時女と雨の森
篠崎 時博
時女と雨の森
その話を聞いたのは、ガンで余命宣告された大叔父の見舞いに行った時のことだった。
☂️
大叔父は、穏やかで優しい人だった。
幼い頃、臆病で引っ込み思案な僕とよく一緒に居てくれた。川や山、公園に科学館まで、いろんな場所に連れて行き、いろんなことを教えてくれた。
数年前に他界した祖父よりも、僕にとっては身近な存在だった。
祖父もけして悪い人ではなかったのだろう。だけど、頑固で気が強い彼に、幼い僕はいつも怒られているような気がしてしまって、近寄ることができなかったのだ。
そんな理由もあって、物心ついたときには、僕はすっかり大叔父に懐いていた。
もし、そんな大叔父に欠点があるとすれば、お人好しなところと女性の運がないことくらいだと思う。
その大叔父がガンと診断され、最初に見舞いに来たのは僕だった。
大学生活とコロナ禍が重なり、大叔父とはすっかり会わなくなっていた。
久しぶりに会った彼は驚くほど痩せていて、僕はかける言葉を失ってしまった。
独り身だったこともあり、余命宣告は本人である大叔父にされた。そして彼は静かにそれを受け入れた。
ある雨の日だった。
窓の外を見ながら、大叔父はポツリと言った。
「随分長く生きたもんだなぁ……」
彼は88歳だった。
「子供の頃は戦争があって、大変だったってよく言ってたもんね」
今の80〜90歳が戦争を体験している世代であることは知っている。僕も祖父母から戦争の話はいくらか聞いたことがある。
「この命も本当は戦争で終わるはずだったんだ。だけど、今日まで生き延びた」
「生き延びたから、僕と今、こうしてここにいるんでしょ」
そう言うと大叔父はそっと微笑んだ。痩せこけた顔でも、子供の頃と変わらない彼の優しい表情だった。
「時女が……」
彼はそう言いかけた。
「時女……?」
初めて耳にする言葉だった。
「時女が現れたんだよ。ちょうど、そう、こんな雨の日に」
窓の外を見る。今夜は少し風もあるようだ。雨粒が窓に当たる音がした。
「……あれは、戦争が終わる年だった。まだ春だったが、雨が降って肌寒い日だった――」
疎開先が空襲の被害に遭い、防空壕は人が溢れ、逃げ場所を求めていた。
大人も自分の命を守るのに必死だった。子供の自分を助けようとしてくれる人はいなかった。
必死に逃げたものの食うものもなく、草木を求めて
森に行けば何か食べるものがあるものだと、何となくそう思って子供の足で近くの森まで移動した。そこで体力の限界が来た。
立ちあがろうにも立ち上がれない。
止まない雨の中、横たわった体でこのまま命が果てることを覚悟したそんな時だった。
1人の女性が現れた。
その女性は背中まで伸びた髪を一つに結えていた。白い服だったのは覚えている。まるで絹のような上等な素材で作られたやわらかい生地。ワンピースともシャツともいえないその服が、春の風になびいてゆれていた。そして服の下からは陶器のような美しい肌が見えていた。
当時は身を守るため、夏でも全身を覆うような格好をしていた。だから随分と奇妙な格好をしていると頭の片隅でそう感じた。
彼女は服のポケットから何かを取り出した。
それが飴だったかキャラメルだったかは分からない。どのみち甘いものは、当時にしては大変珍しいものだった。
こんな時にこんな場所で、こんな自分に甘いものなどくれようとしている。
本来ならもっと警戒すべきだったのだろう。そんな妙な格好をして、妙なことをするなんて敵国が仕組んだ罠かもしれないと。
しかし、その時はもう、疑うほどの気力もなかった。
彼女がくれた、甘いものを口の中でゆっくり溶かした。口の中で少しずつ甘みが広がり、だった3粒ほどだったが、次第に体力が回復していくのを感じた。
次に目を覚ました時は朝だった。雨はとうに上がっていた。気が付くと木の下で、彼女が着ていたような上質でやわらかい布がかけられていた。
「――あの女性が、何だったのかはよく分からない。当時にしては軽装で、まるで違う時代の遠く離れた場所から急に現れたようなそんな気がした。だから、「時女」と呼んでいた。忘れないように……」
一通り話し終えると、ふぅ、と息を一つ吐いて彼は目を閉じた。疲れてしまったのだろうと、布団をかけようとしてそっと体に触れた。しかし、その時既に彼の息は止まっていた。
☂️
「へぇ、時女って言うんだ、それ」
大叔父が亡くなって1週間が過ぎた頃だった。
学食でたまたま同じサークルの先輩に遭遇した。その先輩は山岳部に所属しているが、山の写真をよく撮るため、僕のいる写真サークルにも顔を出している。
昼食を一緒に食べながら、僕は先輩に大叔父のことを話した。
「時女は、大叔父が勝手にそう呼んでいただけですよ。……
そう聞くと、先輩はお茶を一口飲んで言った。
「名前は特にないけどね。山とか森とか、そういうところにフッと現れて、気づいた時にはいない。んで、女の人で、雨の日に現れる」
大叔父の言っていた内容と重なる部分があった。
「先輩は見たことありますか?」
「ないよ」
「そうですか……」
「ちなみに、昔からそう言う話はあるみたいだな。キツネとかタヌキが化けて出てきたとか、怪異みたいなもんで扱われるけど」
「怪異……」
「なんか気味が悪いから、俺は遭遇したくないかな」
そう言うと先輩はラーメンをズソゾっとすすった。
神か神の使いか、妖怪か、はたまた、キツネやタヌキの仕業か。
彼女が一体何者なのかは誰も知らない。
もし、あの時大叔父を助けたのなら、それは単に彼女の気まぐれだったのだろうか。
☂️
僕の通う大学は自然科学に力を入れている。そして研究や授業のために畑や森、山なども所有している。
さることながら駅からは遠い。つまりは田舎の学校なのだ。
その近くの森にゼミでフィールドワークに行くことが決まった。
当日は曇りだった。
「雨が降る前に、なるべく早くに終わらせよう」
教授は言った。
ゼミの人数は教授を入れて7人。フィールドワークは3-4人を1つの組にして2組で行うことになった。
森には何度か足は運んだことはあるが、念のためにと、教授はみんなに黄色いバンダナを配った。
「腕や首に付けて、いざって時使ってな」
『スマホはあまりアテにしないように』
それが教授の教えだった。緊急時にスマホが使えなくても、冷静な判断ができるように、と。
歩いて1時間くらいが経った頃だった。
ポツポツと雨が降ってきた。とりあえずと思い、着ていたウインドブレーカーのフードを被った時には、雨は本降りに変わっていた。
雨はしだいに激しさを増していく。
森の移動には慣れているものの、視界の悪さから気が付いた時には仲間を見失ってしまった。
声を出したが、雨の音と木のざわめきでどうも届かないようだった。
見かねてバンダナを木の枝に括り付ける。
下手に動かない方がいいと判断して、暫くはその場にとどまることにした。
しゃがんだ姿勢で深呼吸をする。湿った空気が肺へと吸い込まれていくのが分かる。
そうやって冷静さを取り戻そうとする一方で、ふと鼓動の速さに気が付いた。
……怖い。
自然を甘く見ていたわけではない。
だけど、実際にこういう状況に陥るとは。
そのとき、視界に端に白い何かが見えた。
その白い何かに目を向けると、それが白い服を見に
なぜこんな森の中で、そのような格好でいるのか。彼女の存在はとても奇妙なものだった。さらに不思議だったのは、視界も
その人は僕を見ると向かって左を指さした。
「……左?」
見ると黄色いバンダナを腕に付けた仲間の1人が、視界の奥にかすかに見えた。どうやら僕を探しに来てくれたようだった。
『――まるで違う時代の遠く離れた場所から急に現れたようなそんな気がした』
『山とか森とか、そういうところにフッと現れて、気づいた時にはいない。んで、女の人で、雨の日に現れる』
「時女……」
思わず口にしていた。
まだ、視界は悪いはずだった。だけどその時雨粒の向こうで、消えかかる彼女が微笑んだのが、確かに分かった。
完
時女と雨の森 篠崎 時博 @shinozaki21
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