カラスの章:2

慌てて玄関を開けて外をみるが、すでに誰もいない。もう一度葉書に目を落として、さっきよりもう少しゆっくりと読む。


やばい。すまん猫。もう一度甘えてくれないと立っていられなさそうだ。

ちらりと猫を見ると大きく尻尾を振りながら冷たい目でこっちをみていた。「自業自得だ」といわんばかり。誤解だ。俺がなにをした。


冷蔵庫から牛乳をとりだせるまで落ち着くのに、深呼吸が5回必要だった。コップに注いだまではいいが、正直全然飲みたくない。


「自分ん家あるのに、人ん家の住所教えるなよー」

なぜか、もの凄く情けない声がでた。


水色は仕事が忙しく、帰宅が深夜に及ぶことも珍しくない、最初は俺の家の方が会社に近いとかいいながら泊まりにきていたが、そのままこっちに帰ってくるようになるのに然程時間はかからなかった。だがなにせ狭い部屋なので二人分の荷物を置いておくスペースもなく、水色もまだ自分の部屋を引き払ってはいないはずだ。


だが…

「暮している住所……、暮している…… か」


『暮している』という言葉を水色が使ったという事が、妙な実感となって腹の上、心臓の下あたりでもぞりと動いた。なんと表現していいものかさっぱりわからないが、それはなんだか温かく、そんなに悪い気分でもない。だがそれと同時に、水色の個人的な過去にあいつの同意なく触れてしまった事に激しい自己嫌悪が頭の中で渦巻き自分を縛り上げているのを感じてもいた。


熊崎裕子という名前を水色の口からきいたことはないはずだが、それだけについ二人の間にあったことを想像してしまいそうになる。俺の中のまともな部分を総動員して想像が広がるのを必死でこらえる。

なんでそんなことをしているのかさっぱりわからないが。

ともあれ、これは俺が読んではいけなかったものだ。葉書を裏返してしまったことに後悔しながら、きっとなんてことないはずの些細な事柄を考え過ぎては勝手に落ち込む俺の性質を呪った。


熊つながりでなのか、前に鍼治療を受けた時のことを思い出した。その時に当たったのが熊みたいな風貌の鍼灸師だったのだ。

その鍼灸師は顔に似合わない高い声で「お兄さん、察しがよくて、考えこむタイプでしょう。頭に気が登りやすい性質だね。そういう人はこうなっちゃうんだよ」と笑われたのを思い出した。

なぜ笑われたのかって? 頭に刺した鍼の跡から血が出て止まらなくなったのだ。くそ。当ってるよ。というか笑うな。


たくさんの感情が同時にやってきすぎて気分が悪くなってきた。猫、ああ、猫はどこに行った。

水色との過去の事が綴ってある。そのことに寂しさともやるせなさともとれる感情を感じていた。ほんの少しの安心とそれよりほんの少し多い嫉妬も。


眉間の辺りがうずいてるような気がする。また血がでてきたらどうする。熊崎さんよ、爪痕を残したかったのなら大成功だ。全然違う男にだが。


この葉書をどうするべきか少し悩んだ後、テーブルの上に置いておく事に決めた。水色に嘘をつくのは嫌だった。


テーブルに乗ったままの食器などを片付けて、汚れないように天板を拭いてから、少し丁寧に葉書を置く。その時にまた気づいた。


淡い水色で描かれた花の挿し絵。その描いてある花に。


「デルフィニウム、あなたは幸福をふりまく…… か」

熊崎裕子さん、あんたセンスあるよ。


今日は一日、家でダラダラ過ごすつもりだったが、このままだと、水色が帰ってくるまで悶々と過ごすことになってしまいそうだった。どこでもいいから外の空気が吸いたい。


もしかしたらまだ部屋の中に猫がいるかもしれないので。ベランダを少しだけ開けた状態にして、俺は外に出ることにした。


平日昼間の住宅街は静かだ。

アパートから1番近くにあるコンビニまでは歩いて10分弱。住んでから長い上に他のコンビニも全然出来やしないので、俺はぼーっと歩けば、特に道のりを考えなくてもそのコンビニに着くことができる。


俺は出来る限りぼーっとしようとしたが、歩いて15秒でそれが無理なことに気づいた。。


熊崎裕子は、どんな人だろう。

俺は、水色の、人への接し方が好きだった。繊細で優しい。感受性が鋭く、人が負った心の傷に敏感に気づく。なのにそれに触れることなく、穏やかに笑いながら、そいつを受け入れていく。


そんな水色だから、水色の周りには、明るい人たちと同じくらい、どこか傷を抱えた人たちが集まるようなイメージが俺にはあった。

熊崎裕子はどちらだろうか。


そんなことを考えていたら、コンビニに着いた。

朝食もとっていなかったので、少し空腹なはずなのだが、どうにも食欲がわかずに水だけを買う。コンビニの外にある、車止めのポールに腰かけ、これからどうしようかと考えた。

少し歩くことにはなるが、ちょっと大きめの公園があったはずだ。町中で腐ってるより随分マシな気がしてそこまで歩こうと足を向けた。

長く住んでいるといっても、街の隅々まではなかなか目を向けていないものだ、古く狭い昔ながらの家も多いが、小奇麗なマンションやそこそこ大きな一軒家もちょこちょこと増えているし、ガレージにも外車や高級車が並んでいる。

日本も不景気だと言われて暫く経つが、一向に上向く気配がないのは、そもそも不景気なんて関係ない人たちも結構いて、そういう人たちには不景気の実感なんかないからじゃないだろうか。


小さく短い悲鳴が聞こえたのはその時だ、振り向くとロードバイクに乗ったおっさんが、住宅地でだすには早過ぎるスピードですり抜けていった。

見ると、スーツ姿の女の人が倒れている。さっきの自転車に引っかけられたようだ。

辺りを見渡すが人通りもなく、遠くの方でこちらを見ている老夫婦がいるくらい。俺は近づいて声をかけた。


「あの……、大丈夫っすか?」

「え? ええ、ありがとうございます」

「救急車とかいりそうですか?」

「あ、いえ少し擦りむいただけみたいです」


見れば膝から血を流していた。少しというには、ちょっとばかり深そうだったが、たしかに救急車を呼ぶほどでもなさそうだ。幸い小さな児童公園がすぐそこにあったので、よければ、そこのベンチで手当てしましょう、と持ちかけた。


手を貸しながら小さな公園に入る、断ってからストッキングを破って、水飲み場の蛇口で傷口を洗った。痛そうにしたが、すみません、と謝りつつ、傷口の奥まで洗う。

ベンチに座らせてから、

「4分30秒だけ待ってて貰えますか?」

そういって、コンビニまでダッシュ。ファーストエイドに必要なものを買い込んで急いで戻る。

日本は便利だ。

もしかしたら居なくなっているかもと半分くらい思ったがちゃんと待っていた。


「ありがとうございます」

手当てが終ると、女性は丁寧に礼をいった。よくみれば黒髪で眼鏡のスレンダーな美人。

「失礼でなければ、なにかお礼を」

そう言って大きなブリーフケースから財布をだそうとしたので慌てて止めた。

「いや、やめてください。そんなつもりじゃないんで」

「いや、でも、包帯とか買って頂いたし」

「ほんとうに。そういうつもりじゃないので」


俺はこういうとき、あきれるくらいに仏頂面になってしまう。言葉もうまくでてこない。こう言うのは水色が抜群に得意だ。


女性は諦めたように「じゃあ、せめてお名前と…… ご住所教えて頂けませんか? あとでお礼状送りたいので」と言った。

これ以上、問答を続けても埒が明かなさそうだ。俺はボソボソと住所と名前を告げた。


「じゃあ、気をつけて……。あ、そうだ、これ。サイズとかわかんなかったんで適当ですけど、よかったら」

そう言って、さっきついでに買っておいたストッキングを渡す。

女性は少し面食らった顔をしたが素直に受取って礼をいった。

「あ、あとこれも、痛み止めです、痛むようなら飲んでください。これ水」

「は、はい。ありがとうございます」

「あと、温かいお茶飲みます? ジャスミン茶だけど飲めますか? すこし落ち着くと思います」


女性は突然くつくつと笑い出した。

突然どうした。

「ごめんなさい。でも……」

ひとしきり笑うと顔を上げて「お優しいんですね」と言った。

よく見ると、少し涙目になっている。なにがおかしかったかはわからないが笑いすぎだと思う。


女性は、笑いが収まると、こちらを見た。そして、

「聞きたい事があるんですけど……」

まだ少し笑みを残しながらそんなことを言った。

「なんですか?」

「さっき包帯買いにいってくださった時、4分30秒待っててっていったのってどういう意味ですか?」

拍子抜けした。そんな事を気にしてたのか。

「いや深い意味はないんです。でもキリのいい数字をいうより、キリの悪い数字を言った方が、具体的な気がしてがんばりやすいんですよ。1時間待てって言われるより56分だけ我慢しろとか言ったほうが耐えやすいんです」

「へえ…… 。でも、確かに」

「それだけです」

「そうなんですか。応急処置も手慣れてらしたし、なにか医療関係のお仕事ですか?」

「いや、そんな仕事してたら、こんな平日の昼間から、ぶらぶらしてませんよ。昔、海外ボランティアで少しだけニュージーランドにいったんです。山ん中で鳥類の調査をするっていう。大学の。その時に少し」

「そうなんですね。そのことを水色くんは知っているんですか?」

「いや、水色には…… は?」

絶句した俺に追い討ちをかけるように意地悪な神様が試練を与えんと女の姿で目の前に降り立った。

「はじめまして、熊崎裕子といいます」

そういって女性は綺麗なお辞儀をした。俺はといえばただただ間抜けな顔をしてそれをぼんやり見ていることしかできなかった。

いまこの瞬間地球上にいる人類のなかで一番間抜けな顔をした自信がある。


「ストッキングが黒いのは包帯が目立たないようにでしょうし、水とお茶はミニボトルだし、負担にならないよう、細かくお気遣い頂いてるのはわかります。水色くんもそういうところが好きになったんですかね」

「は……? 好き? いやそんな好きとか、そもそも俺達はそういう関係では……」

しどろもどろになった俺に熊崎裕子はこういった。


「よければ、すこしお話しませんか」

熊の痛烈な一撃。

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