お前の名前を教えてくれよ

綿貫ちか

お前の名前を教えてくれよ

 おや、君か。ここは俺の書斎だったはずだが、いつから君の居室になったのかな、お嬢さん。いや、皆まで言うな。


 仮にも部屋の主人たろうとするものが表玄関から入らぬ道理がない。ソファの座り心地はどうだ? 君が殺した護衛の給金より上等なものだ。たんと味わうと良い。


 さて、本題に入ろう。お前が俺を昼夜問わず殺しにくるようになってから、もう十年近くが経ったか。いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた。嘘じゃない、本当だ。


 私もすっかり衰えてしまって、雇った私兵でしか相手をしてやれなくなったことは申し訳なく思うよ。


 それでもめでたい日だ、こんな夜は祝い酒の一つや二つーー無駄口を叩くなって?


 そうだな、俺に主導権を取られて怒るようじゃまだ甘い。


 まあ落ち着け、俺はこちらのくたびれた椅子に座らせてもらおう。冥土の土産にもってこいの話がある。お前もそれが目的だろう。


 そうだ、お前の父親の話だよ。私の弟分でもあったがな。





 昔からよくつるむ男がいた。腕の立つ殺し屋だ。俺の相棒でもあり、お前の父親でもあった。


 出会いはよくある斡旋業者の小汚い部屋で、俺は15歳、あいつは9歳だったと思う。上流階級から落ちぶれた俺と違い、あいつはもともと孤児の流れ者で、そういった疾しい店が連なる裏通りの界隈では「幽霊」として重宝されたらしい。


 頬にこびり付いたままの血だか泥だかよく分からないそれを拭ってやった時、まるで犬が尻尾を振るみたいにぱあっと顔を輝かせたことを覚えている。


 みすぼらしい浮浪児のような成りだったが、俺が死体から剥ぎ取った趣味の悪い花柄のスカーフを巻いてやれば、来たきり雀のように肌見離さず持っていた。さすがに閉口したが、今にして思えば可愛いものさ。その程度の執着心ならどうとでもしてやれた。


 そうだ、お前が持っているそれだよ。大事にすることだ。

 俺からすれば死神付きだから、とっとと捨ててしまうことをお勧めするがね。





 あいつは自己顕示欲のない男で、どれほど手柄を横取りされても怒らなかった。下請けの下請けどころじゃない、あいつのこなした仕事はびた一文にもならず、実績さえ奪われた。まさに幽霊だ、いつも誰かの替え玉なんだからな。


 日銭を稼げればそれでいいよ、どんな寝床も居心地がいい、本当だ。鼠はみんな友達だし、埃はきらきら光っているし、雨は天然のシャワーだし。そんな風に笑うのが常で、あんたと寝ずの番をするのも好きなんだ、あんたともっと仕事がしたいなと呑気に言われる度、俺の方が不満を募らせた。


 そもそもあいつは、殺し屋としての名前を持とうともしなかった。どこの馬の骨とも知れない有象無象どもが、あいつの殺しをさも自分が成し遂げたかのように語る。

 腑の煮えくり返る思いに、俺は伝手を頼って割りのいい仕事をあいつに回し始めた。 


 俺には殺しよりもそういう一手間かけたものの方が水に合っていると気付けた時でもある。


 名前がないどころか、あいつは読み書きを教えても契約書すらろくに目を通さなかった。

 結局、俺の名前で仕事を引き受けるのは業腹だったが、嬉々として付いてきてくれたよ。分け前だのなんだのまで全部俺任せだったけどな。





 俺たちはうまくいっていた。

 見るに見かねていくつかの礼儀作法を叩き込むこともあれば、癖のある暗殺技術をあいつから学ぶこともあった。


 互いに互いを助け合う理想の相棒だった。同世代の中でも俺たちはどんどんと頭角を表し、飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、慢心し始めたのもちょうどその頃だった。


 なに、たいしたことはない。誰もが一度は通る道だ。

 策に溺れ、片腕を落とすことになった。文字通りだ。そんな俺に肩を貸し、半身みたいにかついで逃げたのもあいつだった。


 しわくちゃのスカーフで止血されながら、俺はハイになって叫んだ。あいつもけらけら笑って逃げ回り、追手を撒いては一人ずつ始末した。向かうところ敵なしだった。





 やがてあいつに想い人ができた。堅気の女だ。

 二十も半ばになってようやく人並みの欲が出てきたらしい。

 二人は結ばれ、俺も祝辞を送った。

 これまでのあいつは、あいつ自身の人生を歩んではいなかった。簡単に替えのきくものだと、誰かの人生の一部なのだと、少なくともあいつはそう思っていた。


 だが、そうではないのだと気が付いた時のあいつは、まるで蝶が羽化するかのようだった。

 さぞや世界が一変しただろう。目に映るすべてが輝いて見えたかもな。


 とにかくあいつは生まれ変わった。

 見違えるように溌剌とし、何かを残すという行為そのものに意味を感じ始めていた。


 俺も嬉しかった。今まで一貫して名無しを貫いてきたあいつが、初めて自分の人生に意味を与えた。契約書にサインを残した!


 あいつの名前? さあな、最期まで俺には教えなかったし、俺も聞なかった。だが、良い名前だったよ。本人の口から聞きたかったけどな。





 けどな、そう上手くはいかないよな。何事も。

 あの契約書がいけなかった。


 あいつはこれまで自分の生きる世界に無頓着だった。どこにどんな縄張りがあって、誰と誰が通じているか。力関係、血縁、派閥、賄賂、燃え盛る勢力図。


 どこに火種が転がっているのか、受けてはいけない仕事は何か、見極める目に乏しかった。


 あいつは殺し屋として引退したかったんだろう。だから最後の仕事として、誰も引き受けたがらないが故に巨額の報酬が得られるそれを引き受けてしまった。





 もちろん、あいつはきっちり仕事を果たしたさ。逆に言えば、あいつだからこそ務まる仕事だったのが、運の尽きだ。


 案の定、縄張り争いに巻き込まれたあいつは、あらゆる方面から命を狙われる羽目になった。

 ようやく身をもって事態の重さに気付いたあいつは、真っ赤に泣き腫らした目で言ったもんさ。助けてくれってな。


 俺も方々手を尽くしたが、事態は悪化する一方だった。

 最後の手段として、その名前を捨てろと言った。こちらで上手く取り計らってやるから、新しい名前でやり直せと。


 だがあいつは、初めて俺に従わなかった。 

 分かるか? 契約書にサインすることを拒み、裏通りから出ていった!


 ようやく芽生えた自我が、名を捨てることを許さなかったんだろう。替えのきかない人生だと気付き、あいつは執着してしまったんだ。





 それからあいつは家族とともに行方をくらませ、数ヶ月ほどして差出人不明の手紙が届いた。


 もう一度、会えないか?


 滲んだインクでそう書かれていた。

 殺し屋の人相が金になるのなんざ賞金首になった時ぐらいさ。俺はあいつの情報を売り、お前の一家は襲撃された。


 俺を憎むのは構わない。だがな、俺との契約を先に拒んだのはあいつだ。


 俺は情勢を見極めるのが得意だった。どこにどんな情報を流し、恩を売り付ければあとで高く回収できるのか、よく分かっていた。俺はうまく立ち回り、一儲けした。


 界隈での俺の立場も確固たるものになった。お前はそういうけどな、俺があいつと懇意にしていたことは皆の知るところだ。


 お前の父親が選択を迫られたように、俺もまた選ばされたんだよ、未来をな。





 それからのことは記憶にあるんじゃないか? お前にとっては暗黒時代の始まりだろう。


 あいつは妻を救えなかったが、お前だけは守り通した。それで終わりだ。


 事切れたあいつの死体を引き渡し、瓦礫に埋もれるようにして転がっていたお前を拾って、教会の前に捨てた。


 おくるみの代わりに真っ赤なスカーフで包んでやったのは、せめてもの情けなんだぜ。お前だって血の温もりぐらいは感じていたいだろう。


 俺にとってもお前は娘のような存在だった。あいつはことあるごとにお前の写真を見せびらかし、子供自慢に余念がなかったから、たいていのことは知っていた。


 たまにあしながおじさんの真似事もした。初めて様子を見に行ったのは、お前が十になる頃だったか。


 あいつの遺体なんてのは、お前の手元には骨一つも残らなかったし、それは母親にも言えたことだが、お前はよくあの枯れかけた木に花を供えたな。


 墓参りするお前の後ろ姿を眺めるだけだったが、一目で分かった。お前は俺たちと同類で、こちら側の人間だと。


 父親譲りの目をしていた。強い目だ。あいつがついぞ見せたことのない、殺意に満ちた、殺し屋の顔だった。



 お前は両親の死の真相を求めてアングラな場所に出入りするようになった。

 そういう後先考えないところは、あいつとよく似ている。

 あのスカーフを残したのは悪手だった。

 お前はこのまま日向の道を進むもんだと思っていたから。お前の父親がそう望んだようにな。





 界隈ではお前の噂がひとしきり流れた。

 生き残りに気付いた連中が差し向けた暗殺者を子供ながらに返り討ちにしたと聞いて、血が沸きたつ思いだった。


 とんだ化け物が目覚めたものだという興奮と、あいつの娘なのだから当然だと思う気持ちの、両方だ。


 横槍を入れられるのは御免だったから、噂は潰した。火のないところに煙を立てた奴らも一網打尽にした。お前からすれば、名をあげようとしたところを邪魔されて怒っていたかもしれないが、その頃には俺は界隈の権力者になっていた。





 お前はめきめきと腕を上げた。その上達ぶりに感じ入ったのは、初めてお前が俺の気配に気付いた時のことだった。


 それからは早かった。俺が有名人だったのもあるし、お前があいつと違って根回しを大切にする人間だったのもある。


 新世代の筆頭だったお前は瞬く間に情報を集め、嗅ぎ回ってくれたな。おかげで俺の仕事は散々だったし、流通ルートを一つ潰されたのは今でも根に持っているよ。





 あとはお前の知る通りだ。

 お前はいつか俺を殺すために刃を研ぎ澄ませ、闇に乗じて仕掛けてくるようになった。裏通りの店で背後を取られた時はひやっとしたよ。

 だが足りない。そんなナマクラじゃあ、幽霊でも切った方がマシだ。


 例えが変? お前の父親もそう言ったが、逆にあいつは素朴すぎて面白みに欠ける男だった。そういうところは似なくて良かったんだぞ。



 実を言うと、お前が日々俺を訪ねてくれるのは嬉しかった。子供の成長っていうのは早い。お前が初めて俺の首にかすり傷を付けた時は、泣きながらあいつに献杯したよ。


 今じゃ俺の首に手を掛けている。最高だ。

 地獄があるなら、今ごろ苦い顔して固唾を飲んでるだろうな。お前が殺し屋になるところなんて、そりゃ見たくはなかったんだから。





 俺もやきが回ったし、それはお前もだな。

 ダメだろう、お嬢ちゃん。向いてないよ、こんな話を最後まで聴いちまうなんて。俺を殺したら、こんなのからは足を洗え。いいな?


 ーーそれでもまだ、続けるっていうんなら。


 俺の全部をくれてやる。

 名前だって好きに使え。お前に足りなかったのは権力だ。

 あいつにはろくな遺産も何もないが、俺は自分という価値ある商品を疎かにはしなかった。

 山ほどあるぞ。富も名声も人脈も武器もなんだって。好きにしろ、お前なら使いこなせる。


 ……なんだよ、あいつに合わせる顔がなくなる?


 今ごろ気付いたのか。そういう呑気なところは嫌いだな。

 安心しろ。あいつには詫びを入れといてやるから、お前はお前の好きにしたらいいんだ。


 よし、そろそろ終いだ。よく聞けよ。

 奥の金庫に遺言状を入れてある、そこにサインをするんだ。

 いいか、サインをするだけだ。それでお前の懐にぜんぶが転がり込む。


 ……サインの名前?

 お前は俺に、自分の名前を聞くのか?


 そう、良い顔付きになったな。名前とは生き方だ。委ねるんじゃないぞ。


 じゃあな、女王様。いつか地獄で会おうじゃないか。

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