八月二十二日

「あなたに頼みたいことがあります」

 翌日、教室に現れた彼女は、まっすぐに私に近づいてきて、そう告げた。

 周囲の男たちが何人か、こちらに露骨な視線を送っていた。ほとんど男ばかりのクラスの中で、彼女の姿はあまりに人目を惹く。わざわざ予備校の夏期講習に勉強しにきておいて積極的に話しかけることこそなかったが、その場にいた多くの男たちが彼女を気にしていたのは間違いない。

「なんだろう? オレにできることならするけど」

「ここでは話せません。授業が終わったら、昨日の場所で」

 再び表情が「軽い微笑み」に切り替わる。そして彼女は、私の返事を待たず、一番前のいつもの席に行ってしまった。

 私が周囲を見回すと、こちらを見ていた男たちは目をそらした。話したこともない相手だ。誰も追求はしてこなかった。そして授業が始まった。


 昨日の喫茶店は少し混んでいたが、私は無事二人掛けの席に座ることができた。昨日とは別の席だったが、それは大丈夫だろう。教室で話しかけるのは気が引けて、先に出てきてしまったけれど、きっと彼女は来る。教室の出入口から振り返った私に手を振ってくれたから、それは確信していた。そして席についてパニーニに手をつけようとしたとき、彼女がレジに並ぶのが見えた。


「お待たせしました」

 やはりパニーニの載ったトレーをテーブルに置き、彼女は私の前に座った。表情は変わらぬ「軽い微笑み」だ。

「今朝は驚いたよ」

 私は言った。

「で、頼みって?」

「あなたはなにか移動手段を持っていますか? つまり、自動車とかバイクとか自転車とかです」

「え? 自転車ならあるけど?」

 当時の私は、ただの浪人生だった。高校はそれなりの進学校だったから、自動車どころかバイクの免許も持っていなかった。

「自転車は二人乗りできますか?」

「荷台で良ければ」

「それで構いません。単刀直入に言いましょう。明日の夜明けまでに私を相模湾に移送してください」


 彼女の話を要約すると、以下のようになる。

 曰く、少し早いが銀河政府に提出するレポートが概ねまとまったので、相模湾沖の海底に隠してある探査船に合流したい。しかし移動手段がない。だから唯一の気軽に相談できる相手である私に頼みたい。他に頼める相手がいない――


「ちょっと待って。電車は?」

 別に彼女を乗せて海まで行くのが嫌なわけではなかった。いや、むしろそれは楽しそうな話だ。しかしあまりに突飛な話に、思わず聞き返してしまった。

「現金がありません。この昼食代が最後です」

「いや、人体錬成できるんでしょ。お金ぐらいいくらでも……」

「それは有価証券偽造になります。それに、探査船に行かないことには物理的にも不可能です」

「そもそも今までどうしてたの? その、寝る場所とか」

「今朝まではネットカフェにいました」

「ネットカフェ……」

 宇宙人の高度なテクノロジーにより無から生み出された女子高生が、ネットカフェで銀河政府へのレポートを書いている。あまりにシュールな光景だ。

「でも、自転車の二人乗りだって……」

 言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。こんな与太話に反論してどうする。

 彼女は少しエキセントリックだが、魅力的な女の子だ。頭がおかしいわけでもない。おそらくは彼女も受験生の灰色の夏に退屈しており、話に乗ってくれる私ともっと遊びたかったのだろう。

 私が信じているとも思っていないはずだ。全ては灰色の夏を青く染めるためのエクスキューズ。だとしたら、やるべきことは決まっている。

「いいよ。行こうぜ。自転車取ってくる」


 しかし仮に彼女の設定が真実だったとすれば、これは男心を利用した巧妙なトラップだったのかもしれない。

 女の子に海に誘われてついてきた男を観察し、地球人の恋愛模様をレポートする。あるいはデータではない実物の遺伝子を収奪する。

 非現実的だろうか? とはいえ、その後の彼女の言動からすれば一概に否定できない部分もある。

 そもそも人体を生成する際に女性を選んだというのも、遺伝子を入手するためだと言えば辻褄が合ってしまう。少なくとも、手持ちの現金がないなどという理由よりは、まだ現実的なのではないだろうか?

 いずれにせよ、そうだとしたら少なくとも後者の目論見は失敗だったことになる。 前者の目論見が成功したのかは、私にもわからない。


 それはさておき、とにかく私は彼女の依頼を受けることに決め、待ち合わせ時間などを話し合った。確かこのときに、彼女は彼女なりに地球人類をどうすべきか、何らかの結論を出さなくてはならないと言っていたはずだ。AIの結論とは別に、彼女の結論が必要なのだと。

「この星をどうすべきか、銀河政府にレポートを送るのが私の任務です。そしてそのレポートは、概ね完成しています。ただ……」

 彼女は言葉を濁し、目を泳がせた。

「ただ?」

「私の中で、最終的な結論は出ていません」

「それなのに探査船に戻っていいの?」

「あとは決めるだけですから。それに、あなたとの会話が何かのヒントになるかもしれませんし……」

 もしそれが真実であったなら、私はずいぶんと重い責任を背負ってしまったことになるのかもしれない。


 ところでこの二週間ほど前、彼女が探査船のAIにより生成されたのと時を同じくして、グーグル社は同社のサービス「グーグルマップ」上にて、日本の「ストリートビュー」の提供を開始していた。そのことはネット上でちょっとしたニュースになっていた。

 戸田市の自宅に戻った私は、さっそく自室のPCを立ち上げ、グーグルマップで市ケ谷から江ノ島へのルートを検索した。相模湾であればどこでも良かったのだが、三浦半島の方だとかえって遠くなり、鎌倉から江ノ島辺りが妥当な目的地だった。

 当時のグーグルマップには自転車用のルート検索という機能はなく、高速道路を除いた自動車用のルートとしては、三つの候補があった。

 一つは国道二四六号を進み大和市で南へ折れるルート。

 次に川崎を経由してほぼ直線に進むルート。

 最後に川崎から南下して横浜を通るルート。

 直線距離では川崎ルートが短そうだったが、川崎には治安の懸念があった。

 明日の夜明けまでに自転車で江ノ島まで行くとなると、夜通し走ることになる。川崎市の海側は二一世紀になっても暴走族を名乗る輩が残っており、族車が川崎を通過することはできないと聞く。

 もちろん私の自転車は族車どころかそもそもバイクでもないが、真夜中に女の子と二人乗りで因縁などつけられたら、彼女を危険に晒すことになる。

 幸い、二四六経由でも所要時間はあまり変わらなかった。あえて危険を冒すこともない。私は二四六を使うことに決め、ストリートビューを確認した。

 理想的にはルートの全てをストリートビューで見たかったが、矢印をクリックするたびに結構な読み込み時間が生じる。私は諦めて右左折の場所のみ確認し、頭に叩き込んだ。二四六に入りさえすればあとは大和まで道なりだ。その後も藤沢まではほぼ直線である。

 今でこそ道中スマートフォンで地図を確認することもできるが、当時はまだアイフォーンも国内で発売されたばかりで、しがない浪人生がそのビッグウェーブに乗ることはできなかった。アンドロイド端末に至っては存在すらしていない。

 市ケ谷から江ノ島までの所要時間は約二時間。自転車の場合、その倍はかかるだろう。二人乗りということを考慮すると、三倍は見ておきたい。

 となると、六時間といったところか。

 気象庁のサイトによると、日の出は五時七分。二〇時に市ケ谷で待ち合わせだから、待ち合わせ時間を決めるときにざっくり予想したとおり、時間的には大丈夫だろう。

 最寄り駅の戸田公園から市ケ谷までは車で四〇分。自転車だから二時間前には家を出たい。家族には友達の家に泊まり込みで勉強するので夕食はいらないと伝えてあった。

 私はPCの右下の時計を確認した。出る前にシャワーを浴びるとして、二時間ほど余裕がある。ロングライドに備え、仮眠を取っておいた方が良いだろう。

 興奮で眠れないかもしれないと思ったが、炎天下を歩いて体力を消耗していたのだろうか。冷房の効いた部屋でベッドにもぐり込むと、私は心地よい眠りに落ちた。

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