あの水色の光がそうさせた
タビサキリョジン
ハクセキレイの章
波紋の残る水たまりに国道を通るトラックの明かりが流れ映る。それをぼんやりと眺めながら彼は何事かをモゴモゴと呟いた。
友人関係も長く続くと、多少の行き違いや言い合いもある。
それを、なあなあにせずにきちんと話し合ってきたから、この関係は長く続いているのだと思ってる。
喧嘩というほどではないけど、最近の彼はなんだか変だった。
ツーカーでやり取りしていた以前に比べて、細かいことで引っかかる。歯車の中に砂が入り込んだみたい。
僕のためを思ってくれているんだろうけど、僕に確認してくれないから微妙にズレる。
ありがた迷惑みたいに思いたくないから、雨は降っていたけど、一緒に夕食を食べに行ったついでに少し遠回りして、夜の公園で少し話した。
僕もあまり話すのが得意じゃないから、変な言い方になっていないか気をつけた。
でも彼は小声でモゴモゴと喋るのだ。
雨音が邪魔してなんと言っているのかよく聞こえない。
なんと言っていいかわからずに彼の顔を眺めていると、少し照れ臭そうに笑って顔をあげこちらをみた。やがて小さく、でもさっきよりは少しはっきりとこう呟いた。
「理由なんてない…… けど」
「けど?」
「そうだな…… 強いて言えば……」
「うん」
「あの水色の光がそうさせたんだ」
沈黙。それはほんの僅かだったのだろうけど、どう答えようかと悩んでいた僕には、とても長い時間に思えた。
ちょうどその時だった、ゆっくりと曲がっていったトラックの明かりが、水たまりに流れ、それが水色に見えた。その水色の光は軌跡を描いてすぐに消えた。
「ぼくにも見えたよ」
「え?」
「光が水色に」
それは正しい答えだったのかわからない。多分間違っているんだろう。だって彼はなんと答えたものかと、変な顔をしている。
彼はいつもよくわからない変な言い回しをする。質問してもきちんとその答えが返ってくることは稀だ。
でも、そういう言葉を選べる、彼の感覚が好きだなと思った。それは僕にとって、とても大切なことだった。しばらく僕たちは言葉もなく佇んでいた。
僕たちはその場を離れることが出来なかった。
ふと彼が何かに気づいた。少し離れたところに何かが落ちている。
よく見れば、それは小さな鳥だった。
彼はぐったりと横たわる、小さな鳥を、じっと見つめていた。
雨粒が容赦なく鳥の体を打ち付ける。
羽が濡れて黒い。濡れた羽は、光っていて綺麗だった。
ずいぶん長いことそうしていたように思う。
死んでいるか生きているかもわからない。気にはなったが触る勇気がでなかった。
僕はただ眺めていて、そこにある死や痛みに寄り添うこともできずにいた。それどころか彼と同じものを見つめている時間を幸福だなとさえおもった。
「鳥…… 」
いまさらに気づいたように彼が言う。
「なにか拭くものもってる?」
そういいながら近づき、なんの躊躇もなくその鳥を持ち上げる。
「生きてるみたいだ」
足に触れたり、羽を持ち上げたり、怪我がないか調べているようだった。意外に繊細な手つきだなと思った。
「なんて鳥なんだろ」
かばんにあったタオルを差し出しながら聞いてみた。
彼は迷いもせずに
「ハクセキレイだ」
と言った。
「ハクセキレイ?」
「ここは川が近いしね」
それが正しい答えなのかはわからなかったけど、きっとハクセキレイは川の近くに住む鳥なんだろう。
本当に意外なことに詳しい男だ。知り合ってから結構長い時間が経つはずなのに、僕は彼の事をずいぶんと知らないようだった。
彼は僕の渡したタオルで、ぐったりとしたハクセキレイを優しく包んだ。
「ちょっと歩こうか」
彼が歩きだしたので、ぼくは後ろを付いていった。
ハクセキレイの登場は、彼と僕の空気を少し変えた。
このハクセキレイがもしあの場にいなかったら、ぼくらはどんなやり取りをしたかなとぼんやり考えたりしていた。
彼の、さっきの言葉の続きを聞くのが、なぜか怖い。
黙って歩く彼の後ろ姿を傘越しに見ながら、彼がもし、今振り返って僕のことを見たらどうしようと思った。
「羽の付け根を怪我しているみたいだよ」
雨音にかき消されないようにする為なのか、少し張った声で、彼は背中越しに僕に話しかけてきた。思いの外に大きい声に、僕は一瞬ドキッとした。咄嗟に、きちんと反応しなくてはと焦った。
「治りそう?」
「傷?」
「うん。もしかして死んじゃったりしないかな。」
言った瞬間、僕は後悔した。軽率な発言だったかもしれない。
もしその時、時計を見ていたなら、ほんの数分の事だった事がわかったのだと思う。
彼は振り返りも、立ち止まりさえせずに歩き続けている。
彼が返事を返すまでの、その僅かな時間は、僕には1時間にも感じられた。
お願いだ。
「わからない」
「きっと治るよ」
「ダメかも知れない」でもいい。
頼むから。なんでもいいから喋ってくれ。
けれど、そんな願いは無情にも雨に流されていき、残ったのは沈黙と足音だった。
こいつはいつもそうだ、どうでもいい事はペラペラと良く喋るくせに、聞きたい時に聞きたい言葉はなに1つ言ってくれない。
わかってる。それが彼なりの正直さであり、優しさだってことも、誰よりも僕の事を考えてくれている人間の一人だってこともわかってる。でもその正直さや優しさは時に僕には冷たさと映る。情けないって自分でも思うけど、どんな形でもいいからつながっていないと怖くてたまらない人間だっているんだ。
手のひらが濡れて気持ちが悪い。それが雨のせいなのか汗のせいなのかもうわからなかった。
心臓の音がうるさい。自分がなにに動揺してるのか自分でもわからない。
彼は突然立ち止まる。僕の心臓はさらに高鳴った。
そして彼は振り向きこちらを見た。どうやったらあんな眼ができるのか教えて欲しい。何一つ明確な意味は読み取れないのに、すべてが詰まってるみたいな。深い海みたいな眼。
「羽の付け根を怪我してるんだ。」
と、そう言った。さっきと同じ言葉。でも今度はその眼と同じ深い声音で。
「だから暖めないと」
二つの言葉がどうつながるのかわからなくて、バカみたいに口をあけただけの僕に彼は続けてこういう。
「羽を怪我をしていると体温が下がりやすいんだよ。濡れていたし、早く暖めた方がいい。ほんとは野鳥を捕まえたりしちゃだめなんだけど、怪我をしてるし……、明日、役所に連絡すればいいだろう」
ほんの僅かの逡巡のあと、僕の口からでてきたのは、自分でも意外な言葉だった。
「そうやって優しくするのは、何のためなの?」
傷ついた野鳥を助けようとしている男に対してかけるには余りにも思いやりのない言葉。
自分でさえもなぜそんなことを言ったのかわからないのに、それが彼に理解してもらえるか分からない、でも声にしたら、少なくとも自分の中には納得するような、すっきりと気持ちが湧き上がっている。
ずっと聴きたかったことが聞けた。そんな気持ちがある。
彼の表情は変わらなかった。その変わらない表情を見て、僕は自分の言ったことを早速後悔した。
無言。そんな彼を見て、僕の心臓の音はさらにうるさくなった。
僕の心臓の音以外、この世界から音が消えてしまったようだ。
怖い。何か付け足したい。明らかに言葉足らずで、酷い言葉。だけど、ここで言葉を付け足せば、まるで僕が言い訳をしているようになってしまう。
彼は立ち止まって僕を振り返ったまま、こちらを見ている。彼の手の中にいるハクセキレイは、今何を感じているんだろう。
僕は一体何を願っているんだろう。
心臓の音だけの世界に、雨の音が戻ってきた。同時に彼の声も僕の鼓膜を震わせる。
その声に揺らされたように、僕の耳が次第に柔らかさを取り戻し、熱を帯びてきた。
本当にどうやったら、そんな声がだせるんだろう。
普段はぼそぼそとしか喋らないくせに、時折、人の中心に直接触れるようなそんな声を出す。
「俺は優しくなんかないよ。」
彼はそう呟いていた。手の中の小さな鳥に視線を落としていて、まっすぐこっちを見ていなかったのは幸いだ。僕の耳はまた少し熱く、火照っているのがわかる。
でも。と、そう言おうと思った瞬間だった。
「わかってるよ。そんな事が聞きたいんじゃないよな。でもな、それにはもう答えてるんだよ」
「え?」
「俺はな、優しくなんかない。俺が優しくみえるなら、それはお前のせいだ。お前の中に優しさがあるからだ。他に理由なんかない。いっただろ。最初から理由なんかないんだ、お前がそうさせるんだ。そうだろ……? …… 水色」
そういって彼は僕の名前を呼んだ。
「俺が俺でいられるのは、お前の中の光なんだ。お前の中の光が俺に色をくれる。お前は俺のハクセキレイなんだよ。」
彼の言葉が頭の中の柔らかい部分を撫でる。あれだけ高鳴っていた心臓の音はいまは聞こえず、いや、世界から音が消えたみたいだった。
「ハクセキレイは先触れ鳥だ、大事な道を迷わないように教えてくれる。ミチオシエドリなんて別名があるくらいだ。だからな水色。本当は優しいっていわれるべきなのはお前なんだよ。お前がいなければ俺は何色でもない。ただの黒いカラスだ。」
本当に意外なことに詳しい男だ。
見ると、さっきまでとはうって変わって柔らかい表情をした彼がいた。
僕の中に優しさがあるから、彼は優しく見えるのだと言った。ならこれは僕が柔らかくなったということだろうか。それとも、僕が見たいものを見ているだけなのだろうか。
「分かるような分からないような例え」
僕は言う。
恥ずかしそうに彼は答える。
「分かるように言えたことなんかない。知ってるだろ」
と言った。
知っている。
でも僕はそれを聞くのが嫌いじゃなかった。
思わず笑った僕に照れたのか、怒ったように振り返り、彼は歩き始めた。
「手当てしてあげなきゃ。さあ、帰ろう。」
僕も彼についていく。
歩きながらふと思う。
もしかしたら、今、彼の手の中にいるハクセキレイが僕らの大事な道を教えてくれたのだろうか。
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