妖怪 錬金術

 遙か昔に本邦に棲息していたと思われる妖怪である。

 その詳細な記録は喪われた日高見国風土記にあるという。

 その姿はカタツムリのようだったとも言われているが、妖怪は『事象=コト』であり、『存在=モノ』としては観測できないという大原則から考えると、ほんとうにそのように見えていたのかは疑わしい。

 後述する、彼らの残す足跡から「そのような存在であるに違いない」と古代人に考えられていた可能性が高い。

 『妖怪 錬金術』であるが、その這ったあとはみな黄金になったという。

 かつて彼らがおおく棲息していた岩手の地では、朝になると彼らが夜のあいだに這っていた大地には、幾筋もの細い黄金の道ができ、彼らがしばし休息した草の葉や木の葉は、黄金となって降り注いだと伝えられる。


 そうなのだ。古代、大和政権から平安朝廷の時代にたびたび行われた東北地方討伐は、『妖怪 錬金術』を手に入れんがために行われたのである。

 その最後にして最大の軍事的記録として残るのは、平安時代だ。

 奈良から京都に都を移したばかりの桓武天皇は、東北の金を手に入れるために坂上田村麻呂を征夷大将軍にして岩手に派兵。

 胆沢城いさわのき(現奥州市)や志波城しわのき(現盛岡市)を本拠地として『妖怪 錬金術』を狩っていった。

 喪われた日高見国風土記には、東北地方を根拠地としていたアテルイとともに京の都に連れて行かれた『妖怪 錬金術』の魂が、涙となって雫石川を氾濫させ、志波城を呑み込むさまが、アテルイの無念を伝える英雄叙事詩として描かれていたという。


 『妖怪 錬金術』は坂上田村麻呂の東北討伐のさいに個体が激減し、いまでは絶滅してしまったと考えられている。

 が、近年、この絶滅の年代には異論も提示されている。

 時代は下って、十四世紀、マルコ・ポーロが『東方見聞録』において「黄金の国」と日本を表現したのは、この『妖怪 錬金術』の這ったあとを表現してのことではないかと、東北大学妖怪学部妖怪学科客員教授 小祝納城こいわいのうじょうの研究論文が発表された。

 たしかにありうることであろう。


 小祝納城は論文でこうも書いている。

「14世紀まではたしかにその命脈を保っていたと思われる『妖怪 錬金術』は、戦国時代の末期にはほんとうに絶滅してしまったと考えられる。それ以降、江戸期になってからのこの妖怪の新しい記録は絶えてしまうからだ。しかし、もしかしたら、この妖怪に我々が出会う微かな望みが残されているかも知れない。」


 氏の論文で示されつつも具体的にはなにも表現されなかった『微かな望み』……岩手県立東北大学の敷地には、ごく稀に、雨上がりの早朝、黄金の道が現れると言う、そういう噂が実はある。

 

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