私と私と私と、大勢の私
狐
*
●ひとつめ
目が醒めた時、涙が流れた。人生の楽しみ、喜び、苦しみ、そういった陳腐な言葉でまとめられてしまう一切の悲喜交々がひといきに押し寄せてきて、見慣れたはずの寝室の天井がひどく異質なものに感じられる。
iPhoneが短く振動する。誰かからLINEが来たのだろうかと半分無意識に考えながら、脳はずっと混乱していた。
何が起きた?
覚醒したときの体勢のまま、動けずにいる。
私は、私は、私は。
1930年頃。中国の海沿いの浙江省。
陳家の次男として
川の多い土地で、陳兰の家も川のほとりにあった。妻と子供に恵まれて、豊かではないが穏やかで良い一生を終えた。田舎に住んでいたおかげか、革命や戦争の奔流には大きく巻き込まれずに済んだ。
それは、明らかに「自分」の視点から見た物語だった。
近くを流れる清流のせせらぎを、家を出てすぐに踏みしめる草の感覚を覚えている。愛する妻の、子どもの笑顔を覚えている。
私は、陳兰だったのだろうか?
もし別人だったとしても、性格や考え方があまりにも地続きで、とても他人とは思えなかった。
生まれた場所や環境が違っただけの、別の世界の、紛れもなく自分のことだった。
前世の記憶が蘇ったのかもしれないと思い至ったのは、昼を過ぎた頃だった。
幸い何も予定が入っていない休日だったので、自分の頭に突如発生した情報について吟味する時間があった。
陳兰が死んだのは確か1981年で、私は1983年生まれだ。生まれ変わるには早すぎるスパンだと思ったが、輪廻というものは案外そんなものなのかもしれない。
私は喜んだ。記憶が蘇ったことによって、一度も勉強したことがないはずの中国語が自在に使えるようになっていたのだ。試しに中国語を聞いてみようと、YouTubeで「在北京的日常」と検索をかける。北京での日常生活を映す動画で話されている言葉は、字幕なしでもなんとか聞き取って理解することができた。
陳兰の生まれは浙江省だ。彼は中国語の方言のひとつである
「我真的是陳兰吗?」
口に馴染む発音だった。言いたいことはすぐに言えるし、日本語にないはずの発音も難なくきれいに発することができる。
ずっと頭が痛い。一夜にして一生分の記憶が流れ込む器としては、人間の脳はいささか不十分だと思う。生まれてから死ぬまでの数十年の、知識も感情も一気に流れ込んできたのだ。今まで感じたことのない鈍痛を感じながら、ふらふらとキッチンに向かい、水を飲む。視界が霞がかったようになっていて、頭もぼんやりする。ひどい飢餓感がある。
受け入れることに時間はかかりそうだが、言語の習得が一晩にしてできたのはかなり幸運なことだ。
これを活用して仕事を探せば、年収が上がるかもしれない。出世できるかもしれない。海外営業部に異動の希望を出してみようか。中国事業部はずっと黒字で、うちの会社の稼ぎ頭だ。
気になるのは、陳兰が本当に存在した人物なのかということだった。
実在が確かめられれば、これが私の単なる妄想なのか、それとも本当に前世の記憶なのかがはっきりするだろうと思った。
妻や友人はおそらくもう生きていないだろう。だけど、子供は、そしてその子供は、生きているかもしれない。
「結婚、したいなあ」
結婚は向いていないと思って、もうとっくに諦めたつもりだった。
でも、幸せな結婚生活を味わってしまった。身に沁みて、実感が残ってしまった。あれはとても良いものだった。
41歳。まだなんとか間に合うのかもしれない。結婚相談所に登録してみようか。
「結婚相談所 東京」と検索して、一番上にでてきたリンクをクリックする。
陳兰についても調べたいが、数十年前に異国にいた一般人のことを調べるのはきっと骨の折れる作業だろう。時間はたっぷりあることだし、急がずにやっていけばいい。
私は、興奮していた。何者でもない自分が突然何者かになれた気がして歓喜した。
いまならあらゆる物事ができる気がしてきて、力が漲ってくる感覚があった。
陳腐で代わり映えしない日常に、突然光明が差したように思えた。
この時はまだ、事態の深刻さに気がついていなかったのだ。
●ふたつめ
一週間ほど経って、また同じことがおきた。
今度はあの鈍痛で目が覚めた。前回よりもひどい痛みで、目眩もした。
今度は騎士の記憶だ。西暦1100年頃、私は戦っていた。キリスト教の十字軍の一員だった。
聖地エルサレムをイスラム教の国々から奪還するために、他国への侵攻を続けた。
たくましい軍馬に跨り、剣を捌いて屍の山を作った。異教徒は人とも思わずに殺した。仲間はその肉を食べていた。
頭が痛い。さほど興味のなかったイスラエル情勢を、ニュースアプリで確認する。
1000年近く経っても、人間は自分たちの聖地を奪還しようと奮闘しているらしい。
脈々と続く歴史に呆然とする。頭がうまく回らない。
自分は、たくさんの人を殺していた。それが当たり前のことで、良いことだったからだ。
価値観もなすべきことも、当時と今では何もかもが違う。現代の価値観では到底許容されないことが、その時その場所では英雄として扱われることだったのだ。
切り離すことのできる事象だと頭では理解していても、なかなか受け入れられない。
なにせ、人生がまるごと流れ込んできているのだ。小説を読んだあとにも、映画を見たあとにも、ここまで身に迫る勢いで価値観を揺るがされたことはない。
想像してみてほしい。極度の異物が、知識でも伝聞の情報でもなく、突然「体験」として自分の中に発生してしまったらどうなるか。
浙江省で生きた陳兰について調べる気持ちはきれいになくなってしまった。
もしもこれが現実で、本当に前世の記憶なら、私の心には有り余るからだ。
どうか現実でありませんように。私の頭が少しおかしくなってしまっただけでありますように。
自分が狂っていますようにと願ったのは、生まれて初めてのことだった。
その日は平日で出勤予定の日だったが、とても働けるような状態ではなかったので欠勤することにした。
始業時間までにその旨の連絡ができたので、まあ良しとする。
二度あることは三度ある。今後また、別の人生の記憶が蘇る可能性があった。
もう勘弁してくれという気持ちと、それでもまだ少しワクワクしている気持ちが残っていた。
ひどい頭痛を鎮めるためにバファリンを水で流し込む。
●みっつめ
インドで僧として生きていた。年代のことはあまりわからない。まいにち、ヨーガをして静かに生きていた。未婚のまま死んだ。ヨーガをするうちに無我になって、神秘的な体験をした。あれは何にも代えがたい、強い喜びだった。
●よっつめ
1400年くらいのヨーロッパで、富のある家に生まれ育った。貴族だったのだと思う。
●いつつめ
はじめて、言葉のない記憶だった。視界も変な感じがした。高いところから地面を見下ろしたり、木々の間から山を見たりした。鳥かなにかだったのかもしれない。
●むっつめ
●ななつめ
●やっつめ
●ここのつめ
………
頭が割れそうなくらいにいたくて、もう何もする気がおきなかった。
天井はかわらずにそこにあって、でもすごく変な感じがする。
なぜだかあせっている。なにかをしなければいけない気がするけれど、なにかは分からない。
そばに置いてある端末がふるえる。あかるくなった画面を見ると、しらない名前と、「ごめん、明日の予定今日にできたりする?」という文字があった。
だれだ?
手にとって、くわしいことを確認しようと画面をひらいた。
〈26日の19時以降なら行ける〉
〈オッケー! 俺もそのくらいの時間が助かるわ〉
〈場所は五反田でいい?〉
〈(リアルな犬がグッドマークをつくっているスタンプ)〉
これはだれだ? なにを言っているんだ?
ぼんやりと眺めていると、端末が長くふるえた。電話がかかってきたらしい。
電話にでる方法がわからなくて、画面を適当に触っていたら、小さく声がしはじめた。どうやらつながったようだった。あわてて耳にあてる。
「もしもし?」
「あ、はい」
聞き覚えのあるような、ないような声だった。
「はいって(笑) ごめんLINEみた? 明日予定入っちゃって、今日にできると嬉しいんだけど……」
「……?」
「ごめん。ほんとに急だから、もし予定入ってたら大丈夫」
「……」
「やっぱ厳しいか」
「……」
「あれ? もしもし聞こえてる?」
「……きこえてる」
「よかった。どうした? タイチョウわるい?」
タイチョウ。体調か。
「たしかに、悪いかもしれない。頭がいたい」
「大丈夫か? ならまあ今日はなしにしよう。また予定わかったらLINEする、ほんとにごめん」
「大丈夫だ」
「じゃあ、そういうことで。頭痛、お大事にね」
ポロロン、と音がして、画面がくらくなる。電話が切れたようだ。
と、すぐに手に振動が伝わってきた。また電話がかかってきたらしい。
「前田? お前何やってるんだ、あと10分で先方の取締役が来るぞ」
「……だれしたっけ?」
「ハァ?????」
取締役のこともたしかにわからなかったが、電話をかけてきている人がだれなのかわからなかった。
その後も電話のむこうの人は何かを大きなこえで言っていたが、どれもよくわからなかった。
とにかく頭がいたい。その大きなこえがいたみを強くするのが苦しくて、電話をベッドの上に放ってしまう。
なにもわからない。いたい。くるしい。
このまますべて忘れてしまいたい。楽にしてほしい。
いたさにたえられなくなって、自分もベッドの上にたおれこんだ。
前世の記憶がどんどん増えていくはなし 完
私と私と私と、大勢の私 狐 @wreck1214
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