2日目_②

いつもの桜の木の下で、私はじっと立っていた。

もう慣れつつある、彼との待ち合わせ場所だ。

けれど、胸の中に広がるのはいつもの重たい感覚。

周りには春の気配が溢れているのに、私の心はどんよりと曇っている。


今日は、少しだけ頑張ってメイクをした。

いつもより、少し花が咲いた感じに。

彼に会うから、少しでも元気そうに見せたくて。

でも、ふと自分の顔を手で触って、心の中で問いかける。


「これ、本当に似合ってるといいな」


鏡を見た時は大丈夫って思えたけど、こうして待っているうちに不安がじわじわと湧いてくる。

もし、彼が何も言わなかったらどうしよう。

おかしいって思われたら?

私、ちゃんと笑えるかな。


「遅いなぁ…」


彼が約束を忘れたんじゃないかとか、何か急用ができたんじゃないかとか、ありもしない想像が頭の中でぐるぐると渦を巻く。

彼は優しいけれど、もしかしたら私との時間なんてどうでもいいのかもしれない。

こんな私と一緒にいて、楽しいって思ってくれているのか分からない。

なんで私、こんなこと考えてるんだろう。

きっと大丈夫だって、分かっているはずなのに。

自分でも理由がわからない不安が、心の中に居座って離れない。

小さなため息が漏れる。


でも、その時、彼の声が聞こえた。


「ごめんな、待った?」


その言葉が耳に届いた瞬間、頭の中でぐるぐるしていた不安が一瞬、止まる。

私の心を締め付けていたものが、少しだけ緩むのが分かった。


「あ、ううん。いま来たところ。」


私はどこかぎこちなく、彼に微笑んでそう言った。

実際は少し早く来ていたけれど、そんなこと言えない。彼に知られたくない。

この重たい感情や、不安に押しつぶされそうになっていることを。

彼の前では、せめて普通に振る舞いたかったから。


彼は変わらない笑顔で私を見つめて、軽く頷いた。

その笑顔を見ていると、ほんの少しだけだけど、胸の奥が暖かくなる。

彼がいてくれる、それだけで、今まで渦巻いていた不安が薄れていく気がする。

たとえそれが一瞬でも。


「行こうか。」


彼が声をかけてくれて、私は頷いて一緒に歩き出す。

彼の隣にいると、少しずつだけど、自分が軽くなっていくのを感じる。

風が桜の花びらを舞い上げ、私たちの周りにひらひらと降り注いでいる。

それが、さっきまでの私の不安を吹き飛ばしてくれているようだった。


私たちは、桜の木の下を離れて土手に向かって歩き始めた。

風が少し冷たくて、でも春の柔らかさも混じっている。

彼が隣にいると、それだけで少しだけ気持ちが楽になる。


「今日の朝ごはん、何食べた?」


彼が軽い調子で聞いてくる。

その質問に私は少しだけ考えて、口を開いた。


「…トーストと、コーヒー。

あと、エッグベネディクト。」

「美味そうな朝食だ、料理上手は健在だな。」


うまく作れたかどうか確証はない。

でも、そんなことは言わない。

彼は私のことを心配している。

だから、いつも通りに振る舞っておかないと。


「あなたは?」

「俺は卵焼きと味噌汁にご飯。

最近ようやく自炊するようになったんだよ。」

「そっか。

もう昔みたいな甘えたボーイじゃ……あれ、私昔なんて。」


彼が少し得意げに言うその言葉に、自然と口元がほころんだ。

ぼんやりと私は何かを思い出そうとする。

私に彼の記憶はないが、昔一緒に過ごした気がする。

少し考えて、でも彼のことを放っておけないから忘れてしまった。


何気ない会話が心地よい。

いつもなら、こんなに自然に笑うことなんてできなかったはずなのに。


「昨日はよく眠れた?」


次に彼が尋ねたその質問に、一瞬だけ足が止まった。

昨日の夜、私はまたあの悪夢を見てしまった。

でも、その夢のことを彼に話せるはずもない。

話したところで、きっとどうしようもない。

だから、いつものように不器用に微笑んで、答える。


「たぶん、よく眠れたかな。」


嘘だ。全然眠れなかった。

でも、彼が優しい目で私を見つめていると、つい大丈夫と言ってしまう。

本当のことを言ったら、彼に負担をかけてしまうかもしれない。

そんな不安が頭をよぎる。


「そっか、よかった。

かなり疲れてるように見えたからさ。」


彼の言葉に胸がぎゅっと締め付けられる。

気づかれていたんだ。

彼の隣にいるだけで心が軽くなる気がするけど、私の鬱蒼とした気持ちは、完全には消えていない。

隠しきれない部分がどうしてもあるみたいだ。

それでも、彼はいつも通りに笑ってくれる。

そのことが、今の私には救いだった。


土手が見えてきた頃には、少しずつ空が広がり、風が穏やかになってきた。


土手の小道を歩きながら、彼が指さす花々を見つめていた。

風が柔らかく吹いて、周りの花たちが優しく揺れている。

彼がふと足元に咲く小さな花を指さした。


「この花、なんて名前?」

「これは、カラスノエンドウ……学名はVicia sativa。」


言葉を口にすると、自然と少しだけ気持ちが楽になった。

花は好きだ。何の対価もなく、私に寄り添ってくれる。


「マメ科の植物で、根に共生してる根粒菌が窒素固定をするの。

花言葉は『小さな幸せ』。

どこにでも咲いているけど、意外と役に立つ植物なんだ。」


彼は頷きながら、私の言葉を静かに受け止めてくれる。

それを見ていると、だんだんと話すことが楽しくなってくる。

もう少しだけ、彼に教えたくなった。


「じゃあ、こっちは?」


彼が指さしたのは、小さな青い花。

私はその花に視線を移し、すぐに答える。


「これはオオイヌノフグリ。学名はVeronica persica。

春先に咲く青い花で、日当たりのいい場所が好きなの。

小さいけど、踏まれてもすぐにまた立ち上がる強い花だよ。

花言葉は『神聖』『信頼』。

踏まれても負けないってところ、私にはないから羨ましいな。」


彼は驚いた顔をして、私を見つめる。

自然に言葉が続いていく自分に気づきながら、私もつい口元が緩んだ。


次に、彼が少し離れた場所に咲く黄色い花を指さす。

「あれは…タンポポか」

「うん、タンポポ。学名はTaraxacum officinale。

風に乗って種がどこまでも飛んでいくんだ。

強い花で、どんな場所でも根を下ろせる。

花言葉は『真心の愛』『別離』。

遠くに飛ばされるから、別れの象徴でもあるけど、その強さが真心を持ってるっていうのが、いいでしょ?」


私が話すたびに、彼は頷きながら優しく笑ってくれる。

その笑顔が私を少しずつ解きほぐしてくれる気がした。

大人気なく、もっと話したくなった。


「あ、あれはハルジオンだよ。学名はErigeron philadelphicus。

キク科の植物で、見た目は似てるけど、ヒメジョオンとは違うんだ。

開花期が早いから、春を告げる花って呼ばれることもあるよ。

花言葉は『追想の愛』『私の希望はあなたです』、だったかな。」


「へえ…ハルジオンか、今の俺にぴったりだ。」


彼がそう言って笑うのを見て、私はしばらく考え込んでしまった。

今の言葉は意識しているのだろうか。

でも、私はもう恋なんて忘れてしまった。

あんなに痛い思いをするのは、死ぬより嫌だ。


彼が花の名を私に尋ねる。

そのたびに私が答える。

気づけば私は花の話にすっかり夢中になっていた。

重たい気持ちなんて、どうでもよくなっていた。


彼は私の顔をじっと見つめて、少し優しい声で言った。


「璃桜は、昔からこうして花に向き合ってる時は変わらないね。

夢中になってる姿が見れて、俺は嬉しい。」


その言葉に、私は少し照れくさくなって、でも嬉しかった。

昔から私は花が好きだった。

花の名前を覚えたり、どんな植物か調べるのが楽しかった。

彼はずっとそれを知っていてくれたんだ。


「そう、かな…。

……昔のことはよく覚えていないけど、たぶん花に夢中になるのは、昔から変わってないのかも。」


「ああ、そうだ、変わってない。

とても好ましく思うよ。」


その言葉に、自然と笑みがこぼれていった。

彼の言葉で胸が暖かくなっていくのを感じた。

暗い思いは少しずつ遠のいていく。

彼が隣にいる、それだけでいいんだ。


「今日、楽しかったか?」

「うん、楽しかった。」


夕日が土手に沈みかけ、穏やかな風が私たちを包み込む。

今日一日がどこか特別に感じられた。

私はきっと、少しずつ前を向ける。

そんな予感がした。

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桜の下で死を待つ君に 名桜 @Rein_Feil

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