第34話 大人の意味
時の経つのはあっという間で、教育実習も残すところあと1日となった。
あの1件以降、大きく変わった事と言えば小春ちゃんから神谷の話題が出る様になった事だろう。
小春ちゃんは友達と一緒に教育実習生の控え室に行っている様で、神谷と共に昼食を摂っていると言っていた。
僕としては特定の生徒に肩入れするのは好ましくないと思い他の指導教員にも相談する事にしたのだが、『複数人ですし、問題が起きてないなら気にしなくて良いでしょう』と言われ、そのまま放置している。
生徒から慕われる神谷を見ていると、稲葉先生の面影が重なる。
稲葉先生、最近の小春ちゃんが良く口にする名前だ。
最近忌々しいと感じるその名前を思い出してしまった事で、小春ちゃんの言動が頭を過ってしまう。
『夕凪先生が可哀想』
『優さんは稲葉先生と仲が良いのに説得すら出来ないのですね』
『優さんは人の気持ちが分かるもっと優しい人だと思ってました』
『私とお母さんは助けてくれたのに……』
神谷の要望に一向に応える気のない僕に対する小春ちゃんの一言一言にメンタルが削られている。
そんな苦行の日々からようやく解放される喜びを感じる一方で、明日の事を考えると憂鬱な気持ちになってしまう。
小春ちゃんに明言していなかったけど、僕なりに神谷の事は気にかけていた。
だからずっと彼を説得していたし、その甲斐もあり条件付きで神谷と会う事を承認してもらう事に成功している。
小春ちゃんから神谷にこの話が漏れる可能性を考慮した結果、誰にも伝える事はなかった。
「優先生……いい加減諦めて稲葉先生の連絡先を教えて下さい!」
そんな僕の気も知らず、いつもの様に腕を組んでくる神谷を睨みつける。毎日催促してくる彼女にウンザリしつつも、腕に感じる柔らかな感触を意識しない様に心掛ける。
「神谷、距離が近い。生徒の目があるから離れてくれ」
「こんな美人から言い寄られてるのですよ?優先生はもっと鼻の下を伸ばしてもいいと思うんです」
一向に反省する様子の見られない神谷に頭が痛くなったが、僕はそんな彼女の腕を強引に振り解くと急ぎ足で教室へと向かうのだった……。
そして迎えた翌日、待ちに待った教育実習最終日。先程、最後の授業を終え教育実習は幕を閉じた。化粧を直したいと言ってきた神谷と別行動で1人職員室へと向かう。
偶然にも小春ちゃんのクラスが彼女の実習最後となった事もあり、なかなか見応えのある授業だった。別れを惜しみ涙する神谷と生徒達。
僕が教育実習をした時には見る事が叶わなかった光景を目の当たりにし、複雑な気持ちになったのは言うまでもない。
別に悔しいとか負けたとか自分を卑下するつもりはないが、少しだけ羨ましいと思った。
これまでの実習を振り返り、客観的に判断するなら神谷は合格と言わざるを得ないだろう。
稲葉先生から神谷と会う為に出された条件は2つ。僕から見て彼女が教育実習をしっかりやれたと判断する事、そして……彼の考えた嘘を乗り越える事だった。
その事を思い返していると、職員室が騒がしくなった。
何かと思えば化粧を直して職員室に戻って来た神谷が、先生方へお礼と別れの挨拶をしている喧騒のようだ。
一通りの挨拶が終わると、彼女は僕の元に歩み寄って来た。
「神谷先生、少しよろしいですか?」
「はい。どうかしました?」
「ここで話せる内容ではないので、少し場所を変えましょうか」
僕の発言で何かを察した彼女の顔が強張る。僕達が移動したのは職員室から程近い空き教室。神谷と小春ちゃんが2人で話す時に使った場所だ。
「実習お疲れ様でした。色々言いたい事もありますが、よく頑張っていたと思います」
「優先生、色々ありがとうございました。それで……」
本題を聞きたくて落ち着きのない彼女の姿に苦笑が漏れてしまう。
1つ深呼吸をして、僕は頭を切り替える。僕は今から役者となるのだと自分に言い聞かせる。
「稲葉先生と連絡を取ったよ。君が会いたがっていると彼に伝えた……」
「い、稲葉先生は何て言ってましたか!?」
僕との距離を一気に詰めてくる彼女の肩を押さえて、距離を保つ。
「まずは落ち着いてくれ。結論から言うと、彼は君とは会いたくない……との事だった」
「そんな……」
先程までの期待に満ち溢れた笑顔が消え去り、彼女の表情は絶望に染まっていた。
「一応最後まで聞いて欲しいのだけど……彼は今、少し離れた所に住んでいるんだ。教師を辞めた後は実家の方に戻り家業を継いでいる。少し前にとある女性と結婚していて、その人のお腹の中には新しい生命も宿っている」
「……」
「神谷は稲葉先生に会って何を言うつもりだった?もしも過去の事を謝罪したいのであれば僕から言っておくから。彼は幸せな生活を送っているから君が罪悪感を抱く必要はないんだ」
僕の話を聞いた神谷は、暫くの間呆然としていた。そしてようやく話の内容を理解したと思うと声を殺して泣き出してしまう。
「この話を聞いた上で、それでも稲葉先生と会いたいと言うのであればその機会は設けるつもりだ。2人きりとはいかないから僕も立ち会いする事にはなると思うけど……」
ここまで言われて会いたいとは言い出しにくいだろう。神谷からどんな返事がくるか固唾を飲んで見守る。
「いえ……その必要はありません。優先生、稲葉先生に連絡を取ってくれてありがとうございました。幸せな日々を送っているなら安心しました。私片付けを始めますね。短い間でしたが、本当にお世話になりました」
そう言って作り笑いを浮かべてお辞儀をした瞬間、ガラガラと教室の扉が開く音がした。
そちらに視線を向けると、怒りの顔を浮かべた小春ちゃんがこちらに向かってツカツカと歩み寄って来る。何事が起きているのか理解出来ず傍観していると、小春ちゃんは神谷の前に立ち勢いよく彼女の頬を叩いた。
「私の事を子供扱いして、自分の気持ちに素直になれとか訳の分からない事を散々言ってきた夕凪先生が……逃げるんですか!?稲葉先生の事、ずっと好きだったって私には言ったじゃないですか!!それに人生滅茶苦茶にして申し訳なかったとずっと後悔していたんですよね!?相手の迷惑なんて考えずに、ちゃんと向き合えば良いじゃないですか!!」
「でも……相手が居るのよ?それに大事な時期の奥さんに余計な心労を与えるのは良くないわ。これ以上迷惑をかけたくないもん……」
珍しく弱気な神谷の姿。喋り方も若干子供っぽくなっているのはそれだけ追い込まれているのだろう……。
「それらしい理由をつけて、振られるのが確定してるから怖いだけじゃないですか!!そんなの意気地が無いだけです。今の夕凪先生は凄く格好悪いです!!」
「あなたに何が分かるのよ!!恋愛もよく分かってないお子様のくせに、そこまで言われる筋合いはないわ!!」
弱気に見えたのは一瞬。小春ちゃんに反論する神谷はすぐにいつもの調子を取り戻していた。2人の言い合いを見ながら、僕は教育実習初日の事を思い浮かべていた。
「じゃあ、勝手にすればいいじゃないですか。こんな情けない人から困った事があったら私を頼ってと言われて、鵜呑みにした自分の見る目のなさが悔やまれますが、もう会う事も話す事もないでしょうから犬に噛まれたとでも思う事にします」
「その言葉そっくりそのまま返すわよ。もっと人の気持ちが分かる子だと思ってたけど、あなたって本当に子供ね」
「聞き分けがいい事を大人と言うなら私は大人になんてならなくていいです。私は自分が大好きな人の幸せだけを願うどうしようもない人間です。その結果、私の知らない人を傷つけてしまう事になってしまったとしても……。好きな人に相手が居たら、気持ちを伝える事はそんなにも許されない事なのですか!?夕凪先生、答えて下さい」
普段の小春ちゃんからは想像すら出来ない、鬼気迫るものを感じた。
彼女がどんな気持ちでそれを言っているのかは分からないが、涙を流して訴えかける彼女は見ていて痛々しかった。
神谷も同じ事を考えたのだろう。突然自分の頬を両手で叩いたかと思えば小春ちゃんに近づきゆっくりと抱きしめた。
「ごめんね小春ちゃん。私の為に怒ってくれてありがとう。優先生、やっぱり稲葉先生と会いたいです」
「そうか……」
僕は無言で連絡先の書いた紙を差し出した。
「優先生これは?」
「稲葉先生の連絡先だ。僕の方から先に連絡を入れおくから神谷が連絡するのは学校を出てからにして欲しい」
「2人で会うのはダメだから、優先生が約束を取り付けてくれると言う話ではなかったのですか?」
「その必要はない。詳しい話は彼の口から聞いてくれ。一応先に言っておくけど……僕を恨むのはお門違いだからな」
「…………」
困惑した表情の神谷と小春ちゃんの物言いたげな視線に気づかないフリをしながら僕は空き教室を後にする。
帰宅したら小春ちゃんから色々聞かれるのだろう光景が目に浮かぶ。
途端に憂鬱な気持ちになり小さく溜息を吐いてはみたものの、気持ちは少しも晴れる事はなかった。
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初恋の人とその娘が同時に現れ、僕の止まった時間が動き出す 大崎 円 @enmadoka
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