第2話 知覚の館

「お、おにいさま!?」


このようなところでおおよそ聞くとは思わなかった単語に、俺は遂に狼狽を隠すことが出来なかった。


更にその言葉を発した者の正体も、どのような天魔外道が出るかと身構えていた俺にとっては拍子抜けもいい所。俺の胸に届くがやっとの体躯に、腰まで伸びる墨色の髪、両の手に包まれた幾何学模様の手毬、極めつけは海老茶袴を巻いたこの館のように時代錯誤の着物姿。

……何処からどう見ても、年端もゆかぬ13~14の少女。


「お兄さま!、やっと来てくれたんだね。待ってたんだから」


少女はずっと見知った親しい間柄といった様に俺を見上げ、頬を緩ませる。

普通であればこの状況を喜ばしく思うものなのかもしれないが、生憎今はこの場も、俺自身も普通とは程遠い。


「え、ええと……待ってた?」


こわばりが未だ取れない俺の表情筋では、頭の中を洪水の如く流れる疑問の数々を拾い上げることは遂にかなわず、オウム返しに等しい返事しか喉から出て行かない


「うん!待ってた。ずうっと」


「ずっと?……エエと、それは……いつから?」


「……?ずうっと」


「…………」


埒が明かない、この少女も、俺の頭も。不思議、不可解、欺瞞、恐怖。これ等に汚染された今の脳髄では、この少女へ疑問を問いただすことも、その答えに適当の解釈を得ることも容易な事ではない。


「ええと、あーー…………キミの名前は?俺の名前は、こ、浩一」


どうにかして喉から絞り出した答は、我ながら情けないこと限りなかったが、今はこれが精イッパイ。


「ボク?ボクは連翹れんぎょうだよ。お兄様」


「そ、のオニイサマと言うのはやっぱり俺の事かい?でも、俺はキミの…………連翹の事は何も知らない。つまり、俺は連翹の兄じゃないと思うんだが……」


「?……お兄さまはお兄さまだよ」

「ドウしてそう言い切れる」

「―――なんでだろ。でも、お兄さまだと思ったの」

「…………」

一体どうしたことだ。俺は矢張夢でも見ているのではないか。本当の俺は今もワンルームの一室に敷かれた布団の上で瞼を見つめている最中で、祖母の館になど行っていないのではないか。いや、館には入っていて、客室のベッドの上か。ああもう夢だとしても一体何処から何処までが夢であるというのか……そうでなければ、あの八重樫家の消えた記憶も、先ほどまで俺を迷わせていた一本道の廊下も、目の前で俺のコトをお兄サマなどと言う少女も、一切説明、理解できないではないか。

いいや、夢であってほしかった。しかし、この疲労で今も痛みと震えを伴う脚と、目の前の無邪気を体現したかのような笑顔で見つめてくるこの少女を俺の乏しい知恵と創造力によって妄想つくる事など出来るはずも無いのだ。

…………では、現実?ザンネンナガラ。


「どうしたの?お兄さま」


「……取り敢えず、そのお兄さまというやつはまだ続けるのか?俺は浩一だ、こ・う・い・ち」


「じゃあ、コウイチお兄さま?」


「……もうお兄さまで良い」


どうも俺は元来女性、とりわけ子供にはあまり強くないらしい。いや、ヒトというものを避け続けた代償というだけかもしれないが。


「まあそれはいい……いいのか?、うん、それよりも……連翹は何でこんなところに居るんだ。分かるんなら教えてくれ、俺たちがいるこのふざけた場所は一体何なんだ」


「ふざけてるの?」


「そうだろうとも、見ろ、あの人を馬鹿にしたような廊下…………」


…………本当に人を馬鹿にしている。連翹に見せつけようと振り返り、右手を振りかざした先の光景に俺は、最早驚きではなく諦めと達観の気持ちで立ち尽くした。

廊下が、無くなっている。正確には俺の通っていた廊下が無い、もしくは埋もれて分らなくなっていた。

白い壁、床には赤の高級そうなカーペット、天井に垂れ下がる豆電球。それが俺が通っていた不可思議世界の全てであったというのに、今映るそれには深い木目丁の扉が一定間隔に備え付けられ、真っすぐ一本の廊下には、右手左手の分かれ道が根の如く張り詰められ、その道中には様々な彫刻調度品が立てかけられ、鎮座していた。

ほんの数分前まで、ここは迷いない迷路となった永遠の通路だったはず、それがどうだ、突き当りなど存在しないはずだった廊下が、今度はそれに溢れているではないか。


「……なあ連翹、ここはいつもこうなのか」

「こうって?」

「可笑しくは感じないのか」


「お兄さまは可笑しく見えるの?」


いつの間にか俺の左隣でちょこなんと立っていた連翹の返答には、何の戸惑いも感じられない。慣れている、と言うよりは知らないから比較も批評もないといった感じだ。もしかすると、自分でも馬鹿馬鹿しい推論ながら……連翹はあの部屋から出たことが無いのではないか?


「どうしたの、お兄さま」


「……見て分らんのならもうイイ」


どっちにしろあの迷宮の道案内に連翹は使えない、ということだ。これはおおいに困った困ったものだ。どうせ俺はあの迷宮に挑まねばならない。そうしなければ元の世界に帰る事など到底かなわないことぐらいはわかる。しかし、また途方もない時間迷い続けてしまうのだろう。


「連翹は……どうしたい?。俺と、来るか?」


どうせ放っておく訳にもいくまいが、一応連翹の心持もきいて置かなければいけないと思い、中腰になって目線を連翹と合わせる。


「良いの!?」


「悪ければそもそもこんなこと訊かん」


それを聞いた連翹は元々浮かばせていた笑顔を、これ以上はないというふうに緩ませて「有難う!お兄さま」と俺の左腕に抱き着いた。

それにビクリと身体を驚かせてしまった自分には少々自己嫌悪したが、何はともあれ同行人を得ることが出来たのは俺としては結構な収穫だろう。

目の前の迷宮だって先の一本道で迷わせられてしまうよりかは、あのような「ドウゾお迷いください」といった態度で来られたほうがコチラには都合が良い。

そうだそうだ。これは僥倖だ。そう納得せねば誰が正気を保っていられるだろうか。


「行こ!お兄さま」



……そうだ、この迷宮館の、目の前の連翹の正体など今は忘れてしまおう、いや―――認めてしまおう。これはこういうものでここにあるべきもの。俺はそこに迷い込んだのではなく、此方から遊びに来たことにしてしまおう。これが夢ならそれでよい。今更始まったことでもあるまい。


暖簾のように垂れ下がる腕を連翹にピンと引っ張られ、手を広げて罠に引きずり込もうとするような迷宮の一通路に俺は誘われるがまま…………

その胎の中へと吸いこまれていった。



ようこそ、長い永い八重樫邸の夢魔境へ、堂廻目眩どうめぐりめくらみ戸惑面喰とまどいめんくらい渦巻く館で、今宵は存分にお迷いくださいませ―――


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