第2話
静岡駅の十七番降車口が、高速バスの降り口である。駅のバスロータリーから国道一号線を挟んで反対側、松坂屋のビルの前にぽつんと佇んでいる高速バス専用のバス停に、波を乗せたバスはゆっくりと停車した。見慣れたJR静岡駅の姿が窓に流れてくると、ようやく着いた、という気持ちになる。初めて帰省した昨年は人生初の一人暮らしにホームシックぎみだったということもあり、この景色をみて随分安心した覚えがあるが、次に帰ってきた去年の年末には安堵の念もかなり薄れ、三回目の帰省になる今回はその感情も無に近い、なんなら帰ってきてしまったというような気持ちが強いくらいだった。それならどうして帰ってきたのかといえば、「お彼岸のお墓参りくらい帰ってきなさい」という母親からの数回にわたる直電と波が最近まで働いていたバイト先のカレー屋が赤字を垂れ流して潰れたという事実に依るところが大きい。ご多分に漏れず、夏休みはバイトのシフトに入って稼ぎまくっては、遊びまくってやると意気込んでいた波だったが、テスト期間に入ろうかという頃にバイト先のカレー屋がなくなり、そのタイミングで新たにバイトを始めるわけにもいかず、かといって期末テストが終わってから新しい職場を探すほど労働意欲もなく、それならばいっそのこと帰省して食費や水道光熱費などの支出をゼロにすればいいのでは? という考えを膨らませて帰省を決めた波である。収入が乏しいのなら出費を減らすことで生活を楽にするという、庶民の鏡ともいえる発想である。
バスの乗客が続々と降りていくのを目で追いながら、座席机に置かれたスマホをリュックにしまい、空になったアイスコーヒーの容器をビニール袋に入れて立ちがあると、バスを出る。外に出た瞬間、忘れていた暑さがやってきて一気にげんなりするも、東京よりもいくらか乾いた暑さに救われた。静岡は冬東京よりも一二度温かく、夏は同じ気温でもからっとした空気をしている。
運転手がバスのトランクから波のスーツケースを取り出してくれた。さっきは仕事を放棄したとか言ってごめんなさい、と心の中で謝罪しつつ、番号の書かれた札と引き換えに差し出されたスーツケースを受け取る。受け取った瞬間に、顔をしかめた。トランク重っ。
東京にようがないのでどれくらい帰省するかを決めていない今回、荷物は多めに持ってきたのが仇となった形である。ただでさえでかけるとなると荷物が多くなるのが女の性であるが、今回更に女子会や合コンに絶えうる勝負服の類いを持ってきたので重さは二割増しになっている。そういえば、ここから近くの道を通って通学していた高校二年の時、片思いしていた同じクラスの男子が「女子ってさ、よく小さいバッグ持ってんじゃん? なんであんなに荷物少なくてすむの」と隣の席になった時に聞かれた。白シャツをまくった先にのぞくこんがり部活焼けした肌やその手が持った使い込まれてないシャープペンのペン先を見ながら「なんでだろうね」と返していた頃を思い出す。あのときは純粋だったな、私。今考えたらそんなもんは「用途によって使い分けている」だけであり、小さめのバッグはデートやオシャレして決めたいときに自分を可愛くみせる武器、いわゆる勝負バッグ=リーサルウェポンであり、見栄を張る必要が無ければダサいトートバッグの時もある。今年のお正月に帰省したときは実家にあった夏用の薄い掛け布団をイケアのブルーシートで作ったみたいな素材の巨大バッグに入れて東京まで持ち帰ったように。小さい荷物云々の話は、波が片思いしていた男子が当時女子とデートしていたと匂わせていただけなんだけど、まぁ、そんな過去の心の傷をえぐる話はおいといて、普段は小さなバッグを持って行く女が宿泊になると途端に男を凌駕する荷物を持って行くのはメイクセットやヘアケア用品が重いからということに他ならず、女子の荷物が多いのも少ないのも、結局は異性の気を引きたいというシンプルな欲求に収束するのである。日本も世界も人口の半分以上は女性なのに半分未満の男性に好かれたい女性がいかに多いことか。葵ならそんなことをいって、世の中を儚むかも知れないなと波思った。
このトランクの重みはメイクセットやヘアケア用品ではない。人間の見栄と性(さが)の重みなのだと嘯きながら、波は暑さの残る夏の午後にトランクを引く。ちなみにメイクという単語も和製英語である。
帰途に就くべくバスから離れたときだった。手に持ったスマホが震えた。
「着いた?」
と一言。メッセージが通知される。母からだった。着いた、とは当然静岡駅にということだろう。なんというジャストなタイミング。知らぬ間にユーキャンの通信講座で神通力でも身に着けたかと思った波だったが、そういえば昨日バスで夕方には帰ると連絡していたことを思い出した。そう多くない高速バスの到着時間を調べればわかるわけである。
「ついたよ」と波も短く返す。一応スタンプも送る。すると「悪いんだけど、スーパーで卵買ってきてくれない?」とメッセージが来た。なんだよ、半年ぶりにはるばる東京から帰ってきた娘に対して開口一番お遣いかよ、と思ったが、淑女たる者どんなときでも聖母の心たれと、笑顔を作って「OK」のスタンプを押した。ここを耐えれば数週間は食費と水耕費がタダである。
スーパーの場所を尋ねると、指定は無く、近場でという。
「あんた今どこにいるの?」
「松坂屋の近く」
「それならセノバかパルシェかね」
「りょうかい」
セノバというのはここから歩いて十分くらいの距離にあるシネコンなどを備えた商業施設で、パルシェというのは駅ビルにあるルミネの遠縁のような商業施設である。位置関係としては修学旅行で一度は訪れる京都の町を思い浮かべてもらうと分かりやすい。セノバは四条河原町にある高島屋やMOVIXの合体されたもの、パルシェは京都駅の伊勢丹のようなイメージで、それを約四分の一程度の規模にしたものが静岡にあると思って頂ければ認識に相違ない。ちなみにセノバとパルシェの名前の由来は地元の者ですら知らない。
波にとって、セノバは高校の時によく部活の友達と学校の帰りに寄って帰っていた場所であり、思い出が多い。この辺りで買い物となると当時はこの二カ所を中心に周辺をぶらつくことになり、どちらかというと前者は中高年、後者は若者向けの店が多い。それはたぶん建物が出来たのがパルシェの方が数十年早く、セノバの方が比較的新しくできた商業施設であるため、中高年からの愛着があるのが前者でそれよりも若い年齢層には後者の方が足が向きやすいのだろう。波は十九の若者なので自然とセノバの方へと向かった。
ガラガラとトランクのキャスターをアスファルトに摩擦させながら、セノバ周辺の町並みを眺めながめつつ歩く。静岡には今年のお正月に帰ってきているが、ほとんど年末からダラダラしていて年が明けても模範的寝正月を実践していた波は繁華街の方に来ていない。そのためこの辺りはほぼ二年ぶりになる。
「地元に帰ると言うことは歩道のタイルの柄を思い出すことである by小和瀬波っと」
大学一年生で初めて帰省した時に駅から実家に帰るレンガ調の歩道が東京のそれと違うことに気づいた。地元で親しまれたサッカーボールの形をした模様がところどころにあしらわれた歩道は長い年月をかけて沢山の人に踏まれてだいぶ色褪せているものの、波が物心ついたときからそこにあったものである。懐かしいと思うよりも、そういえばそこにあったなという気持ちが強い。軒を連ねた店先から吊らされた商店街の汚いフラッグや、繁華街の中に昔からある立体駐車場など、それまで無意識のうちに認識していたものが、現在の置かれた環境と比較したときに違いとして浮かんでくるということだろうか。地元にいたときは目にも止まらなかったものたちが、そこから離れると目に付くようになる。ふと、波はこれに近い感覚の言葉があったような気がして、頭を捻る。すると、先月潰れたバイト先の店長の口癖を思い出した。
「小和瀬さん、俺はさぁ」
潰れる最後の方は、もう店に客がほとんど来ないので自然と店長との雑談が増える。店長は飲食店にあるまじき無精ひげとボサボサ頭にキャップ姿で、年齢の割に老けて見える顔にくしゃっとさせた笑みを浮かべて言った。
「俺はさぁ、好きな言葉があってさ、知ってる? 『本当に大切なモンは目に見えないんだ』ってやつ」
「えーなんですか、柄にもなく。知らないですけど」
波は文学部に所属しているが、普段から全く本を読まない。
「おいおい知らない? それで本当に文学部かぁ」
店長はそういいながらも波が知らないことで自分が教えることがあることを心の底から喜ぶような様子で、得意気な口調になると「『星の王子さま』ってんだよ。ほ・し・の・お・お・じ・さ・ま」とこの地球(ほし)の下僕のような風貌で言い放った。
「ああ、タイトルは聞いたことありますね」
「だろ? 大切なモンは目に見えねぇ。だから逆に言うと俺たちが目で見えているモンはすべて本当に大切じゃないってわけだ」
「そうなんですか?」
店長はしっかりと頷いて言う。
「このカレーもトンカツも、らっきょうも」
「はぁ。あ、でもうちのお店、バックヤードに『何よりもお客さまを一番大切に!』って宣言してませんでしたっけ?」
カレー屋のバックヤードには数年前、まだ店長が二十代のうちにとったであろう写真とともに『店長としての宣言』が額縁に入れて飾られていた。そこには夢と希望と何より清潔感に溢れていた当時の店長が笑顔で映っている。
「うん? あぁ、だからそんなモンはさ、俺の人生にとっては何にも大切じゃねーんだよ
。フランチャイズやるときに無理やり書かされただけだっつーの」
それが波が聞いた店長の最後の言葉だった。
今思えば、そんな店長の心構えが接客態度に表れていたのだろう。店は潰れることになった。
もし今店長がここいれば、いつものように顔をくしゃくしゃにしてこう言うのだろう。「小和瀬さん、つまり、この商店街のフラッグと立体駐車場は小和瀬さんの人生にとっては一番大切なモンってわけだ」
そして私は高らかにこう言うだろう。
ちげーわ。
五分もしないうちに記憶に馴染み深い建物の入り口が目に飛び込んでくる。
セノバという商業施設は静岡鉄道といういつもだいたい二両しか走っていない地元のローカル線の駅とローカルバスの発着所に隣接しており、建物の一階は電車とバスの利用者が頻繁に通り抜けるひらけた構造になっているため冷房の利きが悪い。二年ぶりの凱旋でその事実を失念していた波は高速バスの降車場の近くにあった松坂屋のようにキンキンに冷えた空気を全身で感じるつもりでいたため、外気温とさほど変わらない熱風に肩すかしを食った。仕事終わりに居酒屋でビールを注文したら、グラスだけ冷えて肝心のビールが生ぬるかったサラリーマンと似たような気持ちを味わいながら、地下一階を目指すべく入り口を入って奥にあるエレベーターの列に加わる。すると傍らの壁面には掛かった映画の広告ポスターの群れが視界に入った。そこには専用の額縁にはまったポスターがカミングスーント上映中に別れてでかでかと掲示されている。映画のタイトル自体は当然東京でみるそれと変わりなかったが、それでもなぜか見覚えのある光景に妙な安心感を覚えた。波は葵と違って映画は余り詳しくなく、能動的に映画館に足を運ぶと言うよりは、友達に付き合うことが多く高校時代に仲が良かった部活の友人が少女漫画好きで、作品が映画化される度に着いていった。少女マンガというのはストーリーは大体決まっており、大体はややこしい過去を抱えたナチュラルイケメンに主人公の女子高生が恋するもそれは片思いであり、別のワイルド系イケメンに求愛されて三角関係になるというのがオーソドックスな展開であるが、波は三角関係の後に、別のガチ不良イケメンと出会って求愛され、そこになぜかイケメンの幼なじみというキラーポジション的男子が出てきて、さらにさらに年上イケメン教師と急接近」という天界に対してそんなわけねーだろと内心で鼻白みながらキャラメル味のポップコーンを頬張っていた。「山崎賢人と真剣佑に挟まれて、どっちにするの? みたいな青春したいわぁ」という友人に対しては、イケメンとは付き合いたいけど、私は一人で十分だなとも思っていた。
ドンキのノーブランドリップからディオールの口紅に変えたり、服をユニクロからアースミュージックエコロジーに変えたりしてうっすら大学デビューを試みてから早一年半。友達に誘われて入ったバドミントンサークルでちょっといいかもと思った三年生の先輩と2回目のデートまで行ったこと以外、今のところ実りはなく、その二回目のデートでその先輩に彼女がいることが発覚。しかもその彼女がサークルの先輩であり、さらに偶然にもその彼女とデート中に池袋のバーで遭遇するというそこそこの修羅場を経験し、水色のネオンがロマンチックに煌めくバーの店内で急激に酔いから冷め、店内の水色の数倍も青い顔した先輩男の顔を見たとき、現実とはむべなるかなと悟って一気に憧れと性欲が引いていった。つまり少女マンガのように一人の女の子を一途に好きでいてくれる男性などこの世にいるわけはないということを悟ったのである。ちなみにそれ以来そのサークルには行っていないし、その先輩の顔は二度と見ていない。
ああ、どこかに一生で私だけをバカみたいに愛せる男はいないかなぁ。
エレベーター待ちの間に思う存分ポスターを眺めてからエレベーターに乗り、地下一階に降下する。エレベーターを出るとすぐのところに市内では比較的高級な成城石井の親戚のようなスーパーがあり、波はお目当ての卵10個入りを捜した。かつて母と買い物に付き合わされていたとき母はよく「あそこはあれが高くて、ここはこれ安い」と老人の繰り言のように近所のスーパーの格付けを語っており、波は「ふーん、そんなものか」と適度に相槌を打つ程度の関心だったが、一人暮らしを始めると母の気持ちを理解した。入ってくるお金と出ていくお金の管理を自分でしなければならず、自然と物価を気にするようになるのである。今ならこの二百八十円の卵がコモディ飯田やOKストアで買うより五十円以上高いこともほとんど反射的に分かるようになっているし、恐ろしいことに1パック五百円近いブランドものの鶏卵(しかも6個しかはいっていない)の艶めきだったオレンジ色と流線型のフォルムにより高所得者もしくは健康意識が極めて高い消費者を鴨にして一儲けしようとする生産者とバイヤーのほくそ笑んでいる様子が見えるようになってもいる。
そんな高級スーパーの棚で一番安いたまご10個入りを手に取る。目当てが卵だけだったのでプラスチックの買い物カゴに入れることなく、スーツケースを引いていない左手で卵のパックを掴むようにして持つ。この卵は庶民的なスーパーの棚に並べば高級の類いに分類させるのだろうが、五百円のほとんど黒光りしたような鶏卵と並んでしまうと一番安い存在に格下げされる。高いスーパーの一番安い卵という中途半端な立ち位置は「大きく学ぶ」と書いて「大学」に通っているのに大して学んでいない自分とよく重なった。お前も私と同じだな、と呟きながら、レジを済ませて、先ほどのエレベーターに戻った。
素直に帰ってもよかったが、せっかく二年ぶりに来た思い出のある場所を回ってみようと思ったのは時間があったからである。何もやることがない時間を持て余しているという点において大学生というものに勝る人種はおらず、ほぼ反射的に手がエレベーターの五階フロアボタンを押していた。更に上階にはシネコンがあるが、流石に映画を見ていると夕飯を準備している母の逆鱗に触れてしまうので止めておく。やってきたエレベーターで五階に上昇し、テナントを回遊することにした。五階フロアは半分くらいの面積を丸善&ジュンク堂で占めており、高校時代はマンガを買いに頻繁に来た場所である。文学部のくせに大学のゼミ以外では小説を全く読まない波は店頭にジェンガの如く山積みされた新刊小説の単行本や数奇を凝らしたPOPが張られたビジネス書の数々に一切目を向けことなく、雑誌コーナーでan・anやcancanの表紙を眺めたり、漫画売場でお試し漫画の冊子を読んだりした。
レストラン街には土日にいつも3時間くらい並ぶハンバーグレストランの『さわやか』が出店しており、地元の人間は空いている時間に利用でき、なおかつ子どもの頃から知っている味なので、なぜやわやかに三時間並ぶのかが理解できない。ただ、大学で波が静岡出身ということを告げると二言目にはさわやかのハンバーグの話題になるため首都圏での人気は絶大であった。若者が流出しているこの町で県外から若者を集客できるお店があるのであれば、地方自治体がお金を払ってもっと店舗を作ってもらえばよい。いっそのこと一キロメートルおきに『さわやか』を建設し、『さわやか』王国、静岡を縹渺して町中をオニオンソースとデミグラスソースで満たしてしまうのはどうだろうか。
さわやかとジュンク堂の間にはなぜかローカルラジオの収録ブースがあり、フロアから収録ブースが見える構造になっているのだが、オールナイトニッポンのように有名人がパーソナリティを務めているわけではないため、人々は透明のガラスから収録現場を羨望のまなざしで見つめると言うよりは、動物園のは虫類をガラス越しに流し見するという方が近い。土日など稼働していないことが多いため、このスペースを『さわやか』に明け渡すことからさわやか王国静岡実現の布石とするのが良いだろう。
四階に降りると五階に丸善&ジュンク堂があったスペースにノジマ電気が入っている。波は一度も訪れたことはなく、ヤマダ電機やビックカメラなど郊外に広い面積で建つ電気店と比べると一フロアのしかも半分の面積の電気屋に魅力は薄く、ミスマッチな印象があり、なぜここに電気屋なのかというのはここを訪れた人なら一度は抱く感想である。四階は逆に三階には波が最も利用してきたフロアである。同じくジュンク堂、ノジマと同様の広いスペースに今度は東急ハンズが入っており、東急ハンズは友達とクリスマスパーティーのプレゼント交換用の品に迷ったときに行くと適度に面白そうで外れのないアイテムを手に入れることができるという点で名高い。さらにギャップやコーエンなど十代、二十代の男女がよく利用する店も並び、それらのショップを抜けると座席数が百席くらいのフードコートが現れる。東急ハンズとは反対側に位置し三階フロアの約半分の面積を有するフードコートは、波にとってはあまり嬉しくない思い出の場所であった。
そもそもセノバというのは市の中心部に位置するが故に波が通っていた県立高校の生徒だけではなく、その他数多くの高校生が利用する場所であり、部活動に励む代謝の良い若者が消費したカロリーを補給すべくハンバーガーとフライドポテトをつまみながらスマホのゲームに興じる場所でもある。そんな市内の高校生達(しかも忌まわしいことにカップルも多い)が利用する場所が混雑しないわけがなく、波が高校生のときは、夕方のピークにはだいたい満席状態。クラスの人気者達で構成されているであろうイケイケな集団が幅をきかせながらスマホゲームに騒ぐ姿とサーティーワンアイスクリームのダブルをカップルがいちゃつきながらピンクのスプーンでつつき合う光景を見せつけられ、そのどちらにも属していなかった波は昼休みに教室の隅で陰々滅々とラノベを読むオタクのようにフードコートで買った銀だこをフードコートの外にあるベンチで友達と食べた思い出がある。
学校か、ここは。
そんな青春の青色は青色でも冷めたブルーな思い出が波の頭には色濃く刻まれていた波はフードコートまで足をのばすかどうか迷ったものの、流石に当時の同級生がいるわけでもないし、少女マンガに夢を追っていたあの頃ならまだしも現実の男に直面して幻想から解き放たれた現在ならばカップルがアイスをつつき合う光景をむしろ美しいとまで思えるのではないかと考え寄ってみることした。当然、空腹でラーメンの匂いに吊られたことは言うまでも無い。あぁ、まさに花より団子。
まず目に飛び込んできたのはやはりフードコート入り口に位置するサーティーワンアイスクリームであった。東京での波の生活圏内にサーティーワンがないため、久しぶりの対面である。幸いなことにアイスをつつき合うカップルはおらず、精神衛生上、穏やかでいられた。甘い物つながりで言うと奥の方にミスドもある。その他波の思い出の銀だこやモスバーガーなどお店のラインナップに変化はない。美味しそうな匂いを発していたのは志那そばちばき屋という店らしい。バスを降りてからここまで歩きづめだったこともあり、波は近くの席に腰を下ろしてトランクを側に置く。固定されたオレンジの丸椅子の座り心地も「変わっていないなぁ」と言いたいところだが、専ら外のベンチを使用する派だったためさほどの感慨も湧かなかった。ただ代わりに食欲は湧いていた。夕飯も近い時刻になっているがアイスクリーム一つくらいならば大丈夫だろう。立ち上がってサーティーワンの店先に近付くと、店には男性の店員が一人だけおり、「いらっしゃいませ」と挨拶した。
サーティーワンアイスクリームはカラフルな世界が広がっている。
目にも鮮やかなオレンジや緑、濃い緑。まるで小学校の時に使った12食の色鉛筆や絵の具のセットを見ているかのような錯覚に陥る。普段バニラやチョコといった標準的アイスクリームばかり食べている波はサーティーワンに並ぶポッピングシャワーやコットンキャンディーというクッキーアンドクリームは先ず目に付くし、ストロベリーチーズケーキは中学生の頃にハマったなぁ、とか思っているとなかなか決まらない。ロッキーロードやオレンジソルベという名前だけでもテンションが上がってくるものあるし、シンプルイズベストでバニラやチョコレートも悪くない。うーんこれは困ったと思っていると、それを見た男性の店員が「よかったら、ご試食して決められますか?」と声をかけた。
波は視線をアイスから店員さんに移すと、三十半ばくらいの優しそうな男性が笑顔を向けている。
「え、試食できるんですか?」
「はい。もちろん」
今度は棚からぼた餅だ。そういえば以前行ったサーティーワンでも同じように試食させてくれたことを思い出した。それじゃあ、と言ってポッピグシャワーとロッキーロードを試食させてもらい、結局どちらでもないベリーベリーストロベリーを注文した。一口食べた味のどちらでもない味を注文したときの店員さんの苦笑が「この女、がめついな」の意を含んでいる気がして若干いたたまれかったが、事実なので反論のしようが無い。いや、あの顔はベリーベリーチーズケーキってまだ夢みてんなーこいつ、の顔だったか。
アイスを手渡されたときに別の女性店員が「店長おはようございます」と出勤してきて、男性が店長であることが知れた。道理で接客がしっかりできたわけだとベリーベリーストロベリーをスプーンで舐めるように味わいながら納得する。同じ飲食店でも波が知っているあのカレー屋の店長とは雲泥の差が認められた。
ベリーベリーストロベリーはその名の通り、とてもとても苺であった。一人暮らしをするとスーパーで一パック五百円くらいするいちごを買うには気が引けて、いつしか食べなくなってしまっていた苺の味に「これだよ、これ」と思いながらカップ一杯をペロリと平らげた。ごちそうさまでした。美味しかったです。
しかし、苺は記憶の通りであったものの、フードコートはどうやらそうではないらしかった。最初は浮ついたカップルがいなくて心穏やかな気持ちでいた波だったが、しばらく過ごしてみるとそもそも波と同年代の学生や生徒の姿があまり見られない事に気づいた。そこまで広くないフードコートは、波が座っている席からでも全景が見渡せるが、高校生らしき集団は3組ほどで小さなお子さんを連れたお母さんの集団が同じくらいいる。空席も目立っていた。これはたまたまなのか、それとも葵が言ったように、少子高齢化と若者の流出がそれなりに深刻なのか、はたまた何らかの原因で中高生が商業施設のフードコートに戯れることがなくなるという急激な生態変化が生じたか。波はしばらくその疑問に取りかかってみたが、はっきりとした答えにたどり着くことはなかった。カップの隅に溶けて残った苺アイスの、ほぼ液体化したそれをスプーンですくい取って最後まで堪能していると、スマホが震えた。
「たまご買えた?」と、また母である。
買えました、と返すと、使いたいから早めに帰ってきてと続く。考えてみればお遣いを頼んだということは今晩のおかずに使用するというを意味する。依然として母の機嫌を損ねるのは得策ではないため、「今から帰るよー」と追伸してから、腰を上げてアイスの紙カップとスプーンを片付けてフードコートを出る。続けてスマホが震え、「セノバで何か食べてないでしょうね」と図星を突いた指摘がくる辺り、やはり母は千里眼を身につけているようであった。
セノバを出ると、またキャスター付きのスーツケースを引きながら帰途に就く。正面入り口を抜けて直進すると、かつて渋谷109ならぬ静岡109といわれた(驚くべきことに正式名称である)であった現東急スクエアのビルが見え、さらに渋谷のスクランブル交差点をうっすらと意識して作ったであろう、交差点(ただし大きさは渋谷の約三分の一、人出にいたってはおよそ百五十分の一ほど)の三叉路を右に折れて大通りに出る。最短ルートはそこから駅の方面へ南下し、途中にある地下通路への階段入り口から地下に潜り、駅へ直行。構内を抜けて波の実家がある駅の南側に行くルートである。ただ、波は一週間海外に行く旅行者用スーツケースを持っており、地下通路に階段で降りるのが憚られたため、地上から駅を 迂回する道で帰ることにした。信号を二つ渡り、国道一号線の北側の信号まででる。目前に中学の時に合唱コンクールをやったホール兼、静岡中央郵便局のビルが見える。夏になって随分と日が延びたもので、まだ明るい空の色を反射したビルが青く澄んで見えた。
信号が青になる。ぴよぴよと青信号を知らせる鳥の鳴き声風の警笛が鳴り、波がスーツケースを引くガラガラという雑音が道路のアスファルトとこすれることでより一層大きくなる。
そして、それは横断歩道を渡り終え、信号の音が止み、スーツケースの音が和らいだ時だった。ふと波は自分の視界に既視感のある物が映り込んだことを認識した。立ち止まり、後ろを振り返ると、Tシャツ姿の細身の男性がいる。男性は波が渡った横断歩道の手前にあるバスロータリーへと続く道を右に折れていく。
波はとっさに踵を返し、男性の後ろ姿を追った。急な方向転換によりスーツケースを引く手に一時的な負荷がかったものの、気にせずに後を追う。
数メートル歩くと、男性は立ち止まり何かを見上げた。そして見上げるだけならま矯めつ眇めつ様々な角度から観察するかのように眺めだす。しかし波の意識と視線は男性が見ているものよりも、その男性自身に意識は注がれていた。男性の体の向きが何度か変わり、その間に波は正面から男性を捉えた。
「やっぱり」と波は声を漏らしていた。
知り合いではない。知っているのはその男性が着ていた服である。
男性は白いTシャツを着ており、胸には「SPECIALBOOM」というロゴが付いていた。
東京広しといえども波は未だかつてブームTシャツをきている人に会ったことがない。大学一年生の夏、始めてできた同じ英米文学科の友達と二人で休日に東京観光と題して様々な場所に出かけた。彼女は北海道出身で、波は静岡。二人とも地方から上京してきたため東京への憧れや好奇心が強く、スカイツリーや浅草の雷門、渋谷、原宿、竹下通りなどメジャーどころなどを週末かけて巡った末、何度目かのお出かけで訪れたのが下北沢だった。
「やっぱさ、東京のオシャレな町と言えばシモキタじゃない?」
イントネーションの北国なまりが可愛い波の大学生友達一号が言う。
「あーわかる。オシャレな服とか靴とか売っているイメージ」
と、波も静岡弁で返す。静岡弁と言っても東西に広い静岡でどこからどこまでを静岡弁という単語でカバーするのかにもよるが、波が住んでいる県の中部ではイントネーションはほぼ標準語であり、「あーわかる。オシャレな服とか靴」の「靴」のアクセントが「く」に乗る(試合に勝つの「勝つ」のように)という非常に特徴のない、極めて地味な類いの方言であった。それは「ひっかく」ことを「かじる」というとか、「席を取っておく」ことを「ばっておく」というとか、その程度の他愛もない、方言と呼べるのかも怪しいものであり、波の父親がゴム製のビーチサンダルのことをゴムジョンジョンと呼び、「これが静岡弁だ」となぜか豪語した時、静岡弁とはおおよそ唾棄すべきものであると悟った。
「それと古着も有名だよね」と友達が言う。
下北沢と言えば古着屋が多いことで有名であり、実際に駅前の居酒屋の数を同じくらいの古着屋があった。別にオシャレな町に来たからと行って、自分のファッションセンスを試してやろうとかよもや誇示してやろうと思った訳ではなく、たまたま通りかかった大きめの古着屋が外に衣類ラックを出して陳列していたのでいくつか二人で見ていただけなのであるが、その中に「おお、これは」と思ったのが波が今着ているSPECIALBOOMのTシャツであった。
波が「おお、これは」というと友達も「おお、これは」と声を上げたが、含意が異なっていたことは先述の通りであり、それ以来、波のファッションセンスは一部界隈で悪い評判になり、その後の学生生活において和製英語を学ぶきっかけとなった。
普通町で同じ服を着ている人に遭遇すれば「げ、自分と一緒だ、ユニクロだからかぶるのは仕方ないけど、なんだか気まずいから気持ち離れて歩こう」となるものであるが、この場合は逆に同志を得たような心持ちで「ていうか、色違いもあったんだ」という純粋な驚きとともに男性への興味に繋がっていた。波は立ち止まったまま何かを見上げている男性をじっと眺める。見た目は二十代前半から半ば、黒縁のメガネに強めの寝癖、ブームTシャツの下に短パンという服装は、肩からエスニックな柄の黄色いショルダーバッグをかけていることも含めて明らかにこの辺に住む若者が暇つぶしに町まで出てきたというような風貌であるが、しかし一点、地元の若者が暇つぶしにしないであろう行動をしていた。男性は先ほどから静岡駅北口にある徳川家康の銅像を見上げている。
駅前になぜ徳川家康像が建っているのかというと、江戸時代初期、幕府を開いた徳川家康が二代目将軍秀忠を江戸に置き、自らは大御所として晩年を過ごした地であることに由来している。静岡にゆかりのある歴史上の人物はという街頭アンケートを静岡の町でとれば百人中九十人は徳川家康と答えるであろう。それ程に有名な人物なのに駅前に銅像を造らなくてどうするという地元の名士たちの声があったのかなかったのかは知らないが、波が小学生のときには既に建てられたのがこの銅像である。戦国の武将らしく勇ましく軍配を上げているその姿は実際よりはスタイリッシュ且つ写真加工アプリの如く美化されていることは想像に難くないが、家康がよく形容されるところ狸オヤジ感を程よく残しつつ、良い仕上がりになっていると言えるだろう。
そんな銅像をその男性は真剣な面持ちで見上げていた。あんなものを真剣に見上げるとは余程熱心な歴史マニアか、逆に大河ドラマに触発されたミーハー観光客くらいであろうが、見た目からして後者はなく、ということは前者の徳川家康オタクということになる。
しかし人を見た目で判断するのは良くない。もう一歩踏み込んで考えてみると、地元の史学部の学生が中世日本史のレポートでも仕上げる途中、息抜きのついでに駅前の銅像を見物に来ただけかも知れない。考えてみればそれが一番ありそうだと波は納得しかけたが、それは間違いであったと次の瞬間に分かった。
それは突然のことであった。
男性は銅像の台座に手をかけたかと思うと、二メートルはあるであろう台座部に手をかけてよじ登り、その上に飛び乗ったのである。
「な、」
波は唖然とした顔で男性を見上げた。
男性は家康の肩に手を載せてバランスを取ると、まるで家康とは旧知の仲であるかのような佇まいで隣に立ったまま、そこからの眺めを楽しむような素振りを見せている。ああ、と波は悟った。なるほど、この人は観光客でも歴史マニアでも地元の史学部生でもない。完全な不審者だったのだと。
馬鹿と煙はなんとやら。今度こそ、この人物と色違いのTシャツを着ていることを心の底から気まずいと思った波は急いで踵を返した。まかり間違って何かの仲間だと思われたら面倒だし、ペアルックのカップルだと思われたらヤバすぎる。しばらくしたらこの男は静岡駅の鉄道警察にでも捕まることだろうと思いながら、波は駅の高架下を足早に抜け、駅南銀座商店街と呼ばれる、大した商店もない通りを駆けた。更に十五分ほどの歩くと自宅のマンションが見えてきた。ここまで来ればもう安心だろう。急いでいたからか、夕方になってもさほど気温が下がらない今年の夏の気候のせいもあって、またべったり汗をかいてしまった。帰ったらまずシャワーだな、これは。
「しかし、とんでもないものを見たな」と波は思った。まさか家康像に、というか家康じゃなかったとしても銅像に乗る人間が自分の地元にいたとは。大勢の若者が県外に流出してああいった変な奴しか残っていないということだとしたら流石に不憫すぎるなと思う。
衝撃的光景が脳にしばらく焼き付いてしまったせいか、半年ぶりに見上げる実家の焦げ茶色のマンションにも大して感慨が沸かなかったので、代わりに下を向き、自分の胸の辺りを見る。そこには相変わらず大書されたSPECIALBOOMの文字がどんと居座っている。波はしみじみと感じた。
やはりこのシャツを着ている人物は色んな意味でナンセンスなのかもしれない、と。
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