身を焦がすモノたちへのまなざし

 妖怪は本来、人間とは別の立ち位置にいるものなのだろう。

 詳細は東アジア恠異かいい学会編『妖怪学講義 王権・信仰・いとなみ』所収山本陽子著『絵巻の中の神と「モノ」――目に見えぬものをいかに描くか』に詳しいが、かつて三輪山の大物主おおものぬし倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのもとに通ったとき「姿を見せなかった」。

 『古今和歌集』序には「目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ」などとあるし、オニはおにとも書くように、鬼神は目に見えぬものと考えられていたのだ。

 そして、人間がその姿を見たとき、ある種の「ありがたみ」を喪うものと考えられていた。

 この論文中において、そのような「見えぬもの」を感受してきた古代人たちが、仏の姿を絵や像にして顕す仏教に出会い、やがてその「見えぬもの」に形を与えようとする……(※)そう論ぜられている。


 しかしそれだけなのだろうか。

 「コラム 鉱物と妖怪」の段でも述べたように、鬼や怪異、カミといったものたちもまた人の前に姿をあらわしたいと願っているのではないだろうか。

 玉藻の前が帝の妃となりたかったように。

 八岐大蛇が奇稲田姫を望んだように。

 大物主が倭迹迹日百襲姫命と契ったように。

 彼らの霊威はすさまじく、それゆえにひととの関わりもやすかったのだろう。人を害することすらできたとも考えられる。

 しかしながら我々妖怪事象研究家たちが取り扱うような妖怪事象は、かりにこの世のものであったとしても、鬼神などよりも、もっとかそけきモノたちの起こすなにかであるがゆえに、知覚すること自体が難しいのだが。


 「目には見えぬモノ」たちのその望みは、むろん、うまくいくかのように見えても、結局は破綻する。なぜなら人間たちの準備ができていないからだ。

 だからこそ、我々妖怪事象研究家は、目を凝らし、耳を澄まし、五感を総動員して見えざる事象を感受する

 我々が認識しづらい世界のどこかで、互いの姿を見て、手を取り、理解し合いたいと身を焦がすモノが、きっと「在る」。

 我々妖怪事象研究家は、それを信じて、日々研鑽に努めているものである。



※仏教もまた、原初には釈迦や仏の姿を絵や像として顕すことを禁じていたが、本邦へ伝来する過程でさまざまな姿を得ることとなった。人はなにかを理解しようとするとき、視覚に頼りがちなのだろう。

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