『いやらしい男こそ女にもてる』──山田詠美「ぼくは勉強ができない」を鑑賞しての所感──
「女にもてたきゃ、いやらしい男であれ」
これこそが女にもてたいという男の悩みを解決する真理だ。
信じられないだろう。私もそうだった。四半世紀前に山田詠美が著した「ぼくは勉強ができない」を読了するまでは。
この小説は十七歳の男子高校生
中盤、年上の恋人桃子の部屋にふらりと訪れた秀美は居留守を使われてしまう。後日、問い糾すと昔の男としていたと言われて落ち込む秀美。桃子と別れるかやり直すか決断出来ずに悶々とした日々を過ごす。そんな彼に幼馴染の
❝「秀美はねえ、要するに健全過ぎるのよ。だから、ふられちゃうのよ」
「いいじゃないか、健全なのって」
「そりゃ、いいわよ。安心出来るわ。でも、男と女のことに関しては、どうかしら。つまんないわよ、あんまり健やかなのってさ。体が健全なのは基本なのよね。健康な肉体って素敵だと思う。特別な好みを持つ人もいるけど、たいていの人は、健康な肉体に性的なアピールを感じるわ。肉体って、即物的なものだもん、恋愛においてはね。解り
女友達からこのような指摘を受けた秀美は健全な精神について担任の桜井に相談する。先生が秀美に説くところによると……、
❝「彼女は、わりと賢いな。心身共に健康なのは、もちろん良いことだが、
ここでは健全な精神を持つ人として、いわゆる「いい人」がもてない理由が間接的に言及されている。
言うまでもなく健全な肉体の内に清潔感というのも含まれている。その前提条件が拮抗しているのなら、健全なの精神のいい人よりも不健全な精神の不良の方がもてる。それは退屈でつまらないか否かに掛かっている。
そもそもいい人もとい良い人は言葉が指す通り「良」でしかない。これこそが大多数の男達がもてたくてももてない理由であると私には思われる。不良は文字通り「良」でないからこそ「良」よりももてる。不良以外に女にもてやすい要素として美男・金持・人気者などが上げられるが、彼らは言うなれば「優良」な男でありこちらもまた「良」ではないからこそもてる。
そして不良にしろ優良にしろ女が大好きな訳あり商品お買い得品であり、その訳が解り易く利益になると女に感じさせられるからこそ彼らはもてる。加えて不良は普段から負の印象を醸し出しているからこそ、倫理や道徳的に正しいとされる行いをたまにした際に、与える印象の負から正への転換、その差引が不良以外の男達よりも多く稼げるからもてる。
これらもてる男達に共通しているのは、女に抱かせる期待と不安の匙加減が及第点の平均以上だということである。彼と付き合えば何らかの利益を得られるであろうという期待感と、それを得られるだろうか、得られなかったら、得られたとしても失ってしまったらなどといった不安感の塩梅が絶妙なのである。他にも言い方は色々あるだろうが、要は(この男を思い通りに制御出来たら利益が増えて気持ちいいだろう。けれどそう簡単には制御しきれないだろう)という思考や感情を女の意識下に投げ込めるのがもてる男なのである。
対してもてない「良」の男達は女に抱かせる期待と不安の匙加減がどちらか一方に偏重している。即ち不安を感じさせず利益ばかり期待させる男を女は支配操縦しようとし始めるし、不安ばかり抱かせるような男に女が何かを期待することはまずない。期待や不安を抱かせない男に女は見向きもしない。
ところでこういう例えはどうだろう? 即ちコーヒーカップやメリーゴーラウンドが顔の遊園地を私は寡聞にして知らない。広告をバンバン打たれる顔は大抵、絶叫マシンやお化け屋敷などの感情を激しく揺さぶるアトラクションか、利用者に寄り添うこともあるが施設内では原則的に気ままに振る舞うマスコットキャラクターである。
真面目や優しいと評され、自宅と学校・職場の往復しかしていないのではないかと思われている「良」の男が健全な循環を保ったまま女にもてようと思ったら、観覧車くらい大きくならないと女の歯牙にもかけられない。
他方、不良を始めとする「良」ならざるもてる男達は無駄や不健全を許容出来る余裕を感じさせるし、冒険を予感させる。たとえ危険な香りがする男だろうとも、その危険性を抑え込んで冒険に収められるだろう、いざという時には女を護れる騎士になれるだろうと言外に匂わせている。
ここから推察されるのは、健全な循環はすぐに慣れてしまうからつまらないと感じられ、遅かれ早かれ女に見向きもされなくなる。だが、不健全な冒険は循環であるとすぐには看破されず、慣れるまで時間がかかるが故に女の心を惹き続けられる。もてる彼らが普段通り健全な循環の中で生きていたとしても、女の本能に格上だと認識させる雰囲気を醸し出している。それはきっと色気と言われる類のものに違いない。
それなら我々もてない男はもてる彼らの後塵を拝する他ないのか?
私の答はこうだ、一時的にはそうであっても、永続的にそうであってはならない。もてたくてももてない辛酸を嘗めるしかない現状を一時の苦境に収めなくてはならない。その為には第一に現状を辛苦だと捉える認識を改め、第二に現実を大いに楽しむことである。
どういうことかと言うと、まずもてない現状への嘆息、振り向かない女やもてる男に対する罵詈雑言。それらに筆舌を尽さないように心掛けることだ。たとえ心無い女やもてると自称する男からもてないことを揶揄されようとも、だ。頼んでもないのに自分を悪く言ってくるような人間からは距離を取ることだ。
そして、性欲を下手に発散させずに建設的な八つ当たりをすることだ。建設的な八つ当たりとは運動や芸術などやった後に充足感が得られる代替行為のことである。そういう習慣をつけることで、性欲をただ発散するのではなく昇華し、人生の焦点を女から自分の目指すべきところに合わせ直すべきなのだ。
主人公の秀美も欲望はスポーツで解消しようと所属するサッカー部の練習に一心不乱に取り組むようになる。しばらくしてから真理に再会すると次のような遣取を交わす。
❝「秀美、少しやせた?」
「さあ、そうでもないんじゃない?」
「ふうん。なんか目付きが少しきつくなったね。禁欲生活、続いてんのね」
「なんだよ、それ」
「顔に書いてあるよ。セックスやりたーい、女を抱きたーいって。でも成功してるよ。普通、そう思う男って顔緩んでるけど、あんた違うもん」
「どういうふうに?」
「決意に満ちてる。女を奪うぞって。私、奪われてあげようか」❞(九十六頁「健全な精神」)
この部分にもてる男になる為の秘密が凝縮されている。性欲という一般的には不健全とされる欲望を持て余していても、それを健全な行為(ここではスポーツ)で発散している内に、健全な肉体と不健全な精神が程よい塩梅に調律され、健全な不健全さとでも呼ぶべきものになったのである。
それは言い換えれば、嫌がられないいやらしさとでも言って良いものだろう。性欲を大っぴらに曝け出し、顔が緩んで鼻の下が伸びきったいやらしさは嫌がられる。対して、どうしようもない性欲を自身の内側に閉じ込めようとして、捕らえきれなかった部分が薫や煙のように漏れ出てしまって尚、涼しい顔で激しい性欲をやり過ごしている様こそ、女に嫌われることなくむしろ好かれ得る、もてる男のいやらしさなのである。
ところでここから先は野暮の極みであるが、紙幅が許すので書き残しておく。
タイトルに惹かれて手に取ってしまった高校生だった私自身へ。この本は買ってはいけない。愛読書になんてして何度も読み返してはいけない。タイトルに共感して購入してしまった君はまだ気付いていないだろうが、この書をもてたいと思って読み始めると必ず行き詰まる。
何故ならば、第一にもてる男のいやらしさについて上記にまとめたが、主人公秀美は物語開始時点で既に恋人桃子とある程度できあがってしまっているもてる男からである。君に必要なのはゼロをイチにするヒントであり、既にあるイチを拡張していくそれではない。幼稚園児に見合話を持っていっても
そして第二に、今回この文章を書き出して気付いたことだが、主人公秀美はもてる男のように描写されているが、本質は女にとって都合のいい男であり、山田詠美が届けたいと想定した主要読者は秀美の恋人桃子や、母親仁子、女友達真理辺りの阿婆擦れた女達だからだ。彼女達のような恋多き女の言う事も女にもてる為には耳に入れる価値はそれなりにあるだろう。だが、そればかりに従ってしまうと、女にもてたとしてもやがて女に君の魂の手綱を持たれてしまうし、恋してはいけない欲深な女に凭れ掛かられてしまう。それは決してもてる男ではなく、むしろもてない男に他ならない。
以上の事を鑑みるとこの書は遅効性の毒であり、青春の悩みを癒す薬にはなり得ない。だから、青春の真っ只中で思い悩む私自身よ、薬だと思ってこの書を買うのを止めるんだ。それでも買うなら、年齢制限の課されていない不健全な猥本と見做して人目を憚ってこっそり読み給え。
※引用部はすべて新潮文庫版第五十一刷による。
拾枚帖 枕本康弘 @moto_yasu
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