カラスの章:3

 俺は、すでに立ち上がりかけていたが、熊崎裕子の視線はこちらに真っ直ぐ向いている。

 俺は軽くため息をついて、もう一度熊崎裕子の隣に座り直した。


「私の名前、ご存知なんですね。」

 俺の着席を待ち、十分に余裕を持って、ゆっくりと、熊崎裕子はそう言った。

「え、あぁ、まぁ、それは、たまたま」

 こんな時一体、何と言えば良いのか。

 彼女から視線を外して、しどろもどろになっている俺。

 熊崎裕子は笑みを絶やさず、

「私と水色くんとの関係も知ってらっしゃるんですか?」

 と言った。

「ま、まぁ、大体。いや、聞いたこととはないっすけど……」

「そうなんですか」

「まあ、想像でしかないですけど……」


 お前が出した葉書に書いてあった事しか知らねーよ。

 そんな風に言えたら、俺はもう少し生きやすかっただろうに。

 訪れた空白を埋めてくれたのは、やはり熊崎裕子だった。


「水色くんは、いつもおうちでどんな感じなんですか。」


 オープンクエスチョンにも度が過ぎるよ。こんな時、何と言うのが良いのだろうか。コミュニケーション強者達は何て答えるんだ?


「まあ普通ですよ。たまに図々しいとこもありますけど」

 ほら見ろ、俺はこんなことしか言えない。

 だけど驚いたことに、詰まらなそうな顔をすることもなく、熊崎裕子はニコニコとしている。


「熊崎さんはどう思われていたんですか」

「え?」

「いや、水色のこと、どんなやつだと思ってるんですか。」


 相手がどんなカードをもっているのか分からないが、そもそも俺はどのカードまでなら使って良いのか分からない。熊崎裕子はどうして俺と話がしたいんだ。というか、そもそも俺はなぜこんなにも動揺しているのか。


「とっても好きですよ」

 彼女は笑ったままそういった。

 ズシンときた。もっと取り乱すかと思ったが、俺の心はどんどん深く沈んでいく。

 同級生ばかりか親さえも味方だと信じられていなかった幼少期をすごした俺の得意技。感情が強く動く時、人に対してそれをみせられずに感情が動かなくなる。

「そうですか」

 そういって沈黙する。

「ええ」彼女はそういって微笑み、再び立ち上がりながらつづけた。少し痛そう。だが手を貸す気までにはならなかった。

「いえ……、 正確に言えば。好きでした。とっても」

「 …… そうですか」俺も立ち上がりながら続ける。

「もし、お時間あればなんですけど、どこか移動して落ち着いて話しませんか。駅の方に行けば喫茶店くらいありますから」

 俺はもう1度ため息を着いた。こういう、逃げようと思えばいくらでも逃げられる事からは、逃げない方がいい。



「いまさらなんですけど、これ」

 そういって、熊崎裕子は名刺とA5サイズの小さなリーフレットを差し出した。

 リーフレットには『新しい家と暮らしの新提案、ライフスタイルズ』と書いてある。

「雑誌の紹介用のものです、いまこういう雑誌を作ってる会社で働いていて、最近この辺りのお家にインタビューにくることが多いんです。…… それで、つい……」

 少し上目づかいでこちらを伺う。あざとさがないのが逆に腹が立つ。バッチリ水色の好きそうなタイプ。

「…… っていうか、読みましたよね? あの葉書」

「ええ、すみません。読むつもりはなかったんですが。…… いえ、読もうとしました。自分の意志で」

「正直なんですね」

「嘘をつくのが面倒なんですよ。最後まで嘘をつき続ける覚悟も思いやりも持てそうにないから。…… それに」

「それに?」

「自分がどんな嘘をついたのか最後まで覚えていられる自信がない」

 熊崎裕子は少しだけ笑った。

 そして、「嘘なんかつかない方がいいです」と、そういった。

 過去になにかあったんだろうか。そう聞きたくなるような少し意味あり気な言い方だった。

 だが俺はそれに気づかなかったふりをする。そして新たに言葉を紡ぐ。

「実はこれは嘘です。俺は、自分には嘘ばかりついています」

「みんなそうですよ。わたしも」

 少しの沈黙。


「熊崎さんはどんな嘘をつくんですか?」

 熊崎裕子は一瞬、恥ずかしそうな表情を浮かべたが、素直に答えた。

「…… よくよく考えてみたら…… のところですかね?」

「え?」

「葉書には、どこかで聞いた住所だと思って、なんて書いちゃいましたけど……、本当は、仕事でこの辺りの案件があがってきた時、すぐに思い出したんです。それに実は自分から、「これやらせてもらえませんか?」って、希望しました」

「そうですか」

「あ、でも、実際にあんなことしちゃうなんて、そこまでは思ってませんでしたけど、なんかちょっとやりすぎちゃいましたね。恥ずかしい」

 そういって本当に恥ずかしそうにした。俺はなにを言うかに困って話題を逸らす。

「絵、お上手なんですね。デルフィニウム。あなたは幸福をふりまく…… ですか」

 そういうと、熊崎裕子は少し嬉しそうにわらった 。

「ありがとうございます。水色くん、絵を描いてる私が好きだっていってくれてたから」

 俺はますます無表情になる。またひとつ自分に嘘をついたのを感じた。


「あなたはなにが得意なんですか?」

 少しの沈黙の後、彼女はそういった。

「いや、おれは別に……、なにも」

 これは本当だ。自慢じゃないが特に人に誇れるようなことはなにもない。

「そんなことはないはずですよ。なにもないなんてことないと思います」

 ありふれた言葉だった。

 こんなありふれた言葉を発するタイブにはみえないが。俺は少し不思議に思いながらも聞いてみた。

「なぜですか?」

「水色くんが好きになった人だからです」

 俺はおもわず天を仰いだ。神に祈りを捧げるかわりに思い出したのは猫のことだった。

 猫がここにいたらなあ。

「水色と俺はそんな関係じゃありませんよ。それに、こんな事いうのも最近じゃ問題になるのかもしれないけど、男同士ですよ」

「それがなんの関係があるんですか?」


 またしても熊がその強烈な爪撃で俺の頬をぶん殴った。

 それは確かにありふれた言葉だ。だがそう思うのは他人事だからだ。いわれてみればわかる。当事者になってみれば、ありふれていようがありふれていなかろうが、その重みは変わらない。

 鳩尾が重い、屈強なロシア人に力いっぱいパンチを入れられたみたい。

「水色くん、何かに一所懸命な人が好きなんです、一所懸命生きてる人」

 知ってました? といわんばかり。いや、それは気にしすぎか。いかん、もっと冷静にならなくては。


「水色くんてね。いつでも笑ってて楽しそうだけど、本当は考え込むタイプなんですよ。だけど自分に一番大切なものが何かをちゃんとわかっている。でも多分嘘をつくのが凄く上手で自分を騙すのが上手いんですよ」

「俺にはそうは思えません」

「あなたは、嘘をつくのがヘタそうですもんね」

 そういって熊崎裕子はコロコロと笑った。これは怒っていいところだろうか? 迷っているうちに怒りそびれてしまった。

「ヘタなのに嘘をつき続けているから苦しいんじゃないですか?」

「え?」

「私ね。世間で言われているほどに恋愛っていうものに価値を感じていなかったんですよ。それより自分自身になりたかった。同級生なんかがどんどん結婚していっても、あまり焦ったりしなかったんです。わたしがなりたかったものを持ってる他人と付き合ってもわたしがなりたかったものになれたわけじゃないって、どうしても思ってしまって」

 それはすこしわかる気がする。

「だからなにかになりたくて、色んな事をしました。資格をとったり、ピアノを練習してみたり……、絵を描くのもそう。それぞれはそれなりに楽しかったし、それがいまのお仕事の役に立っていたりするから全く無駄だったとは思わないけど、それらが本当に私のやりたいことだったのかというと今でも疑問なんです」

「それは、なにかをやるためになにかをやろうとしたんじゃなくて、なにかをやることで自分自身になろうとして、なにかをやろうとしたからではないですか?」

「ええ。本当はなににもなる必要がなかった。だって自分自身なんですもんね。でもそう思えたのは最近です」

 そういって、彼女はこちらをまっすぐに見た。なにが言いたいのかわかった気がする。この人も苦しかったのだ。


「確かに嘘をついているのかもしれません。自分に」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。言葉は不自由。思ってる事の10分の1も伝えられる自信がない。だから俺はいつも沈黙するしかなかった。


 少し長い沈黙の後、先に口を開いたのは彼女だ。

「ノートルダム・ド・パリって小説があるんですけど」

 あまりにも唐突な話題の転換。

「ヴィクトル・ユゴーの?」

 そう返すと彼女は少し微笑んだ。ディズニーのノートルダムの鐘の元になった話だが、あれはハッピーエンドにするために無理矢理改変してあるようだ。俺はディズニーの方は見たことないのでわからないが、世間的には原作を読んだことのある人の方が珍しいと思う。

「そうです。その中で踊り子のエスメラルダが恋とはなにかと問われて「二人でいながら一人になってしまうこと」って言うのが凄く嫌いで。誰を好きになってもわたしはわたしだ。と思っていたんです」

「ああ、なんとなくわかります。友情とは魂が触れ合うが溶け合ってしまわない、2本の指のようなもの。でしたっけ。確かに、そっちの方がいいなと思った記憶があります」

「エスメラルダが好きになるのは、ハンサムだけど浮気者の典型的な勝ち組ですしね。なんで凄く清純な娘として書かれているのにそんな男の人を好きになって死んじゃうんだろうってすごくムカムカしてました」


 この人は、きっとすごく真っ当でいい人なんだろう。この人がいま付き合っているというのがどんな人なのかわからないが、なんだか少し羨しいような気がした。


「でも」と、熊崎裕子はそう続ける。

「人が誰かを好きになる時って、わけがわからないじゃないですか。なんだかわからないのに好きになるし、どんなに理屈をつけたって嫌いになれなかったりする。それってきっと、相手の中に自分をみているからなんですよ。

 相手のなかに見えている魅力的な部分は、私のなかにちゃんとある、まだ見えていない魅力的な部分。そういう自分の魅力的な部分を教えてくれる、そういう「新しい自分に出会わせてくれる」そんな人を、運命の人だっておもうんじゃないんですかね?」

「鏡をみているみたいに…… ですか」

「そう鏡をみているみたいに」

 どこかで聞いたみたいな話だ。というか自分でも同じような事を言った事がある。だけどなぜか胸が痛んだ。

「でもだったら……、もしそうだとするなら、僕たちは誰とも出会っていないということにならないですか?」

「もしかしたらそうかもしれません。でも誰だって自分にない素敵な所をもっている。だからって誰でもかれでも好きになるわけではないでしょう?  仮に好きになったとしても、それが幸せなことかどうかはわかりませんし、周りに認められるかどうかもわかりません。でも出会ってしまったのですから。自分自身に。それは受け入れるしかないんです。

 1つになるっていうのは、別々の2つが1つになるんじゃなくて……。元々1つだったのに、2つだと思い込んでいたものが1つに戻る。エスメラルダはそう言っていたんじゃないのかなって。ある時、そう思ったんです」

「ああ」

「そう考えたらね、エスメラルダのお話が許せるようになりました。少なくとも彼女は自分に嘘はついていなかったと思いますから。

 だけど、それはそれだけのことで、なんていうか環境とか…… 条件は関係がないんだと思います。たとえ男同士だったとしても。ただ世間のいう『普通の恋愛』みたいな色眼鏡を外してしまえばいいんです」

「いや、そうは言っても…… 」

「恋愛だと思うからおかしいことになるんです。あなたがあなたに出会って、一人に戻ったと考えたらどうでしょう。あなたは水色くんに、水色くんはあなたに。お互いの姿をみた。それに世間や常識は関係ないと思います。それにフェビュス隊長が最後にどうなったか、ご存知でしょう?」

「ええ」


 フェビュス隊長というのは、踊り子エスメラルダの想い人だ。地位も名誉もあり、婚約者さえいるのにエスメラルダをもてあそんだ男。その一文は凄く衝撃的だったので俺も良く覚えていた、読んだ当時は、どうしてなんの罰も受けないのかともやもやしたが。

 この話はとにかく、主要な登場人物のほとんどが、苦悩し葛藤する。その中でおそらく最も苦悩しない人物である彼の後日が物語の最後に、たったの一文で語られる。『フェビュス・ド・シャトーペールもまた悲劇的な最後をとげた。彼は結婚したのである』と。


 与えられた環境の中で最も得をする選択が、自分の形に触れる事無くなんの苦悩もしないことこそが、悲劇であると、この人も感じたのだなと思った。

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