第33話 小春ちゃんのお願い
昼休みが終わる直前に神谷が職員室に戻ってきた。
「名取さんとの話は終わったかい?午後の授業が迫ってるからとりあえず急いで準備をしてくれ」
「…………」
彼女は無言のまま、睨みつけてくる。予想していなかった反応に僕は一瞬だけ怯んでしまった。
「どうした?僕に何か言いたい事でもあるのか?」
「はぁ……。別にないです」
これ見よがしに溜息を吐かれる、明らかに『ない』という態度ではない事が見てとれた。
そんな態度を取られる理由が気にはなったが、時間もないので一旦飲み込む事にした。
神谷はすぐに準備を終えると、1人で職員室の出口へと向かい始めてしまう。僕は慌ててその後を追いかけるのだった……。
教室の後ろで授業の進行を見守りながら、僕は昼休みに神谷が言った言葉について考えていた。
『名取さん。あなたって優先生のことが好きでしょ?』
小春ちゃんに好意的に思われている自覚はある。だけどそれはどちらかと言うと親子の愛情に近いものだと思っている。
だいたい僕と彼女の年齢は一回り以上も違うのだから恋愛に発展する訳ない。
そう思いたい反面、神谷と稲葉先生の関係性が頭にチラつく。
あり得ないはずのもしもの可能性を想像してしまい、考えが堂々巡りとなってしまうのだった。
出来るだけ考えない様にしていたつもりだが、結局午後の授業は集中力に欠けた状態で終わりを迎える事となってしまった。
「ただいま」
「優君、お帰りなさい。ど、どうしたの!?そんなに疲れた顔して……何か学校であったの?」
出迎えに来てくれた雪さんから、帰宅早々にそんな指摘されてしまう。
小春ちゃんが僕の事を好きかもしれないという可能性を指摘されて、悶々としていたなんて言えるはずもない。
「いや、大丈夫。少し実習生の指導がうまくいかなくてね」
「そうなんだ。小春も帰宅した時、顔色が悪くてね。『部屋で休む』と言ったきりずっと出てこないの。まだまだ暑いからバテちゃったのなら仕方ないのだけど、ちょっと心配で……」
僕達を心配してくれる雪さんに、咄嗟に嘘をついてしまった事を申し訳なく思った。
「それは心配だね。僕が様子を見に行こうか?」
「優君、お願い出来る?私はその間にご飯の準備をしておくね」
「分かった」
僕は雪さんから逃げる様に、急いで小春ちゃんの部屋へと向かう。
彼女の様子がおかしいのは、昼休みの出来事が原因なのだろうな……。
小春ちゃんの部屋の扉を2回ノックすると、すぐに返事が返ってきた。
「お母さん?今日はご飯は要らないってさっき言ったよね」
「すまない小春ちゃん。体調が悪いと聞いたけど、少し話は出来るかい?」
「優さんですか!?ちょ、ちょっと待って下さいね」
どうやら僕が訪ねてくるとは思いもしていなかったようだ。室内からはドタバタと足音が聞こえてくる。
そのまま暫く待っていると、ドアが開き小春ちゃんがドアから顔を出す。
「散らかってますがどうぞ」
ベッドに座る様に言われたので黙って従うと、小春ちゃんは恐る恐るといった様子で僕の隣に腰を下ろした。
お互いどう切り出すか模索しているせいで、無言のまま時間だけが過ぎていく。
身体が揺れる度にお互いの肩が当たってしまう距離。その事を意識してしまい、尚更上手く話せないでいた。
その空気に先に耐えられなくなったのは僕の方だった。
「小春ちゃんの顔色が悪かったって聞いたけど、体調は大丈夫かい?」
「心配かけてすみません。実は体調は悪くないんです」
「もしかして昼休みの件が関係している?」
「…………」
小春ちゃんは目を伏せた。話したくないという彼女なりの意思表示なのだと理解する。
少し時間を置いた方が良いかもしれないと考えながら様子を窺っていると、小春ちゃんが何か決心した様に顔を上げた。
「先に言っておくと私がその優さんを……す、好きというのは、神谷先生の誤解だと納得してもらえました。その事は解決したのですが、優さんにお願いしたいことがあります」
僕に異性としての好意がないとハッキリと言われ、安心すると同時に胸がチクリと痛んだ気がした。
自分でも分からない感情を誤魔化す為に、僕は彼女に話の続きを促す。
「お願い?」
「まず最初に、神谷先生との距離感が近すぎると思うんです。そういうのはやめて欲しいです」
「…………そ、そうだね」
反論の余地のない正論をぶつけられた。一応これでも神谷には釘を刺してはいたのだけど、改善されてなければ何もしてないのと変わらない。
「2人の関係が怪しいって噂する生徒も居るんです。神谷先生はお世辞抜きで綺麗だと思います。あんな人にくっつかれて嬉しいのは分かりますが……」
「すまない。そんなつもりはなかったんだけど、気をつける」
「あと……私としては喜ばしい事ですが、お母さんのお弁当を幸せそうに食べるのも少しは控えた方が良いと思います。職員室で優さんに彼女が出来たらしいという噂が広まっているそうですよ」
こちらも身に覚えがあったので、素直に聞き入れるべきだと思った。
「それで先程のお願いの件に話を戻しますが、神谷先生と距離感を適切に保てる方法を考えてみました」
「そんな方法があるのかい?」
聞く耳を持ってくれない神谷には僕としても辟易していた。
そんな方法があるなら是非とも教えて欲しい。
「本人の口から聞きましたが、神谷先生はハニートラップで優さんの弱みを握ろうとしています。何故なら彼女の目的は稲葉先生だからです。なので彼の居場所を教えてあげれば、彼女が必要以上に近づく理由は無くなります。その結果、適切な距離感を保てると思います」
小春ちゃんの口から思いもよらない人物の名前が出てきた。
「驚いた。神谷がその話をしたのか……」
「はい。それで優さんは稲葉先生とはまだ連絡を取っているんですか?」
そう言って小春ちゃんはずいっと僕に顔を寄せてくる。僕が少しでも動けば唇が重なる事故が起きてしまってもおかしくない距離感。
その事からも僕に対する好意が恋愛感情ではない事が窺えた。
ただ、神谷と適切な距離感を保てと言っている本人がその態度なのはいかがなものだろうか……と文句の一つも言いたくなるのをぐっと堪える。
「電話はしているよ。彼は少し遠い所に住んでいるから、なかなか会えないんだ。最後に会ってから半年は経っているかな」
「そうですか。それなら神谷先生に稲葉先生の連絡先を明日にでも教えてあげてください」
それは無理なお願いだった。
「それは無理だ。彼からは神谷に居場所や連絡先を教えないで欲しいと言われているからね」
僕としても2人の今の状況は好ましいとは思っていない。過去には神谷が高校を卒業したタイミングで教えてあげるべきだと助言をした事もある。だけど聞き入れてもらえなかったのだ。
「優さん。神谷先生は今でも稲葉先生の事が好きなんです。このままだと2人の為にもならないと思います。親友みたいに仲が良いと聞いてますが、何とか説得出来ませんか?」
自分には関係ないはずの事に、ここまで熱心になる小春ちゃんを見て優しい子だと思った。
出来れば叶えてあげたいがそれは難しい。どう答えるか悩んでいると、扉をノックする音が室内に響く。
「優君、そろそろご飯にしようと思うんだけど。小春の分も作ったから、2人とも出てきてくれる?」
「雪さん了解。すぐ行くよ」
どう伝えるか悩んでいた僕は、雪さんの呼びかけに飛びついた。
一方、回答を得られなかった小春ちゃんは不満気な表情を浮かべている。
その事に気づいていないフリをして僕は部屋を出てリビングへと向かった。
いつも通り3人で食卓を囲む。雪さんと小春ちゃんが今日の学校での出来事を話している傍らで、僕は様子を窺っている。
昼間知った事、僕と小春ちゃんの弁当の中身が違う事について尋ねたかったからだ。
はやる気持ちを抑え、暫くの間2人の会話に耳を傾けていると、ついにその機会が訪れた。
このタイミングを逃すまいと話を切り出す。
「雪さん、前に弁当を1人分作るのも2人分作るのも変わらないって言ってたけど、小春ちゃんと僕の弁当の中身が全て違うなんて聞いてなかったんだけど?」
「ご飯は同じの使ってるわよ?」
雪さんは、イタズラのバレた子供の様にバツの悪そうな笑みを浮かべながらそんな反論してきた。
「同じ人が作った弁当には見えなかったよ。あれはついでに作っている弁当の範疇を超えてる」
「もしかして小春の方に入っていたおかずの方が良かった?」
そう言って小さく舌を出して誤魔化そうとする雪さん。彼女としてもこの件については触れられたくないのだろう。
だけど、僕としてもここで引き下がる訳にはいかない。
「そうやって惚けるなら僕にも考えがある。前々から雪さんの負担になりたくないと言っているのは覚えてる?だから明日から僕の弁当は作らなくていいよ」
「そ、そんな……」
そう言って目を伏せて、落ち込む素振りを見せる雪さん。
「雪さんの負担になりたくないんだよ。小春ちゃんと同じおかずを使ってくれるなら問題ないんだけど」
「それは絶対にダメよ。だって私が中身を変えているのは、もしも2人が一緒にお昼を食べる事になったら……って想定しての事だもん。中身が違う事に気づいたのは、そのもしもが今日あったって事だよね?」
そこまで僕達の事を考えてくれてたのは嬉しい。だけど、知ってしまった以上これから先もお願いする気にはなれなかった。
「それなら……やはり弁当は小春ちゃんの分だけにしてくれ」
僕の発言を聞いた雪さんはこの世の終わりの様な顔をしていた。
居た堪れない気持ちになり、食べ終えた食器を置きにキッチンへと向かう。
そんな僕の後を追いかけてきた小春ちゃんが耳元で囁いた。
「稲葉先生の件は早急にお願いします。それとお母さんが望んでいるのですから、好きにさせてあげてもらえませんか?本気で落ち込んでるみたいなので、可哀想だと少しでも思ったなら後でフォローしてあげてくださいね」
彼女はそれだけ僕に伝えると、そのまま自分の部屋へと戻って行った。
雪さんに楽をして欲しいという僕の考えは間違っているのだろうか?
そんな事を考えながら僕は小春ちゃんに言われた通りこの後、雪さんのフォローに精を出すのであった……。
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