閑談
サントキ
閑談
湿った足音とともに、古本屋のドアが開けられた。店主は、分厚いコートとニット帽を深く被り神経質に全身を覆う客を店の奥から確認すると、店の奥に引っ込んでしまった。
「い…ぐろぅ……」
半液状の舌をたどたどしく動かし、喉を震わせる。雑に陳列された本には目もくれない。
「いぐ……るぉ……いごーろなく……イゴーロナク!」
客はだんまりを決め込む店主に苛立つように、足もとで雑に積まれた古本を意に介さず蹴飛ばし踏み越えながら、奥へ歩いていく。服に付着しているぬるぬるとした苔混じりの泥が床を汚していくものだから、店主はたまらず店の奥から半身を出して、近くの椅子に座るように荒々しくジェスチャーで示した。
客は示されたとおりにドカリと椅子に座る。店主はまた奥に引っ込み、ちゃっちゃと身繕いしてから店頭に現れ、不機嫌な様子を隠しもせず、右の手のひらの口を開く。
「新しい本はなにもありませんよ」
客は帽子の下から店主をジッと見据える。まるで他の要望でもあるかのように。
「グラーキの黙示録もね!貴方が求めるものはここにはなにもない……」
客はゆっくりと腕を持ち上げ、ほとんどなくなった指で店主を指す。店主はツイードを纏った身体をゆすり、ご冗談をと左の手のひらの口で呟いた。
「ここにはもはや何も無いのですよ。私がこの店の番をすることさえ……邪なるものを求め、その形象を求める者にとって、このような場所はもはや必要ない」
立ち上がろうとする客人を静止し、傍らに積まれた本を一冊、適当に拾い上げ手渡した。
「それともこのようなつまらない物を求めているというのです?」
「イゴーロナク……きさま、は」
「言葉は丁寧に扱うべきでしょうね」
「あな、あなたは……」
客はぐちゃぐちゃと水っぽい音を立てながら口を動かし、何事かを言おうとする。しかし店主にそれを聞き届ける気は毛頭ない。
「その本は差し上げますよ。貴方にはほんの慰めにもならないでしょうがね」
「は、は。寸分の暇も」
客が下手に口角を上げると、唇が裂けて赤々とした肉が覗いた。そこから首へ伝った血の滴を手の甲で拭い、ナイロンの手袋が皮ごとズルリと剥けて、中に溜まった汁を撒き散らしながら床に落ちた。
「貴方が来る度に店が酷い臭いになる」
店主は太く短い指で、その手袋をつまみ上げると既にいっぱいのゴミ箱に投げる。手袋はベタリとゴミの塊に張り付き、その一部となる。
「方法がある。店はいらない。小屋が」
客はにちゃにちゃと不快な音混じりに言葉を発する。
「湖の傍ら。廃屋になった家。多少は住める。店がいらない」
「私が貴方の要望を叶えることはない」
店主は出入り口の前までゆっくり歩き、そっと開いた。客はしばらく座っていたが、やがて店主の思惑通りに退店した。
店主はさっさと鍵を掛け、営業時間外の看板を窓に提げると、二度とその看板を外すことはなかった。
湖の底の住民は、土地の悪評を気にも留めずに移り住んできた愚かな人を使って、すっかり使い物にならなくなった湖の畔の家を修理していた。
家がだいぶマトモになる頃には、古本屋の頑固で陰険な店主も根負けするだろう……湖の住民がそう踏んでいたにせよいなかったにせよ、その労力が無駄に終わったことに違いはない。
再び遣いを送ったときには、その古本屋は無くなっていた。その古本屋が設置されていた商店街ごと、燃えてなくなってしまったのだ。
うんと分厚い雲のかかった、風のない日の夕方に、遣いは不器用に新聞を拾い、すっかり暗くなった視界でゆっくりと文字を追った。
出火元は古本屋である。店主は行方不明とのこと。
遣いを通してそのことを知った後は、家のことなどどうでもよくなったのか、可哀想な人たちが家を修理することもなく、中途半端に壁紙を貼られた家は甲斐なく朽ちていくだけだ。
その気になれば煉瓦壁を乗り越えることなど容易いだろう。結局のところ、自ら動けないにせよ、動かないにせよ、『本当の行為』などひとつも無い。
哀れな人がまた来るのだろうか?
高く登った月が湖底に沈む都を照らした。影がいくつも踊り、冷たい星々の唄を囁きあった。水晶の戸がキラキラと輝いて、水面に不自然なパターンを発生させた。
その傍らに、光を拒絶する暗黒がぽっかり口を開いていることを、湖の底の神が知っているにせよ、知らないにせよ、時が光と闇と、内と外とを否応なしに綯い交ぜにする。
それまでの一瞬を共にすることを拒絶されたとて、おそらくは些末な問題だった。
閑談 サントキ @motiduki666
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