第八留

「彼女の留年理由は、ある必修授業で単位がもらえなかったことだ」


 龍ヶ崎先輩は説明を続ける。


「その病気のせいで欠席が多かった、それだけならまだ良かったよ。彼女は頑張って、授業の始まるより何時間も前、起きている間に講義室にたどり着いていたのだそうだ。健気なことにね」


 龍ヶ崎先輩はポケットから煙草を取り出し火をつける。

 なんで今? 室内で吸うなよ。


「あ、いる?」


「僕はまだ未成年だ! というか早く続きを話せ!」


「はいはい」


 彼女はふう、と一息ついてからポケット灰皿に吸い殻を入れる。

 今の間が本当に必要だったのか、疑問だ。


「どこまで話したっけ……あ、そうだ。

 火曜一限の教員が少し彼女に厳しくてね。講義室にいても、一秒でも眠っていたら落第にする、と口にしていたのだそうだ。そして、実際にそうした」


「学部生の授業なんて、半分以上が眠っているだろう。彼女だけが単位を取得できないなんて、おかしな話じゃないか」


「そうだね。だからこれは単なる嫉妬が理由なんだよ。若くして成功する人を妬む気持ちは、誰しも多かれ少なかれ持っているものだと思うが……大学教員という人種はとりわけ偏屈な人間が多いからね」


 嫉妬、と言われてはっとしてしまう。

 自分はついさっきまで、何を考えていた?

 宮沢に嫉妬していた、黒い感情が湧いていた。

 おそらく、その教員とそう変わらない。


「宮沢はそのせいで留年させられてしまった。困り果てた彼女を見かねて、私が留年部に誘ったというわけさ」


「どうして……どうして彼女はそんなことで困っているんだ」


「と、いうと」


「こんな取るに足りない大学の学部生なんてやらなくていいじゃないか!」


 そこまでの才能であれば、学位なんて全く関係ない。

 どこの研究機関でも雇ってもらえるだろうに。

 宮沢一瑠は、どうしてこんな場所で凡人と同じ道を歩もうとしているんだ?


「簡単なことだよ。宮沢一瑠はね、『普通』になりたかったんだ」


「普通になりたい?」


「ああ。彼女は本気で、普通の大学生みたいな日々を送りたがっていたんだ。だからこの学校に来た。普通に友達を作って、授業を受けて、ご飯に行って……そういう生活を望んでいた。いや、今も望んでいるんだよ」


 意味がわからない。

 もっと自慢気にすればいいのに。

 凡人なんて見下せばいいのに。

 自分の評価される場所だけで、生きていけばいいのに。


「やっぱり、君は理解できないんだね」


 できるわけがないだろう、だって。

 宮沢一瑠は、僕が欲しいものを全て持っているのに。

 それを無駄にしようとしているんだぞ?


「ふふ。けど、だからこそ……私は君なら、宮沢一瑠の友達になれるんじゃないかって、そう思うんだ」


「………………」 


 龍ヶ崎先輩の言っていることは、終始わからなかった。

 けど。


「んう……」


「おや、眠り姫がそろそろお目覚めのようだ。この話はこのくらいにしておこうか」

 

 話を聞き終えた僕はもう、宮沢一瑠のことを考えずにはいられなくなっていた。

 彼女をチラリと見る。僕の胸がキュッと苦しくなる。

 

 強い妬ましさと、それから少しの同情と、それから……


 いったいなんなんだろう。

 この、混濁した感情は……


「恋だよ」


「うるさい!」


 人の心を読んだ挙句に見当違いなことを言うな!

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かつて東大A判定だった学歴コンプレックスの俺、滑り止めの大学で留年 〜ヒロインも全員進級できてないが今更後悔してももう遅い〜 いえな @iena_k

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