1日目

夢を見た。

私がまだ幸せだった頃の記憶だ。


「お誕生日おめでとう、璃桜。ほんと……大きくなったわね。」

「ありがとう……お母さん。」

「璃桜は将来どんな子に育つかな。年長さんの頃は『パティシエになる!』って言ってたけど……手先不器用だからな。」

「ちょ、ちょっと……お父さん!二人と違って不器用だけど、裁縫はできるんだからね!」

「でもお姉ちゃん、自分の指刺してたよねー。ジャージのゼッケンつける時にぷすーって。」

「舞までそんなこと言ってー!」


13歳の誕生日。

母が心を込めて作ってくれたご馳走、家族と何気なく交わす言葉の数々。

それらすべてが、私にとってこの上なく温かく、幸せだった。

両親と妹が、私の成長を心から祝ってくれていた。

笑い声が満ち、安心感に包まれたその空間は、私にとっての絶対的な居場所だった。

あの時は、いつまでもこんな日々が続くと信じていた。


でも、どこからだろう?

どこから壊れてしまったのだろうか。

あの幸せな時間は、まるでガラス細工のように脆く、気づいた時には粉々に砕け散っていた。

それを修復することもできず、ただ手のひらに残る破片で心を切り裂かれ続けているような感覚だけが残っている。

夢から覚めた瞬間、温かかった記憶が、冷たい痛みとして胸に突き刺さる。


思い出せば思い出すほど、その時の幸福が今の自分には届かない。

あの時の私と今の私の間には、どうしようもない深い溝が広がっている。

考えれば考えるほど、得体の知れない虚しさや後悔が私を押し潰していく。

息が詰まりそうになる。

過去があまりにも鮮やかで、今があまりにも暗い。


眠れない夜が続いていた。

何度もあの幸せな夢を見ては、そのたびに目覚めた後の空虚感に飲み込まれる。

私は、何もできない。

能動的に何かをしようと思っても、その意欲さえも奪われてしまった。

自分が崩れていく感覚だけが、私を取り巻いている。


「――聞いているのか、璃桜。」


彼の声が、現実へと私を引き戻す。夢と現実の狭間で、ぼんやりとしていた私の意識が急に鋭くなる。


「ごめん、あんまり聞いてなかった。」


言葉を返すが、その声にも自分の感情は込められていない。

ただ口先だけの返答。

現実に戻っても、心はまだ夢の中の温かさに囚われ、苦しんでいる。

夢の中に戻りたいという気持ちと、戻れない絶望が、私の胸を締め付けていた。


昨日の昼下がり。

いつものように妖櫻の下で時間を潰そうと向かった先に、彼は居た。

この場所は滅多に人なんて来ないのに、まるで当然のように立っていた。

私はぼんやりと彼を見つめたまま、どうしていいのか分からず、ただそこに突っ立っていた。

そんな私を横目に、彼は友人と接するような口調で、私の名前を呼んだ。

まるで、ずっと前から私を知っているかのように。


記憶をどれだけ遡っても、彼に会った覚えなんてない。

戸惑いを隠しきれず、たどたどしく言葉を返したことだけを覚えている。


「璃桜のことだから、昔のことでも思い出してたんだろ。」

「……なんで分かるの。」

「俺にはお見通しさ。璃桜の身長、趣味、生年月日……あとスリーサイズも。」

「そこは知らなくていい……。」

私は少し肩をすくめてそっぽを向いた。

彼の知識に驚くことさえ、今はどうでもいい。

だって、そんなことを気にしても何も変わらない。

結局、誰が何を知っていても、私は私。

自分の存在すら、もう特別視できないのだから。


「知ってることには突っ込まないのな。」

「突っ込んだって何も変わらないし。」

そう言って私は淡々と視線を桜の木に戻した。

何を言ったところで、何も変わらない。

私が何かしたところで、何も動かない。

何かを期待することすら、もう無駄だと知っている。

だから私は、もう自分を動かすのをやめた。

期待しても、失望するだけだから。


風が吹くたびに、私はただその流れに身を任せるしかない。

まるで蒲公英の綿毛のように、軽くて、どこに飛ばされても構わない。

流されて、漂って、残りの時間を無意味に過ごすだけでいい。

それが、今の私にできる唯一の選択だ。


沈黙が続いたまま、数分が経った。

彼が隣に腰を下ろす気配を感じたが、私は特に何も言わない。

ただ、ちらりと横目で彼の様子を伺う。

鴉のように真っ黒な艶のある髪、端正な顔立ち。

どこかのモデルにでもスカウトされそうな人間が、こんな寂れた場所にいるのが不思議で仕方なかった。

ここには古びた桜の木があるだけで、誰かが来る理由なんてない場所。


でも、だからどうだというのだろう。

私にとっては、誰が来ても、何が起こっても、何も変わらない。

ただ淡々と、あと半年をここで過ごして、終わりを迎えるだけ。

変わらない日常に、変わらない私。

全てが同じで、全てがどうでもいい。


「なぁ、璃桜。」

静かだった時間を、彼の言葉が破った。

「今でも、花は好きか?」

その質問に、私は静かに頷いた。花は、今でも好きだ。だけど、その事実を認めるのが少し怖かった。頷くたびに、何かが変わってしまうような気がして。けれど、彼のその優しい問いかけに、自然と反応してしまう自分がいる。


私の様子を見て、彼はふっと微笑んだ。

その笑顔が、どこか懐かしく、心をそっと撫でるような温かさを感じた。

「そこは変わってなくて安心したよ。暇さえあれば俺に教えてくれたくらいだし。」

けれど、そんなことをした覚えはない。

彼の言う「昔」を思い出せない私に、ふと焦りがよぎる。

過去の記憶が、まるで霞に包まれているようで、つかめない。

だけど、彼の愛おしそうな語り口に胸がきゅっと縮まり、何とも言えない感情が込み上げてきた。


何かしなくちゃ。

そう思うのに、何をすればいいのかさえ思いつかない。

自分から誘いをかけるなんて、考えるだけで怖気づく。

私なんかが、どうして……と内心あたふたしていると、彼はふいに小指を差し出した。


「璃桜に教えてもらいたい花があるんだ。よければ明日、俺と見に行かないか?」

その言葉に、息が詰まる。

彼の真っ直ぐな視線が私を捉え、静かに返事を待っている。

それだけのことが、私には大きなプレッシャーのように感じた。

今ここで何かを変えるか、動かないままでいるか――その狭間に立たされているような感覚に囚われた。


ためらいが心を締め付ける。

自分が動くことで何かが変わってしまうのが怖い。

けれど、同時にその変化を求めている自分もいることに気づいた。

期待と不安が入り混じる中、私は自分に驚きながらも、小さな決断をした。


「……たまには、出かけようかな。」


仕方ないな、と言いたげに振る舞いながらも、心の中では鼓動が速くなっている。

私は、彼の差し出した小指に自分の小指を絡めた。

その瞬間、胸の中にあった曇りが少しずつ晴れていくのを感じた。


その後、会う日時や行き方を決め、たわいもない話を交わした。

気づけば、緊張がほぐれ、笑顔を見せている自分に驚いていた。

そして、私は帰路に着く。

ずっと私を圧迫していた感情は、不思議と薄れていた。

何かが少しずつ動き出している。そんな予感が、私の胸の中に静かに広がっていた。

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