コラム 散った妖怪

 東北大学(※)妖怪学部妖怪学科 判汰湖底はんだこてい教授と山口県妖怪事象総合博物館主任研究員 鉛戸鈴なまりとすず、そして青森のイタコ(※※) 遠藤馬目えんどうまめの三人による共同研究によって、1992年、以下のことが判明した。


 古来、妖怪は一種類、ないし、数種類しかなかったというのである!

 

 その経緯はこうだ。

 鉛戸はまず、推論を行った。

「現在、妖怪は八百万種以上はいるだろうと思われる。しかし、その種には系統があるような印象だ。ここでとりあえず原種が一であると仮定してみれば、ことは単純である」

 最後のほうがずいぶん飛躍している気がしなくもないが、まあ、推論とは得てしてそういうものだろう。

 鉛戸は遠藤を介して過去の人物に証言を依頼した。

 依頼を受けた遠藤は先祖伝来のイタコ服に身を包み、判汰の先祖、物部海底もののべのかいていを呼び出した。物部海底は物部守屋の従兄で、大和朝廷において怪異慰撫の任に当たっていた神祇官であったという。そして丁未ていびの乱のおり、物部守屋を宗主とする物部宗家とともに滅ぼされたのだそうだ。

(本人が遠藤の口を介してそう言ったのだ。文献的資料は残っていない。物部海底自身は仏教にも関心があり、物部守屋に内緒で厩戸皇子製作のサイン入り木彫り帝釈天を持っていたと言うが、戦乱で焼けてしまい、惜しいことをした、とのことだ。いま残っていたら国宝級で、オークションでぼろもうけだったのだが)


 判汰は遠藤の口に憑依した物部海底に尋ねた。

 物部「妖怪? なにを非生産的なことを調べておるのじゃ。わしの子孫ともあろうものが情けない……そんなだからぬしは貧乏なんじゃ。もっと金儲けのことを考えんかコラ」

 判汰「いやいや、ご先祖。如何に非生産的に見えても学問は尊いのです。それに近年は妖怪ブーム! ここで一発てれば私だってベストセラー作家の仲間入りです」

 物部「むむう……なるほどそういうこともあるか……ムラカミハルキくらい売れるか?」

 判汰「まあ、どっちかというとミズキシゲルですかね。アニメになれば単行本馬鹿売れ、キャラグッズで左うちわです」

 物部「で、わしへの見返りは?」

 判汰「子孫がお願いしているのに見返りを要求ですか?」

 物部「……わしはもう黄泉に下って永い。細かいことを思い出すのが面倒なんじゃ」

 判汰「どうかそこをなんとか」

 物部「どうにもならんて」

 判汰「いやいやここは子孫の顔を立てて」

 物部「供え物のひとつもせんような子孫を持った覚えはない」

 判汰「まあまあ、そこをなんとか。ああ、いやいや、そういえば会ってすぐに仕事の話ばかりもなんですな。調度よいところに灘の生一本が。ご先祖、是非一献」

 物部「酒が入ってもわしの口は硬いぞ」

 判汰「分かっております、ご先祖。ああ、これは気が利きませんでした! やはりこういった再会の場には出し物がなければ! こらこら、みな出てきてもてなしせんか!」

 この後、古来より伝わる『天岩戸理論』によって、カミに近しい古い魂魄である物部海底は、青森や岩手の祭りの出し物(※※※)で饗応されたという。


 とまあ、こんな具合で、灘の生一本でべろんべろんになりながら、白熱した学術的議論が先祖と子孫とのあいだで交わされたのである!

(余談だが遠藤馬目はかなりの酒豪であるが、この口寄せの次の日は人生ではじめて二日酔いで起き上がれなかったという)


 前置きがずいぶん長くなったが、このようにして行われた物部海底と判汰湖底の学術的に有益な議論によれば、朝廷が統括していた怪異が、平安時代、貴族に、そして庶民へと拡散していったのを期に、分派していったのは事実らしい。(※※※※)


 鉛戸はさらに推論した。

 当初は、天変地異が怪異とされた。怪異は妖怪の遠い祖先である。また天変地異とは、国土と天の異変である。すなわち妖怪とは、「天」である!

 ここに鉛戸は妖怪学の金字塔的学説、『妖怪は「天」の種である』という説を提唱したのである!


 この説は発表されるや否や、妖怪学会においておおいに批判が加えられた。まず、すべては「天」が大元なのだとする鉛戸学説と、本邦では「天」と「地」が相対するかたちで大元になったのだとする学説に分かれた。また、天はカミであり、地が怪異になるのだという学説も現れる。

 さらに帝の勅などを論拠として、大地は大地でも火と雷を産む「火山」と、水と塩を産む「海」は別物ではないかという意見が出され、「天」「地」「火山」「海」学派が誕生した。

 当然のことながら、風土記などを参照して「妖怪の源流は、太古の昔よりあった民衆の信仰である」派も生まれた。

 また、古事記を論拠として五月蠅さばえなすものどもこそが妖怪の前身なのだと主張する一派もあるが、こちらは論拠が雑駁すぎていまひとつ人気がない。


 かくして、妖怪の学説はちりぢりに散っていった。

 実際の妖怪の拡散も、おそらくはこの学説のように散っていったのではないかと思われる。すなわち、我々妖怪学会は、「現代における妖怪学説の拡散」によって、「太古の妖怪の拡散」を追体験したのだ。

 曖昧模糊とした原初の泥の如き『妖怪』は、天となって現れ、地に分かれ、炎と海を渡って人々の信仰へと分け入り、人が神や仏の「ちから」を信じるのとおなじだけ、そして人が神や仏を信じれば信じるほど、それ以外の「不思議」に「妖怪」を見たのだろう。

 そしてこの地は五月蠅なすカミの国となったのである。(※※※※※)


 私はときに思うのだ。

 人々の信仰に寄り添うように存在する妖怪は、「人の信仰の変化」をどう受け止めているのだろう?

 また、妖怪たちに「存在」と表現できる実体があるとして、それはいかなる存在なのだろうか?

 妖怪は人が認識する事象だ。ならば妖怪は、人と独立して存在できるのだろうか?


 人に認識されなければ妖怪は存在しない……などということがあり得るのか?

 

 


※宮城県にある国立の東北大学ではなく、岩手県立東北大学である。お間違いなきよう。


※※みなも知ってのとおり、イタコについては、刑法第1052条第五項 霊媒の証言能力に関する法律 によって、正当な証言能力があると認められている。


※※※ いまどき飲みニケーションか! 千年古いわ! と思われる方は多いだろう。この実験が行われたのは1992年であり、呼び出したのは概ね580年頃に生きた人物である。千年以上まえの人物ゆえ、コミュニケーション方法が旧時代のものでも許されたい。なお、このときの出し物は津軽三味線の演奏会及び岩手のチャグチャグ馬コであった。物部海底はチャグチャグ馬コに登場した馬をことのほか気に入り、「この馬がわしの生前におったなら、蘇我との戦にも勝てたものを」と悔しがったという。現実的にはいい馬がいても物部氏に勝利はなかっただろう。「だいたい物部守屋の作戦は稲城いなぎに立て籠もる籠城戦で、馬の出番なかったよね」と、その子孫である判汰湖底は思ったが、それを言わないだけの慎みは持ち合わせていた。

 なお、稲城は稲で作った城で、本邦の国神の霊力によって守られていた。

 しかしそもそも論でいくと、稲だって伝来品である。さきに伝来してきた稲魂いなだまが、あとからやってきた仏(丁未ていびの乱のとき厩戸皇子が作ったのは四天王像であったという)の姿を見て、

稲魂「やあ、久しぶり! 元気してた?」

仏「元気も元気、いまも鋭意布教活動中」

稲「そうなんだ。ところで、どうしてわたし、今回君と敵味方に分かれてるんだろうね?」

仏「諸行無常であるな」

稲「面倒くさいなあ……そうだ、この戦、このへんで切り上げようよ。わたしの負けってことで良いからさ。べつにわたしが負けたって、お米の存在価値って下がらないもんね」

仏「その話、乗った」

などなどといった談合が行われていたとしてもまったく不思議ではない。


※※※※この議論の大元は『怪異学の地平』所収「日本古代の「怪」と「怪異」―「怪異」認識の定着―」(大江 篤)を参考にされたい。


※※※※※このあたりの議論がアカデミックすぎてついて行けない意味がサッパリ分からないと思われる向きもおおいと思われるが、三十年くらいの議論をダイジェストでお伝えしているので仕方がないと思っていただきたい。

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