第32話 勘違い―小春視点―
「名取さん、これで分かったでしょ?生徒が教師に恋しても相手に迷惑をかけるだけなの。そんな馬鹿げた話が成立するのはフィクションだけよ。悪い事は言わないから優先生の事は諦めなさい」
どうやら彼女は昔の自分と私を重ねているらしく、勘違いをしている様子だった。
私が望んでいるのはお母さんの幸せ。私が優さんを好きだなんて……あるはずないのに。
とりあえず神谷先生が優さんを好きではなかった事を聞けて安心した。
2人きりで話がしたいと言われた時は、どんな文句を言われるのか身構えてしまったけど、それがこんなにも穏やかな気持ちで神谷先生と向き合う事になるとは……思いもしなかった。
だけど、平穏というのは長くは続かないのも世の常だ。
『生徒の中には、小春ちゃんが先生に好意を持っていると疑っている人が居るんです。今日の授業中にも、そう思わせる反応があったのは気づきませんでしたか?』
突然、先程の彼女の言葉が頭を過った。私は優さんに悪い虫が付かないようにと、その事ばかりを考えて行動していた。
優さんとの距離感がおかしい神谷先生に突っかかった記憶、優さんを好意的に話している生徒の会話が聞こえればネガティブキャンペーンの様な発言をした記憶が甦る。
これが噂に聞く走馬灯……なのだろう。
私の家の事情は当然クラスメイトにも話していない。これまでの行動を振り返れば、私が優さんに好意を持っていると思われてもおかしくない。そう思われてしまったのは仕方ないとしても、言い訳をさせてもらうなら悪いのは私だけではない。神谷先生にも責任はあると思う。
神谷先生が打ち明けてくれたのは『同じ穴の
マズイ……マズイ……マズイマズイマズイマズイマズイ……。
ヤバい……ヤバい……ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい……。
命の危険に晒されている訳ではないのに……こういう時にも走馬灯は現れるという事を知った。
お母さんの存在を打ち明ける事が出来れば誤解は解けるけど、私達との同居がバレてしまうのは不味い。私は何も言い返せずに黙り込んでしまう。
「無言は肯定……という事かしら」
彼女は探る様にじっと私を見つめていた。その視線に哀れみの感情が含まれている気がするけど、反論する元気は今の私にはなかった。
出会った日から彼女に対してずっと抱いていた敵意は既に消えていたが、それならもっと早く言って欲しかったという怒りが湧き上がる。
自分でも理不尽だと分かっているけど、このやり場のない怒りをぶつける先が欲しかった。
私はあなたとは違うのだから、いつまでもそんな目で私を見るな……。
口には出さずに、私は心の中で神谷先生に文句を言った。
「なんで……」
「なんで?」
「何で私に昔の事を話したんですか?普通なら隠しておきたい話ですよね?」
混乱していた私は、そんなする必要もない質問を口にしてしまう。
「それでは誰も幸せにならないから、と言えば聞こえが良いけど……私自身の自己満足の為よ」
「…………」
「私は自分の過去を悔やんでいる。もう名取さんには分かってもらえたと思うけど、今でも稲葉先生の事は諦められないの。この4年間は私にとって地獄の様な日々だった。自分の軽はずみな行動が原因とは言え、彼に2度と会えなくなるかもしれない窮地に立たされている。あなたに同じ思いをして欲しくなかった……」
そう言って神谷先生は力無く笑った。あんなに態度の悪かった私をここまで心配してくれていた事に不覚にも感動した。
この人は、本当に優しい人なのだろう。その証拠にクラスで彼女に悪い印象を持っているのは私だけ。今までの非礼についてはきちんと謝罪しようと決意した。
「という気持ちが半分。残りの半分は優先生に対するポイント稼ぎね。稲葉先生の居場所を知っている人を私は彼以外に知らない。この実習期間に何としても聞き出したいから……恩を着せたかった。あなたに説教する資格なんて私にはないのにね。ごめんなさい、割り込んでしまって。名取さん何か話そうとしてたでしょ?」」
「…………いえ」
やっぱりこの人は嫌な人だ。私の直感は正しかった。
彼女が勝手に話したのだから、私が義理立てする必要はないが、このまま誤解されたままというのも癪な気がする。
「色々と事情があるので詳しくは言えませんが、神谷先生が考えている事態にはならないです。私の大切な人が瓜生先生を好きなんです。2人には結ばれて欲しい……そう思っているんです。だから瓜生先生に近づく神谷先生につい反抗的になっていました」
負けず嫌いな性格が災いし、私も少しだけ事情を打ち明けてしまった。
これぐらいであれば真実には辿り着かないだろうから問題はない……はず。
お母さんには優さんと結ばれて欲しい。もしも2人が結婚したら彼が私のお父さんになる。頼り甲斐もあるし、他人でしかない私を常に気にかけてくれる優しい人。父親と慕うには十分過ぎる。
お小遣いが欲しいと初めておねだりした日の事が頭を過ぎる。優さんは、私が頼ったのが嬉しかったみたいで財布から一万円札を取り出した。
『手持ちがこれしかないから足りない様ならすぐにコンビニに行ってくる』と言い出したので、お母さんに本気で怒られていた。
その時の彼の顔を思い出し、つい顔がニヤけてしまう。
義理とはいえ、彼の娘になったらきっと幸せな日々を過ごす事が出来るだろう。お母さんと結ばれるとはそういう事だ。
お父さんという私にはいなかった存在に憧れはあるが、優さんと親子になるというのは何だかモヤモヤした。
前からずっと願っているはずなのに、そんな未来を思い浮かべると胸がチクリと痛むのだった。
この痛みは、優さんにお母さんを取られてしまうと思ってしまったからだろう……。
そんな風に考え事をしていると、小さく咳払いをする音が聞こえた。
その音でハッと我に返ると、神谷先生が探る様に私をじっと見ていた。
「ねぇ……今、自分がどんな顔をしているか分かる?」
そう言って彼女は私に鏡を向けてきた。鏡に映る私の顔は自分でも分かるぐらい沈んだ顔をしていた。
「酷い顔じゃない。2人に結ばれて欲しいと願っているならどうしてそんな顔をするの?あなたは本当は優先生が好きなんでしょ?」
違う……いや、正確には好きという気持ちがない訳ではない。でもそれは父親に対する気持ちに近いはず。
「何度も言ってますがそんなつもりはないです。それに私はまだ人を好きになるという事がどういう事か分かってませんから……」
「あなたもしかして今まで恋した事ないの!?」
「…………悪いですか?」
そんな風に驚かれてもないものはないのだ。
中学の時も私の周りには彼氏持ちの友達がそれなりにいたし、自分の容姿が客観的にどう見られているかは理解していたつもりだ。告白をされた事だってある。
負け惜しみではないけど、彼氏が出来ない環境ではなかった。
そんな私が誰とも付き合った事がないのは、お母さんに対する負い目があったから……。
私を産んでからずっと1人だったお母さんを差し置いて自分が誰かと付き合うのはあり得なかった。
『私には出来なかったけど、小春は素敵な恋をしてね』
そんな風に言われて任せてと言える程、私は恩知らずではない。
「別に悪くはないけど……はぁ。あなたもなかなか難儀な性格をしているという事は理解したわ」
「…………」
「まぁ、今は何を言っても無駄かもしれないけどこれを機に自分の気持ちにしっかりと向き合ってみなさい。それと悪いけど、私の事が鬱陶しいと思うだろうけど、もう少しだけ我慢してね。優先生がハニートラップに引っかかってくれたら、それをネタに稲葉先生の居場所を聞き出すつもりだから」
そう言って話は終わりとばかりに彼女は私にウインクをしてきた。
同性の私から見ても神谷先生は魅力的な女性だと思う。こういう仕草を見せられると、もしもは否定出来なくなってしまう。
「あの、やっぱりそういうのは良くないんじゃないでしょうか?」
「優先生は鉄壁のガードだから私なんかに見向きもしないわよ。あなたもさっきのお弁当見たでしょ?最近彼女が出来たんじゃないかって職員室はその噂で持ちきりよ。もしかしてさっき名取さんが言っていた大切な人と関係あるのかしら?」
それを聞いた途端、ズキッと胸が痛んだ。そんな風に噂になってたんだ……。
「どうでしょうか。話は変わりますが、質問してもいいですか?」
「ええ。私に答えられる範囲であれば」
「これはもしもの話なんですが……大切な人が好きな人を、自分も好きになってしまったらどうしますか?」
私は慌てて口を塞いだ。本当は他にお母さんの事が噂になっていないかを聞くつもりだったのだ。
「言ってしまった後に口を塞いでも意味ないじゃない」
「…………」
「まぁ、難しい質問ね。でも私なら絶対に諦めないかな」
神谷先生はそう言って、私を真っ直ぐに見つめてきた。
「それが大切な人を苦しめる事になってもですか?」
「これは勝手な想像だけど、大切に思ってるのはお互い様じゃないかしら。片方だけが大切に思っているとは考えにくいもの。大切な人が自分に気を遣って恋心に蓋をしてしまう。それを知ったらどう思う?取り合わずに彼と付き合えてラッキーって思うかしら?」
「そうはならないと思います。私なら申し訳ないって思うかなと」
「そうね、私もそう思うわ。私の経験則からすると本当に好きだったら、諦めるという選択肢にはなかなかならないと思うの。他の全て犠牲にしてでも手に入れたい、自然とそれぐらい強い気持ちになってるものなのよ。もしもそこまで思えないなら、その人じゃなくてもそのうち別の良い人が見つかる可能性があるから諦めるべきね」
「後から好きになった立場でも、そんな我儘許されるのでしょうか?」
「人を好きになるって理屈じゃないの。順番で相手が決まるなら、もっと多くの初恋が成就しているはずでしょ?この世の中、そんな単純じゃないのよ」
確か初恋は8割が実らないと言われているのをどこかで見た記憶がある。
「まぁ、もしもの話でしょ?それが現実になる様だったら、私が相談に乗ってあげるわ」
そう言って優しく微笑みかけてくれる神谷先生に黙って頷く。彼女は私の頭に手を置きポンポンとそっと撫でてくれた。
「はぁ、優先生もこんな純粋な子に何をしたんだか。類は友を呼ぶとはこういう事なのね」
性別が違うのに、どこかしら優さんと似ているなと思った。神谷先生が何かを呟いていたが、頭の上に置かれた手の温もりに意識を向けていた私の耳には届かなかった。
神谷先生は、私が思っている様な人ではないのかもしれない。この人が優さんを好きじゃなくて良かったと、私は心底安心するのだった。
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