カラスの章:1
屈託なく笑う水色が嫌いだった。
あいつはいつだって楽しそうで、誰にでも愛想がよくて、全てに愛されていたから。
あいつの笑顔を見るたびにめちゃくちゃに壊したくなった。
自分が僻んでいるだけだっていうものわかっている。でもそれを認めるには俺は弱過ぎた。
俺は屈託なく笑うことなど許されていなかった。いや、誰に禁じられたわけではない、誰のせいでもないことなんか最初からわかっている、それは自分でそうなっただけだ。
でも、それでも、あいつの中の光は俺には眩し過ぎた。
小さい頃から本を読むのが好きだった。本を読んでいると親は褒めてくれたし、周囲にも頭が良いともてはやされていた。それも学校に入って成績がつけられるまでの事だったが。それでも学校にあった図書室は夢のような場所だった。
鳥や、動物、昆虫や自然、世界の神話や不思議な出来事、或いは建築物、歴史に埋もれた小さいが意外な事件。そういうものが好きで、ワクワクしながら入り浸り、読みあさった。
だが、勉強自体にはあまり興味が持てなかったので、当然成績はあまりよくなかった。
ある時、俺の好きだった事は「それは、学校の勉強には必要のないことなの」と、度の強いメガネをかけた痩せぎすの女教師に否定された。
同級生が楽しそうに笑う話が面白いと思えず、おれの好きな話をするとやつらはつまらなさそうな顔をして、(あるいは実際にそう言って)俺から離れてどこかに行った。
早生まれで身体も小さく、成長期を向かえて身体ができあがるまで、体育の成績は悪かったから、主流のグループ(小学校時分によくあるクソみたいなあれだ)には入れてもらえず、仲の良い友達はいなかった。
それでも、本を読んでいる間は幸せだったから、俺の本を読むペースはどんどんあがっていった。もしかしたら周りには逃げてるように見えていたかもしれない。それでも俺は幸せだった。
ある時、母親が、あまり良くない数字の並んだ成績表を見ながら呟いた。
「あんたなんか産まなきゃよかった」と。
言葉をしゃべるのが遅かった俺を、走って友達に追いつけずに泣く俺を、周りと同じにできない俺を、自分に答えられない質問をしつこくする俺を疎ましく思ってたと。本を読む事を褒めたのは、本を読んでいる間は静かだったからだと。
俺の好きだった事は、俺の得意だったことは、唯一褒められ俺の誇りだった行為は、社会にも許されず、親からさえも、愛されていたからではなく、愛されていないから許されていた行為だった。
それに気づいた時、俺は自分がカラスだった事を知った。黒く、醜く、喧しく、疎まれ、小賢しい、なんの価値もないありふれた鳥。
安アパートの薄い窓ガラスに映る、どんよりとした曇り空と、電線の上でなにかを見つめる一羽の鴉を眺めながら、俺はそんな事を思い出していた。
「九郎……、九郎ってば」
声によばれてふと目をやれば、水色がベッドに腰掛けて屈託なく楽しそうに笑っていた。
俺は考えていたことを知られたくなくて、唸りながら寝返りを打った。
「何、まだ眠たいの?」
「うん、まぁ」
「仕事は」
「今日休み」
本当はずっと休みだ。
「良いなぁ。じゃあ僕は行くから。」
そう言って水色は立ち上がり、鞄を持って部屋を出て行った。
そうか、もうそんな時間か。
電線にはまだ鴉が止まっている。起き上がるのが何となく億劫で、あの鴉が飛び立つまで寝てても良いことにしようかとも思った。
俺はフリーランスの雇われみたいな仕事で食い繋いでいるので、休みが不定期で、最近は仕事がめっきり減ってしまったからこうして家でゴロゴロしていることが多くなった。
水色はサラリーマンだから平日は毎日出勤している。
学生の頃から住んでいるこのアパートはかなり狭い。引っ越せばいいようなものだが、家賃が安いのと大家のお婆さんがおおらかな人で、あまり煩くなく、孫に似ているとかで可愛がってくれているので、なんとなくこちらも愛着が湧いて、いまだに住み続けている。住人も少なくて、隣も階下も空き部屋のはずだから、経営自体を心配してしまうが、大家さんは気にする事もなく、時々「作り過ぎた」と言っては、煮物などを差し入れてくれたりする。
狭い部屋『なのに』なのか『だから』なのかはわからないが、水色がでていっただけで、やけに空虚に感じられた。
「あんなにちっちゃいのにな」
水色は背も低くかなり華奢だ。もっとも本人は気にしているらしく、そのことに触れるといつも不貞腐れたような顔をする。
「グガ…」
おかしな声が聞こえたのでドキッとした。
「なんだ…… 猫か」と俺はいまどきドラマでも言わないようなセリフを口にした。
多分雑種で、ハチワレといっていいのか、白黒といっていいのか微妙な模様をしている。
猫は、窓際で外を眺めながら退屈そうにあくびをしていた。
こいつは、ある日帰ったら、どこから入り込んだのか布団の上でグーグー寝ていて、俺もまあ猫は好きなので、つい仏心をだしてツナ缶開けたらペロリと平らげ、「もっとないのか」と催促をした図々しい野良猫だ。それ以来、腹が減ったり寒くなると勝手に入ってくるようになった。
飼っているわけではないので俺は「猫」と呼んでいる。
鼻の辺りに小さく黒い模様があるので、水色は「ハナクソ」と呼んでいるが、当の
飼っているわけではない、といいつつ、具合が悪くなれば医者にもつれていくし、予防接種もしているし、餌だって買ってある。しかもこいつは機嫌が悪いとカリカリを拒否して、生タイプの缶詰めを要求するグルメなので、半野良のくせにやたらと毛艶がいい。
今日は機嫌がよかったようで、小皿に出したカリカリを食べ終ると、再び寝っ転がった俺の股の間で甘え始めた。
場所についてはどうかと思うが、こいつなりの優しさだろう。こいつは賢いところがあって、普段は自由にすごしているくせに、俺が、仕事で嫌なことがあってむしゃくしゃしていたり、疲れていると、そっと寄ってきて甘えたり膝の上で眠ったりする。「気にするな」と言っているように。
かわいい。賢い上に優しく更に可愛いとは、やはり猫は最高だ。ふと窓の外に目をやると、いつのまにかさっきの鴉はいなくなっていた。俺はようやく起き上がる気になり、半身を起こすと猫を抱き上げ、可愛い可愛いと呟いた。
「うん、可愛いなあ。水色の次に可愛い」
なんだと? いまなんていった? うっかり口をついてでた言葉に動揺する。でかけたとわかっていながら一応辺りを見回した。よかった。聞かれてたら後からなにを言われるかわかったもんじゃない。
朝の暗い気分はすっかり消えていた。いずれ向き合う時がくるのかもしれないが、それでもなんとかなるだろうという気持ちにはなっている。猫が用はすんだと言うように、或いはあきれたように、迷惑そうな顔をしながら腕から抜け出していった。
コトリ、と小さな音がしたような気がした。
僅かに逡巡はしたものの、結局立ち上がり郵便受けの中を覗く。
葉書が入っている。
綺麗な、おそらくは直筆の絵葉書。
宛先人のところには水色の名前が書いてあった。そして、切手が貼ってない。
差出人の住所は無く、名前のみ「熊崎裕子」と控えめな字が並んでいた。
少し迷ったし、後悔するのはわかっていたが。俺は再び葉書を裏返していた。
流石に封書を開けたりはしないが、そこに文字が書いてあったら読みたくなってしまうのは文字読みの業だ。いや、言い訳だということは百も承知だ。
淡い色で描かれた花の挿絵と共に、葉書にはこう綴られていた。
『元気にしてますか?最近仕事でこの町をまわることが多いのだけど、何か聞き覚えのある住所で、よくよく考えてみたら、貴方が暮らしていると教えてくれた住所がとても近いことを思い出しました。静かな町だね。実はまだ水色くんに直接会う勇気がなくて、でも爪痕を残したくて(笑)、あえて葉書を書いてみました。嫌だったら無視してね。私は楽しく生きてます。実は最近職場の方とお付き合いすることになりました。とっても良い人だよ。 裕子』
俺は早速それを読んでしまったことを後悔した。
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