光彩を求めて
はな
光彩を求めて
あの瞬間。歌い出す前に舞台上ですれ違ったその時に、鼻腔を撫で胸を満たした甘い香り。それは食べ物とも花とも言えない、それでいて甘いとしか表現できないもの。その香りで全身が一瞬痺れたかのような波が自分の中心から走った。
その香りの主を目で追い、向き合う。二人で手を掲げ、その手を中心に円を描くように歩く。女性と変わらないほどの身長の自分と、長身の彼の手の位置はずいぶん違う。届かない。
息を吸う。彼の唇が開くのがまるでスローモーションのように見えた。スポットライトが周囲に影を落とし、白い世界には彼と、そして自分だけ。朗々とした声が空気を震わせた時にはもう、堕ちていた。その甘く白い光の中へと。
* * *
「お疲れさま、コーキ! 今日の歌めーちゃくちゃ良かったよ! やっぱ
額の汗を手の甲で拭いながらにこにこと駆け寄ってきたのは
「俺のハイタッチ効果かもなー」
得意げに笑って、彩音が手のひらを掲げた。その手は、光輝の頭よりずいぶん高いところにある。彩音は百八十センチを超える長身だ。
「届かねぇっ、ての!」
背伸びをして、その手を叩く。パチンと小気味良い音が響いた。共演する舞台では始めと終わりに必ず行う二人のルーティンだ。
「それにしてもコーキは相変わらず人気者だなあ。今日もソロブロマイドいの一番に売り切れたって?」
「お前も売り切れてただろ」
「そうだけど、コーキの可愛さの前にはなあ」
光輝はわざとらしく胸の前で手を組んだ。身長百六十センチの武器を活かして、上目遣いでポーズを決める。自分の一番良く見える角度を、彩音だけに向けた。
「どうか、僕を君の側に置いて欲しいな」
「ひゅう! それそれ。格好良いのに可愛いとか反則だろ。みんなコーキ王子にメロメロだよ。俺にもブロマイドくれよな!」
「え、いる?」
「いるいる! あ、オフショ取ろ! ファンの子たち楽しみにしてるだろ」
「はいはい」
スタッフの女の子にカメラを向けてもらい、二人で手を取り合って身を寄せる。今回はスパダリな役どころの彩音と、女の子みたいに小さくて綺麗な自分。これはいわゆるそういう物語ではないが、ファンの子達がなにを望んでいるかはだいたいわかっているつもりだ。
二十センチは高い彩音を見上げる。これだけで絵になると理解している。
対して彩音は、素顔はどちらかと言うと薄めの顔だ。だからこそメイクで映える。役が降りてくると言われるくらいに、役によって顔も立ち姿も声質も変わる。憑依型俳優。
彩音の顔が近づく。その表情は、瞬時に降りて来た役によって塗り替えられる。冷たく、それでいて相手を溺れさせる色香のある悪魔。
ほおに今にも口付けそうな近さ。甘い香りに包まれる。緊張感。今、自分はこの男に喰われそうになっているのだ。一度嵌ったら抜け出せない沼の底に引き摺り込まれ……。
「はーい、オッケーでーす」
いいの撮れましたよという声を聞きながら、お互い身体を離した。彩音を見上げる。そこにいるのは、まぎれもなく素の、ちょっととぼけた彩音だ。役は完全に抜けている。
この切り替えの早さ。
「よし! これでまたコーキ推しの村がお祭りになっちゃうな!」
楽しそうに笑った彩音が、なんの屈託もなく光輝の肩に腕を回した。一瞬だけ身体が強張る。
「なっコーキ!」
「……お前、確信犯だな」
震えた声には気が付かないでいてくれただろうか。そんなどうしようもないことが脳裏を巡る。舞台の上でならこんなこと平気なのに。
漂うのは、彩音の甘い甘い香り。
「離せって。それより彩音、なんか香水つけてる?」
わざと邪険にするように彩音の腕を外し、しっしっと手のひらをふる。
「つけてないよ。どうして」
「いや、なんか甘い匂いがするなと思って。東堂さん、こいつ甘い匂いしますよね?」
「え、そうですか?」
写真を撮ってくれたスタッフの東堂が彩音に近づく。鼻をくんくんさせ……首を傾げた。
「どっちかというと、無臭? ですね?」
「え……じゃあ、どこから」
彩音からは甘い香りがする。それは舞台の上でも、衣装を脱いでからも、プライベートでも。
「差し入れのドーナツの匂い移っちゃったかなあ」
屈託なく笑う彩音、そこから漂う甘い香り。胸が疼く。やっぱり勘違いではない。この甘い香りは自分しか感じていないのだ。
どうして、そんなのは分かり切っている。
(気持ち悪い。僕は、正常じゃない)
言い聞かせるように繰り返す。これは正常では、ない。
「あー、毎日推しの顔を見られる最高の日々が終わったかぁー! 寂しいなぁ!」
「あははは、推しって光輝さんの事ですか?」
東堂の問いかけに、もちろんと彩音は頷く。なんの屈託もなく。想いに苦しむ光輝の心を少しも知らず。
「なぁコーキ、次オフいつ? 次の舞台の稽古ってまだだよな?」
「オフは明後日だけど、マチソワで観劇入れてる」
「そっかー。一日二公演観るなら時間ないよな」
わかりやすくしゅんとした彩音の姿に思考が乱れた。
最初は
そうだ、それが正常なのだ。
「明日の朝はダンスレッスンだけど、昼からは空いてる」
それなのに、口をついて出たのはそんな台詞で。
「やった俺明日休み! な、一緒にゲームしようぜ! おすすめのケーキ買っておくから!」
「……ッ、本当に⁉︎ あ、いや、別にケーキを食べたい訳じゃ、ないけど……」
言い訳がましい言葉が歯切れ悪く口の中で潰れる。それでも彩音は太陽のように笑った。そのまぶしさが胸を焼く。
「コーキ甘いもの好きだもんな! いっぱい買って待ってる!」
甘い香りの、口の中に入れるだけで幸せな気持ちになるもの。それだけが、彩音への想いを紛らわせてくれる。より甘いもので満たされれば。
「駄目だ一個、いや二個にしよう。余計なカロリーは取りたくない」
「真面目だなあ。じゃあおすすめのやつ二個な」
「わかった手を打つ」
「よっしゃー推しの予定もぎ取ったぜ」
大袈裟にガッツポーズを決める彩音に、良かったですねぇと東堂が笑っている。
「ガキかよ」
「推し活は良いぞー!」
「やめろよ気持ち悪ぃな」
なんでこうなんだ。なんで期待させるようなことを言うんだ。なんとも思ってない奴がなんで。
(どうして僕を惑わせようとするんだ……彩音……)
これは正常ではないのに。こんな、なんの生産性もない感情など。
* * *
そこそこ売れている舞台俳優と言ったって、テレビに映る芸能人じゃない。一人暮らしの男の部屋としては広いくらいだ。
「シャワーさんきゅ」
少し間を開けて自分もソファに腰を降ろす。
「コーキお昼食べた?」
「ああ、来る前に食べた」
「そっかー! お昼もうちで食べれば良かったのに。じゃあ
「さっむ! ダジャレのセンス!」
「あははは。おっとちょっと待ってよ、ここ終わったら」
彩音はどうやらオンラインでどこかの誰かと勝負しているようだ。その勝負から目を離しテレビの端の方に並ぶ数個の立体物へと視線を移す。
「あれ、まだ飾ってんの?」
あれ。光輝と彩音のアクリルスタンドだ。この前見た時よりも増えているのは、昨日まで共演していた舞台のアクリルスタンドが二人分増えているからだった。
「まだってか、ずっと? コーキと一緒に頑張ってるんだ! って思えてテンション上がるだろ?」
「そうか?」
「そうだよー! コーキは飾ってくれないけどさあ」
「役作りの邪魔になるだろ。僕は彩音みたいな天才じゃないし、地道に心を探らないと難しいんだ。そんなの置いたら前の役に引っ張られる」
「そっかー。難しいんだなあ」
テレビ画面にLOSTの文字が浮かんだ。どうやら彩音が負けたらしい。あーあとぼやきながら彩音はコントローラーを置き伸びをした。そこからまた、甘い香りが漂う。
違う、そんなのは言い訳だ。アクリルスタンドとはいえ、彩音の姿を見るたびに心が揺れるからだなんて言えるはずもない。
「彩音はすごいよな。敵わない。僕は小さくて綺麗しか取り柄がないから」
「なに言ってんのコーキはすごいよ⁉︎」
目をまんまるにして彩音が驚いた。もしかしてわかっていないのと問いながら、身体を寄せて来る。そのまま光輝の肩に腕を回した。彩音の体温が触れ、一瞬だけ現実の音が遠のく。
「コーキは確かに小さくて綺麗だよ。俺と並んだら、すごくいい腕置きになるくらいに」
「……なんかすごく
「違うって! 小さくて綺麗な男には需要がある。だけど、小さくて綺麗な大根役者は売れない。今、お前が売れっ子俳優として活躍出来ているのは、顔がいいからだけじゃないだろ。小さくて綺麗なことを理解して、それを武器に出来る賢さと演技の才能、そして努力があるからだよ」
ああ、どうしてこいつはいつも自分が欲している言葉をくれるのだろう。どうして。
甘い香り。どうしようもなく口に含みたくなるような……。
「彩音、いつまでくっついているつもりだ暑苦しい」
「えー良いじゃーん」
「ケーキなしなら帰るからな」
「あっ、だめだめ! 今用意してくるから!」
あたふたと光輝から離れキッチンへ向かう後ろ姿を見送って嘆息する。今自分はなにを考えてしまったのだろう。気持ち悪い。気がおかしくなりそうだ。
ケーキの甘い香りで感情を誤魔化して、ゲームに興じる。その間は何もかも忘れて目の前のことに集中出来た。
時刻はあっという間に夕刻だ。二つ目のケーキを食べ終え、光輝は服を着替えた。
「なー、夕飯も食ってけよー」
「夕飯まで食べたら動きたくなくなるだろ」
「いいよ泊まってもー。うちから観劇行けば良いじゃーん」
まるで留守番を言い付けられた犬みたいに全身でしょげている彩音が少し可哀想に思え——首をふる。泊まりでもしたら自分が苦しいだけだ。
「断る。荷物もあるし」
「観劇終わってから取りに来たって良いんだぞ」
「だめだ」
荷物を取り、ケーキの礼と
「行くなってー!」
彩音に背を向けた瞬間、足音が響いた。後ろから彩音の腕が伸び、その長い両腕で肩をがっちりボールドしてくる。
首筋にかかった息に全身が粟立つ。一瞬めまいがしたかのように視界が暗転した。すっと血の気が引いたような感覚に襲われ、必死で耐える。彩音の腕の中に、今、自分はいる。その事実が光輝の呼吸を乱した。
「次の共演、コーキが日替わりゲストで来てくれる時だけじゃーん。寂しいだろー⁉︎」
彩音が長く演じているキャラクターが出るシリーズものの舞台。その舞台で二年前に初めて二人は共演した。その一度の縁で、彩音とはこうして親しくなり、今回は日替わりゲストとしても再出演させてもらえる。自分にとっても思い入れのある作品だ。
「仕方ないだろ自分達でキャスティング出来るわけじゃないんだから」
「そうだよ、だからー! 帰んなってー」
ますます強く肩を抱かれる。これが舞台なら、きっと黄色い声援が飛んでいた。そして自分も、潤んだ瞳で彩音を見上げたはずだ。綺麗な男が、長身の男にバックハグされているのはさぞ絵になるだろう。これが物語なら。
頭の中がくらくらする。甘い香りが胸を、身体中を満たしていく。
なんにも知らず、無邪気にこんな事をする彩音に小さな怒りがわいた。それが理不尽なものと知りつつ、光輝の口元を知らず歪ませる。
「彩音、僕の事が好きなのか?」
「もちろんだよ! 好き好き大好き!」
「違う、そういう意味じゃない」
「え……」
するりと彩音の腕が光輝を解放した。一歩後ずさる音。ふり返り見上げると、そこには困惑したような表情の彩音がいた。まるで迷子になった子供のように不安気に光輝から目をそらす。
バーカまじにすんなって。そう言って笑いたかった。それなのに、口が勝手に動く。言うなと心が叫んでいるのに止まれない。
「お前距離感バグってんのかなっていつも思ってたんだよ。そういうこと?」
いやまだ冗談だよで済ませられる。だから彩音、なに言ってるんだって笑ってくれ。
沈黙。
(僕は……彩音を失おうとしているのか?)
自分の気持ちを隠して、これまで上手くやって来たのに。
どれくらいそうしていただろう。彩音の瞳が揺れ、ぎこちなく光輝を向いた。
「……バレてた?」
小さな、自嘲を乗せた声。
「は?」
耳の奥底からごうごうと音がした。めまいがする。
「俺、お前のこと……」
「待て」
「俺、コーキのこと好きだよ! 友達じゃない、その、異性とし……異性じゃないよなええと……性、的に?」
頭が沸騰したかのように熱くなる。気持ち悪い。どうして。気持ち悪いのは自分だけで充分なのに彩音は、彩音まで気持ち悪くならないでくれ。矛盾している、僕はどうしたい?
「気持ち悪いこと言うなよ!」
彩音が雷に撃たれたかのように固まった。その顔が歪む。怒りではない、苦しそうな傷ついた表情。
後悔が押し寄せる。そんな顔をさせたかったわけではなかった。なに変なこと言ってるんだよと笑い合いたい、適切な距離感を取るよう促せればそれで良かった。
ごめんと謝りたくて出来ない。出してしまった言葉はもう取り消せない。
「そうだよな、ごめん……。でもさ、俺、この気持ちをなかったことには出来ないから……」
どうして。
(僕が必死に見ないようにしていたことを……こんなこと、絶対に正常じゃないのに)
自分はおかしいのだと、正常ではないと思っていた。だからこそ、彩音がまぶしかった。
いや違う。正常であって欲しかった。そうして自分の想いが叶えられなければ、対外的には自分も正常なふりが出来たのに。
「勝手にゲロって気持ち良くなってんじゃねぇよ! 僕の気持ちを考えてないだろ⁉︎」
「そうだよ。ごめん」
「なら謝んなよ! 意味わからねぇ!」
混乱して暴言が止まらない。どうして、彩音が同じ気持ちだと知ったのに、どうしてこんな……。
「お前、見る目がないよ。告白した相手がこんなことしか言えない奴なんてさ!」
「優しいんだね」
「クソが!」
のどが引きつったように震えた。目頭が熱い。人間には正常な生き方がある。異性と恋をし、結婚して子を儲ける。命を繋ぐ。生物として当然のことだ。
気持ち悪いのは自分だけで充分だった。この気持ちが叶えられない事が正常だったのに。必死でしがみついていた正常を、こんなにも簡単にひっくり返すなんて。
「僕が、苦しむとか考えなかったのか」
「考えたよ。でも、どこかで言わなきゃどの道ダメになってたと思う。こうやって散々引き留めて、そういうのこれからもしそうだったし。コーキと一緒にいるとコントロールが効かなくなるんだ」
「僕が小さくて綺麗だから? 女の子みたいだからか?」
「ちが……違うよ! 俺はコーキが好きなんだ! 容姿とか、性別とか関係ない!」
「僕らが並ぶと絵になるもんな」
「コーキ!」
今にも泣きそうな顔。
(泣きたいのは僕だ……)
正常でない自分は、彩音の気持ちを受け止めることすら出来ない。彩音が正常でないことで自分の気持ちを誤魔化せなくなった。完全に、正常でない者になってしまった。
これが舞台上なら良かったのに。物語だったら。
一歩彩音に詰め寄る。両手を伸ばした。なにをしようとしているかなど考える余裕はなかった。
乱暴に彩音のほおを鷲掴む。驚いて目を見開いた彩音を無視してその顔を引き寄せ、精一杯の背伸びをして強引に唇を奪った。
「んんっ」
くぐもった声はどちらのものだったのか。甘い香りが口いっぱいに広がり、ますます思考が止まった。なにも考えられず、ただ貪る。全身に満ちる甘い香りにめまいがした。上下すらわからないくらいに、どこまでが自分の身体なのかわからないくらいに境目がなくなる。
こんなのは正常ではない。それなのにどうして。どうしてこんなにも甘いのか。
たまらず目から熱いものがこぼれる。こんな生産性のない、生物としての役割すら果たせない、なのにこんなにも甘美なものがあるなんて。
「おかしいのは僕だけで充分だったのに。彩音、お前は、僕の光だったのに」
彩音がなにか言ったがその言葉が理解出来なかった。逃げるように彩音に背を向けて外へと飛び出す。
薄暗くなって来た路を全速力で走る。息が上がってもなお、身体に充満する甘い香りを全て外へと吐き出すように。
* * *
『昨日はごめん。でもこれだけ言わせて欲しい、コーキはおかしくなんてない』
翌朝届いた
おかしくないなんて、そんなことはない。生物学的におかしいことだ。だからといって、気持ち悪いと暴言を吐き強引に唇を奪ったのは許されることではない。光輝には彩音の甘い香りがまだ身体中に充満しているような気がしていたが、それすら罰のようだった。
それからは調子の悪い日々が続いた。特に影響が出たのが歌唱だ。休む暇なく始まった次の舞台の稽古では上手く声が出せず、身体に力が入りすぎていると散々言われる始末だ。
そしてその稽古の合間に、回変わりのゲスト出演がある。彩音との共演、そして短い出番とはいえ歌唱パートがある。そちらの練習も上手くはいかなかった。救いだったのは、回変わりの稽古はキャスト陣との合同稽古がないことだ。キャストを想定した数名のスタッフと大まかな動きを確認しただけ。もちろんこれくらい難なくこなせる。いつもなら。
思い出されるのは、彩音と共演する時のハイタッチ。歌が上手くなる験担ぎのルーティン。
「彩音……」
この気持ちをなかったことには出来ない、そう言った声。そうだ、なかったことになんて出来ない。どんなに正常ではないと言い聞かせても。
(僕は、正常でないことから逃げ続けて来た。僕だけがおかしかったから)
そのせいで彩音を傷つけ、取り返しのつかないことをした。彩音は、彩音自身の気持ちとちゃんと向き合っている。メールの返事すらしない自分を彩音は今頃どう思っているだろう。
* * *
合わせる顔がない。それでも
和装をアレンジしたファンタジックな衣装をまとい、舞台袖でキャスト陣と合流する。長身の
(僕は正常じゃない。正常じゃないことからは逃げられない、だけど)
一歩を踏み出す。そしてもう一歩、さらに一歩。彩音の姿が近づく。甘い香りが鼻腔をくすぐった。胸が痛む。頭が痺れて、思考が奪われる。
彩音の視線は真っ直ぐに
なにを言うべきかわからない。彩音の視線を、その甘い香りをふり切るように側を通り過ぎた。視界から彩音が消える。
世界から、彩音の光が消える。ただ、甘い香りだけが光輝の心を引き留めていた。
(嫌だ————)
彩音は光だ。その光が消えてから自分はどうだった?
いや、その原因を作ったのは自分だ。だから、光がなくなるならそれも受け入れなくてはならない。でももし、まだほんの一握りでも可能性があるのなら。いや望みなどなくても、自分の気持ちをなかったことには出来ない。
ふり返る。
「なあ、彩音!」
見上げたそこには、驚いたような彩音の顔。役の入っていない、ただの男の。
「……最近、歌の調子が悪いんだ」
彩音の表情がやわらいだ。ほんの少しほほ笑んで、その手が掲げられる。一歩踏み出し、背伸びしてその手を打った。
「これで今日は上手く行くよ」
「そうだな」
強張っていたほおから力が抜ける。ぎこちなく笑って、頷いた。これから彩音とどうなろうとも、今日の舞台は上手く行くだろう。
舞台の上では、自分ではない。だから、どんなに近づいても大丈夫。見つめ合ったって平気だ。
(舞台の上なら。僕じゃないなら)
舞台の中央ですれ違う。甘い香りが全身を巡り、恍惚とした陶酔感を増幅させる。
その香りの主を目で追い、向き合う。二人で手を掲げ、その手を中心に円を描くように歩く。女性と変わらないほどの身長の自分と、長身の彩音の手の位置はずいぶん違う。絵になる差。
息を吸う。彩音の唇が開くのがまるでスローモーションのように見えた。スポットライトが周囲に影を落とし、白い世界には彩音と、そして自分だけ。
(僕にも、出来るだろうか)
なんの役も入っていない、ただの男として。彩音に向き合えるだろうか。
彩音の唇が開く。朗々とした力強い歌が舞台上を、そして観客を震わせている。そこに合流して、音を重ね合う。
それは、男たちが愛しい者へ向けて歌う愛の歌。
眩しいスポットライトが二人を照らす。甘い光の世界にはただ二人だけ。
(この歌を歌い切り舞台を降りたら、僕は————)
光彩を求めて はな @rei-syaoron
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