第3話

 自分の居所を失って、何処にも行き場を見出せず、当ての無いまま夢の世界に逃げ込んだは良い物の、自身の内にも何も見つける事も出来なかった末に、夢とも現とも何処からも遠く離れて、朧に翳む夢の道を覚束ない足取りで歩いている。

 何処を歩いているのかも分からず、立ち止まる事も出来ずに、全ての事柄から目を背けて、周りに何も無く、仄かに霞の様な光が遍く広がる中を、虚ろな心持で歩き続けている。最早自分が何を求めているかも分からず、ただ歩く事だけが、残された最後の手段として。


 そうしてさえいれば、何時かは何処かへ辿り着ける物と、僅かばかりの望みを抱いて。そうして何処にも辿り着けずに、夢からも現からも追い出され、遂には夢でも現でも、それ等が形として現われる前の、全てがぼんやりとした、形の無い、何かになる前の集う処を彷徨う事になったのだろう、と、遠い意識の中で考えていた。

 

 やがて、その歩みは何かに阻まれた様にゆっくりした物に成って行き、それも其の筈、全身に絡み付く様な流れの中を、ずぶ濡れになりながら横切ろうとしていたのだから。

 今迄気付かずにいたのは、その流れが気体から重たい流体へとゆっくり変化して行った為で、また、人肌に近い温かさも心地良く、それが余計に気付く事を遅らせたのかも知れない。

 このまま流されて、忘却の彼方にでも何も考えずに行ってしまうのも良いかも知れない。いっその事、高波でも来て、そのまま全部洗い去ってしまえば良いのに、と思わないでもなかったが、何故だろう、心の何処かでどうしてもそう云う気になれず、更に言えば、何処からか自分を呼んでいる様な。


 そんな馬鹿な、と独り言ちる。誰からも忘れられて、その上新たな繋がりも無く、それどころか、自分からそれら全てを断ち切って来たと云うのに。


 気付けば、目の前の水面が明るく波打ち、目を上げると、流れの対岸に、如何にもと云った豪奢な造りの家屋が、幾つも灯る行燈の光も眩しく、明々と辺りを照らしているのだった。

 座敷の奥では、何やら楽し気な会話の弾む声が洩れ聞こえ、 先程迄の自分の逡巡しゅんじゅんが嘘の様な賑わいと云った御様子で。


 こうして流れに浸かってる自分には、何ら関係ない事ではあっても、何故かその雰囲気は、自分の中にまで温かな灯を点す様な、そんな不思議と親しみを感じさせる物であったのだ。

 誘蛾灯に惹き付けられる蛾よろしく対岸に上がり、よろけた足取りで近付いて行くと、半ば自分でも忘れていた、自分の名前を呼ぶ声が。

 同時に、どっと湧き起る歓待の声、また声。久し振りだな、そら、そんな処で濡れ鼠になってないで、早いとここっちに上がって来いよ、と口々に。

 口は悪いが、想いの込められた言葉の数々。よし来た、とばかりに座敷に上がり、空いた席に座る。見渡せば、何れも懐かしい見知った顔ばかり。

 恰幅の良い腹を抱えた狸の旦那、小狡そうに袂を弄る狐の庄屋、油断無く辺りを覗いながらも、ニヤリと慣れない笑いを向ける針鼠の浪人などと云った面々。


 ……見知った面々? 


「あんら、覚えてないのん? あんさん、酷いわぁ。いけずぅ。」

「「いけずぅ、いけずぅ。」」

 

 揶揄からかう様な大合唱。自分は苦笑いしながら、頭を搔く。

 

 久しく無かった気の置けない歓談に、我知らず子供の様にはしゃぎ、大して飲めもしない癖に酒に興じて、莫迦騒ぎに興じながらも、薄々自分が夢の中に居る事を悟り始めていた。

 そして理解する。もう自分は、彼等の顔を覚えていないのだ。だから、こんなに突飛な面々で夢の帳尻合わせをしているのだと。

 結局、自分は彼等と縁を作り得なかった。上辺では愛想よく接しておきながら、誰一人として自分の心に残らず。改めて自分のどうにもならない性分、誰に対しても心を開けない、許せない、何処までも渇いた地をただ一人で歩いて行く事しか出来ない、人として何か欠落してしまっている、そんな性分を、改めて思い知らされるのだった。

 そんな自分を取り繕う為に、更に飲んで歌って大騒ぎを演じる。

 

 何時の間にやら宴は終わり、灯は落ちて、酔い潰れた自分は、離れの小さな部屋で横になりながら、霞掛かって周りの空に少しずつ光の滲んでいる月を眺めながら、ただぼんやりと雲の移ろい行く様を追っていた。

 寝返りを打とうとして、ふと、頭の下に何か柔らかな物が当てがわれている事に気付く。視線を上げると、誰かが膝枕をして覗き込んでいる。慌てて起き上がろうとするも、静かにそれは押し留められて、そのままその手は頬の上に。

 温かく柔らかな手は、優しく添えられて、まるでそれは子供をあやす様で。

 嘗て無い程の安らいだ心地になりながら、照る月は朧気で、夢見る様に仄かに光る霞に包まれて、何も考えられず、そっと瞼を閉じ、何時か聞いた歌を口ずさみ、それに合わす様に添えられた手は頬を撫でる。


「お辛いのですか?」


 掛けられた言葉は、空に溶け込んだ月の光がそうである様に、心の内に染み入って、替わって溢れ出す涙を止める事が出来ず、幼子の様に顔を覆い、泣きじゃくる事しか出来なかった。


 はい、はい、と何度も答えながら泣く自分の頭を、手はそっと撫でながら、


「強くあらねば、ね。」


 と、再び掛けられる言葉に、又しても、はい、はい、と答える事しか出来ない自分。

 月はいや増しに明るく輝き、その光の中で漸く相見あいまみえた、垣根の外で出会った女性の面影。想えども想えども、叶う事適わなかった再会に、何処からか聞こえて来る潮騒の音と共に、二度と叶う事は無いと思われた、夢の割り符であるあの貝殻が、揃い、合わさる気配を感じ、やがて訪れるであろう目覚めの時の、今暫く遠退く様にと願いながら。今暫くの朧の月の夢の懸け橋を。未だ頬に残る、あの安らぎに満ちた手触りを。



     〝女具して 内裏拝まん おぼろ月″

 

 


 

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蕪村逍遥~記憶と夢~ 色街アゲハ @iromatiageha

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