死体の雨 ④ 考察
外は想像よりも酷い有様だった。
降り注ぐ雨には高濃度の穢れが混じり、それが流れることなく地に溜まっていくせいでどんどんと空気が悪くなる。間もなく氾濫してしまいそうな川は、これが決壊すれば地面を歩くことすらままならないだろうと思わせるほどの濁流。
そしてそれすら思考の外に追いやってしまう、強烈な違和感を発している赤。
雨のせいで酷く広がったそれは、大抵の人にとっては見慣れないものだろう。もう生気のない、血の気の引いた青褪めた肌と、それと相反する鮮血。
「――まずいな、これ、大規模な記憶改竄が必要なレベルだぞ……ッ⁉」
ひゅう、ドシャ、とまたどこかからなにか大きな物体が落下して、弾けたような音が聞こえてくる。
それは人間の落下音。
否――……死体が、降ってきている。
「時雨、乗れッ!! とりあえず呰見神社に行けばいいんだろ!?」
「ああ、お前はどこに向かう気だ!?」
「総合病院! お前を降ろしたらそのまま直で行く!」
駐車場に停めていたバイクのエンジンをつけながら、朱梨が時雨の方にヘルメットを一つ投げ渡す。黒色のそれを手早く頭に被りながら時雨は急いで朱梨の後ろに乗り込んで、片腕を朱梨の腹部に回す。空いた片手で大きなギターケースを自分の背にかけ直すころに、朱梨は焦ったようにバイクを発進させた。
いつもならゆっくりとした速度で敷地を出るが、今はそんな余裕はない。この緊急時に咎めるものなど誰もいないだろう。公道と同じくらいのスピードをいきなり出した朱梨は器用に駐車場の間を駆け抜けて、大雨の外へと飛び出した。
「ッ、朱梨、スピード出し過ぎだ! もっと速度落とせ!」
「ああ!? んなこと言ってる場合じゃ、」
「違う、今も死体が降ってきてる! 視認して避けることできるのか、この速度で!」
チッ、と苛立たし気に舌打ちする朱梨。
時雨の言葉はもっともで、今も前方に大きな物体が落下してきたところだった。雨でスリップする危険も厭わず、朱梨は器用にハンドルを切って最短距離でその死体を躱す。落ちた衝撃で飛び散った血しぶきがバイクや二人の身体に付くものの、今更気にする余裕もない。ヘルメットの前方に散った赤を袖で拭うだけして、薄く赤のまじった水飛沫を飛ばしながら駆けていく。
後ろに乗っている時雨は、ヘルメットの中で顔を顰めながら遠くの空を睨んでいる。分厚い曇天は大量の雨に紛れ込ませるように時折人型の物体を吐き出していて、すぐにビル群の陰に隠れて見えなくなる。おそらくはじきにパニックが起こるだろう。
水滴に込められた穢れが、地面に叩きつけられ水煙と化すたびに空気中の濃度を上げていく。
それは耐性が無い者が吸い込み過ぎれば体調に異変をもたらすほど。時雨は職業柄慣れているが、時間が経てば朱梨ですら怪しくなるだろうと彼は直感する。そうなるともう運転も任せられない。
(――……でも、)
彼は今朝がたから覚えていた違和感を脳裏に浮かべる。
泡沫家の家から朱梨の家に来るまでにずっと引っ掛かっていたこと。日曜の、しかも連休の中日だというのに不自然なほど人が少なかった。中央区の駅を通るときすら、ホームにはまばらにしか人がいなかったのなんてあからさますぎるほどに不自然だった。いくら雨続きとはいえ、連休の市街地で人通りが少なくなるなどどう考えてもあり得ない。
だとするなら――……考えられる可能性は二つ。
この怪異が人を遠ざけているのか。
あるいは、誰かが人を怪異から遠ざけているのか。
(前者は……因果関係が薄い。死体が降る。それを人々が忌避している。これがイコールで繋がったとして、そもそもそんな機能をもつ意味がわからない。なら後者になる、のか……? 記憶改竄術式の亜種を誰かが?)
周りの惨状を警戒の目で見渡しながら、時雨は高速で思考を回していく。
彼の脳内に浮かぶのは一人の女性の姿。時雨の雇い主である真宮結々祢なら、街一つ分の範囲で人の意識に干渉する術式を広げていても違和感はない。現在、真宮結々祢は遠方に出ているらしいが、事前に何か察知していたことは電話口の様子から察せられた。怪異相手の保険として、念のため掛けていったと考えても齟齬はない。
齟齬は、無いのだが……何かがおかしい気がしてならない。
何かが欠けている。何か一存在が足りていない。何かを忘れている。情報が揃わない以上、何度考えてもそれは確信には至れない。
「……違う。そもそも、この現象は何のためだ」
空を舞う、魂の欠けた肉体を目に収めながら零した。
朱梨が時雨のつぶやきに大声で反応するが、時雨は返す様子はない。
もう完全に時雨は思考に没頭したままのようで、朱梨は諦めて前方に意識を向けて運転に集中するのだった。
――そもそものはなし。
この死体自体には何の異常性もない。間近で空宮霞の模倣死体を確認した時雨は確信を持って言える。だからこそ、この”死体が降る”現象に何の意味があるのかが全くわからない状態に陥っていた。
精神汚染の呪詛をまき散らしている、などあればまだ理解も出来たし、ある種対処の目途も立ったかもしれない。明確な害意があるのなら、まだ全貌も掴みやすかっただろう。
しかしこれはそうではない。目的がわからない。意図が掴めない。これの先が見通せない。世の中で起こる怪奇現象の全てに明確な意図が介在するとまでは言わないが、ここまで大規模かつ突発的なもの、しかも朱梨の口ぶりから察するに人為的なものの可能性すらある以上、意味のない現象には到底思えなかった。
これを引き起こすことで誰に何の利があるのか。
その答えを出せないと、この現象の解決には至れない。
◇
ざあっ、と水飛沫を上げてバイクが急停止する。
大量の雨のせいで大きな水たまりができていたようだった。晴れの日であればスリップ痕でも残りそうなほどの急ブレーキだったが、体幹の良い二人はなんとか投げ出されないまましがみついている。ある程度勢いを殺して、そのままの流れで時雨がバイクの後方から飛び降りた。
背中に背負ったギターケースを緩衝材にするように受け身を取って、そのまま足でブレーキをかけて立ち上がる。朱梨からはそう離れてない位置に上手く着地した時雨は、汚れた服の一切を気にしないままに駆け出した。
「朱梨! こっちで話がまとまったらすぐに連絡するから、お前はそのまま病院を動くなよ! 妹の身を案じてるんだろ!?」
「っ、保証はできねえけど、まあ覚えとくよ!」
そう言って朱梨は再度エンジンをかけて、早いスピードで行ってしまった。あっという間に水煙の向こうに行って、姿が見えなくなる。その様子を気に留めないまま、時雨も長い階段を三段飛ばしで駆け上がっていった。
目指すのは階段の先の呰見神社。伯父と葵と、今日に限っては妹の深雪もいるはずだ。近くに常駐する対怪異職の人が彼らしかいない以上、向かわない手はなかった。
雨に濡れた石畳は酷く滑って転げ落ちそうになる。
上から流れて来る雨水には不思議なことに赤が混じっていなかった。
未だ、雨が止む気配はない。
「伯父さん、いるか!? 伯父さん!!」
境内に足を踏み入れるが否や、空気の重さが劇的に変化した。
まるで水中を動くようだった不快な重さは一斉に鳴りを潜めて、正常な空間へと切り替わる。ここのみ一切の不浄はなく、降り注ぐ雨も綺麗な夏雨と呼んで差し支えない。音も綺麗に澄んでいて、否が応でもこの街唯一の安全地帯と錯覚するほどだ。そしてきっとその認識に間違いはない。
それを裏付けるように、敷地内には一つたりとも死体は落ちていなかった。
これが神社の力なのか、あるいは深雪がいるからか、どちらかわからないがまあ今はどちらでも同じことだ。
時雨は大急ぎで神社の裏手に回る。以前もよく伯父の昊天がいた縁側に足を向けるが、今は伯父の姿は無かった。
「っ、中……いや、拝殿の方か……!?」
所々血の付いた服で上がるのは申し訳なかったが、この状況で背に腹は代えられない。いつもの彼らしくなく乱雑に靴を脱いで縁側に足をつけた時、
「――お兄ちゃん!」
「ッ深雪、無事か!?」
「え、あ、うん……? 無事、だよ……?」
奥の方から妹の深雪が顔を出す。
まだ小学校に上がったばかりの深雪に留守を任せる訳に行かなくて、今朝がたに母親がこの神社に預けていた。本人の意向で綺麗に伸びつつある赤髪を揺らして不思議そうに首を傾げた深雪は、外の事態を把握している訳ではなさそうだった。来ると思っていなかった兄が突然訪問してきたから、思わず駆け寄っただけなのだろう。
ひとまず妹の無事を確認出来て胸を撫で下ろす。あとは伯父か葵に会えればいいが、と思い周りを見るものの、そばにいた深雪にくいっと袖を引かれた。
「あのね、お兄ちゃん」
「ん、どうした深雪。俺は伯父さんか巫女の人に用事があるんだが……」
「えっと、その巫女さんがね、大変なのかも」
「……? 大変?」
「巫女さん、静かなひとなのに、さっきからずっと怒ってるの」
きて、と腕を引く深雪についていく時雨。
巫女――……葵、と名乗った女性は夏にも一度話したことはある。確かに深雪の言う通り、静かなひとと言っていいだろう。そんな人がずっと怒っているなどやはり緊急事態だ。時雨が思っているより事は深刻なのかもしれない。
「それでね、みゆき、こっそり見てたんだけど、ぼたぼたって血を吐いちゃってて、みゆき怖くて逃げちゃって、」
「ッ!? 血を吐いてたのか!? まずい、」
「えっと、でもまだずっと怒ってるの。死んじゃった訳じゃないと思う」
ととと、と一つの障子の前に立った深雪は、ここだよと指さす。おそらくろうそくか何かだろう、揺らめく光源に照らされて人型の影が見える上、耳をすませば確かに声がする。障子に防音機能はないから、きっと人除けか何かを使っているのだろう。そう察した時雨は、深雪を連れたまま勢いよくその障子を引いた。
「失礼します、葵さん」
「っ、時雨くん……、!」
ばっとこちらを向くその人は七月に会った時とそう変わりない。
見慣れた巫女服に、顔全体を覆う面布。
唯一違うのは、白かったはずの面布、その口元あたりがべっとりと赤で染まっていることだろうか。
「ああもう、来るとは思ってましたが、」
「葵さん、その血は……!」
「問題ありません。この程度、軽傷にも入りませんよ」
咄嗟に声音を作って背筋を伸ばす葵。乱雑に面布下の口を拭う仕草もしているが、そのせいで手の甲には赤黒い色がついてしまっていた。
葵本人はこう言っているものの、吐血が軽傷にもならない、わけがない。彼女は隠したつもりだろうが、そもそも畳の上にどす黒い血の跡が、決して小さくない大きさで残っているのを時雨は目にしていた。
崩れてはいるが正座で座る葵と、彼女の前に置かれている大きめの盃。その中は液体で満たされていて、恐らく御神酒の類だろう。
深雪は先ほどまで声を荒げていた葵がちょっと怖いのか、時雨の後ろに隠れながら様子伺っているだけだった。
「……休んでください、葵さん。吐血まで行くと完全に内側が穢されています。これ以上の無理は本当に身体を壊すことになる」
「いいえ――いいえ。問題ないと言ったでしょう、」
『いいや、問題ありまくりだろう。泡沫君の言う通り、お前は一度手を引け』
この場にいないはずの人の声が響いて一瞬身構える時雨。
しかしその声が見知った人の声だと気が付いて、すぐに盃のほうに目を向けた。
「――ッ、結々祢! だから私は問題ないと言っているでしょう!? 私が折れたら次に駆り出されるのは時雨くんになる! こんな案件、まだ十六の子に任せていいわけないでしょう!? わかったら私が潰れる前にさっさと帰ってきなさいッ!!!」
『葵。お前が思っているほど泡沫君は弱くはない。適材適所、戦力を出し渋っては勝てるものも勝てん。もっとも、こうして聞かれた以上はこの言い合いも意味を持たなくなったがな』
よく見れば、揺らぐ水面の向こうに結々祢の姿が映っている。明らかにその盃と御神酒自体に別種の力が働いているのが見て取れた。
――名を『酒盃神事』。葵が独自で編みだした術式であった。
咄嗟に駆け寄って盃のそばに膝をつく。軽く手をついて覗き込めば、水面の向こうの結々祢が時雨の姿を認識したようだった。
『泡沫君。状況は把握したか?』
「おおまかには。葵さんももう限界です、ここからは俺が引き継ぎます」
「駄目、許可できない。これはだめ、最悪死にかねないの」
「命の危険なんて、怪異案件に足突っ込んでいればいつだってそうですよ。俺は大丈夫ですから、葵さんは横になってください。……気づいていないのかもしれないですけど、ずっと瞳孔開きっぱなしで汗びっしょりですよ」
時雨の言う通りだった。
面布の隙間から時折見える黒の瞳の奥はずっと散大して、頬に滲む汗のせいで布も肌に張り付いている。身体全体が発汗しているようで、巫女装束の白衣もぐっしょりの濡れているようだった。
ぎり、と歯噛みする葵だったが、身体の不調はこれ以上誤魔化せない。仕方なく畳の上に横になると、見ていた深雪がととと、と駆けて行って枕代わりの座布団を持ってきていた。
枕元に盃を寄せ、時雨もそれに近づく。
『改めて、泡沫君。そこの巫女は使いものにならん。こうなるとあとは君が主な戦力だ。いいな?』
「構いません。ですが……一応聞いておきますけど、ほかに動かせる人員は? 伯父さんはおそらく無理だろうとは思いますが、他は……」
『私の権限ですぐに動かせるかつ、呰見に近い人員というと蒼くらいだが……駄目だな。アレは今回の件にはすこぶる相性が悪い』
「……そうなの? 夜蔵さん、結構切れ者じゃない?」
『馬鹿か、そもそもあいつは除霊師だぞ。言ってしまえば魂専門だ。魂のない肉体相手にできることなどないよ』
「……茉奈は? あの子なら決定打とまでは言わずとも補助ならトップクラスですよね?」
『無理だな。何せ茉奈は今私と同行している』
茉奈、と呼ばれた少女が水面の向こうから返事をしたらしい声がする。
時雨にとっては唯一といっていい、同僚と呼べる存在だった。現状二人しかいない“真宮結々祢直属の部下”の、時雨と対を成す一人である。
齢10歳、ある秘境のお屋敷の、深窓の令嬢。以前時雨や結々祢が接触し、紆余曲折ありながら引き抜いて現在は真宮家に留め置いている貴重な人員だった。
ある種、時雨が攻勢で茉奈が守勢と言って差し支えない。こと“守りに徹する”のであれば茉奈がいれば格段にやりやすいのだが、結々祢と一緒に居るということはこちらにすぐ戻ってくることはできないだろう。ないものねだりをしていても仕方がない。結局一人でどうにかするしかないようだった。
覚悟を決めて、一つ息を吐く。
と同時に、横になったままの葵が怒りを滲ませた声で水面の向こうの結々祢に鋭い声を投げた。
「統括が聞いて呆れる。人員掻き集められないなら、それこそアンタが死に物狂いで戻ってくるべきでしょう。アンタ一体どこで道草食ってるワケ?」
そう言って睨む葵。今まで抑えていた不調がぶり返しつつあるのか、握りしめた拳はがたがたと小さく震えだしていた。発熱時特有の、病人の匂いが僅かに鼻腔をくすぐる。やはり吐血までしておいて、体調が悪くないわけが無かったのだ。
水面越しにそれを把握した結々祢は、はあ、とため息をついて。
『――くねくねだ』
「は、?」
『私たちは現在呰見から200キロ南下した場所にある山村を訪れている。もとはただの異形の報告が上がっていただけだったが……我々が着いたころには、村人の集団発狂・失踪が起こっていた。生存者数は片手で足りるくらいだろう』
「――……」
『連れてきた付き人が一人持っていかれた。今は古小屋を借りて腰を落ち着けているが、むやみに外には出れなくなった。なんせ茉奈の防御結界すら貫通したからな』
舌打ちする音と、不甲斐なさそうな少女の声。
くねくね――七大怪異の末席に名を連ねる怪異。しかしその実その正体は何もわかっておらず、対処法も何も確立されていない。『認識すると発狂する』、という事実のみが広まっている危険存在。
結々祢であろうとそれ相手に対処のしようがなく、しかもある種彼女の天敵ともいえる存在だった。心眼で周囲を把握している結々祢にとって、それが間近に来られると確実にその存在を認識してしまう。目を逸らせないのだ。
故に彼女らは籠城を強いられている。離脱する算段自体は考えついてはいるものの、今すぐに呰見にとんぼ返りできる状況ではなかった。
「……それ大丈夫なの? 結々祢や茉奈が発狂でもした日にはこちらの戦力はガタ落ちよ?」
『わかっているさ、だからこうして安全を取っている。……薄々考えてはいたが、やはりあれはどのカテゴリーにも属さん存在だ。認識と発狂がひと繋がりになった認識災害、言ってしまえば概念の類だろう』
「……それなら……」
『こちらも概念で対抗するしかあるまい。そういうわけだ、こちらはこちらで何とかするが、そちらのことまでは手が回らん』
やれるとするならここでの作戦会議までだ、と結々祢は言う。とはいえ現状何もわかっていない以上、結々祢の存在はありがたかった。結々祢、葵の二人が揃っているのなら、時雨の理解が及ばないことに対して何かしらの解答を用意できるかもしれない。
時雨は深雪に毛布と冷えピタを持ってくるように言って、改めて彼女らと向き合う。葵は依然体調が芳しくないものの、思考を回すくらいはできると言って軽く上体を起こしていた。
水面の向こうの結々祢は、脚を組みなおしてふむ、と口元に手を当てた。
『まずすべての事象を整理する必要があるな。今回の案件は、恐らく多数の事象が重なり合ったせいで見通せない状況になっている』
「……挙げるとするなら、こんなとこかしら」
手ごろな紙を手に取った葵がさらさらと今回の現象を書き連ねていく。
――ひとつ。住民を模した死体が降ってきている。
――ひとつ。雨が続いている。
――ひとつ。現在の呰見市では、高濃度の黒不浄が蔓延している。
『すべてだ。それには当然、お前の今の不調も入るぞ、葵』
「……そうよね」
――ひとつ。この現象に対抗する場合、呪い返しのような呪詛を受ける。
――ひとつ。記憶の欠落が存在する。
――ひとつ。この記憶欠落現象は、本日分は欠落しない。
次々にあげられる異常の羅列を見て、時雨も思考を回していく。
一番下に書かれた一文に少し首をひねると、横にいた葵が補足した。
「ああ、これは解析したらわかりました。この記憶欠落現象は、9月19日の深夜を以て稼働停止になるプログラムが組まれている。術式です。先ほどのくねくねとある意味同種の、“認識すると記憶を消す”という認識災害と言っていいでしょう」
「……つまり人の手が入っている、と」
『ああ。今回の案件は天災ではなく人災だ。だからそこの巫女は君を行かせたがらないんだよ』
「当然でしょう。子供を悪意の前に立たせるわけにいかないんです、大人として」
「お気遣いありがとうございます。でもまあそんな、無菌室で育ったわけでもないんですし。多少の悪意くらい平気ですよ」
それよりも、と時雨は葵からペンを借りて付け加える。
――ひとつ。今日は人通りが少なすぎる。
意識に何らかの影響を受けている可能性が高い。
――ひとつ。友人が鳥の怪異と思われるものに攻撃を受けた。
黒不浄が見えたため、今回の現象と関係があるかもしれない。
「この、前者に関しては結々祢さんが対応したのかなと思ったんですが……一応、どうなんですか?」
『いいや、私ではない』
ばっさりと否定されて、驚いたように目を見開く時雨。聞いてはみたものの、彼の中では結々祢によるものだろうという確信があったためだ。
そうでなければ、このようなことをする理由がわからない。
『人為的である以上そこに何らかの意図が介在するはずだ。それを読み切ることが最重要だが……これはわからんな』
「は? いやこれ、記憶欠落現象と似たようなものじゃないの?」
『いいや違う。記憶欠落現象は私たちにも作動したが、今日は意識に影響は受けていない。私たち対怪異職は皆問題なく外出できている。とすればおそらく……記憶欠落現象は、準備期間中に今日の案件を私たちに察知されないため。意識への影響はそのまま、民間に被害が行かないようにするためとしか考えられない』
「……怪異側がそんなこと、慮るとは思えないけど」
『しかし事実こう考えるのが一番筋が通るだろう? 屋外で発生した異変に対して、住民は家の中に閉じこもらせる。被害は小さくなる。さっきも言っただろう、対怪異職は皆その影響を受けなかったと。
――一般人を引っ込めて、私たちを出す。そういう状況を作る意図があるのだと思われる』
「だとするなら、この意識への影響は俺たち対怪異職の誰かがやった可能性の方があるのでは?」
『いいやそれはない。街一帯にかけるのならまず私に申請がいる。それにそれほど大規模なもの、私以外はできない。これは断言できる』
……。つまりこれはこの現象に付随するものだということで、つまり、……? と思考がこんがらがってくる。
結々祢の言った通り、今回の案件には様々な意図が重なり合って不透明に見えている。葵はひとまず今の結論を紙に書き留めておいた。
――仮説。
記憶欠落現象→準備期間中の妨害を防ぐため。今日これが作動していないのは術式が完成したからだと思われる。
一般人への意識操作→民間に被害が及ばないようにする意図がある。
対怪異職は受けていない以上、我々に対処させる意図?
……ここが上手く噛み合わない。
準備中の妨害に対して対策は講じるのに、いざ完成したら俺たちに解決させる、みたいな……と時雨がその矛盾に対して訝しみながら、慎重に事象たちを噛み砕いていく。
(死体、雨、黒不浄……鳥、記憶欠落、……――……、)
繋がるようで、繋がらない。
あるいはこの欠落した記憶の中になにか重要な事項があったのかもしれないが、壊れてしまったものはもうどうしようもない。
――……。
ざざ、と記憶にノイズがかかる。
何故だかここだけは別種で、他は白く塗りつぶされたような消え方なのに、金曜の夜だけは全体にノイズがかかったような消え方をしている。
たしか、あの日は部活の帰りにそのまま街外れの霊園に向かって、――……
『――二通りの悪意がある、って考えたらわかりやすいかしら?』
『これが限界みたい。これ以上伝えると欠落の方が強くなりそう』
『あとはこれをこうして、はい。ノイズで隠して完璧。結構な綱渡りだけど、君ならどうにかできるでしょう、時雨くん?』
――そうして、誰かに会ったような。
顔も名前も声も思い出せない、ただ情報としてノイズの下から引っ張り出した。
(………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………俺たちに、何を対処させる?)
ぴたり、と時雨の動きが止まる。目を見開いたままつうっと指先でその文字列をなぞって、そして。
「……二通り」
「え?」
「二通り……二種の案件が重なっている……いや、ひょっとしてこの術式は、この“鳥”への対処のため、かもしれない」
そう言って時雨は、八番目に書かれた事象のところで指を止めた。
全体的にこれだけが異質だった。他は全部死体の雨に繋がるのだが、これだけは繋げようとしても繋げられない。口元を手で覆ったまま、時雨はまるで脳内の考えをそのまま吐き出すかのように言葉を紡ぎ続けた。
「まず先ほどの仮説が正しいとして。そうなると俺たちに対処させたいものは、恐らくこの死体の雨ではなくそれ以外の何か、と考えたほうが自然です。今回の怪異案件は、死体が降る怪異現象の案件と、この“鳥”の怪異の案件が同時に進行している。だとすれば記憶欠落現象も説明がつきます。準備段階で妨害されてしまうと“鳥”への対処ができなくなる」
『なるほど。つまるところこの、降ってくる死体は――』
「……“鳥”をおびき寄せる餌、というところですか」
――ここでようやく鳥が繋がる。
現在の呰見市は高濃度の黒不浄で満たされている。そこに黒不浄に関わりのある鳥の怪異が現れないはずがない。街一つ分の、巨大な撒き餌だ。
「……葵さん。今のところ、“鳥”と思わしき怪異の反応はありますか」
「いいえ、まだ」
『ふむ……となれば来るのはおそらく、』
「呰見市ではないといけなかった、呰見の対怪異職に対応させる必要があった……ここまでしなくてはいけない相手、となると限られますね」
「……黒不浄関連の手強い鳥。十中八九、以津真天が来ます」
◇
『……そしてもう一つ念頭に置かなくてはならないことがある』
全体の結論が出た後、水面の向こうの結々祢が難しそうな、悩ましそうな表情を浮かべて切り出した。
彼女がそのような顔をするなど珍しい。並々ならぬ雰囲気を感じ取った二人は、再度真剣な顔をして彼女の言葉を待った。
静謐な声が時雨の方を向く。
『泡沫君にも以前言ったが、この呰見で“リョウメンスクナ”の反応があることは知っているだろう?』
「はい。でもいまだ位置はわからないんですよね?」
「……まさか結々祢、」
『葵、その通りだ。これは“模倣死体を降らせる現象”。泡沫君は知っているか? リョウメンスクナの作成方法を』
「……細部は知りませんが。手順としては人間版蠱毒とかいろいろさせるんですよね」
「そして最後は即身仏になって呪具と化す。時雨くん、リョウメンスクナの重要な点はここなんです。死体なんですよ、あの怪異は」
……それは、つまるところ。
この死体の雨により、現在呰見で反応があるリョウメンスクナの、その複製版が降る可能性がある、ということで。
――……。
「――……ッ、」
急に吐き気がして慌てて口元を押さえる。
何かしらの拒否反応が出た。なにか、思い当たってはいけないことがある。
泡沫時雨が、思い当たりたくないこと。気づきたくないこと。
慌てて頭を振って思考を打ち消した。二人は訝しむような目をしているが、特に言及してこない。
『以津真天のほうは……現状動ける最大火力が泡沫君だ。いいか、君が倒せ。……いいや、これは良くないな。なんせ500年ものだ、少し荷が重いか。とにかくやれるだけやってみろ。最悪リカバリーはその巫女がやれる』
「ふふ。これでも退魔師をしていますから。時雨くん、どうか無茶はしないように」
「わかっています。一般人が少ないのなら、まだいくらかやりやすいです。……それで、リョウメンスクナの方は?」
『そちらは駄目だ、泡沫君とは致命的に相性が悪い。まずはこの術式を止めて、死体の雨を止ませるのが先決だ。以津真天が飛来する前までに術式を叩き壊せ』
「この濃度に、結構な数の死体も降りました。もう止めたとしてもじき以津真天は来るでしょう」
『リョウメンスクナの複製品が降る前に術式を破壊できればベストだ。降った場合は泡沫君は絶対に近寄るな。以津真天討伐にだけ注力しろ』
「リョウメンスクナのほうの対処はどうするの」
葵から飛んできた言葉に、結々祢はさらに難しそうな顔をして悩んでいた。
数秒ほどの間の後、きっと二周ほど思考が回ったのだろう様子で言葉を返す。
『……七大怪異の第三席、呪物カテゴリーとしては最強格だ。並の浄化師じゃ話にならん。せめて神代の爺様がいらっしゃれば、とは思うが』
「……え?」
結々祢の口から出てきたその単語に、時雨の思考が停止する。
三度瞬いた後、恐る恐る結々祢に訊き返した。
「……結々祢さん。なんで急に神代が出てくるんですか?」
『……君、知らな……ああいやそうか、泡沫家と神代家は仲が悪いからな、教えられてないか。君の家系は代々退魔の家系だろう? それと同じように、神代家は代々続く由緒正しい浄化師の家系だ。真宮と合わせて御三家のように言われていた時期もあったらしい』
――……。
「……神代なら、知り合いにいます」
自然と口が動いていた。
時雨はこの10年以上の付き合いの中で、ほんの数度だけ、彼女の家系について彼女の口からきいたことがある。とはいっても本人もあまりわかっていないようで、ただぼんやりと怪異相手に戦う職だ、としか言っていなかった。
浄化師の家系だというのなら納得だ。彼女が妙に怪異慣れしているのも。
だから、
「……神代……神代朱梨と、交友があります。彼女自身は対怪異職の才があるというわけではなさそうですが、彼女からその神代家に話を通せばあるいは――」
「時雨くん」
険しい顔をした葵に言葉を遮られる。
「……前から思ってはいました。その子は本当に浄化師の家系の神代ですか?」
「おそらくは。以前、彼女がそれらしいことを言っていました」
『ならば、おかしい』
重たい声が水面越しに響いてくる。
何がおかしいのか時雨はわからなくて、戸惑う素振りを隠せない。葵はそんな彼を一瞥して、静かに言葉を切り出した。
「時雨くん。その神代朱梨がいること自体がおかしいのです。
――神代家は事実上、血が途絶えました。
現在生き残っているのは、12歳になる神代桜ただ一人。そのほかの方々は、次々と怪死を遂げ……生き残った子も、今は病院で昏睡しているようです。
そのほかで可能性があるのが、御隠居なされた神代竹蔵様。こちらは消息不明です。連絡がつけば、お力になってほしかったのですが。
――……つまり。
神代朱梨という人物は、神代家には存在しないはずなんですよ」
朱色の空匣 紅夜チャン @kouya016
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