第3話

 ただいまぁ、と力なく声を出すとキッチンから母親が顔を覗かせた。

「おかえりなさい」

 そう言って、母はスリッパをパタパタとさせながら玄関にやってくる。はいはいはいという意味のない母の口癖をウザいと思う感情を抑えつつ、卵の入ったビニール袋を手渡す。

「これでいい?」

「うん、ありがとね」

波の母は波と同じくらいの身長で、顔はさほど似ていないが、肩くらいの髪の長さが同じなため、後ろ姿はよく似ていると他人に言われる。ただ性格は真逆で、母はきっちりした典型的A型気質なのに対して、娘はO型らしくずぼらでテキトーである。

「あ、エアコンついてない」

 不満の叫びを挙げた娘に対し、母はキッチンに卵を置くと、戻ってきて言った。

「ついてないわよ、ここは外から良い風が吹くんだから」

 そう言って、波が無意識に閉めた玄関のドアを開け、ドアストッパーで閉まらないように固定する。確かに小和瀬家はマンション八階に位置するため地上より多少強い風は吹くのだが、当然それは外気に熱せられた風であり、クーラーにシャブ漬けにされた身体を満足させるものでは当然ない。波の不満には「だったらシャワーでも浴びなさい」とにべもない言葉が返ってきた。波はとりあえずスーツケースを持ち上げて自分の部屋に運ぶと、玄関にいた母が「靴くらい揃えなさいよ」と小言を言う。波が物心ついたときから千五百回くらい言われ続けている言葉であるが、その指摘によって靴が揃えられるようになったことはない。

「ところで、あんたその荷物何よ。海外旅行にでも行く気?」と波が運び入れたスーツケースを指差した。小さい頃から海外旅行なんて一度も連れて行ってくれたことがない母が娘にそのセリフを吐くとは、親として恥ずかしくはないのかと一瞬思ったものの、口にはしない。

「別に。ただ服とかメイクとか色々持ってきただけ」

「それなら沢山あるじゃない」

「それは高校の時の」

 大学進学で上京するとき、お気に入りの服だけを選り好んで東京にもっていったので実家にある服は少し子どもっぽい服や部活で使っていた練習着といった大学生として着ることが恥ずかしいようなものが多いのだ。

「だったらなに、まだ着られるでしょう」

「サイズ的にはね」

 母の言う通り、波は痩せてもいないが、太ってもいないため着ることは出来る。

「でも、もう二十歳だからさぁ、大人な服装でいないと」

「靴も揃えられない人がよく言うわ。外見を着飾るのは中身を大人にしてからにしなさい」

 典型的なお説教に見えて、なかなか痛いところを突く一言でもある。波が一瞬反論に窮すると、母は続けた。

「それに、去年もあんた同じようなこと言って、丸子のお爺ちゃんに服何着か買ってもらったじゃない」

「そうだっけ?」

「そうよ。ベッドの下の引き出し見てみなさい」

 言われたとおり引き出しを引くと、確かに部屋着のインナー二着とシースルーのトップスを見つけた。

「そういえば、そんな記憶がなくもないかも……」

 その他にも化粧品やヘアアイロンなども前回帰省したときに東京から持ってきて、おきっぱなしにしていたことを忘れており、同じ物を再び持ってきてしまっていた。

「バカねぇ」という今度は失望のため息がまじった母の言葉に、返す言葉はなかった。

せっかく重いトランクを引っ張ってきたのにまさか実家にストックがあったとは……。

波はがっくり肩を落としつつも、気を取り直してシャワーを浴びることにした。脱衣所兼洗面所に入り、ブームTシャツとパンツ、下着を脱いで、洗濯機に放り込む。半年ぶりに入る実家の浴室は既に濡れていて、誰か(恐らく母だろう)がシャワーを浴びたことがわかる。風呂場の棚には母が昔から使っているパンテーンが置かれてあり、その横に葵が持ってきた資生堂の高級シャンプーと波のノンシリコンシャンプーが置かれている。色も形も違うシャンプーとコンディショナーの容器の並びを見て、波は不思議と、ああ、家に帰ってきたんだな、と思った。ちなみに波の父は髪が薄いためボディーソープで全身を洗っているが、その割に加齢臭が消えないのは有史以来永遠の謎である。

汗を流してバスタオルを体に巻き付けてリビングに出ると、さっきまで不快に感じた風が心地よい夏風に変わっていた。

「ああ、生き返ったー」と叫ぶと、母が「服着なさい」とたしなめるが、構わずそのままソファにどっと腰を下ろす。くたびれた革製のソファは表面がひんやりしていて且つ絶妙に柔らかかくて心地良い。六畳半の一人暮らしの家にはソファは当然置けないので実家のソファは貴重である。高校生の時までなんとも思わずに寝そべっていたこのおんぼろソファがこんなに贅沢な家具だとは思わなかった。幸せの青い鳥は始めからリビングにいたらしい。

「大学はどう? ちゃんと授業にはでてるの?」

母は夕食の支度の手を止めることなく尋ねる。

「もちろん」

出てはいる。

友達とノリで自主休講してカラオケ行ったり、履修した教養の科目を二回で切ったりしているけれど。

「期末テストはどうだったの?」

「えーわかんない。でも単位は取れるじゃないかな」

「ならいいけど」

 あんたは卒業できればいいわ、と言ってそれきり波の学業についての話は終わった。

 母は波の学業についてさほど口にしない。頭も良くない波が大学、しかも東京の私大に進学したいと言ったときも「やる気があるなら頑張りなさい」としか言わなかった。姉の葵の時はどこの大学が良いとかこっちの方が就職に有利なんじゃないかとか、もうちょっと親子一緒に色々考えていたが、波の場合は、選ぶ余地がほぼないということと、早々に将来を諦められていたためそのような話し合いは皆無であった。ただ波自身も当然それは理解していて、大学に通わせてもらえているだけラッキーだと考えている。

 自室に戻って着替えると、荷物を解く。スマホでSNSを弄りつつ作業をすること数十分、「ご飯よー」と母親の声がした。夕飯ができあがったらしい。何もせずとも勝手に三食ご飯が出てくるのが実家に帰ってくるの最大のメリットである。嬉しさから少し高めの声色で「はーい」と言って、波はいそいそとリビングに出て行った。

食卓には母が作ったオムライスとサラダが並び、そして姉の葵がテレビを見ていた。

「えぇ……」と波がため息まじりの声を落とすと、「あぁ波、お帰り~」と白Tにデニムの短パン姿の葵は視線をテレビに据えたまま言った。

まさかいると思っていなかった。というか、実際にさっきまでいなかったはずである。

「お姉ちゃん。なんでいるの?」

 葵は社会人三年目で静岡に転勤になり、今は呉服町という駅の北側にある保健会社に勤務しており、住まいも近くの比較的家賃の高いマンションを借りている。実家から通える距離に会社があるというのにわざわざお金を使って一人暮らしをする意味が波には分からないが、一人暮らしをするにしても高くても会社から近いアパートを借りる辺りに葵の頑強なタイムイズマネーの精神と自分の時間は月8万の家賃を回収できるという過剰な自信が垣間見える。葵はそこで初めてテレビから波の方に顔を向けると、「なんでいるのって、ここは私の実家なんだから、いたっていいでしょ」と答えた。

「でた、お姉ちゃんの正論。いい加減大学の、弁論サークル、だったっけ? そのとりあえず正論で打ち返すクセ直した方が良いよ」

波はリビングに敷かれたカーペットの上の座布団に腰を下ろす。小和瀬家は座卓スタイルである。

「これは正論ではなく、事実っていうの。あと毎回言ってるけど、弁論サークルは関係ない」

 葵が机に置かれた三人分の食器を並べる。波も自分のお皿を受け取る。

「わざわざ今日帰ってくる必要なくない? 家が狭いじゃん……あ、そうか、もしかして私に会いに帰ってきたの? 可愛い妹の帰省にあわせて」

 波が薄ら笑いを浮かべながら葵を見ると、葵は部屋に忍びこんだ蚊を潰した後の死骸を見るような目つきをした。

「可愛い妹? 可哀想な妹の間違いじゃなくて?」

「は?」

 俄に軽い姉妹喧嘩が勃発しかけたタイミングで、それを見計らったかのように、はいはいはいと、母がコップに麦茶をいれてもってくる。「葵は結構帰ってくるのよ」と波の方を見た。

「なに、普段から?」

「そうよ。ねぇお葵」

「うん。こっちの方が、家も広いし、お母さんの美味しいご飯も出てくるし」

 それは自分でわざわざ狭い部屋借りてるからじゃん、そしてお母さんのご飯はどう身びいきしても平均的だろ。小学校の給食でカレーが出た時に今まで食べたカレーで一番美味しくておかわりするくらいには、というツッコミが喉元まででかかったが、すんでの所で耐えた。再三になるが帰省早々母を敵に回すのは分が悪すぎる。

「それはそうね」と母が微笑する。波が同じセリフを言えば「あんたは家事の手伝いくらいしなさいよ」になるが、葵となると好意的な笑みになるから不思議だ。いや、ただの差別か。姉妹間でこんな対応の差があっていいわけないだろうと思いながら、その反問は不毛なので代わりに「いただきます」と言って、オムライスを頬張る。うん、美味い。ふわとろの卵にバターの香りが追いかけてきて、ケチャップライスの酸味とよく合っている。このたまごをふわとろにする技術を母はなぜか得意としており(おそらくユーキャンで取得したのだろう)、幼い頃から葵と波はこのオムライス食べて育ってきた。所謂母親の味であり、姉妹揃っての好物である。そこまで考えて、波は腑に落ちる。そうか、葵が帰ってきた理由は母が波の好物であるオムライスを作ることを予想したからか。葵め、きっとそうだ。

そのオムライスを食べながらの話題は、必然的に頻繁に帰ってくるらしい葵よりも年に二回しか帰ってこない波の話になる。

「どうせバイトばっかりしてテストダメだったんじゃないの?」と葵が学業の話を振る。

「そう思うでしょ、ところが実は、テスト前にバイト先が潰れまして、勉強時間がとれたのでなんとなかなったのです」

「命拾いしたね」

「強運の持ち主と呼んでよ。運も実力のうちということで」

「バイト先ってあの衛生的にアレなカレー屋さん?」

「そう。衛生的にアレなカレー屋さん」

 バイトの話は何度か家族の前でしており、店長が毛むくじゃらであるということで小和瀬家では衛生的にアレなカレー屋で知られていた。やあねぇ、と母が相槌を打つ。

「波の話を聞くとチェーンのカレー屋さんなんていけなくなるわよ」

 飲食店業界は人件費高騰の上に人手不足という二重苦が深刻であり、店長が三ヶ月休みなしで働いていた頃徹夜して店に泊まった際に、10キロの米袋を枕にして寝ていたという話を家族にしてから母は毎回同じ感想を話すようになった。

「いや、全部のカレー屋が衛生的に問題があるわけじゃないって」

「そうそう、単にその店長がクソだっただけでしょう」

 葵がオムライスにスプーンを入れながら口を挟む。

「お姉ちゃん、クソは言い過ぎだよ。あの人だって一生懸命頑張ってたんだからさ」

 別に擁護する必要はないが、なんとなくそんな言葉が口を突いて出た。出勤の度にまかないのカレーを勝手にグレードアップさせ、かつルー大盛りトッピング全部載せで食べていたことによる罪の意識がそうさせたのかもしれない。そう考えたらカレー屋が潰れた原因の一つには波であると言える。ごめんなさい、店長。

「いや、だいたい人の上に立つ奴がダメだとその組織全体がダメになるもんだから」

 葵が何やら実体験に基づく発言らしいな、と波が思っていると、案の定葵は職場の愚痴を語り出した。葵は内弁慶なので、外では言葉少なな態度だが家にいると口数が増え、お酒を飲むとさらに饒舌になる。今飲んでいるのは麦茶だが。

「うちの部長も会社がイケイケだった時代の人だからさ、大して頭使わなくてもやる気と根性で出世してきたわけよ」から始まった。

「やる気と根性、あったほうがいいじゃない」と母が話に付き合うように相槌を打つ。

「そう、ないよりはあったほうがいい。でもそればっかで頭使ってこなかった奴らは上手くいかなくなったときにどうやったら良いか分かんないわけよ。上手くいかなくなりました、じゃあどうするかってなったときに、この状況を打開するための方法が分からない」

いつの間にか葵は持っていたスプーンを置いている。自分ではああいっているが、大学の弁論サークルに入っていた時のクセは確実に存在し、この物申すときの背筋はピンと伸びるという点がそれである。波は姉のそんな奇癖をチャームポイントだと思っているが。

「分からないから打開策を探します、勉強しますとか、詳しい人に聞きますならまだマシ。

謙虚さがあるでしょ」

 今日は相当溜まってんな、と思う。

「大抵は過去の成功体験に引きずられて昔と同じことばっかりしちゃうわけ。そんなんで上手くいくわけないじゃん、絶対に投資対効果悪いじゃん」

 葵はそこまで言ってまた麦茶を干すと、波の顔をじっと見て「なぜか分かる?」と聞いた。

分かるわけない。

 それを見て葵は再び口を開いた。

「まわりを取り巻く環境が変わってるからよ」

 はぁ……。これだから葵がいると面倒なのである。

「お姉ちゃんの言っていることがイマイチよくわかんないんだけど」

 投資対効果、とか言われましても。

「波にも分かるように喩えるとすると、中学生に高校で習う範囲の問題が解けるわけない。なぜなら中学生にとっては未知の領域だから」

「うん」

「じゃあ、あんたが中学生で、高校の範囲の、たとえば数学の宿題をやって、平均点くらいは正解しないとといけないってなったとしたら、どうする?」

「どうするって……、そりゃ私が中学生ならお姉ちゃんが高校生だから、お姉ちゃんに聞く」

「もしくは?」

「もしくは、ネットの力を借りる」

「他には?」

「他には……、面倒だけど、高校の教科書や参考書を図書館で借りてきて自分で勉強する?」

 最後の選択肢は自分では取らないなと思いつつ、波は答える。すると、葵は「そう」と満足げに頷いた。

「大きく分けたら既に勉強している人に聞くか、自分で新たに勉強するかしかない。私が言いたかったのは、世の中のことっていうのは、そういう中学生にとっての高校生の範囲、高校生にとっての大学の範囲、みたいな未知の状況にまあまあ直面するってこと。そうなったときに中学校の知識だけではどうしても解けないことがあるから、人に聞くか、自分で勉強するべき。でもそれができないクソみたいな奴らがいっぱいいるよねっていう話」

なるほど、今の説明である程度理解することができた。さすが元弁論部、その説明力には舌を巻く。

「もっといえばセカンドブレイクできない一発屋のお笑い芸人みたいなもんよ」

「あぁ、それが一番分かりやすいかも」と波は手を叩いた。

 バイト先が潰れたから食費を減らすために帰省するような大学生には投資対効果とか、周りの環境とかはさっぱり分からないが、あのときは受けてたのになぁ……と思いながら同じネタを披露し続けるお笑いピン芸人の姿はイメージできた。

「お笑い芸人だったら受けなくなったら表舞台から消えていくからまだいいんだけど、日本企業の管理職は終身雇用でなかなか消えないから質が悪いわけ。まぁ、要するに上司がポンコツだとキツいって話よ。ねぇ、お父さん」

 振り変えると、父がリビングにはいってこようとしていた。こちらに気づいた父が「おう、二人とも、お帰り」と声を上げる。

「ただいま」と波。

お帰りなさいと母が立ちが言うと、父も「ただいま、夕飯あるか?」と応じる。母が立ち上がって準備に行くと入れ替わるように父がやってきて言った。

「それで、なんだ、みんな揃って父さんの悪口か?」

「まぁそんなところ」と葵が言う。父の悪口ではなく、葵の上司の悪口だが、波の父は地元のとある中小企業で管理職についているので当たらずとも遠からずといったところか。

「臭いは勘弁してくれよ、もう五十すぎだからな。でもこれでも母さんが買ってきた柔軟剤のおかげで、新入社員に『部長良い匂いしますね』って好評だったんだぞ」

 夜まで匂いすっきりしてるだろ、とシャツの匂いをかがせに近付いてくる父親を手で制止しながら、葵は「こういうコミュ力だけで生き残った奴が上にいっぱいいて詰まってるから若手が昇進できずに新陳代謝が図られないんだよね。あと、それお世辞だから。普通に臭いから」と言い放った。すると、父は色々と図星をつかれたのか「ははは」と乾いた笑いを僅かに残して、そそくさと着替えに去って行った。その後ろ姿をあまりにも不憫に感じた波は「でも、そういうお父さんのお給料で私たち大学まで通えたわけだしさ」とオムライスを口にしながら葵にたしなめたのだが「それとこれとは別でしょ」とあっけなく返された。さすが正論製造マシン小和瀬葵である。

「じゃあさ、お姉ちゃんにとって理想の上司ってどんな人なのよ?」

 人生のモラトリアム期と呼ばれる大学生たる波に社会への関心など露ほどもないのだが(それはそれでまずいが)、先ほどから上司批判を繰り返す葵をみていると、理想の上司についてどう考えているのか少しだけ興味がでてきた。葵はその手の質問に予め答えを用意していたらしい。間を置かずに「トトロかな」と答えた。

「は?」

 しばらくの沈黙。次の瞬間、なるほどこれは姉の冗談、つまり小和製英語的にはシスタージョークかと思い、「トトロって名前の偉人なんていたかな?」と聞いてみた。しかし葵は平然とオムライスを食べ続けているのでこれは真面目な回答らしい。恐る恐る尋ねる。

「トトロってあのジブリのトトロ?」

「そう」

「あれが理想の上司?」

 葵はオムライスを綺麗に食べきると、「トトロ最近見返したの」という。

 葵は趣味が映画鑑賞であり、古今東西幅広く鑑賞している。

「あ、偶然だけど、私も昨日見た」

 テスト終わりの開放感から小和瀬波的洋画ベスト3(葵に言わせればB級洋画以外の何者でもないという峻烈な言葉が帰ってくるだろうそれら)をゲオに借りに行って、ついでに『となりのトトロ』も借りたのだった。相変わらずさつきとメイのお母さんに対する愛情には胸打たれるものがあり、子どもにしか見えないトトロに神秘性はあったが、森の主たる登呂に社会人としての素養は皆無に見えた。

「トトロってさ、基本手下に仕事やらせてるのよ」

手下? そんな奴でてきただろうかと記憶を探っていると、葵が「ほら、あの小さい奴ら」と答えた。どうやら青と白の中トトロ、小トトロのことを言っているらしい。あれを手下と思ってるのかこの人は。

「最初にさ、さつき一家が引っ越して来た時に天井からどんぐり落ちてくるでしょ」

 見たばかりなので内容は記憶に新しい。

「あったね。この家不思議ー、みたいな最初のシーン」

「なんでどんぐりが天井から落ちてきたか覚えてる?」

 そう言われると、分からない。

記憶にあるのは台所に「まっくろくろすけ」が大量発生するシーンで、幼い頃に初めて見たときはトラウマになりかけたことくらいである。そこから田舎なまりと個性の強いおばあちゃんが出てきて、子どもの頃にだけ見えるものだよ、みたいなちょっとロマンのある話になった気がするが、どんぐりがなぜ天井から落ちてきたかは触れてなかったような気がする。波がそう答えると、

「そう。でも後のシーンで分かるんだけど、トトロの手下が運んでたわけよ。手下が運部のに使った袋に穴が空いてたからどんぐりが落ちたわけ」

「そうだっけ?」

「メイが一人で遊んでいるときにどんぐりを見つけて、それを追っていくと手下を発見、逃げる手下を追いかけた先にトトロのアジトにたどり着く」

「あー」

 まるで盗賊団のような表現はともかく、そのシーンは思い出せた。

トトロとの邂逅という物語が動き出すシーンなので覚えている。ミニトトロを追いかけていった先に大きなクスノキがそびえ立っており、その根元にトトロの居場所に通じる穴がある。なるほど、そう言われてみれば最初の段階でミニトトロが既に家にいて、どんぐりを運んでいたから天井からどんぐりが落ちてきたのは頷けた。細かいところまでよく見ているなと波は妙に感心する。なんだかそれだけでまめ知識を一つ得たような気持ちでいた波に、葵は言葉を繋ぐ。

「じゃあなんで手下は草壁家の家からどんぐりを運んでいたのか? しかも春に」

 またもやクエスチョン。「しかも春に」という言葉がよく分からないのでそこを尋ねると、

「だって草壁家が引っ越してきたのは春でしょ。おばあちゃん田植えしてるし、さつきとメイは半袖だし。でも、どんぐりが取れるのって秋じゃない」と葵は答えた。

 ああ、と波は間抜けな声を上げた。

「たしかに」

無意識に山深い自然の中にならどんぐりくらい落ちているだろうと思っていたが、言われてみれば春にどんぐりは変だ。

「なんであの手下達が春に大量のどんぐりを持っていたのかというと、答えは一つしかなくて、草壁を貯蔵庫として使っていたから。それまで誰も使っていなかった家に秋に取れたどんぐりを貯蔵してて、それを取りに行ったのよ」

「なんのために」

「トトロが食べるために」

「え、まじで?」

 葵は大仰に首を縦に振った。

「ネットで調べたところ、トトロはどんぐりが好物らしい」

「へぇー」

 ネットで調べることかよ、と思ったが話に水を差すのは控える。

「それまで空き家だったから貯蔵庫として使っていたけど、人間がやって来たからどんぐりを回収しに行ったのね。あんな愛らしさ極まりない顔して、手下に貯蔵庫からどんぐりを取ってこさせつつ、自分は夜になったら森の命を生み出すために仕事をする。メイちゃんにあげた木の実の芽も生やしたでしょ。そういうちゃんと部下を使えて、仕事をこなしつつ、周りから一ミリも嫌われないような存在が私の理想の上司なわけ」

「はぁ……」

 まさか『となりのトトロ』ににそんな社会性を見いだしている人間がいるとは思わなかったが、姉の言いたいことにも一理、いや0・5里くらいはあるような気がした。ただ断固として言っておきたいのはミニトトロは手下ではないということだろう。

「それにさ、」

「まだあるの?」

「メイちゃんが最後迷子になるとき、さつきはトトロに助けを求めに行くでしょ」

「ああ、クライマックスのところね」

 入院しているお母さんの病院まで一人で向かったメイちゃんが道中迷子になってしまうところだ。

「さつきは必死に捜すけど見つからない。頼みの綱であるトトロのもとに繋がる道に祈ると、トトロはそこにいた。そして『メイを助けて』的なことを言うと、トトロはまんざらじゃないような顔して、じゃあ俺に任せろみたいにさつきを抱え込んで大きな木の上まで駆け上がるのよ」

「うんうん」

「それから何したと思う?」

「さつきのためにめいちゃんを捜してあげたんでしょ?」

 たしかそんな流れだったはずだと波は思った。

 葵はその答えを期待していたかのように僅かに口角をあげて首を横に振った。

「トトロがやったのは大声で叫んで猫バスを呼んだだけ。メイちゃんを見つけたのも、その後さつきとメイをお母さんのもとに届けたのも猫バス。つまり二人を実際に助けたのは猫バスなのよ」

「……なるほど」

 厳密にはそうだった。確かに最後に猫バスが大活躍してさつきはメイを探し出し、お母さんにトウモロコシを届けることが出来る。猫バスはもはや主役級の活躍と言える。

「突発的に振ってきたメイ捜索というタスクをさらっと同僚に振りつつ、まるで自分の手柄のように振る舞う。そしてそれを全く悪意なくやっているあたりトトロは相当やり手のビジネスマンなのよ」

森の主からビジネスマンになってしまったトトロ。

波の頭に俄に通勤カバンを持って、帽子をかぶるトトロの姿が頭に浮かんだ。

確かにあんな可愛い上司がいたら周りから愛されることは間違いないし、営業の外回りも空を飛べるので楽だろうとは思うけど……いやいや、だめだ、これ以上となりのトトロのの世界観を壊したくない。

頭を抱える波を尻目に葵は「ごちそうさまでした」と手を合わせて立ち上がり、「トットロ、トットロ~」とトトロのエンディングを鼻歌で歌いながら食器をキッチンまで持って行く。その後ろ姿は早朝、レンタルビデオ店まで自転車で向かいながら同じ曲を歌ってた波と重なる。性格や思考は全く違うのに、こういう変なところには姉妹の血のつながりを感じる。血は争えないなと思っていると葵と入れ替わるようにして、母が父の分の夕食をお盆にのせてもってくる。父も着替えてリビングにやってきたので、波は残りのオムライスを食べ終えて自室に退散することにした。父親は昔からよく酒を飲んで帰ってきたので食卓を供にすると面倒くさいという思考が波に働いた。ただ、部屋に戻ったはいいものの、特段やることがなかった。お母さんの匂いが僅かについたベッドで(波が実家にいない間、この部屋は母が使用している)ゴロゴロしながらスマホでネットニュースを見ること数十分。

「暇だな」

そう思っていると、ふと夕方見た不審者のことを思い出した。静岡駅北口にある全長5メートルほどの徳川家康像によじ登り、駅を見物していた自分と同じTシャツを着ていた男。東京でも先ず見たことがないブームTシャツを着る心の同志だと思えたのは数十秒。すぐに色違いのTシャツを着ていることを恥じることになった。

徐にヤフーで「静岡市 家康像 不審者」というワードを検索してみる。残念ながらヒットしない。どうやらあの男は幸運にも静岡駅の鉄道警察から逃げおおせたらしい。いや、仮に捕まっていたとしてもニュースにする価値もない話かと思いながら枕につっぷしていると部屋の扉をノックして母が入ってきた。

「波、悪いんだけどさ、」という前置きの後に続く話に良いことはない。

「ちょっとこれ葵に渡してきてくれない? 今出たところだから捕まえて」

「今出たって、お姉ちゃん帰ったの?」

「そう、今さっきね」

玄関の隣の部屋にいた波に、家を出る音が聞こえなかった。

 忍者か、あいつは。そういえば来た時も気づかなかったな。

波が気だるげにベッドから起上がると、母は葵の運転免許更新ハガキを手渡した。これが無いと免許の更新が受けられないらしく、更新の期限が来週に迫っているらしい。

「そもそもお姉ちゃんが運転してるとこみたこと無いんだけど」と聞くと、

「たまにレンタカーで友達と旅行行ったり、お父さんの車借りてでかけたりしてるわよ」と母は言う。後日、本人にハガキを取りに来させればいいのではと最後の抵抗を試みたが、母の「ほんと今出たところだから、今日歩きだから、走ればすぐ追いつくから」という言葉に逆らうことは出来ず、波は部屋着からTシャツとデニムのハーフパンツに着替え、スマホと葵のハガキを持って家を出た。母の言外にあんたどうせ暇でしょというニュアンスが含まれておりイラッとする。実際に暇だから言い返せないことにも。エレベーターの中でLINEのメッセージを送ってみたが既読にはならない。

「あー面倒くさ」

エレベーターを降りるまで葵の悪口を呟きながら、夜の帷が降りた街に出る。

むわっとした風が波の頬を撫でた。今出たところと言う割に葵の家の方角にそれらしき後ろ姿は見えない。話が違うじゃんかよ、と思いながら駆け足で姉の家の方向へ走る。姉の家には何度か行ったことがあるため場所は分かるのだが、歩いて三十分くらいなので家より手前では捕まえたい。そう思って駆け出したところ、マンションの近くの少し奥まった位置にある自動販売機の前に葵は立っていた。

「あ、いた」と波が声を上げると、葵が「どうした?」と顔を波に向ける。

近寄って行って「お母さんが」と、免許の更新ハガキを差し出した。

「ああ、ごめんごめん助かったわ。何か忘れてると思ったんだよね」

「はいはい」

「ありがと」

「どういたしまして」

 葵はハガキを肩に提げたバッグにしまう。じゃあ、私はこれでと言って帰りかけた波だったが、葵が自販機にまた視線を戻したのでとっさに聞いていた。

「何か買うの?」

葵は「ああ、いやこれがさ」と、ゼリーの缶飲料を指差す。

それは手で振ってゼリーと炭酸飲料を同時に楽しめるタイプの缶ジュースである。

「酔い冷まし?」

「いや、飲んでないって。いやさ、これ自販機でしか売ってない奴で、昔好きだったからたまに飲むんだよね。でも冷静に考えたらこんな小学生が飲むような飲み物に百二十円払うのってどうなの? ていう自分がいて、それと戦ってた」

「はぁ……」

 葵は賢くて見識も広いが、こういう妙に幼い面を持っていたりする。葵のような合理的思考の原理主義者は、友人知人との会話ですら何の気ない発言や考えに滲む不合理を指摘して場の空気を凍りつかせることがあるが、葵はこのたまに見せる無邪気さのおかげで狷介孤独となることなくやって来れていた。波はこういう二面性を持っている姉を羨ましいと思っている。先程理想の上司はトトロだと言っていたが、図らずも小和瀬葵はトトロが持つ屈託ない一面をもっているのだ。

「じゃあ、割り勘して二人で飲む?」と波が提案した。熱帯夜には冷たい飲み物は喩えそれがゼリー飲料でも有り難いものである。葵は「お、いいね。それなら罪悪感が減る」とさっそく財布から取り出した硬貨を入れる。波は持ってきたスマホの決済アプリで姉に半額を送金する。ガチャゴンと鈍い音がしてジュースが落ちてきた。取り出し口から取り出して、缶を何度か振ってからプルトップを開けて一口飲む。

「ああ、懐かしい味だ」

 ん、と手渡された缶に波も口をつける。

 味は普通のブドウソーダなのに、口の中にゼリーとが入ってきて新鮮な食感が楽しめる。

「あ、これなんだっけゼリーと一緒に入ってるぐにゅっとした奴。アロエ?」

「ナタデココでしょ」

「ああ、そうだそうだ」

波は久しぶりに飲んだその食感と味を楽しんでから、姉にパスして横に並ぶ。

「小学校の時私も飲んだかも。お姉ちゃんが飲んでたからかな」

「そうかもね。私は高校でもたまに飲んでたよ」

「まじか。コレ飲んでる女子高生みたことない」

「いや、いるでしょ絶対」

「えー」

「青春の一ページなんてそんなもんよ」

「まぁ、私も高校の時コンビニのチロルチョコにハマってたときあったけど」

「ほら」

 傍から見ると、仲の良い姉妹に見えるだろう。ところがどっこい実際はそこまでの関係である。往々にして姉妹の絆なんてものは新幹線のフリーWi-Fiのように弱い。必要な時にいなくて必要じゃない時にいるものなーんだ、答えはお風呂の蓋と小和瀬葵である。

 会話が途切れたので波はさっさと帰ろうかと思ったが、半額出資したジュースをもう一口飲みたい。無言でいるのも変なので、なんとなくぱっと思いついた言葉を口にしていた。

「お姉ちゃんはさ、地元好き?」

 葵は缶から口を離すと、「何急に」と言う。特に理由があったわけではないので「いや、なんとなく」と返した波を、葵は少しだけじっと見てから言った。

「好きだよ」

葵は「まあまあ」とか「どちらかといえば」といった修飾語をつけることなくそう答える。白黒はっきりつけようぜというストロングスタイルである。

「でも静岡に戻ってきたとき嫌そうだったじゃん」

生暖かい風が再び波の頬を撫でる。

 葵は東京の大学を出て、希望した企業に就職したが、現在は静岡の支店に配属されている。帰ってきたときは「なにが置かれたところで咲きなさいだよ、あのクソ企業、絶対に本社燃やしてやる」と悪態をついていたことを波は覚えていた。

「まぁ、それはキャリア的には本社でバリバリやりたいからさ。帰らされるのは不本意だったけど、でもまぁ静岡は好きだよ。気候は温暖で住みやすいし、ご飯は美味しいし、自然も豊かだし。まぁ強いて言えば町中に活気がないのが玉に瑕だけど」

「わかる。セノバ見てきけど、あんまり人いなかった」

 波はセノバのフードコートがかつてより寥々としていたことを話した。

「それは夏休みだからでしょ?」と葵はすげなく答える。

「え、ああ、そういうことか。てっきりいつかお姉ちゃんが言ってた、若者の人口流出が原因かと思ってた」

「バカねぇ。あんたの言う若者って高校生のことでしょ? 人口流出は大学生から社会人の二十代の話のわけだから関係ないじゃない。あるとすれば少子化」

「なるほど……」

「ただ、町に活気がないのは事実だね。東京の友達が遊びに来ても『さわやか』行ったら後行くところ思い浮かばないもん。あとセノバはユニクロと無印がテナントに入ってない時点で終わってる」

 前半は同意できるが、後半は葵の主観的意見である。


「そう考えてみると、若者には魅力がないけど、中高年には住みやすいところなのかもしれないね、ここって」

「あぁ、なるほど」

「そろそろ行くわ。残りあげる」

そう言って葵は三分の一ほどのこった缶を波に手渡す。

このゼリージュース、やっぱ最後の方飽きるのよね、だから二人でちょうど良かったと葵が言い、波も「じゃあ、また」と手を振る。去り際に葵が言った。

「あ、そうだ、あんたはどうなの?」

「なにが?」

「好きなの? 地元」

「私?」

「他にいないだろ」

波はその質問に少しだけ考える。

「私は、」

葵に質問しておいて、波は自分は全く答えを用意していなかったことに気づいた。

「どちらかと言えば好きじゃない、かな」

「なに、嫌な思い出でもあるわけ?」

「それは、ないけどさ」

「じゃあ町になんもないから?」

「それは……そうかも」

「じゃあ東京が好きなの?」

「え?」

波の驚いた表情に、葵は微笑む。

「だって、東京なら何でもあるでしょ? 何もない静岡が嫌いなら、何でもある東京は好きにならない?」

「うん……まぁ、そうだね」

 静岡は好きじゃないのなら、東京は好きになるのだろうか。今まであまり考えたことがなくて、自分の心の中に問いかけてみても、答えはすぐ返ってきそうにない。そんな波の様子に「まぁ、頑張りな」と、小さく手を振って、歩いて行った。葵にはあまり興味の無い話題だったのかもしれない。

波はジュースを飲み干し、自販機の隣に設置されていたリサイクルボックスに入れると、マンションへ戻る。その動作の中で、波はふと、もしかしたら、葵に地元が好きかどうかを聞いたのは、自分が好きじゃないということを確かめたかったからなのかもしれないと思い始めていた。なんとなく好きじゃない気持ちに気づいていたから、葵がどう思っているっか聞いてみたくなったんじゃないか。そんなことが波の脳内でぐるぐる回りはじめたのだが、案外その時間は長く続かなかった。「あーーー」という巨大なボリュームの声に思考が停止したからである。

 数メートル先で大きな声がしたため、波はびくりと体を震わせる。恐怖心を抱きつつゆっくりと視線を上げると、前方に女性が立っていることが分かる。夜の闇に外灯に照らされた女性は波より僅かに低い身長で、上下ジャージ姿に見える。夕方の徳川家康像にのぼる男に続き、今度は夜道で発狂する女とは。サイレントヒルと呼ばれたこの地はいつからこんなカオスでノットサイレントな場所になってしまったのかと思った時だった。

「波ちゃんじゃん!」と名前を呼ばれた。

「え、」と戸惑いながら、女の顔をまじまじと見つめる。どこかで見たことがあるようなないような気がすると思っていると、「私だよ、棚部梨香」と女が言う。波は瞬時に自分の頭の中の友達・知り合いリストを検索する。割とすぐにヒットした。

「ああ、りーちゃんか」

 棚部梨香は、波と同じマンションに住んでいる友達であり、波が小学生低学年の頃は同じく小学校の高学年であった葵と三人で遊んでいた。女子の割には体を動かすことが好きで、よく十一階建てのマンションの中で鬼ごっこをしては管理人の制止を振り切り住民にタックルを食らわせたり、廊下に飾られた置物を壊す、プランターを蹴飛ばしてチューリップを根こそぎ吹っ飛ばすなど子どもの無邪気さが結実した戯れを繰り返し、各階の住民から等しくクレームを受け、危うく三十五年ローン組み立てほやほやの小和瀬家がマンションから追放されかけた元凶となった幼馴染みである。中学まで同じ市立の学校に通っていたが、梨香の方が波よりも偏差値の高い高校に進学したため、会う機会は徐々に減り、同じマンションに住んでいるにもかかわらず月に一、二回エントランスや駐輪場で会話をするくらいの関係になっていた。大学に進学して波が帰省した際に会うことはなかったので、そう考えると大学二年になった二人は約二年ぶりの再会になる。

 めっちゃ、久しぶりだね、とりーちゃんがにっこりと笑う。その笑顔は波にとって昔よく見ていたアニメ(それこそとなりのトトロのような)を見た時のような懐かしい気持ちに名なった。波は母から梨香が静岡大学(県で唯一の国立大学)に進学したと聞いていた気がする。それはお互い様だったらしく、「波ちゃんは東京の大学行ったんだよね? 夏休みで帰ってきたの?」と梨香が尋ねた。

「そうそう、今日帰ってきた」と答えながら、懐かしさとともに、そういえば梨香は表情の多い子だったなと思い出した。波も他人から暗いと言われたことはないが、梨香は明確に明るいと言われるタイプである。「りーちゃんは?」と言って更に梨香の格好を含めて目で問う。上下ジャージ姿に視線を更に落とすと運動シューズまで履いている。まるで体育祭帰りの高校生のような出で立ちであった。体育会系の部活にでも入っているのだろうか。すると梨香は今まで自分の格好を忘れていたかのように急に驚いて、急に恥ずかしそうな顔をして答えた。

「ちょびっと用があって、登呂遺跡に行ってきた帰りなんだよね」

「ちょびっと、登呂遺跡に用事?」

 梨香が登呂遺跡に言っていたと言うことに、波は驚いていた。

 登呂遺跡というのは静岡市の中部にある弥生時代の遺跡である。一帯が公園になっており、竪穴式住居や高倉倉庫の当時の姿を再現している。近くには登呂遺跡の出土品を展示した登呂博物館と、なぜか縁とゆかりがあるのかがよく分からない人間国宝の芹沢圭介博物館が併設されている。静岡市の中部の割とアクセスしやすい位置にあるため市内の小学生はだいたい一回は我が町の歴史的文化遺産に触れよう的な活動の一環で遠足や見学といった名目の元に訪れる場所ではあるが、当然、中学、高校生と長じるにつれて立ち寄ることはなくなり、家でゴロゴロしすぎて腰と背中を痛めるような大学生が訪れることはない。そんな場所に一体なせ。問うより先に梨香が言った。

「いやぁ、今を生きる学生が、どうして過去の、しかも古代の遺跡なんぞにって感じだよね」

「うん、そうそう」と波は素直に頷く。

「実は私、コウコガクのサークルに入っててね、その活動の一環で遺構を掘ってたんだよね」

「コウコガク?」と聞き返す。

 波は昔やった人生ゲームのトレジャーハンターモードの職業にそんな奴がいたような気がした。

「うん、遺跡とか化石とかを勉強して昔の文化について考察する、みたいな。古いものについて考えると書いて考古学」

「あぁ、遺跡や化石かぁ」

 化石と聞いて真っ先に思い出すのは、高校の担任教師が七年という公立高校の教師にしては比較的長く同じ学校に在籍していた自分のことを「西校のシーラカンス」と呼んでいた記憶だけであるが、そんな話は全く以てどうでも良いので置いておいて、とにかくそれなら発掘のために登呂遺跡に訪れることも、梨香が動きやすい服装ということでジャージ姿であることにも納得した。

「あ、じゃあさ、りーちゃんって大学で考古学が専攻なの?」

「いや、学部は教育学部の英語専攻」

「そうなんだ」

 まさかの英語専攻。大きくくくれば自分と同じ領域を学んでいたことに、波は内心動揺していた。自身も文学部の英米文学科に所属している割に英語はまるで実になっておらず、また今のところ実になる予定もないという状況である。苦し紛れに和製英語を習得しようとはしているものの、そんなものは授業宙にノートの隅に書く落書きのようなもので、何の役にも立たないことは波自身一番に分かっていた。

「高校でブルーノマーズにはまっちゃって。割とミーハーなの私。それで英語の歌詞が理解できるようになりたい、しかも英語の先生になれたらそのスキルを活かした就職もできて一石二鳥だなって考えて入ったんだけど、マジ地獄。教職って履修単位多いじゃん?」

 梨香はがっくりと肩を落とす仕草をする。

波は「へぇ……そうなんだぁ」と答えつつも、梨香が就職を見越しつつ大学生活を送っていることに人生設計における計画性の差を感じる。学部を決める動機は波と差して変わらないが、その後の行動が違う。方や教員免許取得のために講義の受講、方や英語がちんぷんかんぷんで和製英語の暗記に逃亡。

「そういえば、波ちゃんも英米文学勉強しているんでしょ?」

「え、あ、うん」

 情報源は当然母だろう。学部の情報まで漏らすとは。口の軽い母親め。

 脳内で「口の軽い母親」をライトマウスマザーと和製英語化し(和製英語は覚えてくるとつくれるようになってくる)、マザーファッカーの要領で罵りながら、「でも、英語全然できなんだけどね」と返事をする。

「わかる。私も英検2級だよ」

 ははは、と応じながら波は自分が試験すら受けていないことをひた隠した。先ほど図星を突かれた父と同じ反応をしたことに、血は争えない確かな遺伝を感じる。

気まずい笑いを続けていると、「中学の友達とはあうの?」と梨香が話題を変えてくれたので助かった。波は少し大げさに首を縦に振る。

「週末の金曜日。あやと麻里。よかったらりーちゃんも来る? たしか麻里とは同じクラスだったよね」

 梨香はうーん、と少し悩んでから「金曜日か。サークル次第だな」と独り言のように呟いた。「発掘が順調にいけば……」

「考古学、大変そうだね。そしたらまたの機会にでも」

そう言ってそろそろ立ち去ろうという素振りを見せた時、

「あ!」と梨香はまた先ほどと同じボリュームの声で叫んだ。恥ずかしいので声は抑えて欲しいが。

「名案思いついた。波ちゃんさ、明日暇?」

「明日?」

 明日は暇である。というか、バイトがない今、金曜日の友達との約束以外地元で予定はなかった。「特別何もないけど……」と答えると梨香は嬉々とした表情を浮かべ、「本当?!」と再び歓声を上げた。

 嫌な予感がした。とても。

「じゃあさ、私と一緒に遺構の発掘活動手伝ってくれないかな?」

「あぁ……なるほど」

「半日だけでいい。とにかく人手が足りなくて」

 波よりも背の低い梨香が下から窺うように言う。

「でも、私全然素人だし……」

「それなら大丈夫、私も実は昨日と今日で初めてやったから。難しいこと全然無いよ。先輩達が一から教えてくれるし」

波の脳裏に、真夏の炎暑の下、汗だくになりながらスコップ片手に土をかき、一心不乱に化石を掘る姿が浮かんだ。言うまでも無く、行きたくない。できることなら家でクーラーの下でゴロゴロしながらスマホを弄ってユーチューブを見ていたい。ということで波は抵抗を試みた。

「でも、私りーちゃんの大学の学生じゃないじゃん?」

「ううん、全く問題ない。猫の手も借りたいくらいだからさ、うちの大学じゃなくてもOKい、いやむしろ学生じゃなくてもいいってサークルの部長も言ってるから」

「あ、そうなんだ……でも重労働だよね」

「全然。波ちゃんより小さい私でもできるくらいだよ。体力はちょっと必要だけど、力は全然使わない」

なるほど、なかなか手強い。

何か決定的な理由はないだろうか。土に触れるとアレルギー反応が出てしまうとか、家訓で遺跡的なものを掘り起こす事が禁じられているとか。波が何か適当なことをでっち上げようとしたとき、

「お願い波ちゃん。三時間、いや、二時間でいい。疲れたら木陰で休憩してもいいから」

 梨香に機先を制されてしまった。

「あ、うん、でも、」

「終わったらスタバの新作フラペチーノ奢るし。ダメかな?」

 そこまで言われ、久々に会った級友に両手を顔の前で合わせてお願いされた波は結局のところ断ることが出来なかった。一度ため息のような深呼吸を吐き出してから、「分かった。1日だけなら」と応じると、梨香は波の両手を自分の両手で握った。

「マジありがとう」

「全然、いいよ」

 全然よくはない。

 波は梨香の押しの強さに辟易を通り越して感心しつつ、自分の押され弱さには失望の念を抱く。波は過去にも同様の経験をしたことを思い出した。小学校中学年の頃、富士山少年自然の家で市が主催する子供たちの自然学習体験が三泊四日で行われた。一昔前にはどこに町でもよくあった子供向けイベントの一種である。その案内がマンションの回覧板で回ってくるや、梨香が波を誘い、「波ちゃんこれ行こうよ、お泊まり会だって!」と騒ぎ立てた。波は「別にいきたくないけど」と拒否しつつも結局断り切れずに参加を決め、回覧板に保護者と自分の氏名などを書いて申し込んだところ、なんと後日回覧板を回収し終えてから梨香が参加しなかったことが判明した。それがかなり直前で発覚したため(波は当然二人でいくものだと思い込んでいた)キャンセルすることができず結局なぜか波は一人寂しく行きたくもない富士の麓でやりたくもない自然体験をしたという記憶がある。この女には前科か一般の罪がある。そう身構えたとき、

「それじゃあ、明日の九時に駐輪場集合、汚れてもいい服で来てね。ってあれ、どうかした?」

 波が心理的に一歩引いたことを察したのか、梨香が尋ねる。

「いや、なんでもない。了解、了解」

 三つ子の魂百まで。やはり押しに弱いところは今も昔も変わらないのである。

 梨香は再び、ありがとうと言ってから「ここだけの話、上手くいけば波ちゃんにも良いことあるからさ、楽しみにしててよ」という台詞を笑顔とともに残してマンションの駐輪場の方へと立ち去っていった。梨香の家は十階建てマンションの二階なのでエントランスではなく駐輪場にある住民用の階段から上がった方が近い。梨香はその階段の前で再びこちらに手を振ると、階段に続く扉を鍵を使って開け、その向こうに消えていった。

「上手くいったら、良いこと?……なんだそれ」

化石の発掘に成功したらそれを売って換金でもするのだろうか。いや、リアルなトレジャーハンターでもあるまい。既に公園になっている遺跡からそんな大したものは出てこないだろうし、縄文時代の化石なんて換金してもたかが知れているだろう。そんなことより集合時間の方が波には気になった。気軽に了承してしまったが、朝九時は早い。大学生にとっての朝九時は一般人にとっては朝四時と同等であるため、クレイジータイムガール小和瀬波としてはそんなに早く起きられるのか非常に不安である。久しぶりに目覚ましのアラームをかけるしかないだろうか。そんなことをつらつら考えながらマンションのエントランスまで歩き、オートロックの暗証番号を入力すると、扉が開かなかった。

「あれ」

番号が間違っているらしい。たしか「4862+解錠ボタン」のはず。もう一度慎重に番号を確かめながら押す。やはり開かない。

アリババのように「ひらけごま」と言ってみても開かないし、オートロックの正式な英語、「automatic security lock system」と呟いてみても開かない。

「あれれ」

夕方帰ってきたときどうしたかと思い出すと、その時はちょうどエントランスで管理人が掃除していて扉が開いていたのである。ということは、残る可能性は、

「暗証番号が変わったな」

 このマンションは五年おきくらいに暗証番号が変わり、波の記憶では少なくとも二回は変更があった。無論防犯上の理由だが、こうして長期間家を空けると更新のタイミングに乗り遅れるので不便ではある。仕方が無いので家の部屋番号を入れてコールする。

「はい、小和瀬です」と母が外行きの声を出しながら出た。その声に一秒だけいらっとしながらも「あ、お母さんごめんオートロックの番号かわった? 開かなくて」というと「ああ、あんたか」と途端に通常の母の声に変わり、三秒後に宅急便に対応する要領で母が上から自動ドアを開けた。エレベーターに乗り、自宅に戻ると、リビングでテレビを見ていた母が「先月から変わったのよ」と案の定定期的な暗証番号の変更を説明する。

「新しい番号は?」

「7453よ、どっかにメモっときなさい」

すると奥の和室でLINEツムツムをプレイしていた父が「ナシゴミだな」と言い放った。

「……ナシゴミ? なにそれ」

「7453、だからナシゴミ(7453)だろ」

「ああ、語呂ね」 

父親が急に波の知らない悪辣な暴言を吐いたのかと思ったので安心した。アメリカ人のDahm!や、イギリス人のBloody Hell!みたいな。前者はユーチューブでアメリカ人がブチ切れた動画を見て学んだのと、後者はハリーポッターの映画でロンが「くそくらえだ」と発言したときに「くそくらえ」に興味が出て英語字幕にして調べたものである。

地方のマンションでもしっかり防犯意識があるのは素晴らしいことだが、五年に一回の変更で大丈夫なのだろうかという気もする。管理人の老人はこの十階建てのマンションを永遠と掃除しているためエントランスに張り付いていることはない。

「なんか、オートロックのテンキーが押されすぎて数字のところが薄くなってたから、暗証番号がバレるって声を上げた人がいたみたいよ」

「ああ……でも、番号が分かったところで、組み合わせが分からないから無理じゃない?」

「それも何度かトライすれば開くかも知れないからって」

「トライって……」

 奥から聞こえた父の「家庭教師じゃあるまいしな」という寒すぎる親父ギャグをスルーしつつ、「そんな変態さすがにいないでしょ」と母の横顔に返しかけたときに夕べの駅での出来事を思い出したので閉口した。残念ながら変な人間はどこにでもいる。

「お母さん、明日9時に家出るから8時にまだ寝てたら起こして」

 母は驚いた顔をして

「あら、珍しい。どこいくの?」と尋ねた。

「登呂遺跡」

「登呂遺跡?」と母が更に驚きを深くして尋ねた。それはそうだろう。波も梨香が登呂遺跡に行くと言ったら同じリアクションを取った。それくらい登呂遺跡というのはなんというか、通常の生活を送っている人が目的を持って訪れることがない場所なのである。

 事情を簡単に説明すると、「へぇ、りーちゃんも大変ね」と言って、納得した。大変なのは部外者にも拘わらず休日にかり出された波自身であると波は心の中で叫んだが、声にはならなかった。

 そのあと、波は簡単にシャワーを浴びて、すぐにベッドに入った。バスの中で長時間の仮眠をとったため、もしかしたら寝られないかもしれないと心配したが杞憂であった。半年ぶりの帰省は意外と頭と体を疲労させていたようである。

 眠りにつく間際、波は梨香が言い残した言葉を思い出していた。

「ここだけの話、上手くいったら、波ちゃんにも良いことあるからさ」

 それはやはり成功報酬のようなものだろうか。

 謝礼程度のバイト代が出ると言うことなんだろうと思う反面、それならそうと直裁に言えば良く、「良いこと」という含みのある表現もなんだか気になる。怪しいバイトにでも引き入れようとしているのではなかろうか。それは流石に考えすぎだろうか。

しばらく考えていたが全く見当がつかず、気づけばいつの間にか、深い眠りに落ちていた。

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トレジャー @kouki112725

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