死体の雨 ① 二十日間の降水
雨が降っている。
空は曇天で、鮮やかな青などどこにもない。
「……雨、いい加減嫌になるな」
薄暗い部屋からベランダの外に目を向けて、心底嫌そうな声音で朱梨は呟いた。
まだ蒸し暑さの残る、九月のことだった。
◇
二週間連続で雨が降っている。最近のトピックと言えばもっぱらそれだった。
九月も中旬に差し掛かろうかというのに、今月に入ってからまだ一度も青い空を見ていない。連日の悪天候に、神代朱梨もそろそろ気が滅入りそうになっていた。
人間というものは、日の光に当たらないと不調をきたすように作られているのかもしれない。少なくとも精神的にはそうだと彼女は考えている。死が薄ら寒いものである以上、暖かく明るい存在である太陽はきっと、生存本能にプラスの効果を与える働きがあるのだろう。あるいはそうであると無意識下に刷り込まれているかのどちらかだ。
(……ヤバい。曇りか雨かが多すぎて月の暦を忘れちまってる気がする)
窓ガラスをなぞりながら、割とどうでもいいことを思い出す。今は別に呪術に手を出しているわけでもないのだから、月の暦などさして重要なことではない。
「……こんな日は、決まって嫌な奴が出てきたりするんだが。見た感じ何もないな」
嫌な奴。言い換えると、『出てこられたら普通にめんどくさい』存在。
朱梨がこのように言う存在なんて、怪異以外の何がありえようか。
憂鬱気に窓の外を眺めているだけのように思える行為も、一応は警戒の意が込められていたらしい。マンション十四階からは、住んでいる街全体が見渡せるため監視に向いている。最近気付いたことだ。
ぼんやり眺めているうちに外の雨足は強まっていったようで、窓ガラスを打つ雨の音は酷いものになっている。下の街並みも、雨による水煙で見えなくなってしまった。まるで霧に包まれてしまったかのようだ。
「あーあ。こりゃ土砂降りだな」
下の道が冠水しなければいいけど、と不安事を口にする。朱梨自身は外出する予定はないものの、もしかしたら親友がアポなしで来たりするかもしれない。その時に冠水しているといろいろと困る。
まあ、こんな雨の中来るような馬鹿には思えないが。
(……ま、どっちでもいいか。この様子だと大雨警報が出るのも時間の問題だし、今日は外に出らずに一人で文献の整理でも)
していよう、と続くはずだった思考がぴたりと停止した。水滴の軌跡をなぞっていた指先の動きも同時にとまって、そして次の瞬間には勢いよく窓を開けていた。
雨が降りこんで濡れるのにもお構いなしに、窓から身を乗り出して前方を、ずっとずっと遠くを見つめた。その目は瞳孔が開いていて、何か信じられないものを見たかのように揺れている。
実際、彼女の目は今絶対にありえないものを捉えていた。
目を凝らした彼女は、数瞬後には目的の物を見つけていた。
それは水煙のなかでも一等目立つ色であり、清涼な雨とは似ても似つかない異物であった。
それを再度認識した瞬間に、弾かれた様に朱梨は玄関へと駆け出した。いつも着ている赤いパーカーだけを引っ掴んで。
重い扉を乱暴に開けて、鍵もかけずに階段の方へと駆けていく。どうせこの階には隣人の少女しかいないのだから鍵なんてかけなくても大して問題はない。そしてエレベーターはだめだ、あの箱はいま一階にいるという表示が扉の上で光っていた。
階段を五段飛ばしで駆け下りてエントランスを通り抜け、マンションのそばの道祖神を素通りして、ずぶ濡れになりながら目的地に走った。
そこはマンションから見て都会側の、そう広くない空き地だった。
その真ん中にぽつりと、先程見た『ありえないもの』が落ちていた。
息の上がった朱梨は肩で息をしながらも、恐れることなくそれを手に取った。
……異物。まさに異物であった。ある意味では遺物ともいえるかもしれない。
「……こんなもの、どこから落ちてきたんだ」
土砂降りの雨は、その色を緩やかに流していく。そのおかげで朱梨の腕にもその赤が伝ってしまっている。困惑したまま立ちすくむ朱梨の手が、まるで怪我をしたかのようになっていく。
空を仰ぎ見た。
曇天は灰色。
落ちる雨は透明。
それなのにそれに似つかわしくない落下物。
それは紛れもなく。
肘から先だけの、人の腕だった。
「…………」
それに恐怖はない。しかし朱梨の胸の中では、確かに嫌な胸騒ぎがあった。
何かとてつもないことが起こるような、漠然として確信めいた悪い予感とともに。
◇
「もしもし時雨か? 悪いな急に電話して。唐突で申し訳ないけど今から家に来れるか? は? ああそうだよこんな大雨だけど来てほしいんだよ。うん、うん。……お前濡れたくないって理由で断ろうとしてないか? ……まあいいや。確かに私がお前なら多分断ってるわ。すまん、じゃあ電話越しでいいか? どうせ暇なんだろ?」
ああ、と電話の向こうから気だるげな返答が返ってくる。
気だるげというよりは寝起きの声に近い。きっと電話の通知音かバイブ音かで起きたのだろう。ちょっと悪いことをしたなと反省する反面、何時まで寝てんだコイツと指摘したい気持ちも溢れてきた。休日とはいえ十時まで寝るのは生活リズムが崩れるのではなかろうか。
電話の向こうから聞こえる微かな衣擦れ音や欠伸を噛み殺すような吐息の音から、本当に時雨は今まで寝ていたことが確定した。ホントに何時まで寝てんだ。
呆れもそこそこに、朱梨はスマホを持っていないほうの手を見る。
先程空き地で拾った腕は、未だにその傷口から血を流している。指先はもうとうに血の気のない色に変色しきっていて、もう間もなく流れる血も尽きるのだろう。朱梨の腕を伝い肘から地面に滴って、足元はちょっとした水たまりになっていた。
流石に前も見えないほどの土砂降りの中で佇むままにもいかず、近くにあった無人の廃ビルの玄関前に雨宿りしていた。濡れて額に張り付いた前髪やそれから伝ってくる水滴を鬱陶しげに振り払った朱梨は、拾い物を時雨に見せるためテレビ電話に切り替える。
『……なんだそれ』
「腕だよ、触った感じは本物。いいか、驚くなよ。コレが雨に混ざって降ってきたんだ」
『……マジか、まさか上空で死体遺棄をする馬鹿がいるとは』
「にしたって腕だけ投げ捨てるか普通? それにこの上空は飛行機の航路はない。こんな悪天候の中飛ぼうとする奴なんて、それこそ一握りの馬鹿くらいしかいない」
『まあそうだよな。でも何か実害があるわけでもないし、様子見しとけばいいと俺は思う』
「お前ひょっとしてまだ眠いな?」
うん、とテレビ電話の向こうで頷く時雨。彼らしからぬ楽観的な意見は、どうやらまだ頭が働いていないせいのようだ。とはいえこれ自体に呪いだのの害があるようには見えない。せいぜい世間に見つかればちょっとしたパニックになるくらいだろう。
『とりあえず、持って帰って調べてみろよ。気味悪いかもしれないけど、お前そういうの平気だろ』
「……いいや、私より適任がいる。時雨、前言撤回だ。悪いけどやっぱり私の部屋まで来てくれ。そこでいろいろ話そう」
『こんな土砂降りの中かよ……わかった。三十分後ぐらいにはそっちに着く』
ブツッと電話が切れた。時雨は割と押せば折れてくれる傾向にある。それを利用したようで心苦しいが、これでひとまず人は揃うだろう。もう血の流れなくなった腕を隠すようにして朱梨は土砂降りの雨の中を駆けた。
通話終了の文字が浮かぶ液晶を操作して、番号を打つ。
そしてそのまま耳に当て、コールの音を聞きながら上を見上げた。
長いだろうと予測したコール音はしかし、意外にも数回程度で終わった。
『もしもし、結染ですけれど。何か御用? 朱梨さん』
まるで鈴が鳴るような。
可憐な声が、電話口から聞こえた。
「ああ。滅茶苦茶用がある。優里菜って今暇か?」
『ええ。特に用事はないわ。どうしたの?』
「……優里菜さ、人の死体が好きなんだよな?」
『そうよ。急にどうしたの、藪から棒に。ひょっとして朱梨さん、人でも殺しちゃった?』
「私じゃない。ただそれに類するものを拾ったってだけ。とにかく、今すぐ私の部屋に来てくれないか。今は外に出てるけど、鍵は開いてるから」
『わかったわ。でも鍵は閉めなさいね。泥棒に入られても知らないわよ』
それじゃあね、と一言あって、通話は切れた。
短い会話だった。
結染優里菜は異常者である。
人の死体を愛する死体愛好家。
それを知っているのは、朱梨と時雨の二人だけだ。
「……死体のどこが好きなんだか」
ぽつりと一言漏らした。
朱梨にとって死体とは忌諱すべきものだ。故に、彼女の嗜好がいまいち理解できなかった。人の趣味にケチをつけるつもりは毛頭ないけれど、流石に同意することはできないのだ。
……とうに消えたはずの味覚と嗅覚が、何かをとらえた気がした。ただの幻で、過去の記憶の再生にすぎない。
とにかく、急いで部屋に戻ろうと再び駆け出した。もうマンションは目と鼻の先だ。おそらくもう部屋にいるであろう優里菜にどう説明したもんかなと考えながら、朱梨はマンションの無人のエントランスに駆け込んだ。
腕の赤は、もうとっくに流れ切っていた。
◇
スコールかと見間違うほどの大雨が、カーテンのように一寸先の景色すら見えなくさせている。大粒の雨は地面にたたきつけられると容赦なく跳ね返り、傘の意味がないほどに足元はぐっしょりと濡れていた。
こんな天候の中何故外に出なければならないのか。親友の電話があった時に外もきちんと確認しておくべきだった。しかし今更悔いたところで雨はやまないし行くといった言葉も取り消せない。最高に不機嫌な顔をして、泡沫時雨は早足で朱梨の住むマンションへと向かっていた。
雨というのはそれだけで人の気を滅入らせるようで、普段人通りの多いはずの交差点も、今日に限っては無人だったことを思い出す。思い返してみると些か不自然だったような気がするが、まあこの雨の中歩く物好きもそうそういないだろう。
(……いや違うな。住民たち、ひょっとして無意識のうちに避けてるんじゃないか?)
何を、と言われればそれは雨の中出歩くことだ。歩く人はいなかった。それは別におかしいことはないが、車の通りも不自然に少なかった。違和感の正体はこれだったのだ。確かに大雨ではあるが、別に交通機関が致命的に麻痺するほどではなかろうに。
ふと前方を見た。雨と水煙のせいで、ほとんど見えたものではない。もし前に人がいても、きっと人影しか視認できないだろう。
それが酷く、彼は誰時と似ている気がして、少し気味が悪くなった。雨のベールのその向こう、未だ視認し得ないそこに、なにか人ならざる者がいてもおかしくないような感覚に、時雨の足は無意識のうちに早くなった。
そもそも土地柄からしてここは良くないところだと肌で感じられる。長居は無用だと、時雨はようやく見えたマンションのエントランスに駆け込んだ。傘をさしていたものの、腰から下はまるで意味がなかったようだ。
「……寒いな。朱梨に風呂借りるか」
九月と言えども雨に打たれれば身体は冷える。すっかり冷たくなってしまった指先を握りながら時雨はエレベーターに乗り込んで、
エントランス前に、片腕のない死体が落ちるのを見た。
「ッ⁉」
それを見たのは、エレベーターに設置された大きな鏡越しだった。動体視力のいい時雨はその一瞬を捉え、反射的に振り向いてエントランス前を見た。閉まりかけのドアを止めて、一歩踏み出しそうになったのを慌てて止めた。
そこに死体などなかったからだ。
人の肉はおろか、その朱さえどこにもない。落下地点であったはずの地面は、今もなお大粒の雨がたたきつけられているだけだった。
「…………何だったんだ、今の」
ポツリ、呟いた。
ドアを押さえていた手をゆっくり外して、ドアが閉まるのを待った。そのドアの外に踏み出す気には、全くなれなかった。仕方なく十四階のボタンを押した時雨は、その鏡に背を向けたまま、十四階に着くのを待った。振り向く気は微塵も起きなかった。もしその鏡の中にまだあの死体がいたらと考えると流石に振り向けない。時雨の防衛本能は、かなり敏感に危険を察知していた。
エレベーターを降りて、十四階の通路を歩く。この階には朱梨と優里菜しか住んでいないため、滅多に人影はない。誰ともすれ違うことなく朱梨の部屋の前まで来た時雨は、ひとまずインターホンを押して待った。
『開いてるー。好きに入れー』
…………中からの大声はいつものことだ。
お邪魔しますと断ってから、時雨はすぐに重いドアを引いて中に入った。どうやら朱梨は奥のリビングにいるらしい。濡れた靴と靴下を脱いで、奥のドアを開けた。
「おい朱梨、結構濡れたから風呂借りても…………優里菜さん、なんでこんなところにいるんですか?」
「あらこんにちは時雨さん。何故って、朱梨さんにお呼ばれされたからよ」
「こんなところってなんだよ、こんなところって。風呂は入っていいぞ。廊下濡れたなら悪いけど拭いといて」
ほら行った行ったと言わんばかりに手を振られて、時雨はおどけたように肩をすくめて身体を引っ込めて勝手知ったる風呂場へと向かった。着替え云々は問題ない。普通に男物の服が常備されるほどには、時雨は朱梨の部屋に入り浸っていたのだった。
◇
「溶けて、消えた」
風呂から上がり、タオルで髪を拭いている時雨にかけた一言がそれだった。
時雨が風呂に入る前は意気揚々としていたような気がするのだが、今の彼女は床に寝転んですっかり意気消沈しているように見えた。そんな朱梨が気になり、ついでに先程テレビ電話で見た腕も気になって問うたところ、返ってきた言葉がこれである。
「溶けて消えた? それにしては血の一滴もないが」
「だから溶けたんだ。だらーって」
「もう、朱梨さんったら。もうちょっとちゃんと説明しないと時雨さんが困ってるでしょう? ええとね、まず朱梨さんの言ってるように腕が溶けて、そのあと空気に溶けるように消えたの。イメージとしては水が蒸発する感じね」
「なるほど」
どうやら優里菜もその状況を見ていたようで、朱梨よりはわかりやすい説明をしてくれた。それを聞いてなんとなくのイメージを掴んだ時雨は、おそらく腕が置かれてあったのだろうローテーブルの前に腰を下ろした。朱梨と優里菜は向かい合うように座っており、その間に座ってテーブルの上を見た。肉も朱も一切残っていない。
「あーあ。折角いろいろ調べてみようと思ったのに。手を付けようとした瞬間にこれだよ、ホント嫌になる」
「確かに残念ね。私も譲ってもらえないか考えていたのだけれど」
女子二人は今もなお残念がっている。特に朱梨のほうは相当ショックだったようで、しばらく起き上がる気配はなさそうだ。そんな彼女らに苦笑して、時雨はテーブルの上を再度凝視した。
呪いなどの痕跡はない。再三確認したが、血や肉もない。まるで最初からそこには何もなかったかのようだ。不可思議ではあるが、危険であるような感覚は覚えない。寝起きの時に下した判断はあながち間違ってなかったのかもしれない。
「…………ああ、そういえば。朱梨、このマンションに死体が降ってくるっていう噂話はあるか?」
「は? いや、たぶんない。どうしたんだよ、あの片腕の持ち主でも見たのか」
「…………恐らくは。一瞬だったけど、確かにあの死体は片腕がなかった」
ひゅう、と口笛を吹いて勢いよく起き上がる。どうやらモチベーションは回復したようで、朱梨はテーブルに肘をついてニヤッと笑った。
「死体、どこで見たか当ててみようか?」、
「あら、朱梨さんはわかるの?」
「マンションのエントランスの前だろ。違うか?」
「……当たりだ。なんだ、知ってたのか?」
「知ってたというか、なんというか」
うーんと少し考えるふりをして、朱梨は口を開いた。
「落ちていく腕を見つけたとき、私は部屋にいたんだけどさ。それを見つけたときに一緒に落下地点も確認したんだ。で、降りて腕を回収しに行ったんだけど、思ってたところになかった。若干ずれてたんだ。最初に落ちたところより数メートルは離れたところだった。……その先にあったのがこのマンション。腕は降ってきたんだから死体も多分外に現れる。そんで時雨が見たとなれば、まあエントランス前くらいしか候補はないだろ」
恐らくは、その腕は体の方に行こうと動いたのだろう。腕が一人でに這う様子を想像して身震いした。害はないとは判断したが、精神衛生上かなりよろしくない光景だ。
「……でもおかしい」
「何が?」
「腕はお前が拾って三十分は経ってからの消滅だっただろ。俺が見た死体は、一瞬後にはもう消えていた。というより、鏡の中にしかいなかったみたいだったんだ」
「なるほど? 普通に考えれば腕の方が消滅は早いような気がするけど……」
うむむ、と朱梨は考え込んだ。その死体のロジックがいまいち見えてこないようだ。死体の欠片である腕は長時間この世にとどまり、肝心の死体は一瞬のうちに消えてしまったその理由がわからない。そもそも消える死体という事例自体、朱梨達には初めて体験することなのだ。
そんな朱梨の正面に座っている優里菜はふと何かを思いついたらしい。小さく手を挙げて、彼女自身の意見を口にした。
「じゃあこう考えられない? その死体は未完成だったのよ。腕は形取れたけれど、主である死体はまだ出来上がっていない。でも腕だけが降ってしまった。それを追いかけるようにして死体も降ったんじゃない?」
「……じゃあ、鏡の中でしか見なかったのは、」
「実体がなかったのよ、まだ。鏡の向こうの世界は幻なんだから、そこには実体がなくても入り込めるって、以前時雨さんが言ってたでしょう?」
だから、と優里菜は小さく挙げていた手を合わせて、右にいる時雨の顔を覗き込むように首を傾げた。
「時雨さん、鏡をもう一度見なくてよかったわね」
……本当にそうですね、と彼は顔を逸らして一言だけ呟いた。
もし時雨があの時背後の鏡をもう一度見たらどうなったか、そこにいる三人全員がなんとなく察していた。時雨が幻であるはずの死体をもう一度視認してしまったら、それこそその幻が実体となったかもしれなかったのだ。視認するということは、『そこにある』と定義することと限りなく近いものであり、それによって『あるはずのないものがそこにある』という事態を引き起こすことを、朱梨と時雨は何度も経験していた。
しばらく無言が続いて、雨の音だけが響いていた。
手で口元を押さえて肘をついていた朱梨は、その雨の音を聞いてふと顔を上げた。
「……? ちょっと待ってろ」
「おい、どうした……って、何も言わずに出て行きやがった……」
顔を上げてしばらく耳をすませた朱梨は、何も言わずに赤いパーカーだけ羽織って席を立った。反射的に立ち上がろうとした時雨を手で制して、足早に玄関の方に向かって行ってしまった。
遠出するわけではないのだろう。放っておけばすぐに帰ってくる。残された時雨と優里菜は、仕方がないのでどうにか暇をつぶすしかなくなった。
「そういえば、時雨さん」
「ん、なんですか」
「ちょっと聞きたいことがあってね。時雨さん、どうしてわたしには敬語で話しているの?」
朱梨さんは私に敬語で話すことなんてないのに、と付け加えて問うた。
朱梨がいない今訊くべきだと思ったのだろう。急にそんな質問を投げかけられた時雨は少し戸惑って、顔を逸らして頰を掻きながら、暫くの沈黙の後にぽつぽつと話し出した。
「……その、なんというか。優里菜さんと初めて会った時、直感的に年上の人のような気がして。だから反射的に敬語になってるんです。あとお嬢様っぽい雰囲気ですし」
「お嬢様っぽいって。わたし、一応以前はお嬢様だったのよ? もう勘当されちゃったけれどね」
「……それは初耳です」
「朱梨さんは知ってるわよ? その勘当された理由も、わたしが死体を好きになったからなの。お父様、頭が固い人だったから」
クスクスと優雅に笑って、優里菜は懐かしむように外を見た。
勘当されたにしては何一つ悲観などしていない彼女は、むしろ今の方が楽しいようで、毎日こうして微笑んでいる。
優里菜のその微笑みがとても綺麗で可愛くて、時雨は時折見惚れる事があった。その度に何故だか朱梨に頭を叩かれるのだが。
「うふふ。でも時雨さんが敬語を使いたがる理由もなんとなくわかるわ。わたし、ここに来る前は様付けで呼ばれてたもの。祈祷師や退魔師の家系の貴方なら、なんとなくわかるのね」
「様付け? ……ちょっと待ってください、なら今の話に嘘が出てきませんか」
「ええ。貴方が本当だと思うことは本当にして、嘘だと思うことは信じないことにすればいいわ。貴方に不都合は生じないでしょう?」
口元を押さえて笑った。思えば時雨は一切優里菜のことを知らない。互いに友人であるとは認識しているものの、時雨は優里菜のことにあまり踏み込まなかったからだ。
彼女の笑顔は綺麗なもので、それでいて誰にも踏み込ませない布の役割を果たしている。それを承知していたから、時雨は優里菜の身の上話を求めることはなかったのだ。もっとも、なぜかは知らないが、優里菜は朱梨にだけは特に何も隠してはいないようであるが。
しばらくして、朱梨はまた帰ってきた。あまり濡れた様子ではないところからして、下に降りてはいないのだろう。妙ににこにこしている様子に、時雨はひそかに嫌な予感を抱いた。
「おかえり。どうしたんだ?」
「ただいま。早速だけど悪いニュース言うね。本日お前は帰れません」
「……は?」
予想以上に悪いニュースに目を丸くする。そして朱梨が妙に嬉しそうにしてるのも意味が分からない。
「帰れません。下の道が冠水しました」
「あらあら、それじゃ外に出るのは無理ね」
「あの調子じゃ今日いっぱい外に出るのは無理そうだぜ。大人しくうちに泊まっていくんだな」
にこにこどころではない。
完全に笑顔を浮かべて朱梨は言い放った。
マジかよとうわごとのように呟いた時雨だったが、やがて観念したようで置いていたスマホを手に取って家に連絡を入れ始めた。こんな日に外出するなんて馬鹿だろうと母親に呆れられているが、外泊自体は認められた。朱梨自身もよく時雨の家に行き、彼の家族と会っているのである程度の信頼は築けているのだろう。
ご機嫌な様子で彼のその姿を見ていると、ふと横からくいくいと服が引っ張られるのを感じた。
「ねえねえ朱梨さん。下はどれくらい浸かってるの?」
「んー、目測だけどエントランスが水浸しになってるだろうな、あれは。長靴はいても水が入ってくるくらいにはなってると思う」
「あらあら……わたし、お昼ご飯を買いに行こうと思っていたのに。どうしようかしら、わたし飢え死にしちゃうわ、ねえ朱梨さん」
「ごはんほしいならごはんほしいって素直に言えよ」
「わたし、朱梨さんの作ったごはんが食べたいわ」
絶対何かしら食べるもんあるだろ、と心の中で思ったものの、四つん這いで小さく服の袖をつまんでねだる優里菜が可愛かったのでつい絆されてしまった。
恐らく一人ハブられるのが嫌だったのだろう。一応お嬢様として、人にものをたかるという行為はあまりしない優里菜がこうして求めてくるのは珍しい。隣人の思わぬ一面に、朱梨は少し頬が緩んだ。
「私の作ったごはんって、味の保証はできないからな。なんせ味覚がないから」
「気にしないわよ。それに、朱梨さんの作るごはんって結構ちゃんとした味してると思うわ」
「それは俺も同感。ちゃんと常識の範疇に収まってる」
「そりゃ、レシピの配分を基準にしてるからな。でも不安なもんは不安なんだよ。味見できないんだから」
そういいつつも、何かしら作ってあげようと腰を上げてキッチンに向かう。朱梨は味覚も嗅覚も消えているため作った料理が食べてるものなのかわからないのだ。故に彼女の料理の好みの基準は食感のみであったのだが、最近はこうして他人に料理を出さないといけないことが多くなったので多少は味も考慮して作るようになった。先述した通り味見ができないに等しいので、ほとんどレシピ本頼りなのだが。
そうして昼ご飯を食べて、三人で話をしたり据え置きのゲーム機で遊んでいるうちに日が落ちてきていた。と言っても、空は未だ曇天で夕日は拝めない。土砂降りだった雨は少しは雨脚は弱まったようで、窓に雨が打ち付けられる音は鳴りを潜めていた。今夜こそは止んでほしいが、この分だと無理そうだ。
帰れない時雨は当然だが、優里菜もどうしてか自身の部屋に戻ろうとしなかった。隣であるため帰れないこともないのに、と首を傾げたが、まあ友人とお泊りするのをやってみたかったのだろうと納得した。お嬢様だった彼女は、やったことのないことには好奇心旺盛なのだ。
「優里菜はベッド使え。時雨はそこのソファな」
「また俺ソファかよ。まあいいけどさ」
「文句言うな。女の子にベッド譲ってやれよ。ほら、ブランケットとクッション使っていいから」
ゲームに没頭していると、いつの間にか時計の針が七時を指していた。日は暮れて、窓の外は暗くなってしまっている。時雨が作った晩御飯を三人で(朱梨はほとんど時雨にあげたので実質二人だが)食べて、順番に風呂に入るころには十時を回っていた。
優里菜は日々健康的な生活を送っているらしく、寝床を指定されたときにはもうのそのそとベッドにもぐりこんで寝る準備をしていた。そしてそう時間が経たないうちに睡魔が来たのか、おやすみなさいと言い残して瞼を閉じてしまった。比較的夜型の朱梨や時雨とは大違いだ。
「……つか、お前はどこで寝るんだよ」
「私? ああ、まあ気が向いたら優里菜の横にもぐりこんで寝るよ。それにまだ寒くないし、なんかしらの毛布一枚羽織ってれば寝れる」
「……そうかい。じゃあ俺ももう寝る。悪いけど電気消してくれ。おやすみ」
おやすみ、と言って電気を消す朱梨。彼女ももう寝るのかと思いきや、ごそごそと隅に置いてあったノートパソコンを引っ張り出し、壁に背をつけた体勢のまま膝の上において起動させた。もちろん、時雨や優里菜が光で起きないような位置でだ。
画面が眩しいのを我慢して、朱梨はパソコンで様々なSNSにアクセスした。アカウントを持っているものはログインもして、ひたすら検索をかけてはその結果に目を滑らせる。
基本的に、情報収集をするのであればSNSが最も情報が早い。情報の正誤を判断できなければならないが、最新の情報を追うにはこれらを活用するのが最適解なのだ。
(……死体。遺体。腕、……いや、自殺発見ではないな)
朱梨がいま調べているのは、昼間に見つけた死体のことだ。とはいえそれについて知りたいわけではない。もとよりそんな情報が出回っているとは考えてはいない。朱梨が探しているのはただ一点、『ほかにこの死体の目撃者はいるかどうか』だ。
(……ない、ない、ない、……ないな)
思いつくキーワードを片っ端から検索にかけては結果に目を通す。しかしそう簡単に見つかるわけもなく、弱くキーボードをたたく音だけが聞こえていた。
気づけば四時間が経っていた。
時計が深夜二時を指している。今外出すればとんでもなくめんどくさいことになるなと、伸びをしながら考えた。ずっと画面を直視していた目は酷使しすぎたせいかしばしばしている。
しかし、酷使した甲斐あってか、たった一件だけ情報を見つけた。二日前の投稿だった。
死体を見つけた。
死体かどうかもわからない。
それは、細い右足だった。
基本的にSNSは誰にでも見れる場所なので、こういったグロテスクな写真はすぐに削除の対象になるだろう。あと一日遅ければこの投稿は消されていたかもしれない。電子の海に流れて消えそうだったそれを掴めただけでも、今夜の活動は充分有意義なものだった。
さて、やるべきことも終わったし睡眠もとっておくかとその場で横になろうとして、
「あら、そこで寝たら身体を痛めちゃうわよ?」
……。
…………。
いつから起きていたのかという声を噛み殺した。
「優里菜、どうした? 寝ないのかよ」
「起きちゃったわ。せっかくだから、朱梨さんとお話ししようと思って。でも朱梨さんったら、ずーっとパソコンをかたかたするばっかりでわたしに気づかないんだもの。実は十分くらいここで見てたのよ?」
「……すまん。集中しすぎた」
暗がりでくすっと笑った優里菜はそのまま朱梨の隣に腰を下ろした。
ベランダに続く窓は南側にある。いつもなら月明かりが入り込んでほのかに明るいはずだが、ここ二週間はずっと暗いままだ。いつもはそれが残念でならないが、今だけは好都合だった。優里菜と二人きりでこうして話をするときは、顔が見えないくらいでちょうどいいのだ。
「……朱梨さん」
「なんだよ」
「時雨さんには、あなたのこと教えないの?」
想定していたより数倍直球のその言葉に、朱梨はしばし硬直する。そののち、力を抜くように息を深く吐いた朱梨は、ちらりとソファを一瞥した。ソファの背に遮られて、彼が今起きているのか寝ているのかはわからない。膝を抱えた朱梨は、一層小声でその答えを返した。
「……私にメリットがない。というよりはまあ、今の状態が一番私にとって都合がいい。確かに私は麻雀とか好きだけど、やたらめったらリスクを背負い込むのは趣味じゃない」
「あらひどい人。親友って、損得も何もない関係だって聞いたのだけど?」
「いやそれお前が言う? …………まあ、ぶっちゃけると割とつらい。私のコレはどこまで行っても見よう見まねでしかないから、ずーっと台本通りの役をやらされてる気分だ」
でも、と続ける。
「悲しいことに私の親友は優秀なんだよ。何を殺して何を生かすかっていう判断が遥かに早いし正確だし。だから私は我慢してるの。まあこういうの慣れっこだし……」
強がったような口調が、後半になるにつれ尻すぼみになっていく。言葉を切った朱梨は、顔を伏せて少しだけ優里菜の肩に寄り掛かった。
「……優里菜」
「なあに、朱梨さん」
「……私、どうするのが正解なんだろう」
「……さあね。わたしもあなたの気持ちは微塵もわからないから、答えは出せないわ」
朱梨の頬に涙が伝うことはない。優里菜の手が朱梨をなでることもない。慰めはしない。拒絶もしない。ただ互いが互いをほんの少し支えてやるだけ。
これが彼女たちの適切な距離。
たった一度だけの彼女の弱音が、月も見えない夜更けに溶けていった。
「……ね、朱梨さん」
「……なんだ」
しばらく黙ったままだった優里菜が、ふと窓の外を眺めながら口を開いた。
「もし、あなたの言う都合のいい状況が崩れてしまったら。
…………そのときは、わたしと一緒にいましょう?」
軽やかに立ち上がった優里菜は、そのまま輪舞を踏むようにくるりと回って、朱梨の正面に立って手を差し伸べた。薄暗い部屋の中、ぼんやりと見える優里菜の顔はにっこりと微笑んでいたように見えた。
「あなたの死体はいらないわ。一生、わたしと一緒に生きていましょう。大丈夫よ、わたしはあなたを離さないわ。だって、あなたの同類なんだもの」
それは、非常に甘美な響きを持つ誘いだった。
同性異性関係なく、相手を魅了させるのが優里菜の得意なことだ。いつもは朱梨はかからないはずだが、今は精神的に揺らいでいるのだろうか。
否、今の言葉は優里菜の本心だ。だから朱梨は今揺さぶられているのだ。それに気づいた朱梨はふっと笑って、差し伸べられたその手を取って立ち上がった。
「……そうか。ああ、それもよさそうだなぁ」
「うふふ、そうでしょ?……もう寝ましょう。わたしの隣で寝るつもりだったのでしょう? スペースは空けてあげるから、しっかり寝なさいね」
手を引かれて、そのままベッドに連れてこられた。壁側に寝ころんだ優里菜のその隣のスペースに横になって、朱梨は目を閉じた。画面の見過ぎで疲れていた目と脳は、あっという間に睡魔を連れてくる。そのまま意識を落とした朱梨の髪を少し撫でて、優里菜はひとり呟いた。
「……ほとんど完成に近いじゃない。……時雨さんはこの子をどうするつもりなのかしら」
そして優里菜は、ソファの上で横になっている彼に目をやった。起きているのか寝ているのか、ここからでもわからない。どちらでもいいかと結論付けて、やがて優里菜もまどろみに身を任せることにした。
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