を見ることはあったが、今度は意思がはっきりしている。香炉は感覚をあいまいにするが、意識自体は波風立てない、静かな水面を保つ。

 しかし驚いても彼らは怒りを憶えなかったし、詐欺だとも思わなかった。それは香炉のせいでもあるし、美少年に対する愛でもある。美少年の技術がやはり、そうであっても素晴らしいものだということもある。

 美少年は37人の男たちの間を渡り歩いた。肩に触れ、腕に触れ、頬に触れ、ふくらはぎに触れれば、ペニスをこすることもあった。彼らはまるで一つの生命体のように快楽を共有し、美少年を享受した。

 美少年は禿頭の男のペニスを咥え、巨躯の男の足の指を舐った。尿道の浅いところを舌先が抉ると、彼らは恐慌に体を震わせた。下腹部が抑えられ、射精や失禁を催促されると、抗いがたく、美少年の口が指などを咥えると、その部位は溶けていくようだ。パズルを解体するようじゃないか、と誰かが思う。美少年は彼らの全身を隙間なく舐め、擦り、愛を与えていくのだ…誰かの腰は彼らの腰であり、彼らの呼吸は誰かの呼吸なのだ…美少年がある男の口に舌をねじ込み、肉厚のステーキのような男の舌に焼き目を入れるように動かす。すると、自然と指が口の中に入り込み、息苦しさと淡い、もどかしい甘さに身もだえをさせていく。このもどかしさが、あるいは彼らの脳内物質の分泌を大きく促進させたのかもしれない。ペニスがカウパーをよだれのように垂らしはじめ、生物のように蠢き、そして――彼らは正真正銘、ペニスだけでものを考えるようになるのだ。信じられないことだが、そうした人間性さえも消失させたような瞬間、他人との境界線は目に見えてなくなっていく。ペニスは快楽のことしか考えない。究極的な自己愛を発揮しながらも、快楽を追い求める行動は結果として他人への愛撫へと繋がるのだ。彼らはいつの間にか自分を撫でる手が醜く、厚ぼったい瞬間があることにも気づいたが、快楽の前でこれを受け入れた。この状態が少しでも崩れる瞬間があるとすれば、誰かが射精した瞬間だけだろう。他者の射精を目の当たりにした彼らのペニスは脈動し、出ない精液に苛立ちを募らせ、海綿体や軟骨をめちゃくちゃにする。場をますますヒートアップさせ、意識は混濁の奥へ消えてゆく。

 ついには美少年でないものからの愛撫でさえ受け入れるようになり、その様相は、酒池肉林により近くなる。ある者は性病さえ気にせず誰かのアヌスへ挿入を試みた。三本のペニスを咥えた者もいた。あちこちで精液が飛び交い、この大部屋を白濁に染めんとするのだ…。

 その中であっても、美少年は異質であった。誰もが自我や自己存在を見失う中、美少年は場をコントロールし、すべての愛撫を自分のものとしていた。誰かがペニスを咥え、射精させ、美少年が別のだれか、あとの時間に同じように口淫で射精させると、前の射精は美少年によるものとなった。つたないはずである。しかし、彼らの前には必ず美少年がいたのだ…美少年はこの場において1×37×2=74人いた。

 つまり全員が美少年だったのだ。それは愛情深く、自己中心的である。37人で行われるオート・フェラチオ。

 という次第であった。

 時刻が8時を超え、ようやく全員に疲れが見え始めると、美少年にも自由な時間がやってきた。被奉仕者たちは裸のままぐったりしていたり、半分だけ服を着て誰かと話したり…美少年はその間を縫って歩き、バスルームに向かう。

「いやはや、素晴らしい催しでしたなあ」

 一人の被奉仕者が美少年にそう言った。

「いえ私、最初は参加する気がなかったんです。だってあなた達がいくら美しかろうと男ですからねえ…私は男色の趣味はないもんですから」

「あ、これは」と美少年A。

「来ていただいてどうも」と美少年B。

「正直に言いますとね、私、知ってる商売女を一人連れて来ていたのです。そこの玄関までは連れて来ていたのです。歳はまま行ってますが、素人臭くていいんですよ…。ヒサミという源氏名なんですが、この間はぽろっと本名を喋ってしまって。あの時のあわてっぷりったらもう」

 被奉仕者は体を揺らして笑った。

 美少年は顔を見合わせた。互いに肩をすくめるしかなかった。


                  4


 その後、被奉仕者から詳しく話を聞きだした美少年はこのヒサミなる人物が母親である可能性を高めていく。疑っていた、というよりは最早確信に近かった。それはまるでゲームブックを逆さから読むようで、あり。経験的に信じづらくとも、感覚的にはただ実際の観測をする段階にあった。

 ヒサミがいつから商売女になったかという。それは一年前ほど前。普段は何をしているかという。ほとんど不明だが、ぽろぽろと零した情報を辿るとどうやら家族に不満があるらしいこと。

「ただの不貞ならともかくどうしてそんなこと」美少年Bが訝しげに言った。昔の、父親が漁師だった時代ならまだわかる。だが今は経済的に困窮しているというわけでもないし、それに一年前から別に生活のグレードが上がったりはしていない。

 あーだこーだと意見が交わされる。脅されていた、スリルを追い求めた、実は色情魔である、サキュバスなのではないか、ほら話から生々しい意見まで飛び出したが、美少年はもともと、主観で物事を判断しきるのが苦手な気質で、どの意見も同列に無意味だ。

 美少年はもう一度被奉仕者の話を聞き、その商売女がいる風俗店の名前を聞き出した。その被奉仕者は好奇心がくすぐられたのか、はたまた別の感情か、行くなら自分が案内しよう、と言い出した。

 それは駅前のほうだ。美少年はなにも言わない。

 するすると情報を吸い込む。

 学校や、被奉仕者側にも仕事が立て込んでいたため三日後辺りに改めましょうと握手し、彼らは別れた。

 折角たくさん金が集まったというのに変な話を聞いたせいで素直に喜ぶことができない、なんとももったいない話だなあと美少年は思う。

 この日は美少年Aが先に家に入り、部屋の窓を開けて美少年Bを迎え入れることにした。

 玄関には母親の靴が並べて置いてあった。ガラス戸だったので向こうには聞こえているはずだが、こちらを迎える言葉はない。水音がしたので部屋へ戻る前にちらりと台所を見やると、黙って洗い物に勤しむ母の姿があった。

「お母さん」

 もう少し内々で話してからにすべきだ、と話しかけてから気づいたが、美少年Bも同じことをしただろうと判断付け、美少年Aはその場で母の言葉を待った。

 母親はちらりと美少年のほうを窺い「ああ、おかえり」とため息に乗せて言った。

「なんか…」美少年は言葉を探す。「なんか最近、やなこととかあった?」

「どうして?」

「なんとなくだけど」

「あんたは?」

 母親が洗い物をする手を止めた。

「あんたは最近、いいこととか悪いこととかあったの。あったでしょ。そりゃあるわよ生きてりゃ悪いことぐらい。でもそれってよくあることで、気にするほどのことじゃないんだわ」

「そんなことはないと思うけど」と美少年A。「世の中、悪いことが起きて死んでしまう人だっているんだし」

「世の中?あんた世の中のなにを知ってるっていうの。たかだか18のくせして」

「でも悪いことが起きて、気持ちが悪い方に向くことぐらい知ってるよ。そんなの18だってわかるよ」

「はいはい死なないわよ。これでいい?」

 美少年はなにか言葉を返そうとしたが、母親の鬱陶し気な目を見て、これはダメだと悟った。まともな会話ができるとも思えなかったし、この母親なら体を売ることぐらいできるかもしれない、と経験的な勘が働いてしまっていた。

 曇天だった。

 美少年Aは以前していた服装の繰り返し、スキニーに黒いセーター地のカーディガン、今度はツイステッド・シスターのシャツを着て、美少年Bはグレーのパンタロンに厚底のハイヒールを合わせ、上はレース付きのブラウス、手足のネイルまで付けて髪は金色であった。駅で被奉仕者と合流し、一路、風俗店へ向かう。

「なんか嫌なことあったでしょ」

 美少年Bが言った。

「あった」

 美少年Aは素直に返した。

 全部これぐらい簡単ならいいのにと嘆息したくなった。

 店はフィリピンパブと潰れた眼鏡屋の間にあった。「ムーンストラック…如月」薄い電球と灰色の階段、一番下からはピンク色の光が漏れている。いかがわしさの塊みたいな場所だ。こういう店はあまり入りやすくてもよくない、ということもあるのだろうか。

「ヒサミちゃんいる?」

「申し訳ありませんが現在接客中でして…他にも数人、聞いていただければお答えしますが何分今ちょっと混んでおりまして…すぐ出られる子でよければ用意しますが」

「いや、いいよ。こちら。知ってる?」

 受付の男が首を長くして被奉仕者越しに美少年の姿を確認した。

「そちらは…そちらはもしや…いいえ、お客様困ります持ち込みは」

「そうじゃないんだ」と被奉仕者。「今日はこの二人がヒサミちゃんに会いたいっていうから連れて来たんだ。会わせてあげられないかな」

「そういうのはちょっと」

「何号室ですか?」美少年Aが間に入って言った。「僕らの母親は何号室にいるんです」

「母親!ヒサミちゃんがか!」

 被奉仕者が叫ぶ。

「そっ、そんなこといわれても…」

 美少年は受付の右側にある暖簾を注視し、誰も止める間もなく、そちらへ歩き出した。

 有名な音楽に喘ぎ声をミックスした曲が廊下中で鳴っていた。

 軽く見積もって30は部屋があったが、美少年は構わず一つずつドアを開けていく。「オッ」とか「ウワッ」だとか反応をもらいつつ、素早く開け、素早く見渡し、素早くしめる。

 11番目のドアの前で美少年は止まった。中からは女の猫なで声が聞こえる。

 聞き覚えのある声だ。美少年Aは通路の方を見やった。被奉仕者がすぐ後ろにつき、そのもう少し後ろに受付の男が弱腰で立っていた。時間はまだありそうだ。

 美少年Bがノブを回した。ハイヒールがこつ、と鳴り、美少年Aと美少年Bは一緒に扉を開いた。


 やたらと奥行きのある部屋だった。右側にシャワールーム、進んで机、下には真っ赤な絨毯が敷かれており、すべての家具が天蓋付きのベッドから2m半は離れている。

 ベッドには二つの人影。片方は縮こまった若い男。もう一人は…髪をウェーブにした、美少年の母親。この部屋にも音楽は流れていて、美少年が入ってきたとき、二人ともまだ気づいていなかった。若い男は期待に胸と股間を膨らませながら恐慌し、母親は優しくこそしていたが、どこか空虚に見えた。

 ふと、空気の流れが変わったことに気づいたのかもしれない。廊下のほうを向いた母親が美少年の姿をとらえ、その場を飛び上がる。若い男は母親に押され、ズボンを下ろしたままベッドに転がる形となる。

「なんの権利が…」母親は怒りのあまり毛を逆立たせていた。「なんの権利があってこんなとこにあんたがいるの!」

「お母さん」「お母さん」

 美少年はそれぞれ落ち着いて言った。

「あんた誰よ。私に娘なんか…」母親は言いかけ、それから自分の信じられない思い付きに驚愕した。「あんたなんで…あんた二人いるの?」

「うんそう」「なんでか二人」「ひとりかもとは思ってるけどね」

 母親は呆気にとられた表情で美少年を交互に指さした。

「こんなことってあるの…?」

「あるみたいね」「そうだね。どんなことだってあるよ。お母さんだってここにいるじゃない」

「それはッ、それはあんた。なにを、なんで来たのよ…」

「このままじゃいけないと思ったから」

「それをあんたが決めるの?」母親の眼光が鋭くなる。美少年はわざと地雷を踏んだ。「それをあんたが決めるわけ?あんたに私の何が分かるっていうのよ。二人だからってなにか変わるわけじゃないでしょう」

 正確にはエンゲル係数が30%程度上昇しているが、この場では関係ない。

 関係があるのは母親の話だ。母親は美少年を罵り、罵り、罵り、その隙間に身の上話をぽつぽつと含ませていく。

「私の生まれについては知ってるでしょう。この町生まれ、この町育ち。だけど私はこの町の住民になったつもりはなかった。こんな、時計の腐ったようなとこのね。私には白浪っていう故郷があった。そこには素敵な友達がいて、素敵な店があって、もう、いいところよ」

 美少年は幼年期のことを思い出した。母親は昔から、休日になると白浪のショッピングモールへ行きたがったのだ。しかし自分はあまりものを欲しがらなかったし、遠出も好きじゃなかったからいつも嫌がっていた。

 小学校、中学校、高校、ここまではよかったと母親は言った。夜になって出かけることはあっても朝になればまたあそこへ帰ることができる。自分には居場所があった。でもいつしかここに戻らないといけない。大学生になりの損ねた母親には地元で働く以外の選択肢はなかった。両親が許してくれなかったから。

 父親に出会ったのはそういう時だった。父親は当時から漁師で、体しか自慢できることはないと言えるような人物だったが、人柄は良かった。

「あの人はほんとに何もできなくてね。身の回りのことは全部私がしなきゃいけなかった。それが、突然、町の金融会社でしょう?なんだか立派になっちゃってね。私はなにをすればいいんだか」

 母親は父親と会う時間が全然なくなったと言い、次いで美少年に言及する。離婚しなかったのは多分、美少年がいたからだ。美少年は手間のかかる子供だった。1と言えば10と言い、赤と言えば青と言うそんな子供だった。

 みんな自分に負担をかける。自分にやりたいことがないと決めてかかって役割を押し付ける。

「そんな私がよ。いいじゃない。少しぐらい楽しんだって。なにがいけないって言うの?」

 全部言い終えた母親はすっかり憔悴していた。汗をかき、髪に吹き付けた香水が攻撃的なフェロモンと化していた。

 これを以て、やはり美少年の答えは一つである。

「いいと思うよ」

「嫌なことって、あるよ。それを解消することもあると思うけど、それがなんだって僕は悪いとは言えないし。それがこういうことだったら僕はますますいいと思うんだよ」

「なに、言ってんの…」

「貞淑さってそんなに役立つかな。一人で持ってる貞淑さって、自己完結してるだけで他の人に見せるわけでもないし、だとするとお母さんみたいに貞淑さが辛い目に合わせることだってあると思うんだよ」

「もちろん慎みは必要だよ。でもそれは社会的なって言う意味で、別に行為そのものを禁じることじゃない」「ちゃんと最後に元の場所に帰ってくるなら、僕は全然、お母さんが誰とセックスをしても赦すよ」

「あんたたち、なに、言ってんの…」

 母親は丸いベッドに腰を掛けてうなだれた。

「こんなこと、いいわけがないじゃない」

「どうして?」「なんで?」

「なんでって…結婚のときに病めるときも健やかなるときも…」

「それは愛を問うてるわけでしょ。別に性行為を禁じてるわけじゃないよ」「教義に従って生きてきたわけでもないし」

「で、でもこんなことバレたら何言われるか」

「なに言われるかなの?それで自分の中でため込むの。それって毒を飲むか針で刺されるかの違いぐらいしかないと思うよ。それでため込んで周りに当たったり優しさを失ったりしたらそっちのが損でしょ。針に刺されたっていいじゃない。わかってれば結構耐えられるもんだよ」

「ダメだというなら僕はお母さんの傍にいるよ。どうせこれからしばらくも一緒にいるけど、でもずっと後悔しながら貯めこんで、僕たちに嫌な態度をとって…そんなのって健康じゃないよ」

「でも、でも私、そんなこと言っても後悔してる!これまで一度だって気持ちいいことなかった!なんど体が絶頂を迎えても全然満たされないの!ただただ全部なくなっちゃうだけで…」

 母親はすすり泣いた。

「火のないところに煙は立たないけど、火がどっから来たかはすぐわかんないもんだよ」

「僕が思うに、問題はお母さんが楽しんでなかったことだよ。お母さんがやりたかったことってなんだったの、こういうことじゃないの。でも貞淑さが邪魔してるんでしょう。やりたいこと楽しくやんないでどうすんの。やりたいことやるだけでどうすんの。そんなのでやったってことにしていいの。そうじゃないからそんなことになってるんじゃないの」「私…私は…」母親は子供のように首を振った。倫理観と我欲とがせめぎあっている様子だった。

「社会社会って、そればっかりだよ。気にするのは。社会がそんなにすごいかな。あんなものはただの大きなものだよ。わざわざ巻き込まれなくたってちょっと利用すれば生きていけるでしょう。ねえ、考えてもみてよ。歴史でも習ったでしょ。四大文明って。でかい文明や王朝を築いても、いつかは濁流に流されてしまう。全然絶対のものじゃないっていうのに、なんでそれがわからないのよ。なんで社会なんかで自分とか家族とか好きな人とか犠牲にできるのよ。どっちが重要なの。まったくはかばかしく馬鹿馬鹿しい」

 母親は腫れた目で美少年を見上げていた。自分の言われたことを反芻し、嚥下した。

「そう…」目を伏せる。「そうなのかな…いいのかな…」

「そうあるべきだよ」

 美少年は強く言った。場は異様な空気に包まれていた。美少年の言っていることはかなりの無茶だったが、誰一人として指摘しない。相変わらず流れている悪趣味な音楽が、全員の体へすっと入っていった。母親はベッドから崩れ落ち、美少年が傍へ駆け寄ると、その腰に抱き着いた。美少年は黙って抱きしめやすいよう、中腰になる。

「素晴らしい!」

 ずっと傍にいたらしい被奉仕者が柏手を打って叫ぶ。

 母親は涙で美少年の服を濡らしている。

 それは温度のある、安堵と人間味を持った涙だ。


[newpage]

 

                  5


 彼(ら)の物語は、ここから終局へと向かうことになる。

 母親の協力を得たことで戸籍を違法に購入する手間はなくなり、あとは性転換の費用が必要なばかりであった。どちらが女性になるかはまだ決まっていないが、どちらになったとしても仲睦まじいつがいが誕生するだろう。

 美少年は性転換を行えるクリニックを探した。別に城南にこだわる必要はないため、国内各地から海外まで手広く探した。

 すると以下のことがわかる。

1.金額は600万~であること。

2.アフターケアを合わせるともう少しかかること。

3.美少年は金をケチりたくないこと。

 整形外科手術となれば、感染症や術後後遺症のリスクは普通のものより大きくなる。安い医者に掛かって底の浅い膣を付けられるのは困るし、余計な痛みを与えられるのも嫌だ。

 だから出来るだけ名医であり、

 出来るだけ清潔で、

 出来るだけ信用のおけそうな整形外科医を求め、彼(ら)と彼(ら)の信奉者は奔走した。しかしこれは簡単なことではない。予算を上げたぶん金銭を稼いでくると、さらに予算を上げたくなり、その分をまた稼がねばならなかった。高いからと言って優秀とも限らず、これを調べるためにまた金を使ったせいで事態はさらに混迷を極めていく。中には彼(ら)に支援をしようとする金持ちもいたが、美少年はこれを固辞した。性転換は彼(ら)がともにある儀式のためには必要なものであり、それは限りなく内的であるべきだと考えたからだ。彼(ら)は美少年と被奉仕者の関係であってそれ以上ではない。ゆえに金銭を援助されることは、彼(ら)の上に一つの関係を作ることに他ならなかった。整形外科医探しは難航した。金ばかりがそれなりに貯まっていった。

 これが打開されたのは、結局、春先のことで、金の工面がついたからでも、美少年が妥協したからでもなかった。

 金が安く、

 腕もよく、

 信頼もできる医者。

 アビエール・コメンシュタインはこうして満島康夫によって連れてこられたのである。


                  6

 

 アビエール・コメンシュタインはオーストリア人の医師で、母国では”メンゲレ・エンゲル”と呼ばれていた高名な人物である。

 その技術は神域に達すると言われ、オーストリアの医学最高賞”M・C・グフィン賞”を始め、スペインの”ミヤエ賞”、アメリカの”ペンタゴン賞”などを受賞。世界中の学会、雑誌に認められた。2014年、オーストリアのバラエティ番組内で達成した一分間に針の穴へ糸を通した数”186”はギネス世界記録に登録され、現在も更新されていない。

 一方で変人としても有名であり、医療のどの分野でも活躍が期待されたにも関わらず、報酬の多い代わりに見下されがちな形成外科を専門とし、学会や国を通した施術依頼を覗けば、自分の目に適った患者だけを格安で扱った。彼の綽名が”メンゲレ”であるのは190㎝を超える上背とガタイの良さからだでなく、その芸術家的嗜好にもよる。

 オーストリアにはこんな話が残っている。ある時、イギリスの紳士がコメンシュタインに首を少しばかり長くする手術を依頼した。このイギリス人はウェストミンスターに店を持つテーラーだったが、地元では評判の名士であった。その姿はなるほど、名に恥じないスタイル、顔立ち、幾多の苦労を重ね、老成した本物の紳士の顔であるように思われた…確かに首は少々短かったが、手術することを考えれば、コメンシュタインは喜んで依頼を引き受けただろう。しかし依頼は施術の直前になって取り消しとなった。それはコメンシュタインが手術とは全く関係ないイギリス人の右肘の先に、小さな黒子を見つけたからであった。

 コメンシュタインの偏執的ともとれる拘りは有名であった。彼を公式に傲慢だと否定した識者は何人もいたが、彼の技術の前では話のタネにもならない。しかし2015年6月の女優、マカレナ・ゴメスの施術にて起きた医療トラブルの裁判に負け、医院は閉鎖、以降は消息不明とされていた。

 そんな人物がなぜ満島康夫と関わり、美少年の手術をしようと考えたのか。  

 これにはまず、康夫がこれまでなにをやっていたか追っていかなければならない。

 満島康夫は倫理的観点から自分を咎人と考えた。幾度となく肉体的な誘惑に負け、あまつさえこれを贖罪に見まがうこともあった。生きる価値--などというものを論議しようとする時点で、本人の結論は定まっているようなものだ。康夫は多分に漏れず、自分は生きる価値などなく、即刻死んでしまうことがこの世の中に自分が残すことのできる最高の影響だと思い込んでいた。

 東尋坊の写真を眺めたり、青木ヶ原への最短ルートを検索したりしているうちに、彼は死にたいと思う気持ちを日に日に強め、ついに部屋にいるときはいつもカッターナイフを持つようになる。これで血管を切ればどのように死ぬだろうかとした。彼が本当にすぐ死を選ばなかったのは、初めに死にたいする根源的な恐怖。次に母や弟が悲しむのではないかという、一般的な人情。どちらも最後は自分が情けなくて仕方なくなった。自分は結局、自分のことしか考えていない。最後は麻縄まで用意し、手元でくるくると輪っかをつくろうとした。これがうまくいかない。結べたと思ったらすぐほどけてしまう。縛ったと思ったら今度は頭が入らない。「俺は自殺も満足にできないのか…。いや、それとも俺は恐怖を覚えているのかもしれない。怖いのは確かだが、俺の気づかないところはもっと怖がっていて、無意識に失敗させているのかも…」

 彼の思考はぐるぐると廻る。行動は伴わず、死ぬべきだとしながらも死ぬことはできない。日の終わり、眠る直前になると、彼は体を動かす。もぞもぞと巨体を揺り動かし、尻を裸にして床につけて、左手にティッシュペーパーを持って右手でペニスを扱くのだ。汗ばんだ自分の手がペニスの上で離れたり吸い付いたりするのを感じながら、康夫は美少年のことを思い出した。美少年の舌や、手や、肌、ペニス、アヌスの形に至るまで康夫は鮮明に覚えていた。自らが愚かにも享受した快楽の全てを脳へ刻み、電子信号がそこを通るたび尿道に罪悪感が溜まるようで、あり。リビドーと自殺願望の高まりが最高潮に達するとき、精液と罪悪感とか同時に流れ出すと、その瞬間だけはすべてを忘れられた。しかしそれも一時のことで、目が覚めると些細なことで美少年を思い出すようになり、オナニーを重ねることによって思い出すスピードはぐんぐん速くなっていく。ある時はカルガモの嘴のカーブに美少年の手首から手の甲にかけてを思い出し、勃起したこともあった。

 康夫は精神を疲弊させながらも決して美少年と会うことはなく、死ぬこともない。信念どうこうではない。意地と恐怖からだった。

 そんな折、康夫はポストに入った広告の山から、教会のチラシを発見した。数か月前に城南の内陸側に教会を建てたらしく、中身はバザーの知らせだったが、その中の一節が康夫の目を惹いた。

『そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」』

 誰がチラシを作ったのだろうか、きっと聖書から適当に持ってきたに違いないが、この文章を見たとき康夫は深く深く、自分は何度罪を犯しただろうか、と考えた。

 気が付くと康夫は外へ出て、教会まで足を運んでいた。

 城南は大きく海岸沿いと内陸に分けられ、どちらも住宅や野原がほとんどを占めていた。歓楽街はどちらかといえば内陸側にあり、ローカル線がその中心を貫いて通っていた。住人の利用する駅は主に三つあり、歓楽街の中心に建つ城南駅、海岸沿いの城南東駅、イオンモールにほど近い城南西駅。教会は城南西駅から10分ほど歩いた住宅街の初めのほうにあった。

 教会は平均的な一軒家を二つ重ねたような形で、上のほうに十字架がかけられていた。表には立派な銀杏の木が一本たち、入り口までの道には石畳が敷き詰められ、若いながら落下した葉や飛んできた土ぼこりを優しげな顔をした神父が竹ぼうきで払っていた。

 神父は康夫に気が付くと、緩やかなほうきの手を止め、顔を上げ、笑みを浮かべた。康夫はちくりともしなかったことに驚いた。誰を、なにを見ても美少年を思い出していたのが、この神父は温かな光のようにこちらを撫でてくる。こちらは何の反応も示さず、されるがままだ。

 康夫は神父にこれまでのことを一つ残らず話した。美少年との関係、自身の劣情、堕落した毎日、数えきれない罪をこの神父は数えてくれるのだと思った。

「なるほど…」神父が言った。「なるほど…」康夫の話をすべて聞き終えると、親指で顎の先を二度、素早くこすった。「よくわかりました。貴方は罪を犯し、それが許せないという」

「はい」と康夫。

「私が思うに…いいですか、私からすれば貴方の罪は三つです」

「三つ?それだけ?」

「ええ。三つです。まず肉欲に溺れたこと、次に死のうとしたこと、そして隠ぺいしようとしたこと。三つですね。どうしました?もっと多いと思いましたか」

 康夫は黙って神父の顔を見た。彼が嘘をつくようには思えなかった。事実、彼の言葉は康夫の中で積みあがった罪悪感を梃子で動かすのに足るものだったが、それでも生来の後ろ向きが、期待するなと訴えた。

「人はそう何度も罪を犯すことはできません。たいていの場合、一つの罪を長く引きずるのです。罪とは行為ではなく、心にあるのですから」ここで神父は瑞々しい咳をした。「多分あなたはバザーのチラシを見て来たのでしょう。関係ないからやめるようにといったのですが、どうしても聞いてくれなくて…あれはマタイの福音書の一節です。ペテロはイエス・キリストに人の罪を何度赦せばよいのかと聞き、イエスは…ここからはチラシには載っていませんが、イエスは7の10倍、70赦しなさいとおっしゃりました。70です。あなたのことを考えれば、3回、ペテロも6度までは赦してくれるようですから、私の言葉を信じるなら、どうです、赦してみては」

「しかし」康夫はほとんど最後の抵抗のようにして言った。「どうすれば赦すことができるのか…」

「ふん…そうですね。あまり遠くでないなら、ここには通ってみてはどうですか。日曜の朝だけでも構いません。好きな時なら、その時にでもよいです。私はここにいますから」

 康夫は胸の内に熱いものを感じていた。それは神父の存在を感じる間、じんわりと体中に広がり、康夫の体を震わせた。康夫は涙を流していた。

 神父は竹ぼうきを持ったまま康夫の背中に手を当て、彼が泣き止むまでそうしていた。康夫は神父に連れられ、教会の中に足を踏み入れた。祈りをささげていた数人の信徒が入り口のほうを向いた。

 このうち一人が件のアビエール・コメンシュタインである。


 コメンシュタインは熱心なキリスト教徒であった。オーストリアでは医院を経営する傍ら、近所の教会や教会の運営する介護施設、慈善病院へ寄付を行っていた。こうした活動はほとんど知られていなかったが、彼にとって信仰は衆愚へやすやすと晒すものではない。母国での苦難を苦々しく思いながらも、信仰を捨てることなく、ここ日本でもまた以前のように患者のえり好みをしながら施術を行っていた。

 コメンシュタインは康夫が入ってきたとき(当人の丁寧さに則って)失礼ながら、なんて醜い男だろうか、と思ったのだという。顔は石に見出したようだし、体つきに普段の不摂生が出ている。あまりに醜いので彼はつい顔をそむけてしまい、次いでそんな己の行動を恥じたのだ。そこで彼はあえて康夫に近づき、あくまでも人間を相手にするように接することにした。初めは彼のおどおどとした態度や、エビと靴下を煮詰めたような匂いに辟易としたものの、康夫の繊細な精神性や、やたら損しがちな善性を知っていくうち彼にブール・ド・シェイフ(モーパッサンの小説に登場する愛国家の娼婦)のような愛嬌を見出すに至り、ぎこちなかった会話も文字を拾い、苦も無く続けられるようにはなった。

 しかし、とはいえ、コメンシュタインのような人物が康夫にわだかまりを持たなくなった後もかかわり続けたのは、彼の話に――正確には美少年に興味を持ったからだ。

 白桃のような柔らかく、触れがたい肌。堀が深すぎたり、どこか一つが飛びぬけているわけでもない、にもかかわらず他人に強烈な印象を残す美貌。これまでも美少年の噂を聞いたことはあったが、彼と実際に行為に及んだ人物に会ったことにより、その興味を一層強めた。

 会ってみたいと言うと、康夫は恐怖を顔に出し、必死になってコメンシュタインを説得した。どうやら美少年こそが康夫の罪の根源にいるものであるらしく、この新たな友人が自分と同じ道を辿るのがたまらなく嫌であるらしい。

 だがコメンシュタインは引かなかった。それどころか彼の罪にまで言及し、恐怖には立ち向かなければならない、罪には向き合わないといけない、と扇動した。

 康夫は混乱し、またも思考の渦に沈んでいった。出した答えは全て誤りに思え、その中でまだマシと感じたものは全てネガティブな意見だ。そんな中で超然的、独善的なコメンシュタインの言葉は、康夫の移ろいやすい心の方向性を定めるには十分すぎるものだった。

 あえて康夫を擁護するならば、他にも理由はある。この時期に美少年が、まさに運命的なタイミングで、

 安く、

 腕があり、

 信用のおける形成外科を求めていたのだ。

 コメンシュタインは気に入った相手なら格安で施術を引き受け、その技術は知っての通り。人間的にはやや信用しづらい部分もあるものの、自分の腕は裏切らない。

 康夫はコメンシュタインに言われるがまま、彼と美少年を引き合わせる手伝いをさせられた。


                      7


 美少年Bは美少年Aにこそ話さなかったが、満島康夫という人間が、まだ自分たちに関わる気があったことを実のところ、かなり意外に感じていた。自分たちから離れていった人間はなにも康夫だけではない。その中のほとんどは二度と会うことはない。その中でも康夫は特別苦しそうな顔をして別れた。

 その康夫に良い形成外科がいると紹介され、行ってみれば城南大学病院である。いったい何を言っているのか、帰っちゃおうかなと思わないでもなかったが、取り合えず入ってみようと話し合い、病院内へ、すると会ったこともない外国人に引き合わされ、この人が形成外科医だという。見ればその外国人は初老を超えたようで、年の割に体のできた風で、確かに見目には頼りになりそうな感を持ち合わせている。しかし目に見えた動揺をはっきりと表したのはやや残念な部分であった。

 コメンシュタインは額に脂汗をかき、唇をわなわなと震わせ、美少年の目を見ることができなかった。それは芸術家というよりも、一つの生物としての反応だ。久々に白衣の下で勃起するペニスの欲動に、コメンシュタインは翻弄されていた。

 とはいえやはり、コメンシュタインは美少年に興味があった。否、目の当たりにしたことでさらに増したと言っていい。冷や汗をかきながらも康夫と話し、改めて体の検査をして、それから手術の日取りを決めると伝える。

 美少年もまた、コメンシュタインに対して懐疑的な態度をとっていたが、彼が高名な医師であること、彼の手術を録画したビデオを見たところ、この人なら大丈夫だろうと依頼を本決めすることにし、手術する前に一度相手をしようかとコメンシュタインに持ち掛けた。

 彼は自分の反応を恐れていた。

 

 手術の前日、美少年が一人でコメンシュタインを訪れた。15時のことだった。コメンシュタインは皮が剥けたばかりの少年のようにどぎまぎしながら彼の対応をした。

 カモミールティーを淹れ、アーモンドのクッキーを出した。

 美少年はこれをポリポリ食べクピクピ飲み言いたいことを言った。

「僕が思うに、どっちを女にしても状況は変わらないと思うんだよ」と美少年。「だって僕らに差異はないわけだからね。だからさ、こうやって頼むことが重要だと思うんだ。そうだろ?僕らに差はない。価値に差はないが、頼み込むことでいろいろと変わると思ったんだ…悪い方向に変わっちゃうかもしれないけど、まあそれはそれ。じゃあよろしくお願いします。引き受けてくれてありがとう」

 つまりこの美少年はパートナーを女にしてくれと頼んでいるのである。

 コメンシュタインはわかったと頷いた。そうせざるを得なかった。

 数時間後、美少年がまた一人でコメンシュタインを訪れた。彼は内心で面喰いながらも「どうかしましたか」と尋ねた。

 美少年が僕たちに差はないわけで…と始めるので、コメンシュタインはああと思った。


 キリスト教において同性愛は許されざる行為である、と解釈されることが多い。レビ記18章22節には「女と寝るように男と寝てはならない」とあり、その直後の20章13節では「女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず処刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」と記述されている。キリスト教には同性愛を忌避する面が強い。

 コメンシュタインは原理主義者というわけではないが、やや古めかしい考えを持つ人物である。同性愛、ましてそれが男娼相手など、本来なら唾棄すべき出来事だ。

 彼らは悪魔だ。

 コメンシュタインは思った。

 誰も彼もが美少年を好きにならずにはいられない。人柄も、特性も関係ない。あの美しさがすべての好意を引き寄せる。

 彼らは悪魔なのだ。

 人を誘惑し、堕落の道に引きずり込む。

「許されていいはずがない。いいはずが…」

 満島康夫、あの醜男もこんな気分だったのだろう。同じ境遇となった今なら同情はできる。

 信仰は捨てていない。それは確かだ。今もコメンシュタインは極めて冷静に教義を唱え、自分の信念を把握することができている。

 だがそれがなぜか浮ついている。消えていない、そこにある。揺れているのだ…なにかが下から揺さぶりをかけている。性的衝動だろう。そしてその源泉は精神分析学におけるイドだ。まったく意味がない!原理が分かっていて何の意味があろうか。辞書にはなんの対処法も載っていないというのに。確認しただけで解決した気になってはいけない。

 悪魔を殺すなら、その方法は?一つしかない。自分を曲げることなく、悪魔を殺すには。

 コメンシュタインの前には二人の意識を失った美少年がいた。彼(ら)には確かに差異はなかった。身長、体重、黒子の位置から宝毛の長さまで同じだった。コメンシュタインは息をのみ、この二人の悪魔の息の根を止める方法を実践する。


 美少年が目覚めたとき、そこは教会の裏に建った廃ホテルの中だった。美少年Aは痛む下腹部を押さえ、意識を失う直前のことを考えた。そう。自分は意識を失ったのだ…。やられたな、と美少年Aは思った。これは美少年Bの仕業に間違いがない。自分が医者に頼むより先に同じことを頼んでいたんだろう。起きぬけでうまく動かない左手で股間を撫でると、痛みは一層ひどくなり、ペニスはないらしいとわかった。

 ふつふつと怒りがわいてくる。

 医師に任せるといったではないか。それがこんな仕打ちとは、信用のたかが知れるというものである。同一人物だというならこちらがどんなことを願っているかわかっていたはずだ。自分もまったく同じ考えを持っていたにもかかわらず、

 美少年Bも同じことを考えていた。

 美少年Aが苛立ち紛れにベッドの手すりを叩き、寝返りを打とうとして下腹部の痛みに悲鳴を上げると、隣にもう一台ベッドがあることに気が付いた。腕組をして、仏頂面の美少年Bはとうに起きて、とうにまったく同じことを繰り返した後だったのである。今は激しく動いたせいで常時金的を食らっているような痛みを起こす自分の膣を鎮めるため、安静にしていた。 

 そうとは知らず自分のわだかまりを言葉にしてぶつけたくなった美少年Aは無理をして首を傾け、美少年Bに話しかけた。

「やってくれたね」と美少年A。「医師に任せればよかったっていうのに、君は我慢がきかなかった。さんざんな自分勝手をして僕を貶めたんだ。同一のこの僕を!」

 美少年Bは美少年Aの罵声を受け、黙ってただ不満げな鼻息を漏らした。この反応はますます美少年Aをいらだたせた。

「聞いてるのか?無視してるのか?僕がこうやって言ってるんだぞ。君には答える義務があるはずだろう」

「じゃあまあ言わせてもらうがね」美少年Bは静かに言った。「どの口がそんなことを言えるっていうんだい。君だって僕を売ったんだろう」

「売ってないよ」美少年Aは頑として言った。自分が女性になってしまったなら、医師との約束は果たされておらず、売ったことはまったく意味をなさない言葉であるという主張だったが、何一つとして合ってはいなかった。

「売ってない?」美少年Bの声に憎しみが宿る。「ならなんで僕のペニスはないんだ」

「それが…なに、なに?ペニスがない?」

「どうやらないね。まだ見てないが、きっと素敵なヴァギナが代わりについてる」「それは…そんな馬鹿なこと」「まったく馬鹿だ。なぜ話さなかった?もっと話し合いをしなかったんだ。二人とも足を掬い上げるなんて。こんなのオナニー死する猿よりひどい」

「なんてこった」と美少年A。「なんてこった。あの時だな。君の方が早かった。悪いのは君だ」

「僕が全部悪いって?なんてやつだ。早かったのはただの偶然だ。機会があれば君が先にやっていたはずさ」

「でもやったのは君だ」

「だからなんだ」


「世の中は全部結果論なんだよ。君の方が早かった。これが結果だ。だったら悪いのは君に決まってるじゃないか」

「君、なにを…バカめ」

「返す言葉もないんだな」

「あんまりにもバカな意見なんだ、そう返すしかないだろ!ア、イタタタタ…」

「ハハハハハ!バーカ!」

「君さっきからバカしか言えてないぞ!ぐぅ、貧困な奴め…」

 彼(女ら)の罵り合いはどんどんヒートアップしていった。傷の痛みに負けず声を張り上げ、できるだけ相手を傷つけるために言葉を選ぶ。しかし、そんな風に互いを罵り合いながら、彼(女ら)は一向に憎みあうことはなかった。その、罵詈雑言飛び出す口の端には、笑いさえ見て取れた。そして今や美少女となった彼(女ら)は、互いを罵りながらも、また、互いへの愛を心のうちに募らせていくのだった。


[newpage]


 2017年3月 美少年、美少女に。これとともにこれまでの客へ自分たちが双子であると告白し、一人であると偽っていた期間中の料金の一部を補償金として返還する。


 2018年4月 美少女、地元の大学に進学する。


 2018年5月 美少女、オランダ、聖セルファース教会にて同性結婚を果たす。


 2018年10月 美少女、大学のミスコンにて同性カップルながら入賞。


 2019年8月 貯金額が2000万円に達する。これは完全に売春のみで稼いだ額としては最高のものである。


 2020年6月 東京オリンピックを受けて二回目のパーティを開催。


 2021年4月 美少女、ディベートの全国大会で優勝。同月、アメリカへ半年留学。


 2021年8月 8月事件に巻き込まれる。


 2021年10月 美少女、日本へ帰国。


 2022年3月 大学を卒業。双子の娼婦として活動を続ける。


 2022年7月 美少女、子宮移植手術を受ける。


 2023年6月 美少女、人工子宮の細菌感染により入院。


 2025年8月 美少女、子宮頸がんと診断。


 2026年4月 子宮頸がんが手術によって除去される。


 2026年6月 美少女、新婚旅行と称してモルジブへ。


 2027年4月 子宮頸がんが再発する。薬品治療を行う。


 2027年10月 美少女、子宮頸がんにより死亡。


 2027年11月 残されたもう一人の美少女が城南から姿を消す。


 2027年12月 有志によって城南中央公園の片隅に銅像が建てられるも、行政によって一週間で撤去される。



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美少年史 柏木祥子 @shoko_kashiwagi_penname

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