月面ペンギンに喝采を。

高橋志歩

月面ペンギンに喝采を。

黒い空に青い地球が浮かんでいる。 


カヴァリ博士は、地球の光に照らされた月面を慎重に歩行していた。

地球の専用施設で十分に訓練を積んだとはいえ、やはり実際の月面歩行は難しいし緊張する。博士は足を止めると、月面を見渡した。


子供の頃から丘や山に登って様々な石を集めたりするのが好きだったけども、大人になって地質学を専門とする科学者になって思いがけず色々あって、彼は今月面を探査する科学者の一団として月面基地に滞在している。


今日は基地から徒歩で少し遠出をして、小規模なクレーターの側で採掘をしていた。

一人だけども、ちゃんと届け出はして許可されているし、月面基地とは常に音声接続されているし、宇宙服の生命維持システムは正常だ。それでも博士はちらりと手首の計器で酸素の残量を確認してから、地球を見上げた。映像資料などでも何十回も見た地球だけども、直接この目で見るとやはり感激する。


その時、カヴァリ博士の視界の隅を何かが動いた。

白い流線形の何かが下から上に動いている。

他の科学者が移動しているのかな?それにしては小さいな…とそちらを見た博士の視界に見えた物体。


近くの低い山をひょいひょいと身軽に登るペンギンだった。


月面では何でもはっきりと見える。間違いなく、ペンギンだ。思わず「はああああ?」と叫んでしまい月面基地から「どうした!」と思い切り焦った声が届いた。

それは何とか誤魔化し、カヴァリ博士は用心しながらペンギンが登った山に近づいた。岩陰から身を隠すようにして山の頂上を見ると、ペンギンが立っている。

博士は動物好きでもあったから、どうやらコウテイペンギンのようだと見当をつけた。

しかし何で月にペンギンが?と大混乱しつつ、いやこれは大発見かもしれないと興奮したカヴァリ博士は、ペンギンが地球を見上げているのに気がついた。

昔々地球からやって来て、今は遠く離れた故郷を懐かしんでいるのだろうか…と博士が思わず感傷的な事を考えた時。


ペンギンが踊り出した。

体を揺らして回転し、羽を広げて振り、嘴を左右に振り、足で地面を蹴って飛び上がる。

音楽も無く、音もしないけれども、それはどう見てもステップを踏んで踊っているペンギンだった。


月面の山の頂上で踊るペンギン。カヴァリ博士が呆然と眺めているうちに、ペンギンはくるんと鮮やかに回り、ぴたりと動きを止めた。そして背筋を伸ばし、かしこまった様子でまた地球を見上げた。

ペンギンは随分と長い時間そのままの姿勢でいたけれど、やがて俯いて足元を見つめ、そしていきなりぐるぐると回転すると宙に浮きあがり、そのまま物凄いスピードで頂上からどこかに向かって飛んで行ってしまった。

あっという間に見えなくなったペンギンを、カヴァリ博士はただ見送る事しか出来なかった。

生命維持装置の数値を確認したけど異常は無い。やはり異常幻覚ではない。ではあの踊るペンギンは何だったんだろうと悩みつつ、カヴァリ博士は気分的によろよろと月面基地に戻った。


基地に戻って報告書を書こうとしたカヴァリ博士は、迷った挙句にとりあえず黙っている事にした。

絶対に幻覚だと思われるし下手をすれば精神異常扱いをされるかもしれない。月面では少しのトラブルが生命に関わる。妙な監視を仲間たちからされるのはまっぴらだった。

もう一度あの場所でペンギンを確認して、その後誰かに同行してもらおうとカヴァリ博士は決めた。


それからカヴァリ博士は決められた研究活動の合間に何度かあの低い山に行ってみた。しかしペンギンには出会えなかった。


その頃から、地球のあちこちで紛争が目立ちだした。そして残念ながらカヴァリ博士の国も例外ではなかった。とうとう予定よりもずっと早くに月面基地から撤退して地球に帰還するようにという命令が届いた。当然ながら皆は落胆した。


地球に帰還する日が近付いたある日。

カヴァリ博士はあの踊るペンギンと出会った低い山にひとりで出かけ、頂上に登った。あの日のペンギンのように地球を見上げる。ここから見る地球は静かで美しいのに……。

博士はそっと、手首に結び付けて月面基地から持ってきた銀色の小さな花を一輪、地面に置いた。カヴァリ博士が不要になった金属を利用して作ったバラの花で、少し不器用な出来だけどちゃんと葉も茎もある。

いつかペンギンが気が付いて、地球の花だと嬉しく思ってくれるといいなと博士は願った。


カヴァリ博士は踊った後のペンギンがしばらく地球を見上げるようにしていたのはなぜか、ある日気が付いたのだった。


ペンギンは待っていたのだ、地球から拍手や喝采の声が届くのを。

もちろん地球から届く訳が無い。でもペンギンはもしかしたら、と地球を見上げていたのだ。

もしもう一度ペンギンに出会えたら、たとえ音は届かなくても、絶対に拍手をしてやったのにとカヴァリ博士は残念に思った。でも月にもう一度来られる望みはほとんど無い。だからせめて、博士は花を置いた。舞台に花を投げるように。

そしてカヴァリ博士は月を去っていった。


カヴァリ博士は無事に地球に帰還したが、地上での状況はあっという間に悪化した。博士のような科学者は国に居場所が無くなってしまったのだ。故郷で死ぬのなら構わないと思ったが、博士には亡くなった両親に必ず守ると誓った弟と妹がいた。彼らのために、他国の科学者ネットワークの協力で博士は国を脱出し亡命した。

隠れて海上を進む船の甲板から、カヴァリ博士は眠る弟と妹に寄り添いながら夜空の満月を眺めた。そして踊るペンギンを思い出していた。


それから長い長い年月がたった。

全てが変わり、変わらないのは夜空に浮かぶ月だけだった。


異国の地でカヴァリ博士は懸命に働き、弟妹の面倒を見た。やがて思いがけず彼が関わったビジネスが大当たりをしてカヴァリ博士は大金持ちになる事ができた。彼は有名人になり弟と妹も立派に自立した。けれどカヴァリ博士は目立つ事は好まず、大学で学生に地質学を教えながら静かに暮らしていた。

ずっと独身だった博士はやがて全てを身内や後継者に譲り、資産も様々な団体に寄付すると大学も辞めて、星や月が良く見える高原地帯に家を建ててそこに隠居した。


ある日の深夜。すっかり年老いて車椅子に乗るようになっていたカヴァリ博士は庭に出て、夜空に輝く美しい満月を見上げた。


やがてカヴァリ博士の眼前に、月面が広がる。黒と灰色の無音の静かな世界。

そして低い山の上で、ペンギンが踊っている。ステップを踏み、華麗に回転し、羽を広げる。

踊り終わったペンギンは、頭を下げて礼をする。


地球のカヴァリ博士は拍手をする。満月に向かって。ペンギンに向かって。


ただ一人の拍手は、地球を離れ月に届き、やがて万雷の拍手の音となる。

ペンギンは、大きく胸を張り、全身で地球から降り注ぐ称賛の拍手と喝采を浴びる。そして地面から銀色のバラを咥えて持ち上げ、地球に、カヴァリ博士に見せる。博士は笑顔になり、更に拍手をする。


誰も知らない、月と地球を結ぶ満月の夜の舞台。

何もかも変わっても、決して変わらない永遠の喝采。


月面のペンギンは、優雅に一礼する。地球に向かって。カヴァリ博士に向かって。

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月面ペンギンに喝采を。 高橋志歩 @sasacat11

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