カラスの章:4
「でもだからって……、でもだからって環境を無視しては生きられないでしょう」
俺はなぜだか流れそうな涙を堪えながらそういった。絶対に泣いてるところをみられたくない。
「それはそうです。でも『そこから始める』ことはできます、理解を求める事はできるし、それでも理解しようとしない人からは離れることだってできるんです」
熊崎裕子は、そうきっぱりと言ったあと、「どうして私、こんなこと話してるんでしょう」と恥ずかしそうにいった。
「爪痕を残したかったからじゃないですか」と俺はいう。
「そうですね」と彼女は笑う。
「少しは残せましたか?」
「爪痕どころか殺されました」
すっかり冷めたコーヒーを飲みながら二人で笑った。
「捨てられた女としては、それくらいの事をしても許されると思います」
そういって彼女は意地悪そうに笑う。
俺は答えるかわりに違うことを言った。
「さっきの話。鏡の」
「ええ」
「俺、水色のあの屈託のない笑いかたや言い方が、凄く苦しくなる時があるんです。それは逆に、自分の中の嫌いな部分を水色に見ていたってことなんですかね」
「嫌いな…… というより、許していない部分なんじゃないんですか?」
「許していない…… 」
「自分はそうしてはいけない…… って思っていると、それをしている他人が赦せなくなることがあるそうですよ。もしかしたらご存知かもしれませんけど」
知っていた。
「さっき言ったけど、水色くんも考え込むタイプなんですよ、すごく気にしぃだし。あなたの前で図々しいっていうのは少し驚きました。…… 嫉妬するとはいまは言えないですけどね」
「なぜですか?」少し意地悪な質問をしてしまった。しかしその返答は俺にとって思慮の外で、実に意外なものだった。だって俺は自分自身に、その感情を封じていたから。それを感じることを禁じていたから。
「だって嫉妬するっていうのは、『自分にもそうできる力がある』って信じてるって事ですもの。できっこない事に嫉妬はできません。彼がそうできる安心感があなたにあるんじゃないですかね。もしそうなら私は嬉しいんです」
そういって、少し息をつくと、小さく「彼、すごくパワフルで元気ですけど、ちょっと無理してそうなところがあるから」と続けた。
それは俺も少し感じていた。
「彼はいつも、こうなりたい!って夢があるんです。こうなりたい、こうならなきゃ、そのために頑張らなきゃって。でも同じ力で、そうはできないって自分を苦しめているところがある。私はそれが凄く心配で、いっぱい世話をやいてしまって。恋愛経験がないと、こういうところがダメですね。彼の力を信じる事ができなかったんです。鏡をみながら自分の力を信じることができなかった」
冷えたコーヒーを一口飲むと、彼女はこう続けた。
「離れてみてそう思う事ができました。だからきっと、あなたはそれができるタイプなんですよ。彼の望んだ姿で彼を眺めることができているんだと思います」
「そうだといいんですが」
そういうのがやっとだった。
「そうでなかったとしても、いつだってそこから始めることはできますよ」
まいった。
「本当にどうして水色はあなたを……」
捨てたんだというのは言えなかった。言葉を飲み込んだ俺を許すように熊崎裕子は言った。
「捨てられたっていうのは少し意地悪でした。きちんと言われましたよ。「好きな人ができた」って。正確には「どうも好きになっちゃったみたい」だったかな。男の人だって言われた時にはビックリしましたけど」
初耳だった。俺は本当に水色の事をなにひとつ知らないのだと思った。
「その時はとても悲しかったけど、でもそのことがあったから、わたしもそう考えることができたんです。今お付き合いしている彼もとても素敵だし、そのことがあったから彼と出合うことができました。きっとそれが私には必要なことだったんじゃないのかなっていまは思います」
そういってスッキリと笑った。また良く聞くありふれたセリフ。でもそれが本当の言葉だってことがわかる。俺はこんなにもありふれた言葉をこんなにも本当の響きで吐いた事があるだろうか。俺はふと昔の事を思い出した。
「ニュージーランドにいたときの、仲間のイギリス人が変わり者でね。世界を3周くらいしてて、待ち合わせとかで場所を決めても、時間は絶対に決めないんですよ。その時間にそこにいるかどうかはわからないっていって。なにいってんだと思いましたけど」
我ながら唐突すぎる話題の転換だと思ったが、彼女は面白そうに、優しく微笑んで
「ええ」と続きを促した。
「まあそんなヤツだったんだけど、そいつがあるとき言ったんです、ベロベロに酔っぱらった時にね。『クロウ、俺は世界中を旅してきて、足を踏み入れていない国はない。でも自分のハートにはまだ入った事がないんだ』って泣きながら。『世界で一番長い旅はな、頭からハートへの旅なんだぞ』って。酔っぱらいの戯言だと思ったけど、もしかしたら、酔ったからこそ言えた、本音だったんですかね」
「いいお話ですね」
「水色は……、自分のハートにいるんでしょうか」
「わかりません。でも、あなたはあなたのハートに入ればいいと、そう思います。相手の中に見えているのは自分なんですから。あなたがそうなれば、水色くんもきっと」
「そうか、そうですね」
「わたしはそうなって欲しいと思ってます。ノートルダムの人たちもそうなっていたら、もしかしたら全員幸福になっていたのかもしれませんね」
確かにそうだ。立場。慣習。常識。豊かさ。醜いという、あるいは自分は被害者であるという思い込み、自分以外のものに自分の力を明け渡したものたちが自分を取り戻すことなく苦悩したまま生を終えた。それはそのまま俺の映しだった。だが俺はまだ生きている。生きてさえいれば、彼女の言う通りいつだって『ここから始める』ことはできるし、始めるとすればそれは『今』だろう。
「今日はありがとうございました。お会いできてよかったです」
そういって彼女はまた、丁寧に頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」
「今度は葉書を書く時はきちんと投函します」
そういって笑う。俺も苦笑しながら「ぜひ、そうしてください」と返した。
熊崎裕子と別れたあとも、俺はなんとなく帰りづらくて街をぶらついて過ごした。
夜の8時をすぎて、ようやく帰る決心がついたのは、餌がなくて不貞腐れる猫の顔が頭の中でどんどん大きくなってきたからだった。
「ただいま」
家に帰ると水色がコンビニで買ってきたらしい大量の酒を開けて一人で飲んでいた。一人で飲む時でもグラスにきちんと注いで飲むのが、水色のいいところだ。
少し拗ねたようにスマートフォンをみながら「おそいよ」と言った。
「ラインしたのに」
「え、ああ、ごめん、気がつかなかった。なんだった?」
「いいけど。大したことじゃないし。それよりなんか作って。お腹すいちゃった」
「もう飲んでるのか。珍しいな」
そういいながら冷蔵後に向かって、中身をみながら献立を考える。
「うん。まあね」珍しく歯切れの悪い水色。
「一人で飲んじゃってごめん」そんなことをいう。
酒が苦手な俺が家で飲む事はめったにない。俺に合わせて飲まずにいるのを申し訳ないと思っていたので、飲みたい時には飲んで欲しい。
そう言うと。すこし嬉しそうな顔をして「九郎もたまには飲まない?」と言ってきた。
「そうだな。そうするか。明日も休みだし」
「もうずっと休みじゃん」そう言って笑った。
ありあわせで作った和風パスタっぽいものと、野菜炒めっぽいものをつまみにビールを飲む。水色は二缶めにして、なんとかいう苺のイラストを描いた缶の甘いお酒をのんでいる。顔どころか腕や胸元までほのかに赤い。
「あのさあ」しばらく黙っていたと思ったら唐突にそういった。
「あれ……、みたよね?」
「あれって?」
「葉書」
「ん…… まあ」
「そか。…… ごめんね」
「なにが?」
「なにがって…… まあ…… その…… 住所勝手に教えちゃったこととか……」
「いや、謝るのはこっちだ。勝手に読んじゃった」
熊崎さんに会ったよと伝えようかと思ったが、なんとなく言いそびれてしまった。いまの状況で伝えても混乱するだけのように思えた。
「アイス買ってあるけど食べる?」俺は代わりにそう言った。
「いま飲んでるんだよ。食べるわけないじゃん」
「そっか」ビール1缶で充分に酔える俺は、立ち上がってアイスをとりにいった。戻ってきた俺をみて水色がいう。
「え、なにそれ、ずるい。雪見だいふくじゃん」
「そうだけど」
「一個ちょうだい」
「いいけど、さっきいらないって…」
「だって雪見だいふくだって言わなかったじゃん」そういいながら手をのばす。
暫く二人で黙って雪見だいふくを頬張った。
いつの間にか部屋に入ってきていた猫がお前たちだけなにを食っているといわんばかりにニャーニャー鳴いた。俺は笑ってカリカリをだす。猫はしばらく匂いを嗅いだあと、「我慢してやる」と食べ始めた。
「そういえばさ」すっかり酔った水色がやや気だるげに、しかし楽しそうに話し始める。
「今日、会社で聞いたんだけど、カラスってホントは黒くないんだって」
「どういう意味?」
「いや、意味っていうかそのまま、そうなんだって。なんか、カラスって色んな色がまぜこぜになってて、それが黒く見えてるだけなんだって」
「へえ」
「いつか、九郎さ、『おれはカラスだ』って言ったじゃん。あれ、ほんとうにそうなのかもね。色んな色がまぜこぜになってるの」
そういって、新しい缶に手を伸ばして開ける。かなり酔っているのか、そのまま飲もうとしたことに気づきコップに注ぎなおしている。心なしか楽しそう。
「そんでね、そんでね。黒く見えてるのは人間にだけでね。カラス同士にはさ、カラスって青く見えてるらしいよ。だからさ、もしかしたら僕もカラスかもって思ったんだよ」
水色のよくやる論理の飛躍。多分こいつは自分で思ってる以上に頭がいい。俺は時々ついていけなくて困惑することがある。でも今はなぜだかそれが妙に心地よく染み渡った。
「なんでだよ」
「僕にも九郎がさ。綺麗な青色にみえるときがあるからさ」
運命の瞬間というのは、たいしてドラマチックでも、ましてや運命的でもない。それはあきれる位日常で、あきれるくらいなんてことない一瞬としてやってくる。
考えてみれば今日一日だけでも、その瞬間はいくつもあった。要はそれを大切な一瞬なのだと感じ取れるかどうかだろう。
俺はその小さな歯車がカチリと音を立てて嵌ったような感覚を感じていた。
俺は新しいビールを開けると、そのまま一口のんで口を湿らせた。
「水色。話があるんだ」
カリカリを食べ終った猫がベッドで丸くなろうとしていたが、それを聞いてか「がんばれ」とでも言うように大きく尻尾を振って出ていった。気の利く猫。
これからどうなるかはわからない。そもそもこれだけ酔っていたら覚えているかどうかすら怪しい。だけど例えそうでも、いつだって、『ここから始める』ことはできる。
全くいままでの俺らしくないかもしれない。でも俺は俺にしかなれないし、俺は俺になりたいと、生まれて初めてそう思った。
ようやく、そう思えたのは、水色の光のせいだ。
あの水色の光がそうさせたんだ。
あの水色の光がそうさせた タビサキリョジン @ryojin28
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