戸田橋~市ケ谷
真昼の肌を焦がすような陽射しこそ退いたものの、戸田橋に続く坂道を自転車で上ると、着替えたばかりのTシャツは汗だくになってしまう。ジーンズではなくバミューダを穿いてきたのは正解だった。汗を吸ったジーンズで長時間自転車を漕ぐなど想像もしたくない。
一八時一〇分。太陽は荒川の上流方向に沈もうとしていた。
夏のこの時期、日は真西より北側に沈む。戸田橋から見ると太陽のやや南に荒川があり、その南にはゴミ処理場の煙突と並んで富士山が見えた。雲は太陽より高い位置にあり、見事なオレンジに彩られている。その上の空はすでに、夜の群青に染まり始めていた。自転車を追い抜いていく車の音に交じり、河川敷からヒグラシの声が聞こえてくる。
子供の頃は夏も長く、一日一日が長かった。思う存分遊んでこんな時間に家に帰るときの、あの寂しさと満足感。当時はまだ戸田市に住んではいなかったが、そんな気持ちを思い出させるような、完璧な夏の夕暮れだった。
けれど今は家路を辿るのではなく、家を出て海に向かっている。銀河政府に造られたと自称する女の子を、四億年前に地球に来たという探査船まで送るために。思わず笑いがこみ上げてきてしまう。
川を渡ると東京都だ。江ノ島まで八〇キロメートル。どんなドラマがこの先に待っているのだろうか?
橋は河川敷を越え、さらにビルの合間を縫って高架が続く。緩やかな坂を下ると、道は地上を走る側道と合流し、大きな交差点に出た。信号が赤になり、私は自転車を停める。横断歩道の前にも信号待ちの人々が数人。あの家族連れはどこから帰ってきたのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えている間に信号は青になり、私はまた走り出す。
戸田橋から市ケ谷まで、しばらくは国道一七号を道なりだ。マンション、コンビニ、ラーメン屋、警察署。なんでもない景色を眺めながら、気分は浮かれていた。見るもの全てが輝いて見えるというのは大げさだが、平凡な景色も悪くない気がした。
道は少し混んでいたが、自転車なら歩道を走れた。今でこそ自転車は原則車道走行と言われているが、当時はまだ自転車レーンもなく、法改正はさらに後の二〇一五年だ。私は概ね歩道を走り、歩行者が多い場所では車道を走った。
自転車は高校入学の時に買ってもらった通学用のシティサイクルだった。ギアはあるが、もちろん電動ではない。ハンドルの前にカゴがあり、サドルの後ろには金属製の平らな荷台がある。さすがにここに長時間乗るのはお尻が痛くなりそうなので、クッション代わりに小学校で使っていた防災頭巾を持ってきた(まだあった)。その他必要そうな荷物を入れたリュックとともに、前カゴに入れてある。
そもそも後ろに女の子を乗せてそんな長距離を走れるのか、若干の不安もあったが、まあなるようになるだろう。そう思ったのは、荒川沿いのサイクリングロードを河口まで走ったことがあったからかもしれないし、若さゆえの無鉄砲だったのかもしれない。
とはいえ、別に本当に日の出までに相模湾に着かなくても良いのだ。一応道は調べたものの、元より彼女の話が真実だとは思わないし、疲れたら二四時間営業のファミレスかどこかで夜明けを待つこともできるだろう。
国道はやがて高速道路と合流し、高架の下を通る道となった。このあたりになるとそれまで自転車で来た記憶はなかった。すでに日は暮れ、高架とビルの間には一番星が見えた。おそらく金星だろう。東京の夜は明るく、まして日没直後だ。この時間に見える星といえば金星に決まっている。
高架の下を走りながら、私はこれから起こるであろう出来事に想いを馳せた。相模湾にたどり着くまでの間、何を話そうか?
彼女の考えた設定に話を合わせるのは難しいが、彼女だっていつまでも人工生命体という話を続けるつもりはないだろう。こうして私を誘ってくれたということは、どこかで本当の話をしてくれるに違いない。
――問題は、どうやってそこまで持っていくかだ。
あまり強引に話を進めようとしても反発を招きかねない。あるいは彼女は相模湾に着いたら全てを話すつもりなのかもしれない。だとしたら、やはり本気で江ノ島まで行くべきなのだろうか?
とりとめなく考えながら、私は自転車を漕ぎ続けた。
やがて一七号は高架と分かれ、西巣鴨の大きな交差点に出た。右折すれば池袋・新宿方面、直進すれば水道橋・東京ドーム方面だ。新宿から新宿線沿いに市ケ谷に向かう手もあったが、新宿にはこれまで縁もなく土地鑑もなく、『龍が如く』のイメージしかない。だから私は水道橋まで一七号を直進すると決めていた。水道橋に土地鑑があるというほどではないが、東京ドームシティには多少の記憶があった。
人通りの多い巣鴨の街を抜けると、自転車は緩い下り坂をスムーズに進んだ。家を出てすぐに買った麦茶がなくなったのでコンビニでスポーツドリンクを買い、ちょうど一九時頃にドームシティの観覧車の前を通り過ぎた。水道橋の橋を渡らず右折し、自転車専用の横断歩道で飯田橋の五叉路を越えると、外濠に沿った道に入る。
市ケ谷を目前にして、再び胸は高鳴った。
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