市ケ谷~四ツ谷
早く着きそうだったので途中でスピードを落としたものの、結局二〇分も早く着いてしまった。とはいえこの先の出費を考えると、二〇分のために喫茶店などに入るのは避けたい。夏期講習の昼食代は親にもらっているが、ここからは自腹だ。夕食代は彼女のぶんも出さなくてはならないだろうし、一晩走るとなると深夜営業のファミレスかどこかで休憩もするだろう。まさかホテルということはないだろうが、万一のときに女性に恥をかかせてはならないし、それぐらいの手持ちは残しておきたい。
当時でも携帯電話はあったから、連絡先を聞いていれば電話やメールはできたはずだ。しかし、「正体」を明かす前の彼女は自分のことを語ろうとしなかったし、その後は聞く気にならなかった。それは彼女の「設定」に反しているはずだった。
なんにせよ駅前で二〇分待ちも手持ち無沙汰だし、できれば汗も乾かしたい。私は駅から少し離れたところにあるコンビニの前に自転車を停め、冷房で涼みながら一〇分かけて飲み物を選び、五分前に駅前に戻った。
JRの駅構内に続く段差の脇、証明写真機の前に彼女はいた。
駅から溢れてくる雑踏の向こうの彼女の姿は、昼間に会ったときと同じ、フリルのついた長袖の白いブラウスと、黒のミニスカート。そしてやはり黒のニーソックス。白い絶対領域は四対一対二の黄金比だ。
黒いリュックを背負い、黒いエナメルの靴を履いて、黒髪のツインテールに黒いリボンを結んだ彼女は、街の明かりに照らされ独り、空を見上げていた。
アスファルトやビルのコンクリートが昼間の熱気を吸い込んだ街は、日が暮れても気温はなかなか下がらない。そんな格好で暑くはないのかと、疑問が浮かぶ。
「待った?」
私の声に振り向いた彼女は、おなじみの「軽い微笑み」に表情を切り替え、胸元まで挙げた手を小さく振った。
「いえ、今来たところです」
待ち合わせのお決まりのようなやり取り。しかし来たと言ってもどこから来たのだろうか?
「どっか行ってたの?」
「まあこのあたりをブラブラと」
「暑くなかった?」
「まあコンビニとか本屋とか、涼むところはありましたし」
彼女の話が本当かどうかはわからない。ただ言葉通りに受け取ると、彼女も少し疲れているかもしれなかった。
「先に食事にする? このへん食べるところいっぱいあるし」
飲み物を買うぐらいのお金は残っていると言っていたが、仮にお金を持っていたとしても食事はしていないだろう。
「いえ、出発しましょう」
彼女は首を振った。
「長旅になるでしょうから。早めに距離を稼いでおきたいです」
「それもそうか」
私としても、彼女がそれで良いなら異論はなかった。
「これ使って」
私は前カゴから防災頭巾を取り出し、荷台に置いた。
「気が利きますね。レポートにも地球人は親切だと書いておきます。ですが……」
彼女は交差点を挟んで駅の反対側に視線を送った。交番だ。
「……少し歩こうか」
私は出したばかりの防災頭巾を再び前カゴに放り込んだ。
グーグルマップによると市ケ谷から江ノ島までは約六〇キロメートル。自宅を起点にすると、すでに道程の四分の一を来たことになる。とはいえ、二人乗りになればスピードも落ちるだろう。旅はここからが本番だった。
予備校の方に向かう道はちょっとした坂だったので、昼食を食べたカフェの前を右に折れ、一車線の細い道に入ってコインパーキングの前で彼女を乗せた。彼女はリュックを背負ったまま、防災頭巾を置いた荷台に横向きに座り、お尻の両サイドで荷台の前後を握った。香水のようなシャンプーのような匂いがしたが、一瞬のことでどちらかはわからなかった。
「出発しましょう」
「オーケー!」
ペダルを踏み込むと、先ほどまでとは明らかに違う負荷がかかる。それでも自転車はゆっくりと進み始める。
道の両側には学習塾や居酒屋があり、車の通りはないものの賑わっていた。塾の出入り口から父親に連れられた小学生ぐらいの女の子が出てくる。居酒屋の前には、待ち合わせなのかスーツ姿のサラリーマンが数人、楽しそうに談笑している。いつも通りの平和な金曜の夜だった。
「快適ですね」
彼女の声も心なしか弾んでいたと思う。
「今日は私のわがままに付き合わせてしまってすみません!」
「あはは、気にしないで。お金がないんじゃ仕方ないよ」
「そうですね。レポート作成に当たって充分な経費を用意できなかったことはミスでしたが、結果的には良かったのかもしれません」
レポートの話の真偽はともかく、彼女がこの旅立ちを楽しんでいたのは確かだろう。
五〇〇メートルも進まないうちに繁華街は終わり、道の両側は新旧のマンションや大小のオフィスビルに変わった。曲面のガラスに覆われた新しそうなオフィス。ベランダに複雑なかたちの柵を付けた古い白いマンション。人通りも途絶え、都心とは思えないほどひっそりとしている。
「少し飛ばすよ」
もう歩行者を縫ってのろのろ進む必要はない。思い切りペダルを踏み込むと、道は少しだけ上り坂だったけれど、自転車は徐々にスピードを上げた。
「……夜風が気持ちいいです」
動いているのは空気ではなく、私たちだ。しかし自転車を飛ばしていると、未だに私たちにまとわりついていた昼間の熱気を、風が吹き飛ばしていくようだった。
スピードに乗って瞬く間に景色は変わり、道の右手は木々に覆われた児童公園となった。
「こんなところに公園があったんですね」
「市ケ谷ってこんなだったんだね。毎日来てたのに全然知らなかった」
「この辺りは居住区なのですね。児童公園があるということは、近隣のマンションにはファミリー層が住んでいると推察されます」
相変わらず独特の話し方だ。が、宇宙人に作られた人造人間であれば、それが自然なのかもしれない。というか、しばらく前に観たアニメにもそんなキャラクターは出ていたし、彼女もそんなアニメの影響を受けたのかもしれなかった。アニメが市民権を得始めていた時代だった。
「こんな都心に住んでたらどんな感じなんだろ?」
「住んでみたかったですね」
「住んでみたい、じゃなくて?」
「はい。未来ではなく、過去の話です。私には子供時代というものがありませんでしたから」
彼女の話どおりなら、彼女が造られたのは二週間前だ。だとしたら子供時代がなかったというのもその通りなのだろう。全て「設定」どおり。彼女は完璧に設定を演じていたと言える。しかし彼女の声はどこか寂しげな響きだった。
「未来でもいいじゃん。東京の大学に入って……」
言いかけて口をつぐむ。私の方は全くもって「設定」を守れていなかった。
「その……。探査船に戻った後はどうするんだっけ?」
「宇宙に行きます。地球に私の居場所はありませんから」
「だったら、ウチに来れば?」
寂しそうな声に、思わず言ってしまう。大学に入って一人暮らしならともかく、私はまだ実家暮らしだった。両親にどう説明しようというのだ? 彼女の言葉の真意さえ私は知らなかった。
「そういうわけにはいきません。それはさすがに、現地の文明に干渉しすぎです」
「でも……」
「私には、過去も未来もないんですよ」
不意に一つの疑問が脳裏をよぎった。
――彼女はなぜ、真夏にもかかわらずずっと長袖を着ているのだろう?
嫌な汗が背中に滲んだ。
彼女はもしかしたら、死のうとしているのではないか。
あるいはそれは考えすぎだったのかもしれない。全てが終わった後になっても、私が真実を知ることはできなかった。できることは推察だけだ。
しかしこのとき私の頭に浮かんでいたのは、リストカッターは傷痕を隠すために夏でも長袖を着るという話だった。
もちろん、自傷行為と自殺願望は直接繋がるものではないという話も、聞いたことはあった。そもそも彼女が本当に傷痕を隠していたという証拠もない。
ただあのとき、彼女の寂しげな声と服装と、この奇妙な旅に私を誘ったことと、全てがそれで繋がってしまう気がした。夜の闇に紛れ、ほとんど見ず知らずの私の自転車で移動すれば、両親にも誰にも知られることなく彼女は姿を消し、江ノ島の断崖から身を投げることもできてしまう。
――考えすぎだ。
私は頭に浮かんだ疑念を否定した。江ノ島は多くの人が訪れる観光地だ。自殺には適さない。そもそも江ノ島というのは私が目的地として定めただけで、彼女は相模湾としか言っていない。
両親の目を逃れると言っても、両親が彼女の自殺を怖れている、あるいは単に支配的な毒親なら、まず一人で夏期講習に行かせないだろう。仮に家出をしていたのだとしても、その状況で夏期講習に行くのは不自然だし、手持ちの金銭が尽きたところで死を選ぶというのも早計すぎる。
第一、本気で死にたいならビニール紐一本で事足りるのだ。相模湾まで行く理由がない。死のうとしているわけがない。
夜の街は静まりかえっていた。街灯に近づいて離れるたび、私たちの影が伸びては消える。
こう考えることもできた。
彼女は死にたかったが、その勇気がなかった。だから勢いをつけるために私を誘って無茶な逃避行に出た。
幇助者や共に自殺する相手を探すためのサイトの話を聞いたことがあった。
真実は今もなおわからない。
その後のいくつかの出来事は、このときの私の直感を裏付けるものだったようにも思う。けれど決定的な証拠はない。全ては私の妄想だったと言われれば、それはそれで辻褄が合う気はする。
その場合、彼女が人工生命体だという話が俄然現実味を帯びてくるが、私はそれでも一向に構わない。最悪の事態が防がれたのであれば、彼女が人間であろうと人工生命体であろうと、私にとっては同じことだ。
やがて自転車は少し広い通りに合流し、周囲には再び人通りが増えてきた。車道には車も走っていたので、私は歩道に自転車を上げた。
「ここは学校でしょうか?」
左手には大きな建物がそびえ立ち、彼女は口を開いた。
「そうかもね」
私は少しホッとして言った。
「あ、高等学校と書いてあります。ミッション系? 女子校でしょうか?」
「確かに、ちょっと教会みたいな感じがするね」
「なるほど。不思議ですね」
「え? 何が?」
「第一に、宗教という存在です。そのような非科学的な考え方が理解できません。第二に、宗教団体に学校を運営させるのは洗脳の危険があります。そのような行為が容認されていることが理解できません。第三に、有性生殖を行う生命体が単一の性別だけを集めて教育を行うことに関してです。そのような行為は繁殖のために不利になりますし、両性間の無用な対立にも繋がります。これもまた理解できません」
彼女は淡々としゃべり続け、話が終わると口を噤んだ。
「まあそうだね」
私は同意した。
それにしても、彼女はミッションスクールに恨みでもあるのだろうか? いったいこれまでどんな人生を歩んできたのだろうか?
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