2日目_①

しとしと、しとしと、世界が泣いている。

私の代わりに泣いてくれているのだろうか。

冷たい雨が、容赦なく私の身体を打ちつける。

濡れた髪が頬に張り付き、身体は泥まみれになっても、それすらどうでもよかった。

私は蹲ったまま、ただそこにいるしかなかった。


初めて好きな人ができたのに。

初めて、この心を誰かに預けてもいいと思えたのに。

やっと、大切にしたいと思えたのに。


「お前みたいな女、面倒だからいらねーわ。」


その言葉は、まるで凍てつく刃のように私の胸を貫いた。

初めて、私の全てを捧げたのに。

未熟な恋だと笑われることなんて構わなかった。

でも、その痛みが、まだ中学生だった私にどれだけ深い傷を刻んだかは、誰にも分からない。

分かって欲しいとも思えない。

ただ、私の中に残されたのは、癒えない傷跡だけだった。


雨が頬を伝うも、それはもう私の涙と一つになっていた。

悪夢は終わらない。

いつものように、私を苛む。


「泣かなくていい、璃桜。」


静かで、優しい声が遠くから響いてくる。

まるで霧の中から現れたかのように、彼の声が私を包む。

あの時、初めて失恋の痛みを知った私に、彼は赤子をあやすように寄り添ってくれたのだ。


私は…私は、あの時、何をしただろうか。

彼とどんな言葉を交わしたのだろう。

思い出そうとするたびに、記憶は霧のようにぼやけ、雑音が絡みついてくる。

私は、その時の感触も、言葉も、何もかもが遠くに消えていくのを感じながら、ただ震えていた。


そして、朝日と共に私は現実へと歩み出す。私の世界は変わらないまま、痛みだけを胸に残して。



目が覚め、身体を起こす。

目の前に広がるのは、いつもと変わらない、ただの私の部屋。

白い天井、無機質な壁。

置きっぱなしの机と本。

何もかもが、何の意味も持たない物体としてそこにあるだけ。

温度も感情も、そこにはなかった。


本当に、何一つ変わらない。

私自身が変わらないのだから、部屋も、世界も、変わるはずがない。

どこかで何かにのめり込んでいたら、何かが熱くなることがあったのだろうか。

きっと、そんな世界もあったのだろう。

でも、今の私にはそれすら遠い。


私は虚ろなままで、ぼんやりと自分を見つめている。

何も感じない。

ただ、時計の針が淡々と進んでいく音が耳に残る。

すべてが空虚で、何一つとして私を動かすものはない。


「面白くない…」


呟いた自分の声さえ、冷たく響くだけだった。

今の私は、何一つ熱を持てない。

感情の揺れもなく、何かを感じることすらもなく。

私はただ、そこに存在しているだけだ。


ぼんやりと思考が巡る中、ふとベッドの傍にある時計に目をやる。

時計は8時丁度を指している。

彼との約束の時間を思い出しながら、ようやくベッドから離れたのだった。


キッチンの薄暗い光の中、私は無言で朝食を作り始める。

冷蔵庫の中にあった材料たちが消費して欲しそうに見ていたものだから、エッグベネディクトに決めた。

手順は完璧だ。

卵を割り、ポーチドエッグを慎重に作り、ベーコンを軽く焼く。

手は動いているが、心はどこか別の場所にある。

ホランデーズソースも、レシピ通りに混ぜて滑らかに仕上げたが、その色も質感もどうでもいい。

どんな味がするのかさえ、考えない。


隣で、サラダの野菜を無造作にちぎる。

シャキシャキとした音が響くも、私はずっと上の空。

生野菜の鮮やかな色合いも、瑞々しさも、ただの栄養素に過ぎない。

全てが無感覚な手作業だ。


出来上がったものをテーブルに運び、コーヒーを淹れる。

香りが漂うが、それも意味を持たない。

黒い液体がカップに落ちる音だけが、虚ろな時間の中で響く。


席に座り、エッグベネディクトをフォークで切り分ける。

とろりとした卵黄が流れ出すが、何も感じない。

機械的に口に運び、咀嚼する。

舌の上に広がるはずの味は、ただの情報として脳に届くが、感情のスイッチはどこにもない。


一口、また一口。

ただ栄養を体に押し込むために、料理を口に運ぶ。

サラダも、歯ごたえを感じながらも無味のように飲み込むだけだ。

食事は、楽しみでもなく、癒しでもない。

ただ、生きるために必要な行為。

それ以上の意味はない。


コーヒーを一口飲み込む。

苦味が喉を通るが、それすらも感覚の一部として流れていく。

日常の義務の一つをこなしているだけのような、無感動な朝。

私にとって食事は、栄養を摂取するための機械的な作業でしかない。


昔はもっと、朝食の時間が楽しかったはずなのに。

忙しなく学校に行く準備をして、慌てて食べて。

それでも、十分に温かくて、美味しかった。


ブブッ、と食卓に置いたスマホが振動し、私を現実に引き戻す。

「今起きた。」

ちらりと画面を見れば、彼からの連絡だった。

思わず小さな笑みがこぼれる。

ついさっきまで出かけるのも億劫で、ベッドから動くのも面倒だったはずなのに、彼の一言で気持ちが少しだけ変わった。

なぜだろう、彼からの誘いにはついほいほいと乗ってしままった。

何がそんな心を動かしているんだろうか?

不思議なものだ。


自問自答を繰り返しながら、「おはよう」と返事を送る。

少しだけ心が軽くなった気がする。

口に運び、機械的に流し込むような食事だったはずなのに、どこかいつもと違う。

この後、彼に会えるという小さな期待が、私をそっと背中から押してくれるような気がした。


食事を終えて、私は椅子から立ち上がった。

食卓を片付けながらも、頭の片隅には彼のことがちらついている。

特に何をするわけでもない、ただ花を見に行くだけ。

でも、それがなんとなく楽しみになっている自分がいるのが不思議だ。


洗面台に向かい、鏡を見つめる。

いつもの自分の顔。

でも今日は、ちょっとだけ違う私を映し出したい気分だった。

久しぶりに、本腰を入れたメイクをしようかな。

重たい気持ちで始める朝が多い中、今日はいつもと少し違う。

少しだけ心が浮ついている。


化粧水を顔に馴染ませ、ファンデーションを軽く肌に乗せる。

ムラがないか確認し、アイシャドウのパレットを開いた。

何色にしようか。

ふと、頭に浮かんだのは桃色だった。

昔の記憶に眠っている小さな桃色の花、大好きな桜のような色。

私はそっと桃色をブラシに取り、まぶたに軽く乗せた。

花びらを纏うように、優しく、ふんわりと広げていく。


「うん、悪くないかも。」


次は、少し赤みのある色を選んだ。

まるでバラの花びらのような色。

それを目の際に重ねていく。

ほんの少し大人びた感じがする。

でも、どこか可憐さもある。

桃色と赤色が混ざり合い、まぶたに一輪の花が咲いたような気がした。


ビューラーでまつ毛を軽くカールさせ、マスカラをさっと塗る。

唇にもほんのり桃色を乗せて、メイクが完成した。

鏡に映る自分をじっと見つめる。

今日の私は、いつもより少しだけ華やかだ。


あとは、彼に会いに行くだけ。

メイク道具を片付けながら、ふと微笑んでいる自分に気づいた。

何がこんなに嬉しいのだろう。

特別な理由なんてないかもしれない。

それでも、彼と過ごすこれからが、今の私に何かを与えてくれる気がしてならなかった。

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