死体の雨 ③ 九月二十日

 九月十八日。

 金曜日と言えばもう週末だ。金曜の放課後ほど楽しいものはない。生徒の多くは軽い足取りで下駄箱を目指しているが、泡沫時雨は皆と逆方向に向かっていた。

 向かう先は校舎の片隅にひっそりと存在している空き教室。実際は一応部室ということになっているのだが、ほとんど人がいることがないため生徒の間ではもっぱら使用されていない教室の認識である。

 それもそのはずで、表向きは本当に空き教室なのである。

 レイヤーがズレた、とでも言えばよいのだろうか。六月のあの心霊空間と同質の現象。特定の動きをすることで入り込める同一座標上の異空間。本館四階の北側に設置された消火器の前を三度跨いで、そのまま目的の教室に向かう。

 その扉には『オカルト研究部』の文字が書かれた紙が張り付けてある。教室内の電気はついているため、すでに中に人がいるのだろう。

『オカルト研究部』。一応学校から認められた部活の一つである。活動は金曜放課後だが部長によりやるかどうかが決まる。在籍しているのは三年の部長一人と一年が二人の、小さな部活。

 その、数少ない部員のうちの一人が、時雨だった。

 ガラッと音を立ててドアを開く。

「……久しぶり、泡沫」

「久しぶりですね、部長。何読んでるんですか」

 四つほどの机をくっつけて、そのうちの一つの席に座ったまま本を読んでいるのが、オカ研の部長の桐島悠斗。相変わらず長い前髪で目元を隠したままな上、眼鏡もかけている。本当は彼の視力はそう悪いほうでもないのに、何を考えたのかコンタクトを入れた上で眼鏡もかけるという暴挙を現在進行形で行っているのだ。

「これ? 日本呪術全書。読み物としても面白いぞ」

「……流石に眼鏡ぐらい外しませんか。本格的に目が悪くなりますよ」

「嫌だ。いっそ目が悪くなってくれたほうがありがたい」

 吐き捨てるように言って、そのまま再び本のほうに目を落とす。この言い草はいつものことだった。

 桐島は生まれつき霊感がある、というわけではない。霊的粒子を感知する力はそこらの一般人とほぼ同じのはず、というのが時雨の認識だ。

 ……はず、というのは。実際、桐島は霊感がないのに霊が見えるという特異体質であるということだ。

 そもそも時雨や朱梨のいう『霊感がある』というのはつまり、幽霊カテゴリの怪異を構成する霊的粒子の波長にどれだけ合わせられるか、つまりはどれだけピントを合わせられるかということである。ピントを合わせるのが上手ければ霊感が強いということになり、微量の霊的粒子で存在する希薄な幽霊も目にすることができるし声も聴ける。

 しかしながら、桐島はこのピントを合わせるのがとんと下手だ。下手すぎてもはや零感の域に達するのではないかと思っている。

 触れられないし、声も聴けない。

 それでも、見ることだけはできる。

 ピントは合わないままに、ただその霊的粒子があることを視覚情報のみを以てして感知する。これが桐島悠斗に与えられた異能だった。

 しかもそれは幽霊だけに留まる話ではない。例えば人間に擬態した妖怪なら本当の姿が見えるし、どんなに微量であっても穢れを探知できる。一見ただの玩具のように見えるものが呪物カテゴリの怪異だと察知することだってある。つまりは視界内の怪異をすべて探知可能だということだ。

 時雨からしてみればいっそ羨ましいと思えるほどの異能だが、桐島にとっては忌々しいものに他ならない。彼は時雨と違って怪異の専門家ではないため、見えたところでということだ。むしろストレスの原因でしかない。

 それ故に、桐島はいつもコンタクトと眼鏡で視界を歪めている。二重の仕切りを作ることでより怪異を見えづらくする魂胆らしい。前髪を伸ばしているのは、よくないものと目が合った時に向こうにそれを悟られないようにするためだ。

「……ああ、そういえば。今日、朱梨は来ません。バイトのシフト変更がどうたらでさっき帰ってました」

「そうか。それはよかった」

「……前から思ってたんですけど、どうして部長は朱梨のこと毛嫌いしてるんですか」

「毛嫌いってわけじゃない。神代のことはまあお前と同じぐらいには気に入ってる」

 ああ、と思い出したかのように顔を上げた。前髪のせいで表情はあまりわからないが、少なくともいい報告ではなさそうだ。

「神代。あいつ、腕どうした」

「ああ、右腕ですか? 水曜日あたりにヘマしたらしいですよ。流石に周りに影響が出かねないほどの穢れだったんで一応俺が応急処置して、ちゃんとうちで見てもらおうと思ってたんですけど逃げられました。自分でなんとかする、って言ってましたけど」

「……あれ、相当なやつだぞ。下手打てば十日で片腕腐り落ちるな」

「すみません部長、急用ができたので帰ります」

「やめとけ帰るな座れ馬鹿。神代がそう言ったんなら遅かれ早かれ自力で何とかするだろうし、下手に手を出して被害が出たらどうする。アレはそんなに馬鹿じゃない。……とはいえお前は祈祷師だし僕はオカ研の部長。正体ぐらい探っても罰は当たらんか。よし今日の活動はこれにしよう、今決めた」

 そう言って、桐島は読んでいた本をぱたんと閉じた。そのまま席を立って、教室の片隅に置いていた本棚から一冊のファイルを取ってきて机の上に広げた。

 桐島作の妖怪辞典のようなものだ。彼は怪異が見える目を毛嫌いしているが、怪異を知ることは嫌いではない。もともとは自己防衛のため始めた情報収集も、こうして部活を作るぐらいには熱中しているのだ。

 開いたページはちょうど、『鳥』ジャンルの始めだった。

「……神代の右腕からは黒い穢れ以外にも、鳥の羽根のようなものが生えていた。おそらく鳥型の怪異で間違いない」

「……本当に色々見えるんですね」

「あげれるならお前にやりたいぐらいな。で、鳥型の妖怪と言えば有名どころを上げれば『八咫烏』だろうな。ほかにも『ふらり火』や『青鷺火』『姑獲鳥』『陰摩羅鬼』『以津真天』……」

「待ってください。朱梨の腕の穢れなら俺も間近で見ました。アレは間違いなく黒不浄の類です」

「……なるほど。なら『陰摩羅鬼』、『以津真天』、『羅刹鳥』あたりか」

 パラパラとページを捲る。三つすべて記載があった。

 その三つすべてに共通するのは、いずれも死体に関わる点である。

 陰摩羅鬼は人の死体が発する黒不浄の穢れから生まれる存在、以津真天は死体があるところに現れる存在、羅刹鳥は死体の穢れが染みついた場所で発生する存在だ。

「……? いや、でもこれどれも違うと思います」

「どうしてだ?」

「まず一番は羅刹鳥。これ確か人に化けて目を抉る妖怪でしたよね。言っちゃ悪いけどあいつの交友関係なんてたかが知れてるから、化けるのは俺かもう一人ぐらいしかないですし、そうなると多分普通にあいつ気づきます。もし仮に気づかなくて襲撃されたとしても、目は無事で腕だけやられたことに説明がつきません」

 二つ目に、陰摩羅鬼のページを指さした。

「陰摩羅鬼に関しては、現在は結々祢さんを主導にして、完全撲滅に向けた動きがすでに数年前から行われてます。呰見市なんかは真っ先にマニュアルが配布されたりとかで、呰見とその付近の地域では基本的にもう新たな陰摩羅鬼は生まれないです。仮に生まれても、反応に引っ掛かってすぐに退魔師の人や祈祷師に連絡がいきます。そうなれば俺にも招集がかかると思いますが、今のところそういった連絡はゼロです」

「なるほど。なら以津真天はどうなんだ」

「……ぶっちゃけると、以津真天は前二つとは別格です。羅刹鳥や陰摩羅鬼と違って、以津真天については明確に討伐記録がある。それはつまり、記録として残されるほど討伐は難しいってことです。一三三四年に一度目の討伐があって、そののち何度か表舞台に出てきたんですけど、五百年前の討伐を以て完全に現世に出てくることはなくなりました。……その討伐及び裏側への縛りを行ったのが、俺のご先祖様です」

「………………………………………………………………………………………………………………………………マジ?」

「大マジです。なんなら今度文献持ってきましょうか。まあそういうわけで、以津真天が表舞台に出てくる可能性はほとんど無いです。以津真天が自力で出てくるのは絶対に不可能なので、もし現れたとしたら誰かの手引きなんでしょうけど……そんなことしても、メリットなんて無いですし」

 ……三つとも違う。振出しに戻ってしまった。

 桐島はパラパラとページを捲っている。しかし目ぼしい情報は見つからなかったようで、彼の顔が晴れることはない。

「幽霊、は絶対ないな。とすれば呪物……? 鳥と黒不浄に関わる呪物なんてあったか……?」

「……今思い浮かんだのは『ジンカン』なんですけど、あれ別に鳥は関係ないんですよね。死体の髪毟ってたカラスはいましたけど。むしろ敵対してますし」

「…………………………あー、くそっ、やっぱ目が痛い。ちょっと眼鏡とコンタクト外すわ」

 やはり眼鏡とコンタクトを通して文字を読むのは相当きつかったのだろう。目を押さえながら眼鏡を取る。慣れた手つきでコンタクトを外して、ぱちぱちと慣らすように数度瞬きした。

「……大丈夫ですか」

「問題ない。ここには何もいない。……やっぱりお前はいいな。綺麗だから目に入っても疲れない」

「はあ。それはどうも」

 これは外見的な意味合いというよりも、内面的な意味だろう。無論、性格という意味でもない。以前結々祢が言っていたように、泡沫時雨の体内では流麗な霊力が循環している。

 外した眼鏡とコンタクトを机に置いた桐島は、制服のポケットに入れていた髪留めで適当に前髪を上げた。

「……ああ、やっぱりここが一番楽だ。お前さえいれば、変なもんも近寄らないし」

「……、部長も、俺と同じような事、やろうとか考えてるんですか?」

「あ? いんや無理。僕にその手の才能は無いし。普通に大学行くつもりだ」

「…………………………論文、俺の上司が言及してました」

 適当に置いていたペットボトルのお茶を飲もうとした桐島の手が止まる。少し苦々し気な顔になったかと思うと、やがてキャップを閉めながら気まずそうに顔を逸らした。

「……お前の上司ってアレだろ、真宮家の長女様」

「そうですね。結々祢さんです」

「その道のプロに見られたのかよ」

「でも結構いい反応だったらしいですよ。部長のことスカウトしたいとか言い出したらしいですけど」

「だろうな。こないだ来た」

 え、と素っ頓狂な声を上げる時雨。

 桐島を見るその瞳は、驚き八割期待二割といったところだろう。それを正しくくみ取った桐島は、それを否定するようにひらひらと手を振った。

「保留してもらったよ。どの道受験あるしな。いくら補佐って言われても、少なくとも来年の春までは時間的に無理」

「……じゃあ、いつかは俺と一緒に仕事できたりします?」

「…………、お前別に僕いなくても大丈夫だろ」

「部長がいれば絶対やりやすいので」

 本心だ。

 怪異案件のもっとも労力のかかる部分はその正体を看破することであると言っても過言ではない。この現象が、この人死にが、何に由来するものであるかを掴めないことには対策など立てようもないからだ。最も、真宮結々祢や泡沫時雨は圧倒的な手数を以て、その場で臨機応変に対応している節があるのだが。

「例えば幽霊案件であった場合、そもそも討伐すべき幽霊個体が視認できないなんてざらですよ。俺や朱梨はある程度見えますけど、でも粒子の結合を一時的に解かれたらそれこそ見えません。人間が空気中の水分を視認できないのと同じです」

「けど、僕ならそんなのお構いなしに識別が可能、ってことね。まあ僕の有用性はなんとなく把握はしてるけど、だからってお前たちみたいに進んで怪異案件に突っ込んでいくのもちょっとな」

「そこをなんとか」

「しつこい。かわいい後輩からかわいくない後輩にグレードダウンするぞ」

 やめたやめた、と鬱陶し気にする桐島。

 ……まあ、そこまで言うのなら無理強いはできない。

 潔く諦めた時雨は、当分は自分の目を頼りにしていくことにする。桐島の言う通り、彼がいないとどうにもならないという場面は今のところはそう多くない。

 まあいつか結々祢さんに雇われたときに存分に頼らせてもらおう。

 その時は立場的には同僚になるな、とふと時雨は考えた。


 泡沫時雨の怪異対応は、一応名目上はバイトという形になってはいるが、実際のところは真宮結々祢直属の部下といった立ち位置の方が正しい。

 真宮家現当主の結々祢が統括する対怪異職、それに従事する人々は、その多くがフリーであったり別組織に所属していたりといった形で、結々祢直属の部下というのは非常に少なく、現状は時雨を含めて二人のみである。

 全国に散らばる対怪異職の名目上の拠点として、各地方に『対怪異派遣所』といった形で所属地が定められており、結々祢や時雨が所属しているのが『対怪異派遣所呰見本部』、場所としては真宮家だ。

 例をあげれば夜蔵蒼なんかは、呰見に近い場所に活動拠点を置いていることから呰見本部所属にはなっている。ただし名前を置いているだけで、実態としてはフリーの除霊師だ。要は、この派遣所の情報はは『この地域には除霊師/退魔師/浄化師/祈祷師がこの程度いますよ』、といった指標に過ぎないのである。

 ……話は逸れたが、つまりは数少ない真宮結々祢直属の部下の立ち位置に先輩が入るかもしれないという希望に少しウキウキしているだけだ。


「……ところで」

 話が一段落したところで、桐島がふと思い出したかのように口を開く。

「? どうしました?」

「この部活の話。僕ももうすぐ受験だから、とりあえずは今日を締めにしとこうと思ってる。そんでだが」

「えっ待ってください急に言わないでくれませんか? 俺なんも贈り物考えてないんですけど」

「気使わんでいいしそれは卒業式の時でいいんだよ。で、ここ。結界の管理。お前に頼んどけば大丈夫?」

 そう言いながら、桐島は教室のドアを指差す。

 桐島曰く、ここの空間は数年前から保たれているらしい。数年に一度メンテしないといけなかったため歴代の部員、あるいは顧問が定期的に整備、管理を行っていたのだが、今回は時雨という適役がいたためすべて任せるつもりだったようだ。

 とはいえこれくらいであれば苦ではない。

「わかりました。解析ついでにメンテもしておきます。……となると、しばらく空間閉じたほうがいいですね。入れないようにしておきますし、その旨朱梨にも伝えておきます」

「ん。緊急の避難所として使えないのは痛手だけど、まあ仕方ないな」

 そんじゃ今日はこれでおしまい。

 そう言いながら桐島はファイルを棚に戻して、呪術全書をカバンの中に滑り込ませる。今日はもう帰るらしかった。

「今日は先生も来ないし、僕もちょっとは勉強しないとだしな。空間の維持については全面的にお前に任せるから、後はよろしく。お前も遅くならないうちに帰れよ」

「はい、先輩も気をつけて」

 ガラガラ、と扉を引いて出て行ってしまう。

 残された時雨はまだしばらくここに残るつもりのようで、帰る用意をするそぶりはなかった。

(……本当、異空間なんだよな、ここは)

 窓の外を見る。

 未だ続くはずの雨模様はここでは兆しを見せず、ただ窓外には見惚れるような眩しい夕焼けの空が広がるばかり。夏であろうが冬であろうが、どの時間帯であろうが変わることのないこの空だけが、ここを別レイヤーの世界であると認識させてくれる。

 半分、時間が止まったかのよう。

 浄化しきったこの空間は、符を量産するのにもってこいの場所だ。

 せっかく誰もいないんだし、と、時雨は一人で黙々と符を書き続けるのだった。



 ◇



「……あら、奇遇ね。時雨さんとこんなところで会うなんて」

「? 何をしているのかって?」

「ふふ。お墓参りじゃないわよ。もちろん墓荒らしをするつもりもありません」

「ただの様子見。警戒、って言った方がわかりやすい?」

「なにかいたわ、ここに。もういなくなっちゃったようだけど」

「……ほら、わたし、死体愛好家ネクロフィリアでしょう? 死体が傷つけられるの、嫌いなの。だからここで見張り」

「……? 危なくないわよ。わたし、これでも強いもの。……あ。ふふ、こんなこと言っちゃだめね。ちょっぴり怖いわ、なんて」

「まあいいわ、きっとこの会話もすぐ忘れるでしょう。あなたも、こんな真夜中になんて訪れてないで、はやく帰りなさいな」

「……まって」

「暗くてよく見えなかったけど、……。」

「時雨さん」

「気をつけてね」

「死相が出てるわ。まるでもうすぐ死にそう」

「死んだらやあよ。気をつけてちょうだいね」 



 ◇



 九月二十日。

 寝起きの頭でカレンダーを確認しても、今日が何の日かくらいはすぐに気づく。基本的に朝は弱いために何も考えきれないのだが、流石に十六度目の行事となれば否応なしにわかるものであった。

「…………ああ、今日は誕生日か……」

 朝十時のアラームを解除しながら、時雨は寝ぼけまなこで日付を確認した。ついでに通知欄にある『いつでもいいから今日うちに来い』という親友からのメッセージにもしっかり返信して、ようやくのそのそと身体を起こした。

 尋常じゃないほど頭が重く、正直立ち上がりたくはない。しかしこれは病気でも何でもないので、身体に活を入れて無理やり立ち上がった。

(……調子乗って暗算しすぎた)

 昨日なかなか寝付けなくて、暇つぶしに何桁まで暗算で計算できるかという意味のないチャレンジを実行していたのだが、その脳の負担のツケが回ってきたようだ。自業自得なので何も言えない。確か十五桁にいったあたりで寝落ちしたような気がする。


 よろよろと着替えていると、布団の上に置いていたスマホが音を立てて震えた。画面には真宮結々祢の文字が表示されている。服に袖を通しながら拾い上げてすぐに通話を開始した。

「はい、泡沫です」

『時雨君か。悪いが急な仕事だ』

 む、と少し眉をひそめた。結々祢の声がいつも以上に真剣な声音だったからだ。

「……何かあったんですか」

『いや、現状は何もない。……何もないと私は認識している』

「はい? ……つまり、結々祢さんの認識外で何かが起こったと?」

『そういうことだ。いいか、今の私の記憶の中に不自然な空白部分がある。おそらくは、君にもあるだろう。心当たりは?』

「……」

 寝起きの脳に喝を入れて、必死に記憶を巻き戻す。昨日の夜の記憶、金曜に部長と話した記憶、水曜日に朱梨と話した記憶、           先週の金曜の記憶、……

 土曜と日曜は、何をしていた?

「……あり、ます。この間の土日のことが、何も思い出せません」

『そうか。おそらく、そこで今回の怪異に関わったのだろう。一切の記憶に残らないから対処のしようがないと思ったが……わかるな? おそらく、今日だ』

 はい、と小さく答える。

 相変わらずの雨であるが、今日だけは違う。まるで水の中にいるかのような空気の重さと、反響のなさ。ただの湿気のせいではない。雨に穢れが混じっているかのように、空間全体に重々しさが蔓延していた。

 全身の神経がピリピリと異常を警告している。

『明日だったらよかったんだがな。あいにく今日は私は呰見を離れなくてはいけないし、呰見神社の神主さんも手が離せないとのことだ。氷雨さんはまだ当分帰れないと聞いているし、確か麗華さんも不在だっただろう』

「はい。実家のほうの集会に呼ばれたとかで、昨日から出かけてます」

『深雪ちゃんは』

「昨日から伯父さんのとこです」

『なら大丈夫だろうな。……おそらく、君にとって最も規模の大きい怪異になると思う。ひとまず君に任せるが、無理や無茶はしないように』

 しとしとと雨音が聞こえる。

 机に置きっぱなしの符が、湿気を帯びてしまっていた。

「―……結々祢さん。今日の怪異って、『リョウメンスクナ』が関わっている可能性はありますか」

『……あるだろうな。依然として『リョウメンスクナ』の反応が近辺で確認されている。正確な位置は掴めていない。だが、そうなると少なくとも怪異は複数あることになる。『リョウメンスクナ』に人の記憶をどうこうする特質はない。する前に呪い殺してしまうからな』

 その言葉を聞いて、うげ、と顔をしかめる時雨。

「……俺に、『リョウメンスクナ』をどうこうできるほどの力は無いですよ。第一、近づくなって言ったのは結々祢さんじゃないですか」

『そうだな。今回の怪異、仮に『リョウメンスクナ』と思わしき箱が確認された場合は、君は絶対にそれに近づかずに付近の怪異の対処を頼む。もしそのような箱が確認できない、あるいは怪異の原因を発見した場合は速やかに討伐、浄化してくれ。抜刀許可も出す』

 最後の言葉に、思わず時雨は手に持っていたスマホを落としそうになった。すんでで防いだが、時雨の眼は驚きで見開かれている。

「ばっ……⁉ 正気ですか、街中ですよ⁉」

『人除けの術ぐらい使えるだろう。君の特異的な符術も評価しているが、君の一番の強みは一家相伝の剣術だろう? 大きな案件なんだ、使わない手はない』

「……市街戦なんて初めてですよ、俺。うまくやれるかわかりませんけど……まあ、死なない程度にやってみます」

『それでいい。こっちもできるだけ早く案件を済ませて呰見に戻る。……ああ、忘れるところだった。呰見神社にいる巫女だが、あいつも退魔師だ。訳ありで公に出てこれないが、神社内で話をすることはできるだろう。一度、呰見神社に寄っておいたほうがいい』

 それじゃあな、と一言言って、ぶつりと電話が切れる。


 そのまま立ち上がって、薄暗くなった居間を出る。

 廊下も薄暗い。


 降水連続日数は二十日を突破した。

 もう見飽きた曇天を眺めて、その空を睨み返した。

 空に大きな目がある。誰かからこの街が監視されている。根拠のない錯覚が、今はこの上なく不気味に思えた。



 ◇



「誕生日おめでとう」

 そう、簡素に一言だけ告げられて、強引に部屋に引き込まれた。

 小雨の中をまた歩いて、街外れのマンションの十四階まで来たのだが、玄関の靴を見る限り今日も朱梨の部屋に優里菜が来ているらしい。朱梨の後を追って急いで靴を脱いで、そのまま廊下を突き進んで奥の部屋に行く。

 入った途端に、目に飛び込んできたものが一つ。

「……作ったのか、このケーキ」

「まあな。私ひとりじゃ心もとなかったから、優里菜にも手伝ってもらったけど」

 いつものローテーブルの上に、三人で食べても余りそうなホールのチョコレートケーキが置いてあった。

 精巧にできているが、若干形が歪であるあたりに手作り感が出ている。

「時雨さん、甘いものならいくらでも食べられるでしょう? わたしと朱梨さんで腕によりをかけて作ったの。ちょっと歪んじゃった気がするけど、味は多分問題ないわ」

「ありがとうございます」

 軽く礼を言って、指定された席に座り込む。ちょうど零も出てきてるようで、ふわふわとクラッカーを浮かせていた。

 お皿が四枚。食べられないとはいえ、ちゃんと零のぶんも切り分けてやるつもりらしい。台所から適当に持ってきた包丁で朱梨がケーキを八等分して、各々の更に一切れずつのせていく。ろうそくの類は用意してないらしい。

「今日はお前の家族みんないないって言ってたしな。私らで祝っちまって問題ないだろ」

「ふふ。時雨さんももう16歳なのね」

「……言うほど歳変わらないでしょう?」

 そう返してもうふふと笑うだけ。

 これ以上の言及は諦める。パンっとクラッカーの音が響いていた。相変わらず無表情の零は、それでも心から祝ってくれているらしくテーブルの隅のこっくりさんシートの十円がせわしなく動いていた。

『じゅうろく うらやましい わたしとししたになっちゃった』

「……まあ、幽霊は年とらないしな」

『こうこうせいのじてんでうらやましいけどね いいじゃん きょうはごうほうてきにひとのかねでけーきがたべれるよ』

「言い方」

「まあそういうこった。今年のプレゼントはこのケーキってことで。私持ち金少ねえしさ」

「ふふふ、朱梨さんの浪費癖がもう少し落ち着いてくれてたらもっと豪勢にできたのかもだけれどね?」

 それに噛みつく朱梨と、笑って受け流す優里菜。

 二人を意に介さず、ケーキに興味津々になっている零。

 そんな三人の様子に、噛みしめるように緩く微笑んだ時雨は、切り分けられて差し出されたケーキを一口、口に含む。

 ……うん。甘くておいしい。


 ざあざあと降り注ぐ雨の音ばかりが耳に届いている。

 それは少しうるさかったけれど、それでも三人と一人の会話を邪魔する程でもない。いつの間にか零の分のケーキはどこかに消えていた。それを朱梨に言うと、ままあることだと返ってきた。

 こうして友人たちに祝われるのは純粋に嬉しい。

 いつもは怪異ごとに没頭しているから、こうして何事もなく友人たちと遊ぶことは、実は思ったより少なかったのだ。

 からからと笑う朱梨の姿も、淑やかに微笑む優里菜の姿も、無表情ながらにどこか嬉し気な零の姿も、時雨にとっては全部大切な存在で。

 ……幸せだな、と心の片隅で味わうように呟いた。


「……まって」

 ぴり、とひりつくような空気で目が覚めた。

 珍しく笑みを消した優里菜が、まるで何かあるかのようにベランダの外を見ている。翡翠の瞳にはいまだ大粒の雨しか映らないが、それでも何かが来る予感がしていた。

 ざあざあ。

 ざあざあ。

 雨はちっとも弱まらず、呰見全体を霧で霞ませていた。

 ……。

「――……そう」

 優里菜がふらりと立ち上がったと同時。


 ――ガンッッ!!


「……ッ!?」

 ベランダの柵に何かが引っ掛かる。

 随分と大きなそれ。

 音からして結構な重量があるもの。

 思わず零は姿を消してしまって、咄嗟に立ち上がった朱梨と時雨はすぐにそれを目にすることになる。


 ――……これは、そう。

 二人にはとても見覚えのある顔、で。


「――……空宮ッ!」

 空宮霞。朱梨のクラスメイト。二人にとっては小中高を共にする女の子。

 血の気が引いて虚ろな表情をするそれは、一目見ただけで生気がないと直感する。咄嗟に時雨はベランダに飛び出て、朱梨は立ち尽くしたままだった。

 触れる肌は酷く冷たく濡れている。

 雨に混じるように落ちてきたそれは、

              /どこかでこのようなことが、

 死因はどこにも見当たらず、ただ呼吸だけが止まっている。

              /見知らぬ事象のはずなのに、既視感を覚えている。


「――……ッ、」

 ポケットの中に入れていた、ラミネート加工で簡易的に防水した符を空に投げ飛ばす。一切の迷いなく空気を切り裂いて飛んだそれを焦る気持ちで見届けて、時雨はその死体をゆっくりと横にした。

 一秒、二秒、三秒、それがどれほど遅いことか。

 祈るように彼女の冷たい手を握って待っていて、


 ――やがて、ざざ、と視界が揺らぐ。


「……違う。これは、空宮じゃない」

 を目の当たりにして、ようやく結論付けられた。

 これはただの偽物である。それを確認して、ようやく時雨の肩の力が抜けた。室内で立ち尽くす女の子二人にもそう告げようとして、

「――……」

 振り向いたときには、血相を変えた朱梨が、玄関の方へと走っていっていた。

「ッ、待て朱梨!」

 思わず彼女の背を追って、時雨も飛び出す。

 優里菜は着いてこなかった。

 呆然とする、というよりは見惚れているのだろう。彼女の性質を考えれば当然の仕草だったから、時雨は迷うことなく朱梨のほうへと足を向けた。

 もう玄関を飛び出て外へ出てしまっている。

「待て、待て朱梨! アレは空宮じゃない! 空宮は無事だ!」

「んなことわかってる! 問題なのはそこじゃねえ!!」

 エレベーター前で彼女の腕を掴んで、大声で引き留める。てっきり霞と仲のいい朱梨はこれにショックを受けて動揺していると思ったのだが、どうやら違うらしい。恐れ、混乱、動揺、焦燥。彼女らしくない表情ばかりが浮かんでいる。

「そこじゃない、って……どういうことだ」

「どうもこうもねえ、霞の死体が降ったってことは他にも誰かの模倣死体が降るかもしれねえってことだろ!? だめ、それだけはだめだ、ッ!!」

 まるで叫ぶような大声。

 ざあざあと降り注ぐ雨の音に混じって、時折聞こえる不快な落下音。

 薄暗い空気はさらに沈殿し、滲む穢れはじわじわと濃度を上げている。

 それらすべてが気にならないほどに、時雨は朱梨の言葉を考え続けている。

 エレベーターが14階に到達する、その直前に。


「朱梨さん」


 いつの間にか、優里菜が廊下に立っていた。

「朱梨さん、もう行くの」

「……行く。これは駄目だ。私が止める」

「そう。頑張ってね、健闘を祈っているわ」

 小さく手を振ってお別れを済ませる。

 優里菜は朱梨のこの先を見透かしているようで、それでも止める気配はない。

「時雨は優里菜といろ。気色悪いだろうけど、コイツのそばが一番安全だ」

「な――馬鹿言うな、一人で行かせるわけないだろ!?」

「いいから! 私はこの現象に心当たりがある、けどそいつの前に立つのは私だけでいい、親友のお前を巻き込みたくない……!」

 だからお願い、と、らしくもなく弱弱し気な声音で懇願する朱梨。

 彼女にとって知られたくないことの根幹に深く関わることなのだろう。伏せた目は揺れていて迷いがあって、それでいて決意めいたものも見え隠れしている。

 やがてエレベーターが到着した音がして、扉が開く。

 朱梨は時雨の腕を振りほどいて、一人でその箱の中に乗り込んだ。

(――……やれる。一人でも、絶対)

 視界はあげず、エレベータの中のボタンを押す。

 恐怖はあるけど覚悟はできた。

 もう動かない右腕は不便だが、これがどうというわけでもない。

 彼女の心を閉ざすように、エレベーターの扉が閉まっていって、


「――待て」

 ガッ、とその扉が押さえられた。

「ッ……!」

「お前の言い分はわかった。逆の立場なら、俺もきっとそうしてただろう。

 ――だから、ここから先はお前の親友としての泡沫時雨じゃなくて、として同行する。

 このような悪質で大規模な怪異案件は見過ごせない。

 嫌と言ってもついていかせてもらうぞ、

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