死体の雨 序章

 時折、泡沫時雨は神代朱梨が真性のアホなのではないかと実感することがある。

 彼女の名誉のために補足しておくが、朱梨は特に勉学が苦手というわけではない。時雨ほどではないにしろ、なんだかんだ定期試験では平均点より上をキープしている。勉強の習慣がついていないわりに高い点数を取れるあたり、素で頭の出来が良いと言ってもいいほどだ。では頭の回転が遅いというかというとそうでもなく、基本的に時雨の話についてこれるくらいには知性は高いと時雨自身が評価している。

 では何故アホなのではと実感するかというと。

「いやほら、人間勝ち続けると止まれねえじゃん? それでちょっとブレーキ壊れちゃったっつーか、さっき勝ててたんだから次は勝てるはずっていう心理が働いたというか」

「四の五の言わずに結果だけ言え」

「生活費全額スッて無一文です」

 夕方の公園のベンチで途方に暮れる親友の現状を聞けば、そりゃ誰だってアホだと思うのが正しいだろう。



 ◇



「つーわけで金貸してくれ。私とお前の仲だろ」

「嫌だ。話を聞く限りお前の自業自得だろうが」

「だよな……わかった、二、三日体売ってくるから学校休むわ先生に連絡だけ頼む」

「それ言われて行かせると思うか? いいから給料日まで大人しくもやし生活してろ」

 給料日まであと何日あると思ってんだ、と抗議する朱梨の声を意図的に聞き流す時雨。何と言われようとすべて朱梨の行いが引き起こした事態なのでこちらとしてはどうとも思わない。流石に本格的にヤバくなったら助ける気はあるものの、しばらくは反省していてほしい。

「……というか、何をどうやったら麻雀で全額スれるんだ」

「え、お前賭け麻雀知らねえ? 点数で金額計算するアレだ」

「知ってる。ついでにお前のほうこそ賭博罪という言葉を知っていてほしい」

「1000点200円のレートでやったらボロ負けした」

「お前やっぱりもやし生活してろ」

 肩にかけた大きいギターケースをかけなおしながら、心底呆れた声で言い捨てる。

 時刻は夕方の午後五時頃。バイトの一環で呰見市北区の見回りに出ていた時雨がベンチに溶ける朱梨の姿を発見したのが大体五分前だろうか。夕日のオレンジに染まり、遊ぶ子供の姿もめっきり減ってしまった公園で途方に暮れる女子高生だなんて、見ようとしなくとも目に入る。

 案の定見知った女の子だったために一応声をかけたのだが、想像以上に酷い有様であった。

 どろ~っと溶けている親友の姿は見るに堪えない。

 基本的にあまり散財するタイプではないとは思うのだが、こうして馬鹿な使い方をする癖はいい加減改めてほしい、と時雨は切に願っている。今のところ改めそうな気配はないが。

「……そういうお前はバイト?」

「そう。見回り」

「ふーん。大変だな。あっ手伝ってやるからちょっとお金くれたりしない?」

「やらん。帰れ」

「は~~~お前はあの事故物件部屋に帰れと申すか。祈祷師の言葉とは思えねえな」

「故意に住んでるやつが何言ってるんだ」

 ぶーぶーと文句を垂れる朱梨と、冷静にいなす時雨。

 夕暮れの光は弱いが、まだ顔が見えなくなるほどではない。うっすら悲壮感漂う彼女の顔は多分意図的にこの表情をしていて、つまりはいまだどうにか時雨を相手に泣き落としができないかと思っているようだった。

「とにかく貸さないものは貸さない。金でお前との縁が切れるなんてまっぴらごめんだからな」

「うんうん、どうせ切れるなら死んで切れたいよな、ここまでくると」

「というわけだからお前はさっさとこの公園から帰れよ。ここだって危ないんだから」

 ……危ない。

 その言葉を聞いた朱梨はようやく表情をいつものものに戻した。

 他の人ならいざ知らず、泡沫時雨がいう「危ない」は、十中八九怪異案件が絡んでいるということを指す。特に今の彼は対怪異装備フルセットの状態の勤務時間中だ。そんな彼がここに来ているということは、つまりはそういうことなのだろう。

 ざーーーーーーーーーーーー。

 音質の悪いチャイムが鳴っている。午後五時を告げるものだろう。

 夕暮れの光は緩やかに西の空へとしまい込まれつつあって、彼らの頭上は橙と紫の混在した色へと変色しつつあった。遠くでカラスが鳴いているが、人の声はない。

「危ないって、またなんかあんの」

「行方不明者の多発。最近の失踪事件の多くがこの辺りでの目撃情報を最後に消息を絶ってる」

「へえ。お前らの見解としては?」

「そう難しい話でもなさそうだ。単純にこの辺りに怪異が居る。おそらくは近場での死亡事故が原因だろう」

「そうかい。それならまあ、面倒だけど私はさっさと帰るかな」

 よっこいせ、と重たげに腰を上げて伸びをする朱梨。横に置いていたスクールバッグを回収して、早めに帰ろうと自身の住むマンションの方へと足を向けようとした。

「……そういえば」

「?」

「前に真宮結々祢が言ってたってやつ。リョウメンスクナ。あれ、結局どうなったんだ?」

 振り向かないまま訊く。

 7月頃から時雨を通して聞いていた厄ネタ怪異情報の一つ、リョウメンスクナ。どうやら呰見近辺でその反応が確認されたようだったが、いまだ現物を回収したという情報は耳にしていなかった。

 ああ、と時雨は口を開く。

「まだ碌に情報も得られてないな。おそらくはあるんだろうけど、モザイクがかかってるみたいに位置が特定できてない、って感じだ」

「へえ、大変だな。ま、お前もほどほどに頑張れよ」

「朱梨はまず明日からのことも頑張ってくれ」

 なんて軽口を叩く。なんてことない、親友同士のじゃれあいだ。

 ざーーーーーーーーーーーー。

 音質の悪いチャイムが鳴っている。午後五時を告げるものだろう。

 夕暮れの光は緩やかに西の空へとしまい込まれつつあって、彼らの頭上は橙と紫の混在した色へと変色しつつあった。遠くでカラスが鳴いているが、人の声はない。

 …………。

「…………。は?」

「……前言撤回だ、。お前、帰るな」

 ざーーーーーーーーーーーー。

 音質の悪いチャイムが鳴っている。午後五時を告げるものだろう。

 夕暮れの光は緩やかに西の空へとしまい込まれつつあって、彼らの頭上は橙と紫の混在した色へと変色しつつあった。遠くでカラスが鳴いているが、人の声はない。

 いまだに音質の悪いチャイムが鳴っている。

 年季の入ったスピーカーなのか、やけに音質の悪いチャイムが、ずっと。


 流石におかしいと思った二人が顔を上げる。夕焼けの橙は違和感のあるほどに変化がない。紫が侵食しつつある空、それが数分経てども変化しないなどあるはずがない。それはまるで、時が止まってしまったかのよう。

 ――瞬間。

 時雨は朱梨の襟をつかみ、強引にドーム状の遊具の中へと滑り込んだ。

「は、――……」

「しゃべるな」

 時雨の大きな手が朱梨の口元を覆う。朱梨が一度頷いたのを確認して、時雨はゆっくりと手を離した。

 二人はこっそりと遊具の影から僅かに顔を出して外を確認する。


「…………。」


 長い、長い影。


 ゆら、ゆら、と揺れる姿は陽炎のよう。

 真っ黒なそれは、公園の入り口近くに立って、ただ何をするでもなく佇んでいる。

 その足元――……アスファルトの道路に広がる、酸化して黒ずんだ血液のようなシミが塗り重ねられていなければ、ともすれば無害とも錯覚しそうなほどだった。

 これが今回の、この公園における怪異情報の元凶だろう。

「…………。あれ、倒せばお前の仕事、終わり?」

「他にもあるが、まあこの公園の件は片がつくな」

「なるほどね。……ちなみに、あれが何なのかとか」

「――……」

 問われた時雨は、口元に手を当ててじっとその影を見つめる。

 真剣なまなざしは彼の端正な顔立ちと相まって非常に絵になる。ここにいるのが朱梨でなければ、少しぐらいは見惚れられてたのだろう。

 何かを思い出すような、記憶の底のデータベースから引っ張り出すような思考の後、時雨は静かに口を開いた。

「…………三か月前」

「ほう」

「この公園の入り口の前で交通事故があった。そのときの死者だ。外見の特徴が一部一致してる」

「…………アレに特徴とかあるか?」

「顔がつぶれてるのが特徴だ。事故当時の被害者の顔は。直で見たから覚えてる」

 …………うわあ、と声を上げそうになる朱梨。

 そういや三か月前こいつこの辺来てたな、事故の時に担当として呼ばれてたのか? と以前のことを思い出す。まだ高校一年生の時雨がこうも冷静にそういう現場を直視するなど世も末だ。

 当の本人はどこ吹く風、別にPTSDなども発症している様子はない。

「……時に泡沫。その話を聞くとアレは所謂被害者な訳だが……そのあたり、お前的にはどうお考えで?」

「何も思わないわけじゃない。けれどアレはもう被害を出してる、加害者だ。生きている人に害が及ぶ以上は、祓う義務がある」

「そうかい。――そういうことなら、ちょっとばかり協力してあげよう」

 そういって朱梨は遊具の中で腰を上げる。

 立てるほどの高さではないが、体勢になれれば十分だ。

「……おい、まて神代、」

「死因まではっきりしてるんならまあ、イージーモードだろ。頼んだぜ親友」

 

 そう言って、朱梨は、

 ――制止の声を振り払い、遊具の中から飛び出した。


「――ッ!」

 向かう先は当然影の方。

 一切のスピードを緩めることなくその怪異の前に対峙した朱梨は――刹那の悪寒に突き動かされ、咄嗟に体を傾けて回避体勢になる。

 ぴり、と頬に走る痛痒い感覚。そのまま身を捩って重心を傾け、勢いそのまま公園の低木に突っ込む。倒れ込む、と言った方がいいだろう。草が揺れる音を盛大に立てながら、朱梨は木の陰に隠れるようにして怪異の視界から外れた。

 引き擦れるような衝撃が前方の草木から伝わってくる。アレの死因は交通事故で顔がつぶれている、と来ればまあ、引き摺り圧し殺す類の呪詛が飛んでくるのは想像に難くなかった。

 注意を惹きつけつつ視界から外れたのは正解だったようだ。別に視界が関係なくともどうにかなる算段はあったのだが、これは嬉しい誤算だった。

 ざーーーーーーーーーーーー。

 未だ鳴るスピーカーの音が鬱陶しい。

 遠くから聞こえていたと思っていたそれは、どうやら潰れた顔の口のようなところから出ていたらしい。対峙した際にそれに気が付いて、うげ、と朱梨は嫌な顔をしていた。それがだんだんと近づいてくる。

 ざ、ざ、ざ、

 足音なのか雑音なのか、それもわからない。

 うるさく思えるほど、それが近くまで来ていた。


「――顔潰れてんなら、まあ。

 首も折れてんだろ、お前」


 影が朱梨の目の前に立った瞬間。

 バキッッッ!!! と大きな音を立てて、その潰れた顔が吹っ飛んだ。

「――……ッ」

 影の背後を取った時雨が、回し蹴りで正確にそれの頭部を撃ち抜く。僅かに発光する符が脚から見え隠れしている。霊的粒子の周波数に合わせているから、こうして物理攻撃が届いたのだ。

 確実に首の骨を折る、という気概を込めた一撃は見事で、吹っ飛ばしてすぐにその黒い影は解けてしまったのだった。


 その消滅を持って、この半分異界と化しつつあった空間が戻る。

 二人がぱっと空を見た瞬間に、聞き馴染みのあるメロディーがスピーカー越しに聞こえてきた。午後五時を告げるチャイムだろう。

 空は橙色で、じわじわと紫が侵食しつつある。その浸食具合は、じっと空を眺めているだけでどんどん進んでいっていた。じきに夜になりそうだ。

 低木の中で倒れこんでいた朱梨は、パッと立ち上がった。

「……おい」

「なんですか? 怖い顔しないでください」

「自分のやったことわかってるのかお前」

「囮役として怪異の前に立ちました」

「本当にやめろ」

「お前だって8月の時生身で立ってただろうが! ブーメランブーメラン!!」

 ぎゃあぎゃあと言い合う二人。朱梨は頬のかすり傷以外は特に外傷もなく、呪詛の残りカスもない。損失ゼロで勝てたのだから最善手だろ、と言い張る朱梨と、危ないことをするなと苦言を呈す時雨。

 ひとしきり言い合って、でもまあなんであれここの怪異は解決したことに変わりはない。とりあえず朱梨は帰って、時雨はこのまま見回りの続きを再開することに決めた。

「あ、協力してやったんだから金少しはよこせよな」

「お前それが目的で囮やったんだろふざけんな」

 と、軽々しく言いながらも別れる二人。渋々ではあったが、とりあえず時雨から金はもらえそうだ。これを頭金としてちょいちょいっと増やせば家賃ぐらいは払えるだろう。カスの思考回路をしながら、朱梨は自身の住むマンションへと帰っていく。


「――……?」


 その途中で、ふと顔を上げる。

 橙色の西の空。

 その輝きの中、一瞬だけ、

 不気味な鳥の姿が垣間見えた気がした。

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