死体の雨 ② 忘却/発狂

 そして夜が明けた。

 時刻は午前八時。三人全員がのそのそと起き上がる頃には、外の雨はしとしととした小雨になっていた。

 優里菜が作ってくれた朝食を食べているうちに、ようやく時雨の頭は覚醒しだしたようで、ずっと無言だった彼もぽつぽつと話し出すようになった。時雨は基本的に朝は誰よりも弱いので、大抵無言のままが多い。今日は優里菜がいるから頑張って起きようとしているようだ。

「……優里菜さん、そのケチャップ取ってくれませんか」

「これ? 時雨さん、まだ寝ぼけてるのね。これはケチャップじゃなくてジャムよ」

「ゆりなぁ、悪いけどどこに何があるかわかんないからとりあえずフォーク握らせて……」

「もう、暗い中ずっと画面見てたからよ。はい」

 時雨はまだ寝ぼけまなこ。

 朱梨はブルーライトの見すぎで目をやられる。

 そうでなくとも基本的にこの二人は比較的夜型なので朝はめっぽう弱い。完全に覚醒しきっている優里菜はこの二人の惨状にため息を吐いた。

 もそもそと食べているうちに、ふと朱梨が思い出したかのように今日のスケジュールを言った。

「……ああそうだ。時雨、今日はちょっと出かけるからついてこい。優里菜はここにいて」

「わかった。まあ昨日に比べて雨も弱まったしな」

「わたしも大丈夫よ。雨に濡れたくはないもの」

 予定を告げたところで朝食を食べ終わった。

 そのまま食器を流しにまで持って行った朱梨は、さっそくといった感じに赤いパーカーを羽織り部屋を後にした。連日の雨のせいで太陽が顔を出しておらず、例年に比べかなり気温が下がっている。この街で外出時に半そでを着ている人はかなり少なかった。

 食べ終わり食器を下げた時雨も、窓の近くに干しておいた上着を着て玄関のほうに向かう。特に何もいらないとのことなので、スマホと財布があることだけ確認して朱梨の後を追った。

「……あ、そうだ優里菜」

「どうしたの? お願い事?」

「まあそんなとこ。ここからでもお前の部屋からでもいいから、下の様子を見といてほしい。あと、気になることがある。今日はこのまま上にいてくれ」

 そう言って、朱梨は窓のほうを指差した。

 未だ雨の降っているこの街は、遠くのほうは霞んでいて見えそうにない。今の朱梨の頼み事は一見意味のないもののように思えた。

 しかし優里菜はそれにも関わらず、ふっと微笑んで了承した。

「わかったわ。朱梨さんも時雨さんも、気を付けてね」

「ああ。腹減ったらなんかあるもん食っていいから」

 お気遣いありがとうね、と言いながら小さく手を振る優里菜。それに返して玄関を出た朱梨と時雨は、互いに何も言うことなくエレベーターのほうへ向かって行った。


 エレベーターは三階にいるようで、昇ってくるまで少々時間がかかった。

「……で? どこに行く気だよ、こんな雨の中」

「まあちょっと調べ物。バイク使っていろいろ行くから」

「マジかよ、俺帰りたい」

「流石にこんな雨の中荒い運転はしねえって」

 軽口を叩いているうちに、エレベーターの扉が開いた。相変わらず人はいない。若干の湿気を感じる空間が不快感を煽る。箱の壁に寄りかかった二人はしばし無言であったが、急に思い出したかのように朱梨が声を上げた。

「……わりい時雨。やっぱ徒歩だ」

「どうした? 今言われても傘持ってきてないぞ」

「折り畳みがバイクの中に二つぐらいあったからそれで行こう。……いや、考えてみればお前用のレインコートなかったなって思い出してさ」

「なるほどな。流石にこの雨の中レインコートなしは無理だ」

「だよな。……と、するとだ。結構歩くことになるけどいいな?」

 大丈夫だ、と時雨が返したところでエレベーターホールに到着した。昨日の冠水の跡が残っていて、床は若干汚れが残っている。

 そのまま裏口に回った朱梨は、そこから近い屋内型駐車場へと向かった。基本的にマンションの駐車場にはバイクは停められないのだ。仕方がないので最も近くにあった月極駐車場と契約しているのだが、今回はそれが功を奏したようだった。もしマンションの駐車場に停めていたら、きっと昨日の冠水でどこか壊れていただろう。

 走ってすぐのところにある屋内型駐車場に入った朱梨と時雨は、奥の方に停めてあった朱梨のバイクの収納スペースから小さめの折り畳み傘を取り出した。

「……バイクに折り畳み傘入れてるってどうなんだ?」

「正直使わない。けど、下降りてきて傘忘れたって時のために置いてる」

 ふうん、と納得して、二人は傘を差して街の方へ歩き出した。

 雨は未だにしとしとと降り続いている。

 気が滅入るほど見飽きた曇天の空には、澄んだ青は一片たりとも存在していなかった。



 ◇



「病院。そのあたりに行ってみよう」

 車の通りの多い大通りを歩きながら、一先ずの方針を口にした。

 ビルの上の電光掲示板では、ちょうど天気予報が流れていた。この先一週間もずっと雨らしい。憂鬱だなと思う反面、去年の東京の夏に比べればマシだという思いもこみ上げてくる。たしかあれは三十二日連続だったか。そう考えれば、二週間ちょっとなど足元にも及ばない。

 地面に広がる多くの水たまりを器用に避けながら、この街の総合病院に続く道を歩いていた。

「病院って言ったら呰見総合病院くらいしかないけど、そこに行くのか?」

「ああ。怪異云々ぬきにして、ちょっと様子を見たいことがある」

「……知人か?」

「そう。ついでに霊安室にでも忍び込もうか」

「やめろ馬鹿」

 こつんと軽く朱梨の頭をたたく。朱梨は冗談だよと笑った。

 実際冗談ではあった。八割ぐらいは。

 残り二割は本気だった。そこまでするぐらいには、今回のことについて調べたい気持ちはあった。今日は日曜日で、明日からはまた学校がある。まとまった時間が取れるのは今日くらいしかないのだ。

 しかしなぜそこまでするのかと、時雨はふと疑問に思った。確かにこれが本当の死体だったのなら大惨事もいいところだが、彼の目にはどうにもそれに危険性を見いだせなかったのだ。

 ただそこにあるだけの死体。

 精神的な汚染も特にないそれは、言い方は悪いがただの肉塊でしかない。優里菜ならともかく、朱梨が動く理由がいまいちわからなかった。

 その疑問を読み取り、朱梨は首を振りながら答えた。

「……なんか、嫌な予感がするんだ。このまま放置してたらヤバいことになりそうな感じでさ。だからできるだけ手は打てるようにしておきたい」

「そう、なのか?」

「そう。というか、お前の様子からしてもうただ事じゃないってわかる」

 その言葉に、時雨は立ち止まった。

 雑踏とは言い難いほどであるため、通行の邪魔には特になりはしない。

 彼の数歩先でくるりと振り返った朱梨は、久方ぶりに見せる無表情で彼を見た。

「……それは、どうしてだ」

「簡単だよ。お前、この状況に警戒できてないだろ」

 そういわれて、初めて気づいた。

 時雨はこれまで一度も、死体が降るという状況に警戒心を抱くことはなかった。エレベーターホールでのことも、あれは死体そのものよりも、それがすぐ消えたということの方に警戒心が行っていた。総じて、彼の高いはずの警戒心が死体に向いたことはなかったのだ。

「お前は精神的に異常をきたしてるわけじゃない。そこらの一般人と変わらないはずだ。なら、少なからずこの状況を異常だと感じて警戒するはずだけど、今回に限ってそれがない。多分な、してないんじゃなくてできないんだ」

「それってつまり、」

「ま、端的に言うとヤバいってこと。もっとも障害となりうる人物に気づかせないようにするって手法、一番理にかなっているけどかなり難しいぞ」

「そう、か……いや、本当に気づかなかった」

「安心しろ、多分お前だけじゃない。あの現象にはおそらく『無害である』という精神的な刷り込みを行う力があるんだろ。……こう言ってる私も、ちゃんと意識しないと警戒できてない」

 警戒できないということは、その現象についての観察眼が鈍ることと同義である。

 それに予想外の攻撃を受けることだって考えられる。普段であれば対怪異には有効打である泡沫時雨だが、今回ばかりは頼れない。警戒心を消されたことで、『何か起こった後』にしか動けないのだ。ほぼほぼ無力化されたようなものだった。

「……悪い。これじゃ祈祷師失格だ」

「落ち込むなよ。ひょっとしたら真宮結々祢だってこうかもしれないぜ。……お、見えてきたな」

 呰見市を分断するように流れている川の向こうに、かなり大きな建物が見えた。目指していた呰見総合病院である。

 大きな橋を渡る。下の川は濁った濁流で、落ちればひとたまりもない。このまま昨日のような大雨が降れば、氾濫する可能性も高そうだった。


 橋を渡り切った先に総合病院があった。

 屋根のある所に入って、傘を閉じた。小雨といえどもずっと差していれば大量の水滴になる。バサバサと水気を払って、朱梨はまっすぐエントランスへと入っていった。時雨もそれについていく。

「……見舞いらしいけど、誰なんだ?」

「……妹。そういやお前は会ったことなかったな。ついてくるか?」

 慣れた態度で受付に進む。

 かくいう時雨もこの病院には時々お世話になっていた。真剣を使う稽古の時は十中八九切り傷ができるからだ。そして一度ここで大きな手術を受けたことだってある。双方にとって割と身近な場所だった。

 朱梨は手早く受付を済ませた。それについていこうと思っていた時雨だが、不意にポケットの中に入れていたスマホが震えて立ち止まる。

「っと、悪い。ちょっと電話してくるからお前一人で行ってくれ」

「おう、わかった。じゃあな」

 流石に病院内で電話するのは憚られる。

 時雨は朱梨と別れて、病院の外の屋根のある場所で電話を取った。

「もしもし」

「……」

 しばらく無言が続いた。

 相手の名前を確認する前に電話を取ってしまったために、向こうが誰だかわからない。眉をひそめていると、ようやく声が聞こえてきた。


『あ、時雨か? 今どこにいる?』


 ―それは、先程別れたはずの朱梨の声だった。


「……………………優里菜さん、何してるんですか?」

『あらつまんないの。そこは少しぐらい乗っかってくれるところじゃないの?』

「悪いんですけど朱梨は今病院です。それに今さっき別れたので、電話かけてくるはずないですから」

 用がないなら切りますよ、と言うと、ごめんなさいと悪びれていない声音で謝られた。

 完全に朱梨の声であったが、時雨はこれが優里菜の仕業だとすぐにわかったらしい。知り合いでこのようないたずらをする人は優里菜くらいしかいないというのもある。

「……で、何の用ですか?」

『そうそう。わたし、ずっと下の様子見てたのだけれどね。気づいたことがあったから、忘れないうちに伝えておこうと思って』

「気づいたこと、ですか?」

 眉をひそめて、続きを促した。

 いつの間にか雨足がまた強まってきたようで、雨の音で聞き逃さないように電話の向こうの声に集中させた。病院に入る前は小雨程度だったのに、今はもうすっかり本降りになっている。帰宅するのに少々骨が折れそうだ。

『そう。長くなるけど、時間はあるわね? まあ、大丈夫みたいだけれど。まず最初に、朱梨さんが見つけた死体のことからね』

「溶けて消えたやつですね。あれ、なんなのかわかったんですか?」

『わかったわけじゃないわ。ただ、あれは人為的なものだってだけよ』

「……人為的?」

 思わず鸚鵡返しに言った。

『そ、人為的。わたしも朱梨さんも現象って思っていたけど、どうにも感覚的に違うのよね。ほら、あなただって天然物と人工物では明確に違うって感じるでしょう?』

「ええ、まあそれはわかりますけど」

『だから、それを念頭に置いて考えてみたの。人が意図的に引き起こしたものなら、きっと範囲の限界があるはずよ。……案外近くにあったわ。このマンションのすぐ傍、道祖神の跡地付近が境界線ね。流石にそれ以外はわからないわ。気づいて急いで街側を見た途端に大雨になったもの』

「え、ちょっと待ってください。優里菜さん、そういう結界のようなものって見えるんですか?」

『んー……これも結界といえば結界なのかしら? まあそうね、あなたのおうちのも見えたもの』

 ああ、と思い出した。

 七月に優里菜を家に招いた時もこのようなことを言っていた。並大抵の少女ではないのだとわかっていたはずなのだが、時雨の目にはどうにもただの女の子としか映らないのだ。

 そんなことは露知らず、優里菜はさらに言葉を続ける。

『さらに言えば、この雨も人為的なものの可能性があるわ。死体も、この雨に紛れるように降ってきたんだもの。どう、時雨さん。この雨が途切れてる場所ってある?』

「今のところはわかりません。……でも、雨を降らせるってかなり高度なことじゃないですか? 一番有名な『雨乞い』という行為だって、あれはいわば神様に頼み込んでるようなものでしょう。人の力で天候を操るなんて、」

『そうね。でも、もし仮に、それが可能な人物がいると仮定したなら。

 ―こんなことをする目的は、一体何なんでしょうね?』

 これが、最大の謎だった。

 数週間続きの雨を降らせ、それに交じって死体を降らせる。あるいは生成させる。これを行うことで得られるメリットが、常人の時雨には到底思いつかなかった。

 さらには、ここまでのことを行う人物についても心当たりがない。朱梨が『ただ事でない』というほどであるのだから、これが悪意を含んだものだとはわかるものの、時雨の知り合いにはこのような人物は一人もいない。

『……ねえ、朱梨さんはそばに居る?』

「いや、まだ戻ってきていないです」

『そう。ならもう少しお話ししましょうか。ねえ時雨さん、もし仮にあなたがこの現象を引き起こした元凶だったとしたら、あなたは何のためにやると思う?』

「自分が、ですか。……世間を混乱に陥れて、その隙に何かを実行するため、ですかね。いや、でも今回のこれはそうじゃない気がします。ただの陽動なら、朱梨がここまで警戒することはないですから」

 そう、朱梨がこうして動いているのは、直感的に現象が危険なものだと感じ取っているからなのだ。これが人々の目を欺くためだけのものならば、不思議に思いはしてもここまで深追いしようとはしない。故に今回は死体自体に何らかの意味合いがあると考えた方がいい。

「とすると、死体を降らせること自体に意味がある……例えば誰かの死体が欲しかったからとかですかね」

『そうね。わたしもそっちを考えたわ。じゃあその動機がある人は誰なのかしら』

「……優里菜さん?」

『うーん、確かにわたしもそうだけど、流石にこんな回りくどいことしないわ。大抵の人はちょっとお願いするだけで死んでくれるもの』

 無論、時雨の今の言葉は冗談のつもりである。

 しかし今の推理は少々強引なものだ。

 死体が欲しかったから死体を降らせるのはそこそこ理にかなっているとは思う。しかしそもそも、死体が欲しいのなら殺せばよいのだ。このような大がかりな仕掛けを用意しなくとも、目的の人物の息の根を止めてしまえばそれですべて済むのだから。

 そうなると、『死体は欲しいが手は汚さない』という信条の優里菜がますます怪しくなるのだが、時雨の目から見ても優里菜は、ここまでのことができるほど強大な能力を持っているようには見えない。よって白だ。

『……でもそうね。わたしの見立てだと、この術が完成するのはあと一週間ってところかしら。今日何もできなかったら、完成まで待ってみるっていうのも一つの手なんじゃない?』

「……今日で駄目だったらとは?」

『うふふ。だって時雨さん、多分何も抗えないと思うわよ。朱梨さんも望みは薄そうだし、わたしもここにいるだけで薄れていってるもの』

「ちょっと待ってください。いったい何の話をしているんですか」

『明日になったらわかると思うわ。……ああ、やっぱりわからないかも。多分、気づかないまま当日を迎えると思うわ。わたしを含めて全員ね。だから時雨さん、今日あったこと、文章に起こしておくことをおすすめするわ。それすら消えたら手詰まりだけどね』

「……それ、つまり、」

「なに? 優里菜か?」

 不意に、背後から声がかかった。

 いつの間にか病院から出ていた朱梨が、そのままひょいとスマホを奪い取った。どうやら時雨の口調から話し相手はわかっていたらしい。それにしても少々強引だが。

「もしもし優里菜? 朱梨。そっちはどう? ……ああ、なるほどね。うんわかった。…………あー、うん。うん、それで……」

『―』

 ……。

 優里菜の言っていることが、少しわかった気がする。

 ……。

 ……、? 何かが掻き消えた感覚がした。

 まあたいしたことではないのだろうと、頭の片隅に追いやった。

 朱梨は未だに優里菜と話している。スピーカーにはしていないため、優里菜の声は時雨には聞こえない。一気に蚊帳の外となった時雨は、手持ち無沙汰な様子で曇天の空を見上げた。

 久しく太陽を見ていない。おかげで動きも大分鈍ってきたように感じる。室内での稽古は毎日やっているが、これではまともに刀を振り回せる気がしなかった。

 雨は今も本降りのまま。

 折り畳みという小さい傘でこの雨の中を歩くのは少々骨が折れそうだ。

「……ああ。うん。おっけー。じゃ、またあとでな」

 ピ、と通話を切る音がした。

 優里菜との電話は終わったらしい。そのまま朱梨は時雨にスマホを押し付けるように返して、手に持っていた折り畳み傘を開いた。

「優里菜さん、なんて?」

「大体お前に言ったのとおんなじことだと思うよ。ああでも、範囲についての目星は教えてくれた」

 やっぱり高いとこからの俯瞰はいろいろ見つかるからいいねえ、なんて言いながら雨の中を歩く。病院の敷地を出て、次は南側に行くらしい。

「まず一つ目。最も近い境界線がマンションの前の道祖神跡あたりとのこと」

「ああ、聞いた。でも他は見えないって言ってたぞ」

 雨の音で、小声で話す彼らの声は他の人には聞こえない。

 これ幸いと、二人は歩きながら遠慮なく会話していた。

「そして二つ目。優里菜が言うには、この範囲は恐らく円状に広がっている。基本的に力が均一に広がるのは、何のゆがみもない円状が一番効率がいいらしいし」

「そうだな。基本的に結界の類は正方形か円形だって相場が決まってる。前者はうちの結界みたいに区切って仕切りを作る役割、後者はその範囲内に効果を及ぼす役割だ」

「へー、それは知らんかった」

 時雨の言う通り、基本的に結界というものは歪な形をしていない。歪めば歪むほど正常に機能する確率が落ちるからだ。これは結界のみならず、魔法陣なども同じである。円状か、あるいは正方形か正八角形くらいしか形のバリエーションはない。

 さらに言うと、魔法陣に関してはほとんどが円形だ。

 これも先程時雨が言ったように、結界の役割は主に仕切りであるからであり、それに対して魔法陣というのは範囲的なものだからだ。内側を効果範囲とするならば、その力の分配がもっとも均一になる円形を選ぶのは必然である。

 つまり今回のこの結界は、本質的には結界というよりも魔法陣寄りのものなのだ。

「そんで三つ目。恐らくだけどこの結界の範囲は、南区の中間あたりが限界だろうって」

「ああ、それは俺も思っていた。二週間連続で雨が降り続いているのはその付近までだし、第一それ以上は流石に範囲が広すぎて維持できないはずだ」

「そうそう。真北にあるうちのマンションが境界線なら、南側の境界線を見つければ自ずと全体が見えるはずだってさ」

 大きな水たまりをぴょんと飛び越える。

 呰見市はそんなに大きくはない市だ。とはいえ徒歩で南北を縦断するにはかなり骨が折れるのだが、電車も地下鉄もあるのでやろうと思えばできる。

 朱梨や優里菜の住むマンションはその真北に位置している。街の中心はそこから見て南側にあり、主な行動範囲はこの辺だ。ちなみに先程の呰見総合病院は、街の中心から見て北東側にあり、時雨の家は西側、呰見神社は南西側に位置している。

 話しながら、二人はひたすら南に向かって歩いていた。

 雨足はまた弱まってきているようだった。時には意味のない会話も交えながら、二人は散歩をするかのように歩みを進めるのだった。


 ◇



 三時間ほど歩いたころだろうか。

 朱梨のマンションから十五キロほど離れた場所。中心から外れてはいるが未だにビルや道路は多くあり、頭上には高速道路が張り巡らされている。

 その、高速道路の影になった場所で。

 はたと、朱梨は足を止めた。

「……見つけた」

「……境界線か」

 ああ。と肯定して、一か所を指差した。

 それは、時雨でさえも目を凝らさないとわからないほどぼんやりとしたものだった。試しにその境界線を跨いでみると、空気が変わったような感覚を受ける。どうやらこれが目当ての物のようだ。

 時雨はその線から目を離し、遠くの景色を見つめる。

「……なるほどな」

「どうした? ほかに何かあるか?」

「ほら、ずっと向こうの空を見てみろよ。不自然な動きしながらこっちに来てるし、向こう側は雨が降ってない」

「……確かに。こりゃあ人為的っていうのも頷ける」

 二人が見つめる先の空では、まるでこちらの雨雲に引き寄せられるかのように動く雲が多くあった。

 こちら側は雨が降っているためわかりずらいが、確かに向こう側の遠くは雨が降っていない。これが結界だと考えて大丈夫だろう。

「……でも、これ、手出しできないな」

 ふと時雨が、この境界線を掴もうと手を伸ばした。

 しかし手はすり抜けるばかりで一向に掴めない。

 それを見た朱梨は、えっ、と素っ頓狂な声を上げた。

「お前でも壊せないのか、これ⁉」

「ああ。多分刀を持ってきても斬れない。……核になってる部分を叩けばいけるかもしれないが……」

 言い淀んだ。流石にこの範囲の中から核の部分を見つけ出すのは至難の業だ。

 核というのは、いわば円を描く際の始点だ。円の始点と終点は同じであるため、そこに力を入れれば瓦解させることもできるかもしれないのだ。

 泡沫時雨は怪異に対してはそうだが、こういった結界に対しても強い力を持っている。それでも壊せないというのは、まず大前提としてそれを捉えることができないということだ。いかに握力が強くとも、実体のない映像の物を壊すのはできないことと同じである。

 その様子を見た朱梨は悔しそうに親指の爪を噛んだ。

 心のどこかで、時雨なら破壊できるだろうという期待があったのだろう。それが使えない今、朱梨や優里菜でも手の打ちようがない。彼女らも、根本的には結界の破壊は不向きな方なのだ。特に優里菜はそれが顕著だ。

 流石に核の場所の特定まではできそうにない。

 苛立ったまま境界線を踏みつけて、渋々来た道を引き返した。

 流石にもう面倒なので、帰りは地下鉄を使うことにした。



 ◇



「時雨。……ひとつ、気になることを言ってもいいか」

 それは、帰りの地下鉄駅のホームで電車を待っている時に朱梨が発した一言だった。

 時雨は大して表情を変えることなく、横目でその先を促した。

「……、これは私の勘違いだったら笑っていい。馬鹿だって言っても怒らないから、正直に答えてくれ。…………お前、なんで昨日うちに来たか覚えてるか」

「はあ? お前が変なもん見つけたから、わざわざ俺を土砂降りの中呼んだんだろ」

「………………部位、覚えてるか?」

「本当に馬鹿だって言われたいのかお前。そんなもん確か……、……………………、いや、おかしい、見た記憶がない」

 確かにお前に見せられたはずなのに、と時雨は狼狽した。彼は間違いなく死体の部位を見たはずなのだ。そんな衝撃的な出来事を忘れるなんてありえない。人一倍記憶力のいい時雨ならなおさらだ。

 朱梨の視線は奥の広告の方にばかり向いて、時雨とは目を合わせない。横に並んでいるのだから当然だ。そのまま、ぎり、と悔し気に歯をかみしめた。

 パーカーのポケットを探って、小さなメモ帳を取り出す。パラパラと捲って、ある一ページを開いて時雨に見せた。

「……みろ、これ」

「……白紙だが。まさかこれに何か書いてたっていうのか」

「そのまさかだよ。多分、今から帰ってももう間に合わねえな。優里菜も忘れてる。……詰みだ。今日どうにかできなかった時点で、私たちは当日を待つしかなくなった。何の準備もできないままにな」

 思えば朱梨の警戒心も、今朝に比べて随分薄くなってしまった。

 引き換えに、焦りと不安がじわじわと滲んでいく。こんなことは二人にとって初めてだ。

 遠くから、電車の近付く音が聞こえる。

 すぐに電車が到着する旨のアナウンスが流れた。

 何か言おうとして口を開いた朱梨は一瞬、真一文字に口を堅く結んで、やがて静かに言葉を紡いだ。

「……何が来るかはわからない。だから、たとえ仕事でも無茶はしないでくれよ。……身も蓋もない言い方するとさ、

―私、お前しかいらないからさ」

「―」

 粘度の高い執着に、ぞわりと怖気が走った。

 この感覚を時雨は知っている。何度も肌で感じたことがある。下手をすれば、幼い頃の最高に最悪な体験をこじ開けられそうに思えたほどだった。

 線路の向こうに、電車のライトが浮かび上がる。

 そのせいで、朱梨の横顔は逆光で僅かに輪郭がぼやけた。

「……お前は、」

 呰見市中央区行きの電車が到着する。

 朱梨は何も言わずに、開いたドアから乗り込んだ。

 時雨も後を追うように乗り込んだ。

 それきり何も言わないまま、二人は窓の外を眺めているだけだった。


 時雨が降りる駅に着いて、彼が電車から降りた時、ふと朱梨は彼に声をかけた。

「……時雨」

「ん、どうし、」


「           」


 決定的な言葉だった。

 彼女の言葉を聞いて、時雨は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。

 聞き間違いかと思った。

 聞き間違いだと信じたくて、彼女に聞き返そうとして、口を噤んだ。噓を言っている顔じゃない。

「多分すぐに忘れてしまうからな。こんな状況じゃないと言えなくてごめん。気をつけて帰れよ」

 それだけ。

 その直後にドアは閉まってしまう。

 電車が発車した後も、時雨は立ち尽くしたままだった。朱梨の言ったことが信じられない。自分はどうすればいい。どうするのが最善だろう。必死に脳みそを回転させる。心臓の音が煩わしい。数十秒ずっと考え込んで、震える手でスマートフォンの連絡欄から『真宮結々祢』の文字を探し出して、

(………………、うそ、だろ)

 押す、直前で。

 電話をする理由を、失くしてしまった。

「……はは、は、」

 駄目だ。

 それだけは駄目だ。

 絶対に、それだけは、忘れては駄目だったのに。


 ふら、と絶望したかのように一歩後ずさる。


 親友として忘れてはいけない彼女の言葉を、時雨は一切抗うことも出来ずに、白く塗りつぶされて失くしてしまっていたのだった。



 ◇



 九月十六日。

 週の半ばである水曜日。当然のことながら学校があった。こうも大雨だと、毎日ローファーを乾かすのが面倒で仕方がない。外に出たくないのでオンライン授業になってくれないかなと願いつつも、大雨程度でなるわけもない。結局下校時間になっても乾かなかったローファーを履きながら、朱梨は一人で校舎から出た。

 ほかにも生徒はたくさん下校しているが、その中に泡沫時雨の姿はない。彼は希望制の放課後課外を受けに行っているので、下校はもう少しあとになる。

(……あいつ、別に課外授業受けなくても問題ないだろ)

 時雨は正直なところ、かなり頭がいい。いつも定期テストではトップを取っている。そもそも頭の仕組みが違うのだろう。はっきり言って彼の記憶能力と計算能力は異常だった。朱梨は今まで、彼に神経衰弱で勝てたためしがない。

 だから別に課外授業など受けずともいいのではと朱梨は思っているが、時雨にはまだ向上心があるのだろう。勉強に関してそんなもの微塵もない朱梨には些か眩しい存在だ。

 校門を出て、右に曲がる。雨は大粒で、傘に打ち付ける音が煩わしい。

 一人なので、当然話す相手などいない。無言で地面を見ながら歩いていると、

「やっほー朱梨ちゃん!」

 ―バシッと背中を叩かれた。

 明るい声がした方、つまり後ろを向くと、同じクラスの女子生徒がニコニコしながら立っていた。

「……ああ、奏か。どしたの」

「朱梨ちゃんが泡沫くんと一緒に帰ってないの珍しいなーって思ったから声かけたの! あとわたしの名前は霞だよ」

「あいつは課外行ってるよ」

「ふーん。でも朱梨ちゃんなんでこっち歩いてるの? 朱梨ちゃん確かいつも反対に帰ってたよね?」

「今日バイトあるからな」

 え、朱梨ちゃんバイトしてたの⁉ という驚きの声が上がる。それをスルーして、朱梨は水たまりを飛び越えた。バイトの時間はまだかなり先なので一度家に帰ってもよかったが、こんな大雨の中二度も出歩きたくはない。

「……朱梨ちゃん、そういえば何かあったの?」

「……? 何かあったように見えたか?」

「うん。なんかいつもよりペンカチカチさせるの多いし、いつにもまして表情動かないし。泡沫くん呼んでこようかって思ったくらいだよ」

 急に言われたこの言葉に、朱梨は驚いたかのようにぱちぱちと瞬いた。

「…………そんなつもりなかったけどな。楓にはそう見えたのか」

「そーだよ。何気にわたし、泡沫くん以外で唯一朱梨ちゃんと小中高おんなじなんだもん。わかるよ。あとわたし霞ね」

 霞のその言葉で、むむ、と少し考えた。

 無意識とはいえずっと真顔でいたとはどういうことだろう。何か考え込むときは真顔になるらしいが、今日は特に何も考えてはいなかった。強いて言うなら、今日時雨は売店のどの菓子パンを買うか予想していたことくらいだ。

 ……あるいは。

 ずっと考えるほどのことがあって、それを考えていたこと自体を忘れてしまっている、とか。

「……朱梨ちゃーん?」

「……」

 何を考えていたのだろう。直近で目ぼしい怪異現象などなかったと思うのだが。

「おーい、朱梨ちゃんってばー!」

「……」

 ……いやそういえばなにかあったな。なにか滅茶苦茶ヤバい気がして焦ってたような気がする。いつだったっけ。

 そうだ、この前の土日だ。           、……? 土日の記憶、全くなくないか?

「待って朱梨ちゃんすとっぷ! そのまま行ったら―」

「―あ、」

 ばしゃ、と片足がずぶ濡れになる。その冷たさと気持ち悪い感触で意識が思考の海から浮上した。

 横では、あーあとでも言いたげな顔をした霞が立っている。散々止めたらしいが、朱梨は一切聞いていなかった。

 水たまりに足を突っ込んで、もともと濡れていたローファーがさらに水浸しになってしまった。

「あーあ、だから言ったのに」

 呆れたように霞が言う。

 鬱陶しげに片足を払う。遠くまで水滴が飛ぶ。不快感マックスだが、どうせバイト先のロッカーに替えは入れていたはずだ。わざわざ家に引き返すほどではない。

 ―その、飛んだ水滴の中に。

 目が映った。

 目が合った。


 『       ?』


「ッ―⁉」

 なにか、とんでもない悪寒が身体を駆け巡ったのを感じた。水滴はすぐに道に落ちて、もう目はどこにも映ってはいない。それでも反射的に、朱梨は数歩後ろに飛びのいていた。

「……? 朱梨ちゃん? どうしたの?」

「…………、華凛、」

 ―いま、誰かの目がなかったか、と。

 勢いで尋ねそうになったのを、ぐっと堪えた。

 霞……空宮霞を、このようなことに巻き込むわけにはいかない。怪異の伝染スピードは朱梨自身が思っているより遥かに早いのだ。話してしまった時点で相手にも怪異との縁が結ばれてしまうのだから当然だ。

 巻き込んでしまえば、いままで彼女の名前を意図的に間違えてきた意味がない。

「……いや、なんでもない。それよりわりいな、私ちょっと急ぐから、加奈子は一人で帰ってくれ」

「……? わかった。バイト遅れそうなんだね? 気を付けてね。あとわたし霞だから―あっ、待って朱梨ちゃん!」

「っ、どうした?」

「お目目のキーホルダー落ちてる! 糸切れちゃったのかな、青のところも割れちゃってる……朱梨ちゃん? どうしたの、ひょっとして大切なものだった?」

「…………………いや、別にただの飾り物だから大丈夫だ。ありがとう、それガラスだからあんまり触らないほうがいい」

 そう言って、霞が差し出した青目のキーホルダー―ナザールボンジュウを受け取る。いつもであればスクールバッグに付けているが、結んでいた部分は無残にほつれてしまっている。ガラスで作られたそれには、まるで瞳が割れたかのように大きくヒビが入っていた。

 それが意味することを、朱梨はよく知っている。

 なおも心配げな顔を浮かべる霞に適当な別れの言葉を言い残して、割れたナザールボンジュウをポケットに突っ込んで駆け出した。

(……たまたま、屋上かどこかにいた人の目が水面に反射したのか……? いや、水たまりじゃあるまいし)

 先程の光景を思い出す。

 飛んだ水滴は、地面から高くても二十センチほどの高さにしかなかったはずである。どう頑張っても、そこらの通行人の瞳が映ったとは考えられない。

 あるいは……空?

「……はは、ウケる」

 空に一つ、大きな目があるとでもいうのか。

 ありえない。思い浮かんだ考えを笑い飛ばした。まるで街が上空から監視されているようだな、なんて思い浮かんだ冗談を否定しようとして、

 ゾッとした。

『この雨も、人為的なものみたいね』

『……向こう側は雨が降ってない』

『―なるほど。こりゃ作為的っていうのも納得だ』

 数日前の会話が、まるで壊れたカセットテープのように再生される。

 何故忘れていた。

 どうして思い出せなかった。

 空から死体が降ってきたことも、直感的にヤバいと感じたことも、私自身が動くべきかどうか逡巡して時雨ならきっとこう動くんだろうと考えて行動を決めたことも、途中の病院でいまだ動かないあの子に声をかけてきたことも、姿のない鳥の影を見たという情報が多かったことも!

 全て、あの死体に関わるすべてのことが、それはもう綺麗さっぱりと、まるで録画に失敗したかのように何も脳裏に残ってはいなかったのだ。

「………………、邪、視」

 せわしなく動かす足を止めて、震える瞳で空を見た。

 先程、目が合った時の強い悪寒。人格ごと悪感情に包まれる酷い感覚。「死にたい」と、朱梨に一瞬でも思わせるほどの絶望を味合わせたあの視線には、覚えがあった。

 邪視。あるいは魔眼。

 それを持ち合わせる人物を、朱梨は一人だけ知っている。

「……いや、なら、この現象の目的は、まさか―!」

 弾き出された解答に、背筋どころか全身が凍った。

 嘘だ。

 嘘だと思いたい。

 でも、それでも、思い描いた人物が犯人であるのなら、『死体を降らせる』という悪趣味極まりないことも、それを使って行う呪術だって行いかねない。

(……範囲は、偽物を使った場合の効果範囲はどのくらいだ)

 いつの間にか手から傘が落ちていた。

 朱梨の頬にたくさんの水滴が落ち、綺麗な金髪は水気を帯びて額に張り付く。半袖のブラウスがぐっしょりと濡れるのにも構わずに、朱梨は曇天を凝視したまま思考を巡らせた。

(この街か、それともこの県全体か? それとも原典通りの日本全体になるのか? というかそれならそもそも何だ、鳥の影って!)

 遠くに雷が落ちた。

 気づけば周りには人は一人もいなかった。


 ―ドシャッ


 まるで、水の入った袋が高いところから落下したような、耳に残る音が聞こえた。

「―……向こうか」

 その音は、思考の海に沈んでいた朱梨を引き上げるには十分すぎるほど不快な音だった。

 音は、すぐ横の路地裏の奥から聞こえた。

 雨のせいで薄暗く、先は見えない。

「……」

 無言で、スマートフォンを取り出して電話をかけた。

「……もしもし、店長ですか? 神代です。申し訳ないんですけど、どうしても外せない急用が出来たので、今日お休みさせてもらっていいですか。……はい、わかりました。ありがとうございます。では」

 路地裏の先だけをずっと凝視しながら、一切表情を変えることなくバイト先に休みの連絡を入れる。

 最低限の連絡だけ告げて、すぐに電話を切った。乱暴にスマホをポケットの中に仕舞い込んで、朱梨は路地裏に足を踏み入れた。


「……」

 息を張り詰めて、音の方向へと歩く。全神経を尖らせて、周囲で動くものすべてを感知できるようにして、普段の倍遅い足取りで奥に向かっていく。

 まだ日のある時間帯故に、明かりの類はついていない。路地裏と言えど、要は建物と建物の隙間だ。基本的に日の光は差し込みにくいし、今日は雨で空は曇天に染まりきっている。薄暗すぎて、ちょっとした夜みたいだ。足元には空き缶のようなゴミが転がっている。それがまるで六月のあの夜のようで無意識に口を歪めた。

(……………なんだ、コレ)

 一歩進むごとに忌避感が増していく。

 何も感知していない。

 何も畏れることは見ていない。

 この先にあるのは―ただの。ただの、見慣れたはずの、死体だけのはずではないのか。

 それなのに、『この場に近寄るな』という強い意志でも働いているかのように体が逃げようと反応する。今更ただの死体に恐れを感じたりなどしない。何だ、これは。


 何が居るのだろう。


「……………神火清め―いや、これは私が死ぬな」

 つい口走りそうになった邪気祓いのまじないの言葉を飲み込んだ。代わりに両手を握って開いてを繰り返して、動きに問題がないかどうか確かめる。あいにくと今は刃物は持っていないし爪もろくに伸びていやしない。これでは傷をつけるのは難しそうだ。仕方ない、と諦めて、右腕に巻いていたリストバンドを外した。

 まだ血が滲んでいる。

(……やれんだろ、多分)

 心を強く保って、歩みを進めた。

 怪異戦は、心が弱ければ負けるのだということぐらい知っている。

 音の出所がもう近い。おそらくそこの角を曲がってすぐだろう。次はどんな形なのだろうか。もう完成に近かったりするのかもしれない。

 角に差し掛かる。

 呼吸を止めて、一歩右に踏み出した。


 ―

 ――






















曰くそれはとてもおぞましくとてもいまわしいことのようでしたしかしわたしはそれを行うほかなかったのですそれだけがわた わたしをわたしたらしめる唯一のものででもだからといってあなたたちが納得してくれるわけもなくそうわたしたちはなにも納得できずにあなたにぜんぶ取られて私たちの手も足も内臓も果ては脳みそまでもとられなにもなくなりそれらはずべてあなたのしょくりょうになって そうですね仕方のなかったことなのでしょう 否定するまでもなくその臓腑は甘美な味で満たされていて筋繊維の一本まで瑞々しさは行き渡っていてその目玉はまるで幼子がよくなめているあのきれいな飴玉のように思えて何より飛び散ったその鮮血は何物にも勝るほどにのどの渇きを潤すものでその体に纏わりついた死が その死が その穢れこそが主食であり生きるための糧でありわたしを唯一狂わせる魅惑のものであったのです ですからあなたとはなにもかもちがっていてそれを何故受け入れない? いいえ違う違う違う違うちがうちがうわたしにそのような食人趣味など一片たりとも持ち合わせていないはずでだからそのようなことを脳みそに刷り込むような真似をしないでほしいそのようなことをしてもあなたに何の意味もなくただの徒労に終わるだけのことがなぜわかっていないやめろやめろわたしの わたしのきおくにこのような ええそうですあなたはわたしたちを食べましたこの腹を切り裂いて暖を取りました死者の血を啜りました頭蓋を割ってわたしたちの記憶の詰まったそれを食べました わたしたちを動かしていたそれを食べました わたしたちの感情をつかさどるそれを食べました 脊髄神経とつながったままそれを口にして食べました そこまでしていきたかったのですかそうですかそれであなたは今幸せですか? ほんとうにしあわせになりたかったなら黒不浄になんて触れなければよかったのにそんなもの口にしなければよかったのにわたしたちはいまとても とてもとてもとてもあなたのことが恨めしくにくらしくいまわしく悍ましいものだと思っているけれどでも糧になったいじょうあなたの行く末を少しだけ案じてしまってだってきみはまだ まだ まだ、なんだっけ。

幸せかどうかなんて生きていることが前提条件なのですからわたしが黒不浄を食べることじたいに何の疑問もないじゃないですかあなたたち人間が毎日穀物を家畜の肉を鳥の卵を野に生える野菜を摂取しているようにわたしも私の命を永らえさせるためだけの行為になんの疑問があるのですか ええそうですねあなたとおなじですね ふざけるなおまえとあのこがおなじなわけがなくてどうしてこんなにも必死になってわたしたちはおまえを糾弾しているのかすらわからなくてただじぶんの中に存在する憎悪が怨嗟が怒りがまるで油をかけられたかのように燻っていたそれが急に燃え上がってしまってもう生きていないわたしたちはそれをどうすることも出来なくてただああそうだわたしたちは食われた食われた食われた食われた何もかも食われてしまった手も足も臓腑も目玉も舌も筋繊維の一本に至るまで! その生を死を荼毘に付すことすらできず骨を残すことすらできず地面の下で分解されることすら叶わず他の存在に取り込まれて消えるその恐怖を絶望をおまえは知らずにとんでいる だってそれが世の中の理というもので死なんてものは昔から忌み嫌われたものだったのだから仕方ないだってほらもう名前もわからない気がふれたこの子だってそれはりかいしていてそのうえであなたたちは糧にされてしまったのだと言―








 ―神代朱梨だろ。覚えてるからちょっと黙ってろ。







 ―――、意識が戻る。正常に視界が機能した

目の前の怪異に纏わり  その怨嗟が、怨念が今の一瞬で膨大な での情報を頭の中に流し込んで発狂さ  れたのだと理解した。 して …… 急速に脳 が欠け出 た。

 …… ズいな。 はもう も考えずにただ指を突き ける。

 呪殺。 

 穢れ。

        私は、

 指先の傷を             爪で抉り出して

                  呪

       穢         怨

     そ  蹴って         血を

                   駄目だ、負ける。

        形代を、

 いま   がたべ  のはな だ。

                  力量が足 ない。

「食べてい  のと悪いものの区    ない か?」

 急速に えていく

 五秒前 思い出せ い。


 負ける。 われる。右腕が死んだ。死ぬ。

           はは、腐って、

                       死

      おまえ、を、

                せめて地獄に

『鬟帙?縺ェ縲る」溘≧縺ェ縲ゅ♀蜑阪?縺?i縺ェ縺??ら明縺城?溘d縺九↓陬丞?縺ォ蟶ー繧後?ゅ〒縺阪↑縺??縺ェ繧臥ァ√′蜻ェ縺?ョコ縺吶?』

    ……っ、

   優里  言霊の一つ も習ってお ばよかった。

                ……うるせえな。

   指を、      手が っとりと血に

 ただで死んでたまるか。

                  呪い殺せ

     呪詛を込める

 指を突き付けて、

鳥、が、


「……梨さん、朱梨さん。こんなところで寝ないで頂戴」

 揺り起こされて目が覚めた。

「……………………優里菜? どうしたんだよ」

「こっちのセリフよ。どうして玄関前で寝てるの? 寝るならせめてもう少し頑張って頂戴。みっともないわ」

 寝起きというには妙に冴え切った頭で周りを見てみれば、そこは朱梨の住むマンションの部屋の扉の前だった。倒れこんだまま寝てしまっていたらしい。何とも滑稽な絵面だ。急いで上体を起こした。

 しかも見てみれば制服のブラウスは雨でぐしょぬれで、スカートもローファーもすべて泥にまみれたかのように汚れている。極めつけは指先で、抉れて血と肉が覗いていた。うわ、と思わず顔をしかめる。視認したと同時に、ジクジクと痛みが伝わってきた。

「……朱梨さん。あなた、何してきたの」

 珍しく真剣に、優里菜が言う。

 痛みに気を取られていた朱梨は、ぶっきらぼうに言葉を返した。

「知らねえ。つーか学校からここまでの記憶がない」

「そう。じゃあ言うけどね。

 ―右腕、どうしたの」

 指摘されて、ふと右腕を見た。


 ……妙に重いと感じていたのはこの所為か。

 はっきり異常だとわかるほど、朱梨の右腕は、灰に煤けたように黒ずんだ―つまりは、いつ腐敗して壊死してもおかしくないような、強力な呪いを受けた状態になっていた。

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