第一章三話 落下と少年と青い粒子
今思えば、あの時――
貴方が私を見つけてくれたのが始まりだった。
きっと、本当なら私はあの時、あの場所で、この生を終えていたのだか。
たくさん、たくさん――
貴方と色々なものを見て、感じて、笑いあった事を私はちゃんと憶えています。
貴方が忘れてしまっていても、思い出したくなくても、あの日々の記憶は、気持ちは、絶対に嘘なんかじゃないから。
だから、どうか――――
―――
――
――ねぇ、兄さん。
今、兄さんは何処にいるの――?
暗い昏い水底から。
浮上する様に意識がゆっくりと覚醒していく。
ナニを、シテ、いタっけ……――
思考はまだ霧散してしまうが、それでも自然と目蓋はゆっくりと持ち上がっていく。
ナんだか、世界がユれている――
でも、ナゼだろう。とてもアタタカく、安心するノは――
ぼやける視界の先で、光と色が揺れている。
きらきら、きらきらと光を反射して、動く黒い何かが――。
ゆっくり、ゆっくりと定まっていく視界。
それでもまだ、思考は何処か宙を浮き、大切な何かを忘れてしまっているようで怖くて――。
何かに縋り付きたく手を伸ばそうとして
身体が突如、宙に浮く感覚に襲われた。
「ッ??!」
目が、醒める。
風が肌に強く当たり、束ねていた髪が舞い上がる。
髪を束ねていた髪紐が、空へ吸い込まれるよう舞い上がって、彼方へと消えていく。
風鳴り音が耳に叩き付けるよう響き、宙を彷徨っていた意識が急速に定まり、状況を理解しようと処理し始める。
何が、起きているの――?
強風に煽られる中。目蓋をゆっくりと、しかししっかりと開け、状況を確認する。
落下、している――?
先程まで何をしていたか、何故気を失っていたかというよりも先ず、頭に浮かんだ言葉は“落下”――という単語だった。
一体どうして――
訳が分からない状況に思考を広げようと首を巡らせ、周囲を確認する。
何故か身体を動かしづらかったため、必然の行動だったともいえる。
そしてふと。
陽の光を受けた、輝くような純白の髪がシエルの視界の端に映り、“少年の声”が間近で響いた。
「爆ぜろッ!!」
瞬間。
何かが爆発する、凄まじい爆発音と衝撃がシエルを襲う。
直後には落下する速度を手助けするかの如く爆風が身体を押し、反射的に強く目蓋をまた閉じた。
覚醒めたばかりの思考が追い付かない。
それでも目蓋を開け、何かが爆発したと思われる方角へ視線を必死に向け、シエルはそこで息を、呑んだ。
青い――青い焔が、視界の先で輝くように舞い散っていたから。
ひらひら、ひらひらと。
青い花びらが舞い散るよう、視界の先で揺れてはすうっ――と消えていく。
(きれい――……)
今の状況を忘れ、舞い散る青い焔の花弁を見て胸中で呟く。
この青い焔は《
舞いながら、降り掛かるようこちらへと流れてくる青い焔を見てシエルは思う。
そっと、腕を伸ばす。
一欠片の花弁に似た青い焔がシエルの手の平へと近付き、静かに舞い落ちる。
(温かい――)
温もりが手の平に広がっていく。
青い花弁に似た焔が溶けるようシエルの手の平に広がっては消え、微かな温もりをその手に残していく。
「大丈夫? おネエさん。起きた――?」
碧い瞳がシエルを覗き込んでいる。
しぱしぱと、硝子玉のようなその綺麗な碧の瞳を瞬かせ、少年が小首を傾げ言葉を掛けてくる。
「……おはよう、御座います?」
シエルもまた、少年と同じよう琥珀色の瞳を瞬かせ、問われるまま素直に応える。
場違いだとは分かっているものの、律儀にシエルは応えた。
(……あれ? 何でしょうか、この状況。と言うよりも誰でしょう、この少年は――)
一度に様々な疑問が押し寄せる。
何処から状況を整理すれば良いのだろう。
先ずは自己紹介をして少年の名前を聞くべきか、それとも、先程の青い焔は何ですかと尋ねる? または……
「……本当に大丈夫? おネエさ――」
「――落下ッ!! そうです落下です落ちて行ってます大変ですどうしましょうッ!?」
少し心配そうに尋ねてくる少年の言葉に、重ねて遮るよう捲し立てるシエル。
そうだ落下だ、落下しているッ――!!
このままでは、重力に従って母なる大地目掛けて壮絶なる突撃をしてしまうッ――!!
盛大にパニックに陥り、抱きかかえてくれている少年の服を掴んではがくがくと彼を揺するシエル。
対する少年はというと「面白いおネエさんだね~。大丈夫そうで良かったー」と、何処か呑気に笑っていて。
そんな少年に――
(どうしてそんな呑気に笑っていられるのですかッ!!)
目尻に涙を浮かべパニックに陥りつつも、直ぐ側で自分に揺すられながら呑気に笑う白い少年にシエルは、胸中で鋭いツッコミを入れる。
呑気を通り越してこの少年、どこか感性がおかしいのでは――とそんな事をぐるぐるする思考の中思いながら。
自身の薄桃色の髪が、落下にともなう強風にまかれ顔に掛かる。
反射的に閉じる瞳。
少年の服から手を離し、顔に掛かった髪を
地上が酷く、近づいている――
少年とそうこうしている間に、所狭しと建ち並ぶ家々が、地上が、酷く近づいている。
あぁ。
何がなんやら判らないまま逝く妹を許して、兄さん――。
目蓋を強く閉じ、衝撃に備える。
この高さだ、決して助かりはしない。
だって自分には、鳥のような翼や兄のような《
「あっ、そろそろ――」
迫りくる衝撃に身を固めるなか、少年の声がシエルの耳に届く。
そうだ。
状況が全く判らないが、このままではこの少年も共に地面に叩きつけられる。
自分を抱きかかえていたという事は恐らく、“アレ”から自分のことを護ってくれていたというのに――
そう気付き、少年に腕を伸ばす。
無駄だという事くらい、分かっているのだ。
自分の罪悪感を減らす為だけの行為だという事くらいも分かって、いる。
それでも。
この少年に訪れるであろう衝撃を少しでも減らせられたらと、少年の背と頭に腕を伸ばし包むよう抱き寄せる。
「ッ?! 見えない! 下ッ! 下見えないから、おネエさんッ!!」
声を上げ、少年が腕の中でじたばたと暴れだす。
密着していた身体が抱き込もうとするシエルと、それから逃れようとする少年により態勢が崩れる。
そして――
シエルの腕の力が緩まったのと、少年が藻掻く力を強めたその瞬間。
二人の、身体が離れた。
「あッ!!」
「おネエさんッ!!」
少年が腕を伸ばし、叫ぶ。
シエルよりも軽い少年は強風に煽られ、その身体を小さく浮かせシエルから離れていく。
少年の叫びに咄嗟に腕を伸ばすシエル。
瞬間。
ぱしりッ――と。致命的な距離ができる前に、シエルの手を少年が掴む。
ほっと息をつき、胸を撫で下ろすシエル。
しかし、何の解決にもなってはいない。
地上はさらに近づき、終わりの時が直ぐ側まで近づいて来ている。
それなのに――
「おネエさん、見て! すっごく綺麗な景色――!!」
碧の瞳を輝かせ、今まさに近付いている《セーレム》の大地をその瞳に映し、笑顔をシエルに向けて来るのだ。
酷く――とても酷く、少年のその笑顔が眩しいもののようにシエルの琥珀色の瞳に映る。
自分だけなら良い――。
でも、この少年が死ぬのは駄目だ。
絶対に、駄目だ――。
でも、一体どうすれば良いの――?
「大丈夫だよ、おネエさん――」
静かな、少年の酷く優しい声が、シエルの耳に届く。
また思考の渦に呑まれていたシエルの耳に、何故だかはっきりと届いてくる。
どうしてだかは分からない。
打ち付けるよう襲いくる強風の中、少年の声が酷く優しく耳に響いて。
その声に俯向けていた顔を弾かれるよう上げ、少年に視線を向けて声を、詰まらせた。
碧の瞳が優しく、シエルを見詰めていたから。
離されないよう握りしめていた手を痛くはない、しかし、力強い力で握りしめ、酷く優しい瞳で見詰めていたから――。
「でもッ――!」
必死に声を絞り出す。
このままじゃ、二人共死ぬ。
込み上がる熱を必死に我慢し、そう紡ごうとした言葉はシエルの喉奥で掻き消えて。
代わりに、驚嘆の言葉がシエルの口から溢れ出た。
「……あ――」
琥珀色の瞳を大きく見開き、息を呑む。
周囲に広がる光景に首を巡らせ、驚きのあまり言葉を漏らす。
青い、青い。先程見た青の花弁のような焔よりも更に濃く、己と少年の周囲に淡く光り輝く透明な青い粒子を見詰めて言葉を漏らす。
不可視である筈の“万物の根源たる《
『――シエル。《
脳裏に、兄の言葉が蘇る。
あぁ、兄さんが言っていたことは本当だった――
青い粒子が数を増し、周囲で逆巻くよう溢れ出る。
その光景を眺め、今の状況を忘れて見惚れるシエル。
淡く光り輝く青い粒子が、二人の周囲で幻想的に舞い踊る。
生まれては消え、また生まれ、光り輝く青い粒子。
ふわり、ふわりと。重力に従い自由落下するシエル達の身体は、青い粒子に包まれふわりと浮き、なんの重力も感じさせない感覚を二人に与える。
その不思議な感覚にそわそわとするシエル。
青い粒子に包まれてゆっくり、またゆっくりと、舞い降りていくシエルと少年。
「……んー。ちょっと足りなかった、かな?」
ゆっくり迫る地上を眺め、少年が小さく首を傾げ呟く。
何が足りないのだろう。
シエルもまた少年と同じよう首を傾げ、胸中で呟く。
すると、次の瞬間。
――“落ちた”――
「ッ?!!」
グンッ――、と地上付近で重力をまた与えられ目を剥くシエル。
迫る地上。
先程まで周囲で逆巻くよう溢れ出ていた無数の青い粒子はその姿を消し、重力に従い落ちていく。
色々なことが次から次へと起こり過ぎ、処理が追い付かないシエル。
待って欲しい。
様々な出来事にシエルが驚愕するなか、少年が即座にシエルを横抱きに抱きかかえ直し、まだそこそこ距離のある高さから落ちていく。
この距離になると《セーレム》に暮らす人々が、シエルと少年の存在に気付き上空を見上げてくる。
「おネエさんッ! 舌噛まないようにちゃんと掴まっててッ――!!」
風切り音の中。
言うや否や少年は、シエルから片腕を離し、家と家とを繋ぐように張られた洗濯ロープへ手を伸ばす。
まさかッ――!!
そうシエルが思った瞬間。
ロープが、撓る。
グンッ――とロープが撓ると共に落下していた速度は落ち、撓りに撓ったそのロープを絶妙なタイミングにてそこから手を離す少年。
必死に少年にしがみつくシエル。
それでもまだ、完全に殺しきれていない速度の中、少年はシエルを抱きかかえ直し、器用に欄干へと足をかけ、傾斜地であることを利用し滑りくだる。
「………………」
シエルの薄桃色の髪が優しく風に流され、後ろへと棚引く。
“地上”――だ。
死ぬ、そう思っていた。
いや、あのままなら間違いなく死んでいた。
でも――
少年の顔を静かに覗き見る。
何処か楽しそうに顔を輝かせ、笑顔で前を見ている。
つい今しがたまで、見ず知らずの自分のせいで命の危機に陥っていたと言うのに。
「?」
シエルの視線に気付き、少年が視線をこちらへと向けてくる。
その表情は屈託のない輝かんばかりの笑顔で、シエルのことをその碧の瞳でチラと見るとまた前を向き。
そして、静かに言葉を紡いできた。
「――間に合って。助けられて、本当に良かった――」
その言葉に視界が滲む。
張り詰めていた糸がぷつりと切れ、必死に堰き止めていた熱が瞳から溢れ出る。
良かった。
この優しい少年が助かって、本当に良かった――。
ぎゅっ――と少年の服を握り締め。
シエルは彼のその胸に顔を埋め、そっと小さく声を漏らし涙を流した。
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