四ツ谷~青山

 四谷駅前の交差点で右折方向に横断歩道を渡り、中央・総武線の切り通しを越えると、すぐに広い交差点に出る。そこで横断歩道を渡り、左折する。昼夜で印象が違うとはいえ、グーグルマップで見たとおりの景色の中を自転車は進んだ。交番の存在を見落としていたので気づいたときには焦ったが、警官の姿は見えず、自転車はその前を通り過ぎた。

 すぐに大きなY字路が現れ、その左の棒の脇から、反対側に向かって横断歩道を渡る。二本に分かれた道の真ん中に、車止めで塞がれたもう一本の道があった。その石畳の遥か向こうに、風格のある大きな建物が見えた。

「ここはなんですか?」

「迎賓館だね」

 私はグーグルマップに書かれていたとおり答えた。

「何をするところですか?」

「よく知らないけど、海外のVIPとか招くところじゃないの?」

 今は誰も招かれていないのだろう。街灯は灯っていたが夜の迎賓館は薄暗くひっそりと佇み、四ツ谷からさほど離れていないにもかかわらず、周囲には人通りもない。車だけが左右の道を通り過ぎていく。

「地球についてレポート書いてたのに、知らなかったの?」

 軽くからかってみると、彼女は少しムッとした様子だった。

「生まれてからまだ二週間ですよ。それに、私がまとめていたのは日本の政治の概況ではなく、実際に地球の文化を目で見た感想です。第一、あなただって曖昧なことしか知らないじゃないですか」

「ごめん……」

 私はもちろん迎賓館には向かわず、Yのもう一方へと自転車を進める。

「まあいいですけどね。私の立場を理解するのは難しいですから」

 彼女が言うには、地球の政治や経済、生物などの客観的な情報は、人類によるネットの情報や物理的観測などから探査船のAIによってレポートされ、彼女自身のレポートはあくまで補足的なものであるらしい。その任務のために彼女は最初から高校生として生成され、必要な知識のみを脳に直接インプットされた。

「有機生命体の脳容量は限定的ですから、必要な情報は船のAIが取捨選択しているんです。とはいえ、何が必要で何が必要でないかという判断も恣意的なものですから、結果的に正しくないということもありえます」

「なるほど……」

 わかったようなわからないような話だ。

「ちなみに、なんで高校生なの?」

 話によるとどうやら、彼女の肉体年齢は浪人生ではなく高校生らしい。とはいえ、一年の差など見た目で区別できるものでもないし、彼女が実際は浪人生でなく高校生という証拠にはならなかった。

「肉体的に成長が完了し老化にさしかかる前の最高の状態が、任務に最適であるという判断です。もっとも二〇代前半頃まではほぼ老化もありませんが、成長完了の時点を採用したということですね。決めの問題です」

 私にとっても、それはどちらでも良かった。


 閉鎖された迎賓館西門の前を通り過ぎると、道は下り坂になり、自転車はペダルを漕がなくても速度を増した。

「速い!」

 彼女は少し緊張した声を上げる。彼女は私の体に手を回さず荷台の縁をつかんでいたので、不安定だった。スピードに乗るのは心地良かったが、私は慎重にブレーキをかけ、少し速度を落とした。

「怖い?」

「いえ、これぐらいなら大丈夫です。それに、ちょっと楽しいですね。こうやって二人乗りするの」

 率直に言って私も楽しかった。やはり彼女は自殺なんて考えていない。受験勉強から逃れて夏を楽しむ、一時的な逃避行なのだ。私はそう思った。あるいは、そう思おうとした。

「楽しんでもらえて良かったよ。でも、キミにもそんな感情があるんだね」

「ふふ。感情というのは脳の状態ですから。脳というのは体の一部です。そして肉体的には、私も一般的な地球人と相違ありません」

 彼女は楽しそうに、けれども設定を崩すことなく語った。


 間もなく下り坂が終わり、上りに変わるのが見えたので、私はブレーキを放し、大きな瓦の門の前を勢いに乗って通り過ぎた。警備に止められないかと少し緊張したが、誰も出てくることはなく、人がいたのかも分からなかった。

 勢いを殺さないままできるだけ上ろうと、私はペダルを回した。しかし後ろに乗っている彼女の重みもあって、自転車はみるみるスピードを落としてしまう。

 ギアを切り換えるが焼け石に水だ。彼女は小柄で華奢な女の子だったけれど、独り乗りとはやはり勝手が違う。立ち漕ぎしようと腰を浮かせると、今度は自転車の後ろがふらふらと揺れた。

「一旦降りましょうか?」

「そうだね」

 私は慎重に自転車を停め、彼女は腰を滑らせて着地した。防災頭巾を荷台から持ち上げ、胸の前に抱く。

「地に足が着いてると変な感じですね。ずっと乗ってたので」

「なんかちょっとわかるかも」

 私は自転車を押して坂を上り始める。自分の脚でペダルを漕いでいた私にそこまで違和感はなかったが、少し息が切れており、歩く速度がやけに遅く感じられた。

「まあ都内、っていうか都心だし、大した坂じゃないよ。だいぶ進んだし」

 携帯電話の時計を見ると、出発してから三〇分も経っていない。

「はい。焦らず行きましょう」

「お腹空いてない?」

「まだ大丈夫です。この辺りは食事のできるところもなさそうですし」

 道の左側は迎賓館を過ぎて東宮御所になっているはずだ。しかし道からは森にしか見えない。芝生に覆われた土手と生け垣の向こうに、鬱蒼とした木々だけが繁っている。反対側にはどんな人が住んでいるのか想像もできない六階建ての大きなマンション。その先はまた大きな木しか見えない。

「東京もいろんなところがあるよね……。まあ、そのうちまた繁華街に出るよ」

 覚えた通りの道を進めば、青山のあたりで二四六に出るはずだ。そこから渋谷のメインストリートを抜けるのだ。


「……さっきの話だけどさ、知識や文化、考え方でも感情は変化しない?」

 自転車を押しながら、私は尋ねた。

「同じ状況でも、知識次第では危険を感じて緊張することもあるかもしれないし、それまでどんな文化で生きてきたか、何を良いものとするかの考え方や価値観もあるし……キミの感情は何に基づいてるんだろう?」

 意地悪な質問だろうか? ただ、そのときの私は単純に、彼女との会話に知的好奇心をくすぐられていた。

「例えばさ、子供の頃の夏休みの楽しい記憶があると蝉の声が郷愁を誘ったりとか」

「そうですね……。その意味では私は非常に特殊な状態にあります。体験に基づくエピソード記憶というものがありません。価値判断の基準となるのは探査船のAIにインプットされた宇宙の常識と、地球に関する表層的な知識です。それらにより危険や安全を感じて快・不快の感情が生じることはあります。また純粋に身体的な状態に起因する感情もあります。暑ければ不快ですし涼しければ気分も良くなります。とはいえ総合的に見て、一般の地球人より感情に乏しいと言うことはできるでしょう」

「寂しくはないの?」

 私は彼女に訊いたのか、彼女の「設定」に訊いたのかわからない。しかしいずれにせよ、淡々と語る彼女の声を、どこか物寂しく感じたのは事実だ。

「寂しい……ですか?」

 家族もなく、友人もなく、AIとともに宇宙に去っていく。それが「設定」だとしても、なにが彼女にそんな設定を作らせたのか。

 最初はただの戯れ言、受験勉強からの逃避のためのお遊びだと思っていた。けれど彼女が自己申告通りの人工生命体でないとすれば、自分の素性をそのまま語ることができない、何かもっと深い理由があるのではないだろうか?

「わかりません。そのような複雑な感情はエピソード記憶に立脚するものです」

「そうだよね……」

 私達の右側を車が次々と通り過ぎていく。かすかな夜風に東宮御所の木々が揺れる。歩いていると、自転車で走っているときには感じられなかった風を感じる。

「ただ……」

「ん?」

 彼女はなにか言いよどみ、私は彼女の顔を見た。その視線を避けるように、彼女は足下に視線を落とした。

「こうやって男の子と話すのは少し楽しいです。おそらくはこの肉体の本能に起因するものでしょう。あなたが特別なのかもしれませんが……」

「ははは……。オレも楽しいよ……」

 反応に困り、私は曖昧に笑うしかなかった。

 それにしても、ほのかな好意を向けられるのは嬉しいようなくすぐったいような気もしたけれど、はたして普通の地球人の女の子がこんなことを言うだろうか? 演技というにはあまりにも自然で、私はそのとき、彼女の話が全て真実なのではないかという疑念に駆られた。あるいは、彼女自身が真実だと思い込んでいるのか。

「そろそろ終わりかな、坂……」

「そうですね」

 上空では雲がゆっくりと流れている。東京の夏の夜空は漆黒には程遠い群青で、灰色の雲がくっきりと見える。


 坂道が緩くなってきたところで再び彼女を乗せ、自転車は御所の横を通り過ぎて交通量の多い大通りにぶつかる。横断歩道を渡り、私たちは陸上のトラックのような長円を描く神宮外苑の道に入った。

「東京は緑豊かですね。さっきからずっと森みたいです」

「この辺だけだよ」

 そう言いつつも、私も東京の意外な姿に驚いていた。外苑とは何を指すのか私もよくわかっていなかったが、神宮外苑というからには、明治神宮と関係があるのだろう。そして、明治神宮は明治天皇を祀っている。つまり迎賓館からここまでずっと、皇室ゆかりの緑地が続いているのだ。

「高い木!」

 左折して有名なイチョウ並木に入ると、彼女が声を上げた。

「イチョウだね。秋になると綺麗らしいよ」

「今も綺麗ですよ」

「ホントだね」

 車の通りもなく、私は車道に出て広い真っ直ぐな通りを進んだ。見事に三角形の大きなイチョウの樹が、街灯に照らされて連なる様は壮観だった。

「この景色が見れて良かったです」

 後ろを向いて通り過ぎていく並木を見上げたのだろう。彼女の肩が、私の背中に触れた。けれど私は別のことが気になっていた。

 彼女はやはり、秋のイチョウ並木が見たいとは言わなかったのだ。

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