序論
いまこの本を読んでいる読者は『妖怪』という言葉からどういったものを想像するだろうか。
宮沢賢治の描く「座敷ぼっこ」みたいなもの?
水木しげるの描く「鬼太郎ワールドの妖怪たち」?
あるいは、バトル漫画で使役される、あるいは退治される、人間に危害を加える魔物的ななにか?
実は『妖怪』とは、存在ではなく、事象である。これは学術研究分野では常識と言って良い。
詳しくは東アジア
簡単にまとめれば、以下のようになる。
妖怪の起源はかつて朝廷の管掌していた怪異であった。
そして怪異とは、古代には天候不順や地震、火山の噴火といった「コト」であったのだ。
時代が下るに従い、朝廷の管掌するところであった怪異は、貴族社会へ、民衆へと広まってゆき、妖怪と呼称されるようにもなった。
それでも、夜道を歩いている人が正しい帰路を歩いているはずなのに道が塞がれてでもいるかのように帰れない……そういう事象を「ぬりかべに行き逢う」などと言ったように、怪異、あるいは妖怪はやはり「ぬりかべ現象」とでもいうべき「事象=コト」であって「存在=モノ」ではなかった。
この本で紹介する妖怪たちは、「事象=コト」である。
ただし、我々の妖怪事象学会員は、東アジア
基本的に妖怪とは、「事象=コト」である。そこは揺るがない。
が、その事象を発生させる根源には、やはり「存在=モノ」があるのではないか。ただし、その「存在=モノ」は人間の五感では限りなく知覚しがたい「モノ」なのではないか。
妖怪の「存在」は、たとえそれが「在った」としても、人間には知覚しがたいものであるため、結局のところ人間は「事象」でしかその存在を確認し得ない、そういうことなのではないか。
見えないカミの存在と意思を、火山の噴火に見いだしたように。
正しい道を歩いているはずなのに目的の場所に辿り着かない、その理由を
我々が知覚できる『妖怪(怪異)現象』、それはたしかに事象=コトである。
ただ、その根底には、意思を持つモノ、事象を発生させる超自然的存在は、やはり「ある」のではないか。
我々は議論の結果、そういう仮説を立て、その仮説をおおむね正しいものとして受け入れた上で、次なる階梯へと歩みを進めている。
我々の研究は、妖怪事象を通じて、その「人間には知覚しがたい存在」に迫ろうとするものである。
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