第2話

 海と空とが合わさる、遥か遠くからの漂う霧の薄絹が、此の人気の絶えた砂浜にまで届き、寄せては返す波の音は、何処か遠い出来事の様に響き、砂の上を歩く感触までもがそれを促す様に、現実感の伴わない物だった。

 歩を進める毎に、砂にうずもれる足裏が、そのまま夢の中に沈んで行く様に思われて、一歩一歩踏み出す度に、より深く、意識の奥底の、二度と触れ得ない遠い記憶に辿り着く事が出来るかもと信じて。まるで、こうして足を踏み出す事が、未知への世界へそのまま踏み出している様な感覚に捉われ、恐れつつも其れを見てみたいという望みを抱いて、今こうして誰も居ない砂浜を歩いている。


 何処までも続く砂浜に所々顔を覗かせる貝殻の、その数と種類に驚きながら、何となく其の内の一つを手に取ってみる。

 二枚貝の片側一つ。もう片方は砂に埋もれたか、波に浚われたか、離れた切り二度と相まみえる事は無いだろう。


 内側の薄く張った七色に光る面は、嘗て貝殻の堅い守りの内で、静かに長い時を経て育んで来た、深い水底みなそこで見た夢の表れ。只管ひたすらに内に籠り、誰に見られる事無く、死後に番いとなるもう片方の欠片と分かたれて、永久に未完成となった虹の夢を、今も尚見続けている。


 海の底から見上げて見える、絶えず揺らめく水面みなもと空と。二つの合わさる重ね絵を。己が内なる壁面に、写し取ろうと、体の内より生み出した、七色の顔料で描いて見せた、この世でたった一枚の、それは揺らめく夢の写し絵。

 

 本来ならば、両面揃って初めて出来る、夢の紡ぎ手に依るその写し絵は、紡ぎ手の死と共に、互いの所在も分からぬ程に、遠く離れて砂浜の。

 求めて伸ばす手も空を切り、摑む事無い夢の割り符を、それでも求めて空虚な空を、探る仕草を止める事無く。


 脳裏に浮かぶ遠い約束。其れはあまりに遠過ぎて、自分の物とは最早思えず、恐らく其れは幼き頃の、眩い海辺で交わされた、ほんのささやかな、再び会う為の小さな約束。

 幼い二人が再び会えるようにと、願いを込めて互いに持った手の内の、一つの貝の片割れの。

 交わした時は直ぐにでも、会えると信じて別れた後に、長じて互いに届かない、間に広がる昏い永遠。

 どうにもならない喪失感に、事有る毎に手の内の、貝の片割れ小刻みに、感じる震えは貝か己が手。

 

 以来、彷徨う砂浜の、場所を隔てた砂浜の、貝の片割れ持つ人が、今しも自分で説明出来ない焦りに駆られ、歩き続ける曇天の下。貝を片手に彷徨う中で、小さく開いたその口から、洩れる啼き声相手を求めて。決して届かぬ筈なのに、なじかは知らねど心の何処かで、心震わせ啼く様が決して歩みを止めさせず、振り仰ぎ、歩き続ける曇天の空。


 分厚く覆う灰色の雲。重たげな空より滴り、頬に当たる一雫。それを始めとして、忽ち漂う雨の匂いと共に、記憶の奥底を揺るがす様な、遠くと近くで鳴り響く雨の音。

 服も髪まで水を吸って、歩みを遅らせ、何時しか身体の芯まで冷えて、重たく黒い砂の上に、引きずり降ろそうと圧し掛かる。

 今この時ではなくとも、何時しか雨は別の時、別の場所、そして別の形を取って、この身を打ち負かそうと降り掛かって来るのだろう。

 何が皮肉って、これ以上の皮肉があるだろうか。この身に降りかかる重たく冷たい雨。それは、他の誰でもない、自身の抱く再会への、望み渇望。何時しかそれ等が重みとなって降り掛かり、他ならぬ自身に憑りついて、積もり積もって淀んで圧し掛かる。


 交わされた約束は果たされる事無く、冷たい骸となったその傍らには、遂に再び合わさる事無く、雨に濡れ、七色に、密かに遠い物となった夢を、今も尚見続ける、螺鈿と云う名の夢の写し絵。




      〝春雨や 小磯の小貝 濡るほど″

 

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