渋谷の谷底
その昔、渋谷は「ギャルの聖地」だったらしい。
小学校低学年の頃、何かの用事で両親に連れられて渋谷に来たことがあった。そのときに見た、ルーズソックスに金髪で頭に花を付けた女子高生たちは、子供心にまるで外国人のようだった。
「……今はもう絶滅危惧種だよね。というか今となっては夢でも見てたんじゃないかって気もするよ」
文字通り谷底にある渋谷駅に向かって、下り坂になった車道を進みながら、そんな話をした。
「我々より少し前の世代の方々は、渋谷という街に思い入れがあったようですね」
「うん……詳しいね」
「あ、いえ……。若者文化に関しては、それなりにインプットされているんです。ファッションとかも、下手をすると浮いてしまいますので、任務遂行に差し支えがあって……」
言い訳がましく口ごもる彼女のファッションはしかし、予備校で激しく浮いていた。そのことを指摘すると、彼女は一転して胸を張った(といっても、後部座席の彼女の姿は見えなかった。口調からそういう印象を受けただけだ)。
「それには二つの目的があるんです。一つは多少エキセントリックな格好をしておくことで、そういう人間だと思わせること。もしなにか怪しまれることがあっても、単に変わり者ということで済みます。もう一つはセックスアピールです。現にこうして協力者を得ることができましたし、いろいろと便利でしょう?」
「そのためにそんな格好してたの?」
「ええ。インプットされた知識を元に検討を重ねた結果、私の任務にはツインテールとニーソックスが最適解だと導き出されました。それともルーズソックスのほうがお好みでしたか?」
「いや……。世代的にルーズソックスに思い入れとかないし、今の方がいいよ」
変な話になってきたが、私は素直に答えた。初めて彼女を見たときから目を奪われていたのは事実なのだから。
「私の高度な作戦にまんまと引っかかりましたね。エッチな地球人さん」
彼女は小さく笑った。
「もしかして、夏期講習の最初の日から見てましたか?」
「そりゃ、見るでしょ」
ずいぶんと踏み込んでくる。市ケ谷を出てから重ねてきた会話で、打ち解けたというか心の余裕が出てきたのだろうか? 私は戸惑いつつ言い返した。
「男ばっかりの理系の講座にそんな格好で来たら誰でも見るっしょ。教室の男たち全員が注目してたんじゃね?」
「おやおや、純朴な理系男子たちの心を弄んでしまいましたか。これは失礼」
「テンション高いな」
市ケ谷で「過去も未来もない」と言っていたのが嘘のようだ。やはり彼女が自殺なんて有り得ない。そうに違いない。
六本木通りと合流する信号は青で、私は下り坂の勢いに乗ったまま、車に混じって手前の車線を横切り、首都高の高架をくぐる。二人乗りで車と同じ速度で大通りを横切るのは少し緊張し、手に汗が滲んだ。
「しっかり掴まってて」
「はい」
自転車はそのまま車の流れに乗り、次は明治通りを横切って、渋谷駅のガード下に進んだ。ガードをくぐるために車道の部分は谷底をさらに掘り下げたかたちになっていて、歩道とは大きな段差がある。スピードを落とすことも歩道に移ることもできず、彼女もさすがに黙っていた。段差の上、ちょうど目の高さの辺りに、ダンボールを幾つも繋げた構造物が見えた。
ガード下を抜けて公園通りを渡り、歩道橋の脇から歩道に戻ると、少しホッとした。彼女はまだ黙っていて、なにか話しかけるべきか迷った。
立ち食いそば屋とアダルトビデオショップの横を過ぎると、三階建ほどの妙に小さなビルの向こうに、近隣でもひときわ高いビルが聳え立っている。壁面に並んだ窓にびっしりと明かりを灯した威容は、まさに摩天楼と呼ぶに相応しい趣だった。車寄せに繋がるらしい出入口から出てきた白人の家族とすれ違う。
小学校に上がる前ぐらいの金髪の男の子が、英語ではない耳慣れない言葉で何かを言って、ベビーカーを押している父親が笑った。
「この街は格差社会の縮図ですね」
先ほどのダンボールハウスのことを言っているのだろう。彼女の口調は渋谷につく前のものに戻っていた。
「まあね。でも世界的に見たら、日本なんてマシな方でしょ」
一億総中流という幻想はすでに崩れていた。宮下公園の方に行けば、もっとたくさんのホームレスがいるはずだ。それでもブラジルやインドのスラムからしたら大した人数ではないだろう。海外のスラムを実際に見たことがあるわけではないが、理系だってそれぐらいは知識として知っている。
「……そうですね。宇宙的に見れば今、地球人にかかっている淘汰圧はかなり低いです」
「淘汰圧?」
生物専攻ではないものの、その言葉ぐらいは知っている。しかし誰かの口からそのような言葉を聞いたのは初めてだったので、私は思わず聞き返してしまった。
「進化とは、淘汰です。生殖による遺伝子の組み替えと変異によって生まれた多様な個体の中から、環境に適応できない者が淘汰され、適応できた者が残る。ある環境に適応できる者が別の環境に適応できるとは限りませんから、進化した結果が一方的に優れているとは言い切れません。しかし知性というのは、環境自体を制御しうる最強のパラメーターです。よって一般的に、進化は知性を強化する方向に進みます。もちろん例外もあります」
彼女は長い説明を淀みなく話し、そこで言葉を切った。自転車は渋谷の谷底を通過し、再び上り坂に差し掛かっていた。
「例えばどんな?」
私はペダルを踏み込みながら尋ねる。少し息が上がり、一息で聞けたのはそれだけだった。
「じつを言えば現生人類の知性は低下の傾向にあります。三万年前に比べ、脳のサイズが一割も低下しています。なぜだかわかりますか?」
「さあ……?」
息も苦しかったし、私にわかるわけもなかった。
「淘汰圧が足りないんですよ。死のリスクが減りすぎ、生殖の機会が増えすぎました。その結果、知性の低い者が淘汰されず、むしろリスク評価のできない個体が無計画に繁殖し、多数派になってしまったんです」
「そうすると……、どうなるの?」
「いわゆる進化の袋小路です。地球人は地球から出ることができず、やがて絶滅するでしょう」
もう一五年も前のことだから、私の記憶には曖昧な点も多い。率直に言えば、青春の美しい思い出として過剰に美化されている部分もあるように思う。
とはいえ、この話をしたことは、はっきりと憶えている。彼女は確かに言ったのだ。人類の脳が三万年で一割も縮小したと。そのことがアメリカの科学誌に載ったのは、それから一年半後のことだった。いったい彼女はなぜそれを知っていたのだろうか? これは彼女が、銀河政府にインプットされた知識を持っていたという証拠ではないか?
もちろん、ただの偶然だと考えるのが合理的なのだろう。彼女が出任せで言った数字が、たまたま現実の研究結果と合致した。一割というのは厳密ではなくいかにも適当な数字だし、三万年という数字がもっともらしい嘘として出てくるのも不自然ではない。しかし、それでも私は思う。彼女はやはり知っていたのではないか、と。
坂を上りきったところにあったコンビニで、私たちは飲み物を補充した。私はスポーツドリンクで、彼女は麦茶。もちろん彼女のぶんも私の奢りだ。
「すみません、相模湾まで乗せていただくだけでなく、こんなことまでしていただいてしまって」
支払いを済ませ出口に向かいながら、彼女はしきりに恐縮していた。
現実的に考えれば、彼女としては二人乗りで海に向かうというちょっとした冒険が目的であって、奢られるのは本意ではなかったのだろう。そして非現実的に考えれば、彼女は本当に現金を持っていなかったことになる。
いずれにしても彼女を責める理由はなかった。私自身、このささやかな冒険を楽しんでいたのだから。
「気にしないでいいって。いろいろと面白い話も聞かせてもらってるし」
それは嘘偽りのない事実だった。私はあの喫茶店で初めて言葉を交わして以来、彼女のエキセントリックだが知的な話題に惹かれ続けていた。だから彼女が死のうとしているなんて思いたくなかった。
私たちはコンビニを出ると、自転車の脇に立ったままそれぞれの飲み物を飲んだ。気温がまだ高いうえに坂を上ってきたので、ペットボトルは一気に半分ほどになってしまった。
渋谷もこのあたりまで来るとオフィス街で、この時間の人通りは少ない。しかし車の通りは絶えず、渋滞こそしていないものの、目の前の通りをひっきりなしに過ぎていく。片側三車線の道路の向こうには首都高渋谷線の高架があり、その下は掘り下げられてまた別の道路になっているようだった。
「よく作ったよなあ、こんなの」
彼女との会話のせいか、どこまでも続く巨大な高架やその上下を走る無数の車に妙な感慨を覚える。
「どんだけコンクリート使ったんだろう?」
高架だけではなく周辺のビルにも、莫大な量のコンクリートが使われているはずだった。
「地球人はもうすぐ七〇億人に到達します」
彼女は言った。そのときはまだ七〇億人もいなかったのだ。それからの一五年で、一気に一〇億人以上増えた。
「技術力はまだ銀河政府の認める基準に達していませんが、有性生殖型生命体特有の繁殖力で、急激に地球環境を変化させています。知性を駆使し、自らのために環境を変化させるはずが、意図せぬ方向の変化が発生してしまっているのです」
目の前をトラックが通り過ぎ、彼女の言葉は途切れる。排気ガスの匂いがした。
「……このまま環境破壊が続いたら、滅亡するってわけか」
「その可能性もあります。しかし環境破壊による淘汰圧の上昇は進化を促します。その過程で多くの人が苦しみ、死ぬことになりますが、それは自然の摂理です。それより銀河政府が懸念しているのは、地球の生命体が進化の袋小路に陥ることです」
高速道路の上に金星らしき星が見える。宇宙規模で見れば目と鼻の先なのだろうが、人類はまだそこにたどり着くこともできない。
「進化の袋小路って、具体的には?」
「知性を必要としないかたちに進化してしまう現象です。袋小路に陥った種は長い時間をかけて滅亡します。短期的には苦しみませんが、銀河政府の望むことではありません。これは淘汰圧が不足していると発生します。その意味では、環境破壊はむしろ望ましいことです」
彼女が自称通りの銀河政府に作られた生命体でないのなら、やはりその知的レベルは非常に高いと言っていいだろう。そうでなければ、このような「設定」をすらすらと語れるはずがない。
しかし一方でやはり、彼女は闇を抱えている。私はその闇を振り払いたかった。
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