蕪村逍遥~記憶と夢~

色街アゲハ

第1話

 冬の冷たい空気を追い遣る温かい風が、そこかしこで眠りに就いていた者達の目蓋を開かせ、その気配を感じ取った若芽があちらこちらで顔を出したのち、恐る恐るといった様子で蕾を綻ばせた花の季節も早半ば過ぎ、垣根の葉の緑も色濃くなり始めたそんな時期。

 未だ眠りから覚めやらぬ、何処かのんびりした気配を残しつつも、やがて訪れる紺碧の空の下、全てがはっきりと目を覚まし、くっきり明暗を分ける季節を前に、最後の短い微睡まどろみの心地好さに耽っている、そんな時期の事。


 午後も半ばを過ぎ、打ち水した後の垣の葉から滴る雫の照り返す光をじっと見詰めながら抱いた、過ぎ去りし季節とそれに伴う日々の想いが、湿った地面から立ち上る土と草の香りと混じり、そよ風に寄り添って、行方の知れない春の行く末に遠く翳んで消えて行く。


 微かに覚えた憂いだけが此処に残り、一人残されたまま帰る所を失った、迷い児となって春の空。かすみ掛かって、遠離とおざかる者の姿は見えず、聞こえて来るのは雲雀の声か。道を見失って途方に暮れた在りし日の幼子の泣く声か。


 垣根の間からほの見える白い影。日傘を差した人影の、白い服は目にまばゆく、垣根のほんの一つ隔てた向こう側、優しく子供をあやす柔らかな、はにかむ笑顔が照り映えて、何処か懐かしさを覚えつつ、知らず知らずに眺める程に、しっとり湿った空気の中の、涼やかに揺れる花の如くに儚げで、方やしなやかさも併せ持つその姿。


 垣根を挟んで直ぐ近く、だと云うのに決して届き得ない、時と云う名の間隙が、其処へと至る事を許さずに。

 その女性があやす児は、幼い頃の自分の姿。疾うに過ぎ去った在りし日の、淡い光の陽の影が、霞交じりの向こう側、ぼんやり映す情景は、遠い昔の幻灯機。


 二人の影の交わす声。幾ら耳を澄ましても届く事無く、叫べども叫べども此方の声も。

 他の何よりその事が、この間隙の決して届き得ない理の、身に染みて狂おしい程の郷愁に苛まれ、二人の足元で揺れる白い花が、それに合わせて小刻みに震え、響く声なき慟哭の、涙で滲んだ空に迄、昇って行けと仰ぎ見る、空の彼方のその先の、この世を包む蒼穹を揺るがせて、その下の遍く広がる全ての隅々迄に、届き揺らして響き渡れと、願う想いも一際強く吹く風の、霞追い遣り消えて行く、幼き頃の春の幻。


 垣根の向こうに残るのは、陽も傾いて俄かに薄暗くなってきた垣根の陰で、其処だけ光り浮き上がる様に、涼し気な風に揺られ、物言いたげに小さく小首傾げる鈴生りの、鈴蘭の花。



    〝行く春や 白き花見ゆ 垣のひま

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