第3話 水沫の檻を抜け出して

 公園で遊んでいる時のことだった。

 当時は四歳程度であったにもかかわらず、何故だか一人で公園に来て、大した知り合いもいないのに何かをして遊んでいた記憶があった。複数人で遊んでいた記憶があるから、きっと友達はいたのだろう。保育園にも幼稚園にも行っていなかったが(家に四六時中親はいるため)、交友関係については何ら問題はなかったらしい。


 秋の暮れだったと記憶している。

 何をするわけでもなくただ公園に来た俺は、今日は誰もいないことに少し落胆した。当時はまだスマホが出回り始めたくらいの時期であり、当然ながら携帯を持たせられているわけもない。友人に連絡を取ることも、ゲームで暇をつぶすこともできないが、家に帰ったところでやることがない。午後三時、今帰ったところで家には恐らく客がいる。母親の仕事は家で行っているらしく、まだ幼い俺には何をやっているのかはわからなかったが、来客の際には邪魔をしないくらいの気づかいは覚えていた。 

 仕方ない、と渋々納得した俺は、砂場にたった一人で遊んでいた。今思えば無人の公園に一人など危険極まりないが、当時は誰かが一緒にいた気がして特に警戒はしていなかった。

 ざくざくと砂の城を作っていると、ふと何かの気配を感じて顔を上げた。パッと見た感じは誰もいない。気のせいかと顔を下げそうになったが、よく見てみれば一人、恐らく同年代の女の子が遠くの花壇の縁に腰かけているのが見えた。

 なんだ。人がいるじゃないか。

 そう思って声をかけようと立ち上がって、


 ……立てなかった。

 ひどい寒気がしたからだ。


 俺はこの感覚を、四歳の時点でもう知っていた。母親の仕事の来客として来る人を見るたび、この感覚を覚えていたからだ。後から知ったことだが、母親の仕事は除霊のようなもので、つまりあの来客たちは何かに憑かれた人々だったのだ。

 無論この時点ではそんなことは知らない。本能的に嫌な予感がしていたのだけは今でも覚えている。


 じっと遠くの彼女を見た。見た目は普通の女の子だ。長い前髪のせいでほとんど目が隠れている。こちらではない何処か遠くを、心ここにあらずといった表情で眺めていた。


 怖かった。

 正直に言うと、彼女が幽霊のように感じて怖かった。

 しかし、俺は何故だか、その恐怖を抱えたまま、恐怖の原因である女の子のほうへと足を運んでいた。

『……なあ』

『…………? わたし?』

『うん、お前。暇そうにしてるから声かけた。やることないなら一緒に遊ぼ』

 彼女はしばらく答えなかったが、やがて無言で頷いて、花壇の縁からひょいと飛び降りた。



 ◇



 その女の子と会うのが二度目の時だった。

 前回と同じように花壇の縁に座って膝を抱えていた少女は、俺を見つけるとひょいと降りてとことこと小さな歩幅でこちらに寄ってきた。その瞬間にまた前回のような悪寒を感じたが、前回遊んだ時には特に何もされなかったので、表情には出すことはなかった。

 前回帰った時、母親から凄い形相で引きずられてお祓いのようなことをされた以外は、特に気にすることもなかったし

『遊んでいい?』

『いいよ。……ああそうだ。俺、名前言ってなかったよな。泡沫時雨だよ』

『うたかたしぐれ? なんて書くの?』

『えーっと……うたかたは確か、泡って書いてあとさんずいに……書いたほうが早いかな』

 四歳ではあったが自分の名前やその他少しぐらいは漢字を覚えていた俺は、その辺にあった棒きれを拾ってきて砂に字を書いた。

『こう書く。お前の名前は?』

『ないよ?』

『……ないのか?』

『うん。おじいちゃんと暮らしてるけど、おじいちゃんはわたしに名前をくれなかったの』

 だからうらやましいなあ、と言いながら、少女は俺の書いた字を真似て指で書いていた。

『おじいちゃんって、お前のお父さんやお母さんは名前を付けなかったのか?』

『うん。たぶんお父さんやお母さんはわたしのことあんまり知らないよ。わたし、別のところからもらわれた子だって聞いたし。お父さんには会ったことなくて、お母さんにはこの間初めて会った』

 相変わらず無表情のままぽつぽつと家庭状況を語ったが、当時の俺にはおおよそ理解できないものであった。両親がいて名をもらえるということは、当たり前のことだと思っていたからだ。

 そのまま女の子は無言でしゃがみ込んで、前回と同じようにざくざくと砂の城を作り始めた。

 俺も反対側から作るのを手伝った。お互い無言のまま、四十分くらいかけて完成した。結構大きな物を作ったため、かなりの時間がかかっていた。

『……名前がないって、かなり不便じゃないか?』

『……? おうちじゃ呼ばれないし、別に不便じゃないよ。遊ぶ人もいないから、とくに困らない』

『……俺と遊ぶとき困るだろ。俺、お前のことなんて呼んだらいいんだよ』

『これからも、遊んでくれるの?』

 女の子は顔を上げて俺を見た。ハイライトのないような澱んだ色の目をしていたが、その奥にはほんの少し期待のようなものがあるように感じた。


 怖かった。

 怖かったが、それ以上に。

 …………この女の子が、たった一人でいるのを見たくはなかったのだ。

 理由はわからない。不気味だと感じているにも関わらず、なおもこの少女にかかわろうと思ったその理由は、いまでも答えられない。

 俺が彼女の問いに答えたときに、ふっと微笑んだその表情が、今でも鮮明に思い出せるほどだった。




 ◇




『お前の名前、考えてきた』

『え』

 三度目にあった時に、俺はその女の子に唐突にそう告げた。当然驚いた女の子は目を丸くしてこちらを見ている。それにも構わず俺はこの間と同じように、そこらの棒切れを拾って砂に文字を書く。

『そういえばこれを考えてる時に思ったんだけど、お前苗字はなんなんだ? 家族がいるなら苗字もあるだろ』

『…………神代。かみさまの神に代わりって書くよ』

『神代か。でも俺はお前のこと名前で呼びたいから、ほら。朱梨ってどうだ?』

 砂場に小さく書かれた朱梨の字。それを反芻するように女の子はしゃがみ込んで、見様見真似でその字を指で書く。俺はというと、女の子がなにも反応しないのを見て、気に入らなかったかと不安になっていた。

『あかり、あかり、あかり、』

『うん、朱梨。結構可愛い名前にしようと考えたんだけど、気に入らなかったか?』

『…………ううん。わたしは好きだよ』

『そっか』

『うん。大切にするね、時雨。わたしのことこれから朱梨って呼んでね』

 ありがとうと言って、朱梨はまた砂場にしゃがみ込んだ。今日も砂で城を作るのだろうか。そう問うと、今日は万里の長城なるものを作ると返ってきたので、手伝おうと俺も彼女の正面に回る。朱梨は案外手先が器用で、細かい部分まで再現できる。しかしふ縺願?縺檎ゥコ縺?◆女の手を見ると逞帙>出来ており、霎帙>ら血が


 お腹が空いた。お腹が空いた。のどが渇いた。もう何日も食べたり飲んだりしていない気がする。そのくせ周りを気にして音に警戒しなければならないから神経も使う。おじいちゃんは今回は何人かなんて言っていなかった。さっき動かなくなったひとで最後なのかそれともまだ誰かいるのかわたしにはわからない。お腹が空いた。のどが渇いた。しにたくない。また公園に行きたい。あのこに、あのこにまた、うたかた……うたかた、しぐれに、しぐれにあいたい。助けてなんて言わないから、せめてあの吐き気がするほど清らかな手でわたしを引っ張ってくれるだけでいいから、おねがいわたしを見捨てないで。しにたくない。しねない。たべるものならめのまえにある。のむものならめのまえにある。これを食べないとわたしはしぬ。もう動けない。わたしは目の前にある肉のかたまりにかみついた。

 かたい。はきそうだ。でもまえほどつらくはない。もう舌がばかになってしまったのか。吐いてしまえば今してることの意味がない。

 その液体を飲んだ。のどにつっかえる感覚がするが、我慢して飲み込んだ。人間は三日すいぶんを取らないと死ぬらしい。でもわたしはもうちょっとだけ長く耐えれると思う。太陽は確か五回は沈んでいた。

 幼くなりつつあった思考回路も、形だけの食事を行えば少しは回復する。今公園に行っても時雨はいない。


 私の。私の名前はなんだった?

 …………私は神代朱梨だ。親友にもらった、大切な―



 ◆



「おーい時雨、寝落ちするのはいいけどせめて場所を考えてくれ」

「……………………」

「どうした? 私の顔に何かついてるか?」

 ソファに寝転んだまま寝落ちしてしまった時雨を、この部屋の住民である朱梨がぺしぺしと叩いて起こそうとした。寝る分には構わないが、横に寝られると座る場所がないので困る。時雨はそこそこ高身長なので、ソファを占領する形になってしまうのだ。

 朱梨に起こされた時雨は寝ぼけ眼で上体を起こすが、そのままじっと朱梨を見るだけだった。朱梨は少し不審に思ったものの、アニメを見ようと気にせずテレビのリモコンを手に取って電源を入れた。

「…………」

 髪をかきあげた時雨はそのまま横目で彼女を見た。

 神代朱梨。

 遠い昔に時雨が名前を与えた、たった一人の女の子。

 思い返せば、出会った直後はなんにも表情を変えない、少し不気味な少女だった。現在の朱梨とは似ても似つかない。いつからこんな男勝りな口調や言動をするようになったのか、と考えて、九割九分自分のせいだと気づいて少し反省した。昔から、朱梨はよく時雨の真似をすることが多かったのだ。今はそうでもないけれど。

 ……いいや、今だけは昔の彼女に少し戻ってしまっていた。

 七月下旬の黒い影の怪異。

 今なお朱梨の体の中に存在するそれを完全に消し去るため、神代朱梨は結染優里菜の言霊……否、暗示によってドーパミンとエンドルフィンの放出が止められてしまっている。そのせいか、いつものような覇気が存在せず、ずっと無関心そうな表情ばかりを浮かべていた。

 そんな彼女が心配で、時雨はこの一か月のほとんどを朱梨と一緒に過ごしていた。

(……前半は多分、ただの夢だ。俺視点だったし。ただ後半の夢……あれは本当か……?)

 ふと、先ほどの夢を思い出す。

 過去を想起する夢の途中で、ノイズのようなものが走ったかと思えば急に夢自体が切り替わる。これは過去に何度か経験したことがあった。チャンネルを切り替えるような、あるいは夢が混線するかのようなその感覚は、決まって誰かの過去を覗いている時だった。


 泡沫時雨には奇妙な力がある。

 他者の過去を覗くという、千里眼に似た力。


 ただし完全にコントロールできるわけではない。見たい時期の過去を見ることはできないし見たい人の過去を見ることもできない。寝ている際に最も近くにいる人の過去を、低確率かつランダムな時期で見ることがある、という使いどころに困る能力だ。

 時雨はよく朱梨の部屋に行っていたが、それでも今回が初めての発動である。これだけで、どんなに低確率なのかわかるだろう。

「……なあ、朱梨」

「どした? そんな深刻そうな顔して。また黒い影でも見えたか?」

 テレビの画面から目を離さず、朱梨は応じる。今朱梨が見ているのは超能力を持つ少女の物語だった。最近三期の放送が開始されたらしく、三か月ほど前に、これのために録画機器を買ったと嬉し気に言っていたのを思い出す。

 僅かに考え込む。あれが彼女のトラウマだとしたら、訊いてしまえば彼女を大きく傷つけることになる。……それでも何故か、本能のどこかが『訊かなくてはいけない』と告げていた。

「……いや、ほんとにどうした? ここまで渋るなんて珍しいな。別に私は何言われても平気だぜ?」

「……わかった。お前の気分を害してしまったらすまない。……お前さ、人喰ったことあるか?」

 彼女の動きが止まった。

 彼女自身の時間が止まったかのようだった。

 ぱち、と一回瞬きをして、ゆっくりと時雨のほうを向く。その目にはまるで膜が張ったかのように光がなかった。

 まるで、六月に見たあの怪異のような、怖い顔だった。

「ねえよ」

「……そう、か」

「なんでそんなこときくんだ? 誰かがそんなこと言ってた? もしかして優里菜?」

「ゆ、夢で見た。誰の口から聞いたとかそういうのじゃない」

 違う。朱梨の言っていることは嘘だ。

 直感がそう告げている。おそらく朱梨は過去、おおよそ十に満たないぐらいのころに人食いを経験したことがあるのだろう。それも自主的じゃない。そうしなければ死ぬという極限の状況下で行われた、意にそぐわない行為だ。

 あまりにつらすぎる。

 あまりに酷くて、時雨は多分一生かけても理解してあげることはできないだろう。時雨が暖かい家の中でご飯を食べているとき、朱梨は冷たい空間で生き延びるために一人で人の血肉を食っていた。この差はそう易々と埋められるものではない。

「ふうん。変な夢も見るもんだな」

「……そうだな」

「でもさあ、所詮夢は夢じゃん。夢占いがどうのーっていうのもよく聞くけどさ、無理に現実に持ってくるもんじゃねえと思うが?」

「…………あかり、」

「……………………いや、なんでそんなしょげた顔してるんだよお前。え、そんなにヤバくて気持ち悪い夢だった? 大丈夫大丈夫、所詮夢だぞーこっちが現実だからなー」

 よしよし、とまるで小さな子供を慰めるかのように、朱梨は時雨の頭を撫でた。それを拒否こそしなかったが、彼の表情は一向に変わらない。

(……気持ち悪い)

 朱梨から不審がられないように、時雨はこっそりと口元を手で押さえた。そうでもしないと胃の中身が逆流しそうでならなかったからだ。

 先程の夢を見てからずっと、胸のあたりのムカムカが止まらない。人が人を喰う光景を目の当たりにしたのだから当然だ。一般人と変わらない生き方をしてきた時雨には、食人とは忌諱すべき行為の一つだという認識が染みついている。生理的な拒否反応が出るのも仕方のないことだ。

 しかも先程の夢は、三人称視点でのものではなく一人称視点のもので、それがさらに不快感を煽っていた。まるで自分が人食いを行っているような錯覚を覚えるからだ。

 未だアニメが再生されているテレビ画面に目を向けた。暗転したその画面に、一瞬だけ朱梨と時雨の姿が反射して映る。朱梨は大して気にしていないのか、普段と同じような表情をしているだけだ。時雨の不調にも気づいていない。もっともこれは朱梨が時雨を見ていないというわけではなく、単に時雨が不調を隠すのが上手いだけである。実際、顔色も表情も何ら変わってはいなかった。


「……夢、ねえ」

「……? 夢がどうかしたのか?」

「いいや、さっきのお前の夢のこと考えててさ」

 ちょうど、エンディングが流れ出したころだった。

 ふと独り言のように朱梨が呟いた。どうやらアニメを見つつも頭の片隅では考えていたらしい。ソファの上で胡坐をかいた彼女は、膝の部分に肘をついて口元を手で押さえた。考え込むときの彼女の癖だ。

「お前のそれ、なんで私の過去だって思ったんだ」

「…………前例があった。それにその時と感覚がまるで同じだった」

「……へえ。だから私が人喰いを、ねえ」

「…………なあ朱梨。お前の味覚嗅覚異常って、後天的なものだろう」

 その一言に、朱梨の動きが止まる。驚きで目を見開いた彼女は、わずかに唇を震わせて彼を見た。

 やめろ、と彼の理性が警鐘を鳴らす。それ以上言ってはならないとわかっているのに、なぜか口の動きは止まらない。

「……なんで、」

「おそらく六歳ごろだろうと俺は踏んでるんだが、その辺で味覚と嗅覚が失われたんじゃないのか」

「…………、…………」

「それ以前は時々だけど、味や匂いに反応してる節があった。今でもよく覚えてる」

「…………」

「これは俺の過去視まがいの夢ありきの結論だから、怒っても構わない。……お前のその味覚障害と嗅覚障害、人食いを行った時の防衛本能によるものじゃ―」

 途端。

 言い切る前に、神代朱梨は彼の胸倉をつかんで乱暴にソファに押し倒した。

「……大正解。やっぱりお前賢くって頭に来ちゃうな」

「……」

「そうだよ。私は人を喰ったことがある。まだ覚えてるよ、人の肉の味とか、血が喉を通らないこととか、臓器の噎せ返るようなにおいだとかさ」

 彼女は怒ってはいなかった。

 時雨の上にまたがるように乗りかかった朱梨は、不思議なことに歪に笑っていた。

 何がおかしいのだろう。声音に喜びは一切含まれていないのに、切り離されたかのように表情だけが歪んでいた。

「……? あかり、まて、」

「あ? 別に取って食いやしねえよ、味もうわかんねえし」

「そうじゃない。一回落ち着け、今のお前、言葉と表情と行動がまるでぐちゃぐちゃだ。それじゃお前の本音はなんなのかわからない」

 え、と言いながら朱梨は時雨を掴んでいた手を離して、自分の口元に当てた。自分でも気が付いていなかったらしい。

 感情のコントロールがうまくいっていない。以前の朱梨ならこのような言動は絶対にしないと断言できる。時雨は上体を起こして、朱梨の片手を手に取った。

 ……震えている。

 その震えが何を意味しているのか、泡沫時雨は間違わない。

「……落ち着いたか。なら、ゆっくりでいいから整理して言葉にしてみてくれ」

 彼のその言葉に促されて、朱梨はゆっくりと自分の心境を咀嚼していく。なにも、今日が初めてじゃない。この一か月、何度もこう言った情緒不安定な挙動を引き起こしていた。

「…………多分、嬉しかったんだと思う」

「……嬉しかった?」

「……お前に、踏み込まれたのが。おまえ、別に私に限らないけど、人に執着しないじゃん。でもさっきからずっと、ちょっと踏み込んだ質問ばっかりで、そういうの初めてだったから、ちょっと嬉しかった」

「……」

「……でも、ごめん。ああ、私も意味がわからないんだ。私はおまえに知ってほしいのに絶対に知られたくないとも思えてしまうんだ」

「……そうか。こっちこそ悪かった。嫌なことを訊いたな」

 その背反する感情に、朱梨自身が整理を付けられていない。混乱する彼女の脳みそ。本来あるべき物質が欠落しているために、通常であれば引き起こされない言動が引き起こされている。それを本人が一番実感しているから、朱梨は弱弱しく縮こまることしかできない。

 手が震えていた。

 間違いなく、ドーパミンの不足によるもの。

 七月の怪異との耐久戦は、未だに続いている。怪異が消滅するのが先か、神代朱梨が死ぬのが先かの耐久戦。

 僅かに負け筋が見えている。

 もう、時間がないのが目に見えていた。



 ◇



 午後八時を回ったくらいの頃。

 朱梨の気を紛らわすために夕飯を食べてゲームをしたり夏休みの課題をしてるうちに、いつの間にか夜になっていることに二人は気が付いた。その頃にはある程度、朱梨の精神状態は普通に近い状態に戻っていた。

「じゃ、私風呂入るから。お前は二番目ね」

 なんて言って、朱梨は衣服を持って足早に風呂場へと消えていった。

「……俺は別に何番でもいいけど、せめて片付けてから行けよ……」

 ため息をついて、ローテーブルに散らばった麻雀牌をかき集めた。

 夕飯を食べ、無事に課題も終わらせ―最も、朱梨は全く手つかずだったので終わりは見えないが―暇を持て余した朱梨が取り出したのが、この麻雀であった。

 しかしながら、時雨は麻雀のルールを知らない。やったこともないし、やっているところを見たこともない。そのため今日は朱梨による麻雀のルールの解説をひたすらやっているだけだった。

(……まあ、一通りは覚えられたか)

 朱梨から渡された手書きのノートをぱらぱらと捲りながら、見様見真似で役を作ってみる。ポンだのチーだの、聞いたことはあるような単語たちはまだ完全には理解していないので、とりあえず役くらいは覚えておこう。

「……ん?」

 あるページで手が止まる。

 漢数字の書かれた牌である萬子の一が三つ、二から八が並んで九も三つ、そして特に指定のない萬子が一つ。その横には小さく『筒子、索子でも可』と書かれている。『九連宝燈』という名の役であった。

 この名前は聞き覚えがある。

 というのも、朱梨が度々零していた名前であるのだ。


「いつか九連宝燈とか作ってみてえな……萬子で……一度は見てみてえよ……」


 などとよく言っていたのを耳にしていた。麻雀について何も知らなかった時雨は、何言ってんだこいつ程度に聞き流していたが。

 ふむ、と一通り見た時雨は、麻雀牌の山から萬子の一を三つ探して並べてみる。そして二、三と続き、最後に九を三つ。ついでにもう一つ九。これが朱梨の目指している九連宝燈というヤツらしい。

 ……なるほど確かに、素人目から見てもこの並びは美しいし、そしてかなり難しいだろう。こんな役を作るには、まずかなりの豪運が必要になる。出したら死ぬ、なんていう迷信があってもおかしくないな、なんて考えながらノートを閉じた。

 ―ちなみに、この迷信は本当にあるのだが、この時の時雨はこれっぽっちも知らなかった。


「……あれ、」

 麻雀牌を片付けようと、それぞれの牌を数えている時に、一つ足りないことに気が付いた。確か紅中という牌だったか。朱梨が麻雀牌を出した時の記憶と照らし合わせても、間違いなく一個足りない。

 どこかに落としたか、とカーペットの上を見回す。

 あるいは朱梨の服のどこかに引っかかって脱衣所にある、なんてことも考えたが……幸運なことに、少し遠くの床に転がっているだけだった。何かのはずみで落ちたのだろう。近くはないが、遠くもない。ちょっと頑張れば届くだろう、と手を伸ばして―


 ―麻雀牌が、ひとりでに、浮き上がった。


「え、」

 手を伸ばしたままの状態で、時雨の動きが止まる。

 そんな彼にはお構いなしに、牌はふよふよと不安定な動きでテーブルの上まで移動し、糸が切れたかのように落ちた。かしゃん、と麻雀牌特有の音が鳴り、そしてその後は無音だった。

(―……なんだ、今の。ポルターガイストか? 幽霊なら見えるはずだ、し、……)

 目の前で起こった怪奇現象に、目を白黒させながらもテーブルに目線を戻そうとする。

 その、途中。


 唐突だが、いま泡沫時雨が座っているのは四角いローテーブルの前である。

 そのローテーブルの四方の先にはそれぞれ、掃き出し窓、ソファ、壁、テレビがあり、掃き出し窓と壁、ソファとテレビはテーブルを挟んで向かい合う配置となっている。

 現在時雨は壁を背にして座っているため、必然的に視線は窓の方を向くのだが―


 ―その、窓辺。

 薄手のカーテンがひかれているがそんなものはお構いなしに揺れるなにか。

「……っ、」

 知らず知らずのうちに、息をのんだ。

 彼の瞳孔は一瞬で開き、身体は石のように硬直する。末端が冷えていく感覚と、背筋に伝う悪寒だけ、彼の触覚は捉えていた。

 なにか、なんて言うほどでもない。


 それは、女の子の首吊り死体であった。



 ◇



『ああ、それ、うちに住み着いてる幽霊』

「……そういうこと、もっと早く言ってくれないか」

 あの後。

 暫く硬直していた時雨だったが、その幽霊が特に何もしてこないことを確認したので、ゆっくりと脱衣所へと移動した。風呂から上がった朱梨と鉢合わせ、なんてラブコメのようなことは起こらず、まだ風呂に入っていた朱梨に扉越しに声をかけた。そして返ってきた答えがこれである。

「じゃああれか。ここが事故物件っていうの、あの霊が原因なのか」

『まあ、前はあの子だけじゃなかったけどな。今はあの子が原因』

 ちゃぷ、と湯舟のお湯が揺れる音がする。

 湯を沸かしたのだろう。朱梨にしては珍しいことだ。

『あー、おい時雨、テレビの横に小さい棚あるだろ? そこの二段目にこっくりさん用の紙が入ってる。それと十円玉をテーブルの上に置いてみろ』

「……お前まさか」

『いやあ、前使ったこっくりさんシート、まだ使い道があるのは助かったよマジで。ほら行った行った』

 ドアにばしゃ、と湯をかけられる。ドアに寄りかかっていた時雨は、渋々といった感じに脱衣所を後にした。

 人よりは怖がりではないが、それでも仕事以外で積極的に関わりたくはない。面倒なのだ。それでも戻らないわけにはいかなくて、先程の部屋に再度入る。

 ……まだいる。

 ふらふらと揺れているその幽霊は、おそらく時雨たちと同じ年齢くらいだろう。セーラー服を着ているので、あるいは中学生かもしれない。この付近にセーラー服の高校はなかったはずだ。

 なるべく近寄らないように迂回しながら、指定された棚へと近づいて引き出しを開けた。朱梨の言う通り、こっくりさんに使うような紙が一枚入っていた。何故使用済みの物を燃やしていないのか小一時間問い詰めたいが、一先ず言われたとおりに紙と十円玉をローテーブルの置いてみる。

 ……途端。

 十円玉が小刻みに震えだし、やがて紙の上ですいすいと動き出した。

「…………」

 予想はしていたが、実際に目の前で起こると不気味だ。そんな彼に構うことなく、紙の上で縦横無尽に動いていた十円玉が鳥居の印の上で止まる。

 ふと時雨は目の前の幽霊を見上げた。

 俯いた顔には、笑みもなければ怨念もない。瞳が混濁していること以外、常人と何ら変わらない状態だった。

 ちゃりん、とお金の音がした。

 まるで急かすかのように、十円玉は浮遊しては落下するのを繰り返している。何か言え、ということだろう。

「…………あー、その、なんだ。お前、名前は?」

 物は試しと、一つ質問を投げかけてみる。


『よ』『み』『や』 『れ』『い』


 すいすいと、十円玉が迷いなく動く。やとれの間で僅かに静止したのは、ここが苗字と名前の区切れ目なのだろう。意思疎通が取れることに驚いた時雨は、目をぱちくりさせながら幽霊を見た。表情は変わらないが、心なしか揺れが大きくなっている。

「…………お前、この部屋の地縛霊か?」

『そうだよ わたしはここでしんだの』

 かなりのスピードで硬貨が動く。まるで話しているかのような速度だ。

「よみやれい、って言ったよな。よみやって、余るに宮って書くのか?」

『そうだよ れいはすうじのぜろのれい』

 よみやれい―余宮零と名乗る幽霊の少女。

 敵意はないようなので、一先ず警戒は解く。

 しかしよく考えてみれば、敵意があるなら朱梨が放置するはずがない。先程までの警戒は杞憂だったのだ。

「お前、何歳だ? 見た感じ俺や朱梨と同じくらいだが」

『きょうねんじゅうごさい ちゅうがくさんねんせい ほかはなにもおぼえてない』

「……死んだときに、記憶が飛んだのか」

『そうなるね なんかおぼえてたらよかったんだけど』

「一ついいか? お前、朱梨になんか悪さするつもりはないだろうな?」

『ない むしろわたしのおかげでやちんやすくなってるんだからむこうがかんしゃするべきだとおもう』

 それに、と硬貨は動く。

『わたしがしらせなかったらあかりはもういっこのかいいにやられてた あかりはわたしににじゅうにかんしゃすべき』

「もう一個の怪異?」

 硬貨の動きに目をやっていた時雨は、不穏な単語に眉をひそめる。怪異が複数いるのはあまり、というか非常によろしくない。この場所が自動的に怪異の溜まり場になってしまうからだ。

 しかし朱梨がここに引っ越してきてから二か月、時雨はよく来ていたが、そんな気配は微塵も感じられなかった。

「どんなのだ?」

『わたしがおしえてもいいけど そんなにながばなしはできない じゅうえんうごかすのつかれてきた あかりにきいて』

「…………わかった。あと、朱梨とはよく話すのか?」

『はなすよ まあじゃんもやる』

「……………………マジか」

目の前の少女も麻雀を嗜んでいたとは。

 時雨にとって麻雀とは暇を持て余した大学生がやりそうなイメージがあるので、まだ中学生の零がやっているのはあまり想像できなかった。

 その後硬貨は動かなかったが、やがてつかれたとだけ示して、あとは動かなくなってしまった。そして零本人の姿も空気に溶けるようにスッと消える。いつもはこうして消えていたのだろう。

 と同時に、風呂から上がった朱梨が部屋に顔を出した。

「風呂あがったぜ。零は? もう消えたのか?」

「ああ。じゃあ次俺入るから……おい。もう少し格好どうにかしろ」

「文句言うな。風呂上がりはいつもこの格好だ」

 ほかほかと蒸気を漂わせながら、ドカッと勢いよくソファに座る朱梨。彼女の格好は、白のタンクトップにホットパンツというなんとも彼女らしい服装になっていた。

 彼女の無頓着さに呆れたようにため息を吐く時雨だったが、何を言っても無駄だと判断したようで、すぐに着替えを持って風呂場に向かって行った。



 ◇



「さて、今日もなんか話しようぜ。鬱防止だ」

 午後十時。

 早々にベッドに寝転んだ朱梨は、肘をついて手に頭を乗せて、向かいのソファにいる時雨と向き合う。今日に限り、ソファの方向は反転させた。そうしないと話そうにも顔が見えないからだ。

「まずこの部屋にいた怪異について。それ話したら俺も何か話してやる」

「……零のやつ、話したのか」

「いるってことだけしか聞いてないけどな」

「それがマズいって言ってんだよクソ。……わかった。今後の対策も兼ねて話す。けど時雨、今日は札とか持ってきてるよな?」

「ああ、問題ない」

「わかった。なら話すけど、用心してくれ。そもそもアレは『存在しない』って無理やり定義づけして対策してるだけに過ぎないから」

 そう言って、朱梨は上体を起こしてベッドの上で胡坐をかく。いつもの体勢になった朱梨は、以前―ここに引っ越してきたばかりの、二か月前ほどにあった怪奇事件を、ぽつぽつと話し出した。



 ◆



 これはまだ私がこの部屋に引っ越してきて三日と経たないうちに起きたことだ。

 もともと私には生活必需品があまり必要ないから、荷物もそんなになかったんだ。強いて言うなら漫画やゲーム機がかさばったくらいだな。まあこんなのはどうでもいいや。

 なあ時雨、お前はこの部屋を見て違和感を感じないか? 部屋というか、間取りだな。そ、どう考えてもあと一部屋あるはずなんだ。……隠しても流石にバレるか。そうそこ、私が意味もなくポールハンガーを置いてる後ろだ。壁紙張って擬態させてるけど、ドアノブはどうしようもないし。

 でまあこれが問題のやつでさ。

 あとから優里菜にも聞いてみたけど、アイツの部屋にはこんな空間はないらしい。というかなかった。私が目測だけど測ってきたからな。

 ……ちょっと脱線したな。

 まず一日目。ベッドだけ整えて早々に寝た。越してきた日はいろいろあってさ、疲れてたんだ。秒速で寝たよ。

 で、だ。

 私は一回寝たら朝まで起きないタイプの人間なんだ。それなのに、その日は真夜中にふっと目が覚めた。確か二時半くらいだったな。まあでも、疲れてたら逆に眠れないなんてこともあるし、それと同じようなものかと思ってひたすら目を閉じてた。暗い中でスマホの画面を見るのもつらかったしな。

 そうしたら、遠くで何か聞こえる気がした。

 初めは幻聴かと思った。静かな中で聞こえる錯覚の音だって。でも違う、それは決して幻聴でもなんでもなくて、確実にどこからか聞こえる音だった。

 どんな音かって? ……それがなぁ、上手いこと表現できないんだよ。こう、なんだろうな……何かを鳴らすような音のような……まあ、そんなもん。でもその日は特に気にせずに寝た。どっかの近所迷惑な住人がトランペットでも吹いてんだろって思って。今思い出しても全くトランペットの音色じゃなかったけどな!

 話戻すな。

 朝起きると、件の部屋の扉が僅かに開いてた。引っ越し当日はまだあんな風に封鎖していないから、当然ドアのまま。ちょっと覗いてみたけど、特に何も変わりないと思ったからすぐ閉めたよ。

 え、中? 和室だよ。畳が敷いてあって、ひとつ仏壇が置いてあった。そんだけ。仏壇も部屋の入り口から見ただけだから、詳しいことは知らない。

 で、これはものすごく間抜けだなーって今でも思うけど、よくよく思い返してみたら、不動産屋さん紹介されて来たとき、この部屋はなかったはずなんだ。風呂からキッチンまで全部見たはずなのに、畳の部屋を見た記憶はない。まるで私がここに住み始めてからこの部屋が出現したみたいだった。この時私はそれに全く気付いてなかったけどな。

 で、二日目。

 昼は何もなし。夜になって、私は零と会った。霊じゃないぞ? 余宮零。最初は驚いたし警戒したけど、ちょうどその日クラスメイトから預かったこっくりさんシートを持ってたからそれで意思疎通できた。……霞? ああ、そういやそうだったな。

 で、零と話してるうちに寝落ちした。

 またパチッと目が覚めた。昨日と全く同じ時間で、ちょっと気味悪く感じた。流石の私も女の子なんでな、メンタルも思ったより強くないんだ。テーブルに突っ伏して寝てたから身体が痛くて、このまま寝るのは嫌だからベッドに行こうとした。

 また音が鳴っていた。

 ぼーん、ぼーん、って……ああ。なんだ。あれ、りんだ。りんを鳴らした音。あれ、ホントならチーンって鳴るはずだけど、妙にくぐもった音になっていたというか……

 そして音の出所もわかった。

 和室だ。この時ようやく、初めて訪れたときにあの和室を見ていないことに気づいた。気づいたタイミングが最悪すぎて背筋が凍った。すぐにベッドに行って布団被って寝ようとした。

 音が止まった。

 私は心底安堵した。そして一瞬でそれは絶望に変わった。

 畳を歩いている音がする。

 畳を擦って歩く音がする。

 こちらに来ている音だった。

 私、耳はいいからさ。音で大体の状況は見当がつく。つくからなおさら絶望だった。だってこっちに来てるんだぜ? 大抵のホラー小説だったら確実にデスエンド待ったなしだろこの状況。

 布団にくるまってるから武器も何もない。

 未知の存在を相手に拳が通用するかもわからない。

 というかアレの放つ気配が幽霊とかそんなもんじゃない。謎のナニカ。異形の存在。この世に存在してはいけない厭なもの。まだ八尺様と対面した方がマシ……ごめん盛ったわ、流石に八尺様のほうがヤバいわ。……? 続けるぞ。そんで―私は、強制的に気絶することを選んだ。

 咄嗟に首筋の頸動脈を指で押さえて血流を止めた。しくじったら死ぬけど、何回もこの方法はやってきたから加減はわかってた。

 ……まあ、愚策極まりないけど。

 それでも、アレを目視するのだけは死んでもゴメンだった。見た瞬間に精神が汚染されるって直感でわかった。


 ……目が覚めたら、朝だった。

 意識が浮上した瞬間に猛烈な吐き気に襲われて、慌ててトイレに行ってゲロった。その吐瀉物を見た瞬間に心臓が止まったよ。

 泥だ。真っ黒な泥。

 あるいは、コールタールって言う方がいいかな。

 胃の中が空っぽになるまで吐いた。空になってもまだ何か吐き出そうとしてた。意味もないのにぼろぼろ涙が出てた。多分幻聴も聞こえてたね。布団越しにアレの精神汚染を食らったのか知らないが、とにかくその日は精神状態がかなりヤバかった。

 ま、原因不明の身体の倦怠感と関節の痛みがあったから、それに対する苛立ちもあったのかもしれないな。

 ぼろぼろの状態でこの部屋に戻ると、まあ大惨事。

 窓ガラスには黒い泥の手形が無数についてるし、飲みかけだったペットボトルの水は濁ってるし。布団は荒れ放題、ベッドのそばの床から問題の部屋に向かって、何か引きずったかのような黒い跡がついてるし。おまけに部屋全体が煙に包まれたような感じになっていた。がっつりってわけじゃないけど、なんとなく天井がぼんやりしてた感じ。火災報知機が鳴らなくて助かった。

 とりあえず窓だけ開けて、包丁をキッチンに取りに行った。さっきからずっと幻聴が聞こえて限界だった。まるで精神が私じゃないような感覚でさ。

 でも、まあ、何を思ったか、包丁をテーブルの上に置いてしばらくぼぅっとしてた。

 死ぬといろいろ迷惑かかるしな、なんて呑気に考えれるくらいには大丈夫だったみたいだ。

 まるで鬱患者のようにただ一点を見つめたままぼーっとして、ふと残りの荷物が入っている段ボールに目を向けたんだ。確か、小物関係を入れてた小さな段ボール。

 その中に、ちょっと前にお前がくれた人形も入れてたんだ。なんだっけ、クレーンゲームかなんかで取ったって言ってたやつ。

 その人形の首が折れていた。

 その瞬間に、私の心の中の陰鬱とした気持ちは消し飛んだ。ブチ切れたよ。てめえ時雨がくれたもんをなに勝手に壊してんだって感じに。

 今思い返しても単純すぎて笑えるね。

 で、勢いそのままに問題の部屋に乗り込もうとしたんだ。今日も若干扉開いてたし。そしたら、零が十円玉をチャリンチャリン言わせて私を引き留めた。置きっぱなしだったこっくりさんシートに硬貨を滑らせてるから何言おうとしてんだって思って見たら、『あの部屋にだけは死んでも入るな』だって。

 最悪アレの姿を見てもいい、ただあの部屋に一歩踏み入れたらその時点でもう終わり。そう警告してくるから、とりあえずその忠告だけは守って私はあの部屋のドアを勢いよく開けた。

 ……

 …………

 ………………

 いや、正直に言おう。アレは私の手に負えない。

 扉を開けたとき、私はアレの後ろ姿が見えた。仏壇の前に座った状態のアレが。

 和室に電気はついていなかった。光源は仏壇の蝋燭の火だけだ。

 何もかもが異常だった。

 入るなと言われたのにも頷ける。

 和室の壁に、無数の人影が揺らめいていた。

 仏壇の位牌と思われる部分が、まるで血でも被ったかのように真っ赤に染まっていた。


 目の前の異常な空間に固まった私に気づいたのか、アレはこちらを向いた。正常な向き方ではない。首だけが正反対にぐるんと回った。

 老婆だ。

 老婆の皮を被ったなにかだ。

『ひっ―!』

 我ながら随分と情けない声だった。

 老婆の目は、ぽっかりと黒く空洞があるだけ。

 口は、釣り上げた不気味な笑み。

 手や服は、あの黒い泥にまみれている。

 それが―こちらに向かってきた。

 ホラーとしては王道だが、それ故にすさまじいほどの恐怖感を煽ってきた。


 ……だが。

 この程度の恐怖に屈するようなら、私は今日まで生きてはいない。

 悲鳴をあげそうになったのを、歯を食いしばって耐える。震えだした手に力を入れて、限界まで握りしめた。

 もう一か八かでしかない。あれが幽霊の類なのであれば私の負けだ。だが、もし。もしも、アレが霊的粒子で構成された存在でないのなら―ボコって部屋に追い返すしかない。


 忠告通り、部屋の中には入らない。

 ドアの外で、老婆を待ち構えた。

 増大する恐怖。這い上がる悪寒。逃げたいと叫びそうになるたびにそれはできないのだと叱咤する。後ろに余宮零がいるからだ。間違いなく怪異としての格はアレのほうが上。私がここで逃げれば標的が零になる。

 死を覚悟して、全力で老婆の胸部をぶん殴った。

『―、―‼』

 理解できない言語でソレが何か叫ぶ。

 しかしダメージは入ったのか、私の足元にソレは倒れこんだ。賭けに勝った、やった、と安堵の気持ちが広がる。

 それが油断だった。

『―ッ‼』

 足元に倒れた老婆は、私の足を掴んで部屋に引きずり込もうとした。

 バランスが崩れて、よろける。

 ここでのそれは確実に死につながる。ここで倒れてしまえば確実に部屋に引きずり込まれる。そしておそらく壁の人影の一員となってしまう。それは嫌だ。でももう打開策はない。手でつかむものもない。もう半分くらいバランスは崩れている。

 万事休す。これが終わりか、と諦めようとして、


 老婆の手に、包丁が刺さった。


『―ッ、零ッ……‼』

 

 老婆が痛みにひるんだ隙をついて、崩れかけていたバランスを利用して空中で身体を捻り、老婆をあの部屋の中へ蹴り入れた。

 包丁の痛みで、老婆の手には一切力がこもっていない。まるで靴飛ばしのように、老婆は軽やかに部屋の中へ吸い込まれ、仏壇に衝突した。

 それを確認する間もなく、私は急いで扉を閉めた。

 そこで、ようやく、緊張の糸が切れたのか一気に汗が噴き出てきた。

 扉に寄り掛かりながら倒れこんで、私自身の異変に気付いた。さっきつかまれた片足がビクともしない。さっき蹴り入れられたのは火事場の馬鹿力だろうか。酷い痣ができている。

 窓辺の零が不安げにこっちを見ている。大丈夫だという意を込めて手を振って、なんとかして立ち上がる。近くに置いてあった未開封の段ボールを漁って、予備として買っておいた同色の壁紙を取り出した。

 私は封印とか、その手の知識はまるでない。

 だから、扉に壁紙を張って擬態させることにした。

 そんなものははじめからなかったのだと、存在を否定する。

 それしか、私にできることはなかった。


 ……で、今に至る。

 正直零のアシストがなきゃ死んでた。ゲームオーバーだ。だから零は私の命の恩人なんだ。

 でだ。この封印作業が終わった後に零に訊いたんだが、アレは零よりも前からこの部屋にいたらしい。というか、零がああやって死んだのアレのせい説もあるんだってよ。本人、生前の記憶が無いからわかんねえけどな。

 私も、金輪際アレとは顔合わせたくないね。

 え、じゃあなんでここに住んでるのかって? いや決まってんだろ。家賃やすいからだよ。やっぱ月三万の魔力には抗えねえわ。

 ……どうした、さっきから挙動不審だけど。

 ―クソ、やっぱりかよ。線香の匂いがするってことは、多分もう扉の向こうまで来てる。



 ◆



 ……結論から言うと。

 若干キレ気味の時雨による封印作業により、正体不明のアレとの二度目の戦闘は免れた。持ち合わせていたお札をひたすらペタペタと張っていく姿は鬼気迫るものがあった。おかげで部屋の一角が若干不気味になってしまったがそれはそれ、アレとの対面を避けてくれたのは感謝しかない。

「ほら見たことかよ。怪異の話なんてほじくり返さないほうがいいんだ」

「話してくれと頼んだのは俺だし、悪かったとは思ってる。でもお前、こういうのさっさと俺に伝えてくれ。俺なら結々祢さんと繋がりあるんだから、手の打ちようもあるんだし。……ああ、だからあの日、俺に部屋にいてくれって必死に頼んでたんだな」

「そういうこと。割とマジで生命の危機だったんで。ほら、昔からお前がいると大抵の怪異はビビッてどっか行くから有効かなって」

 けらけらと笑いながら朱梨は言う。実際、朱梨の言う通りそこら辺にいる怪異なら、時雨がいるだけで近寄らなくなる。ただこの怪異はどう考えても『そこら辺にいる』レベルではないのだが、いったい朱梨は何を考えていたのだろう。

「はい私の話終わり。次お前な、なんかねえの」

「……別に面白い話なんてないぞ」

「なんでもいい」

「……俺の初恋の話か、俺の眼が黒色になった時の話。どっちがいい?」

「えっどっちも気になるんだが? ……両方という選択肢は、」

「無い。どっちか選べ」

「えー……初恋のほうで」

「わかった。……ただ、一部分だけ表現できないところがあるけど、それでもいいなら」

 うん? と含みを持たせた彼の言葉に少し首をかしげる朱梨。

 そんな彼女に構うことなく、時雨も話をし始める。

 ある意味、彼にとって一番の転機である話を。



 ◆



 これはまだ俺が十にも満たない頃の話だ。

 夏の終わり、あと一週間ぐらいで夏休みが明ける、ってぐらいの時だな。当時、親戚かなんだかの家に親父と二人で行ったんだ。ここよりずっと北のほうの田舎だった。川や田んぼや森が多くて、随分と自然の多い村だった。

 その村に行った理由が確か何かの集まりで、妖怪関係で親父が呼ばれたらしい。実際そう緊急のものでもなくて、昼頃にはある程度用事も終わっていた。だから、俺は親父と一緒に近くの川辺に行って釣りしてたんだ。それが俺にとって初めての釣りだったな。親父の唯一の趣味が釣りで、その上その川は大層綺麗で魚が多く泳いでいて、親父はポンポン釣ってた。俺もそれに倣って、見様見真似で糸を垂らしていた。

 釣りを始めて一時間ぐらい経った頃だろうか。

 集まりにいた一人が、遠くから親父を呼んでいた。

『……時雨、もう戻るか』

『え、嫌だ。俺まだ三匹しか釣ってない』

『俺が呼ばれてる。三匹釣れれば十分だ。戻るぞ』

『親父はもっと釣ってるだろ。もうちょっとやる』

 この頃の俺はまだ少し負けず嫌いが残っていたようで、何度言われても竿を持ったままそこから動こうとしなかった。やがて親父も諦めたのか、周りを見渡して危険がないか確認した後に、川に入らないよう釘を刺してからその場を離れた。親父曰く、年の割には馬鹿じゃないから大丈夫だと思ったらしい。今考えれば、まだ十歳にも満たない子供を川辺に一人にするなんて危険すぎると思うけどな。でもまあ、俺もその言葉を守って、川に落ちないように気を付けて一人で釣りを続けていた。

 五匹目を釣ったころ。段々とコツを掴んできた俺は、ふと思い立って場所を移動することにした。景色に飽きたのかわからないが、なんとなく上流のほうで釣りたくなった。元の場所から見える程度かつ、そこより少し森のほうに入ったところだ。若干薄暗いが心地のいい空間だった。

 気にならない程度に緩やかな風が吹いて、周りの木の葉が揺れていた。呰見では聞けないその音をぼんやり聞きながら水面を見ていた。時折魚らしきものが光を反射して、きらと光って綺麗だった。

 ……釣れない。

 とはいえ焦るわけでもない。さっきだって、約二時間で五匹やそこらだったのだから、魚の機嫌が悪くても別に気に留めない。こうして糸を垂らしてのんびり待っている時間のほうが楽しくなってきていた。魚影はさっきからいくつか見えている。待っていればいつかは食いつくだろうと水面を見渡して、

―手が、見えた。

『―……っ!』

 ……誰かがおぼれている!

 その結論に至るまでは早かった。両手で持っていた竿を放り出す。川幅のちょうど中間あたりに、青白く力の入っていない手が見えた。大きさ的にそう大きな人じゃない。大人を呼ぶ、という選択肢がこの時の俺の頭からはすっぽりと抜けていた。はじかれたように立ち上がる。靴を脱ぐこともないまま川の中に一歩踏み出した。

 片足が水で濡れる。

 助けなければ。

 その考えだけがあるまま、もう一歩も踏み出そうとして。


『駄目よ』


 ぐい、と後ろから肩を掴まれた。

 え、と思う暇もなく、引き戻されて、川に浸かっていた片足も引き上げられた。勢いに負けて、砂利の上に倒れこむ。一瞬呆然として、でもすぐにあの手のことを思い出して上体を起こして立ち上がった。

 ……いや、正確には立ち上がろうとした。

『駄目ったら駄目。川に入っちゃ駄目よ』

 そう言われて、手で軽く頭を押さえつけられた。

『どうして⁉ おぼれてる人がいるだろ⁉ 助けなきゃ、』

『そう? それならどうして、胴体が見えないの?』

 そう言われて、ハッとした。

 川は綺麗に澄んでいる。濁りは一部分も見受けられない。魚の鱗が日光を反射しているのが見て取れるぐらいだ。それならば何故、手の部分しか見えなかったのだろう。

 ……答えは簡単だ。そこには手しかなかったのだ。

『……、あ、』

『そ。だから川には入っちゃ駄目。あなたが溺れちゃうから』

 頭を押さえつけていた手が優しく俺を撫でた。そうしてその手が離れた時、俺は初めてその声の主を見上げた。

 ……。

 …………。

 悪い、言葉が出ない。その人をどう表現したらいいかわからないんだ。今の俺には、その人の記憶がほとんど残ってない。どんな声をしていたか、どんな髪色をしていたか、髪の長さはどれくらいだったか、瞳の色は何色だったか、どんな服を着ていたか、名前は何というのか。全部覚えてない。この日起きたことは全部昨日のことのように思い出せるのに、あの人だけ何も思い出せない。ぽっかりと穴が開いているみたいだ。

 ただ、綺麗な人だったことだけ覚えている。

 間違いなく、これまで生きてきた中で一番。

『……諦めたみたいね。もう大丈夫よ、立てる?』

 手を差し伸べられる。俺はというと、その手を取ることもなくただ茫然とその人を見るだけだった。なかなか立ち上がらない俺に小首を傾げたその人は、やがて手を引っ込めて、俺の隣にしゃがみこんだ。そして俺の顔を覗き込んで、にっこりと笑いかけた。

『こんにちは。見たことない顔だけれど、どこから来たの?』

『え、あ……えっと、呰見市から来た。ここよりずっと南のとこ』

『あら、そうなの。わたし、行ったことないのよね。ここよりずっと都会なんでしょう?』

『そう……あの、お姉さんはここの人なのか?』

『まあ、そうね。ずっと前に他から引っ越してきたの。あ、そうだ。わたしの名前、     って言うの。あなたのお名前は?』

 さっき言ったように、今の俺にはこの人の名前が思いだせない。

 この時この人のことを名前で呼んでいたらよかったかもしれないが、当時はその人を『お姉さん』って呼ぶばかりだった。

『泡沫……泡沫、時雨』

『ふふ、じゃあ時雨くんって呼んでもいいかしら』

 そう言ってにこにこと笑っている。そうして、すっとある方向へその綺麗な指を向けた。ちょうど、その人から見て俺越しの向こう側のほうだった。

『あの祠、見える?』

『……ああ。あれが、どうかしたの』

『さっきの手、あれが原因ね。あんなもの作っちゃったからああいう怪異が生まれたのよ』

『……? 祠って、神様を祀るためのものだろ? なんで怪異の原因なんだよ』

『そうねえ、あれはどちらかというと溺死事故が起きませんようにっていう願いの側面が強いわ。昔、何度かここで溺れて亡くなるって事故があったの。不運にもそれが立て続けに起こったから、村の人は怪異の仕業だっておびえちゃったのね。だから祠を作って、神様を呼んで、怪異から守ってもらおうとしたのよ』

 でも、と続ける。

『そもそもね。この地には怪異なんていなかった。連続した溺死事故は本当にただ偶然起こったことなの。でも、ねえ。人が勝手に想像して、神様まで呼んじゃったんだから。本来『存在しない』ものが『存在する』ようになるのにそう時間はかからないわ。人々の共通意識と、呼ばれた神様の発する神気を元手に生まれて、あとはああして川に人を呼び込んで食べちゃうの。そうして怪異に『成って』いって、今じゃほんとに怪異の仲間入り』

『人が怪異を作った、ってことなのか』

『そう。だからこの辺は普通人の来ないところなんだけど、今日は珍しく人がいたからね。珍しくて見ていたけど、また食べられそうになってたから助けちゃった』

 これ以上大きくなっても困るしね、と笑っている。

 かわいい。

 綺麗な人だと思ったけれど、笑った顔は可愛かった。俺は別に特別照れ屋というわけでもないし、これまで年上の女の人とは何人もあってきたのに、ここまで口が回らなくなるのは初めてで、多分口を開いては何も言わないまま閉じるのを何度もやっていたと思う。それがおかしかったのか、お姉さんはふふ、とさらに笑っていた。

『ねえ、時雨くんが暇なら、折角だからわたしと一緒に遊ばない? ここよりもっとずっと綺麗で落ち着く場所、知ってるの』

『……うん、暇だし行く。でもその前に、親父にこの釣り竿を返しに行かないと』

『そう。ならわたしはここで待ってるね。夕方までには帰るって、ちゃんとお父さんに言っておいてね?』

 わかった、と了承して、釣り竿とバケツを持ってその場を離れた。親父のいる場所は大体見当がついている。水の入ったバケツは重いはずだったのに、何故だか足は早まっていた。

 顔が熱い。

 滅多なことでは上がらない心拍数が、死にそうなほどに上昇する。

 心が、大きな鈍器で叩き割られた気分だった。感情のあらゆる機能が麻痺している。一言話すたびにその欠片が零れていって、そのたびにあの人に拾われている気分だ。人に恋をする、というのは能動的なものだとずっと思っていた。でもまるで違う。こんなものが能動的であるのなら、あらゆるものが能動性を帯びてしまいそうだ。一目惚れだった。その姿を目にした瞬間、その声を聴いた途端、生まれて初めての感情で心が殴り殺された。有体に言うなら、心を奪われた、ってことになるんだろう。奪われたって形容するには衝動が大きすぎるけれど。

 途中で、後ろを振り返った。

 あの人は約束通り川辺に佇んだまま、遠くの俺に小さく手を振っている。

 綺麗で。

 可愛くて。

 それ以上に何故か、意識を惹く何かがあって。

 ……一切の抵抗ができなかった。

 これが、俺の。

 泡沫時雨の初恋だった。



 ◇

 


『最初はどうしよう。ねえ時雨くん、時雨くんって神社とか、好き?』

『うん、好きだ。伯父さんが神主やってるから』

『へえ、そうなの。ならそうねえ、無人だけどあっちの神社に行こうか』

 再びお姉さんと会った時には、午後三時を回っていた。

 日が暮れるまであと二時間と少し。そう考えるととても名残惜しかった。親父のところから戻ってきたとき、お姉さんは近くの大きな岩に腰かけていて、そばにあった小さな石を、ぽーんと軽く川辺に投げるのを繰り返していた。よくよく考えればそこはちょうど怪異の手があった場所だったが、そんなこと当時の俺は全く気が付いていなかった。

 戻ってきた俺に気が付いたお姉さんは、投げようとしていた石をポイっとそこらに捨てて立ち上がって、またさっきのようににこっと笑って俺に問いかけた。

 神社は好きだと答えた俺に気をよくして、楽し気に歩き出す。俺もそれについていくように追いかけた。手は繋がなかったが、俺にとってはありがたかった。少し前のとあることで、年上の女性と手を繋ぐことが軽いトラウマになっていたからだ。

 川を離れて、田んぼのあぜ道に出る。そのまままっすぐ道なりに進んで、舗装されてはいないがきちんとした道に出る。集まりがあった公民館とはまるっきり逆方向だ。

『あ、駄菓子屋見つけちゃった。時雨くん、ちょっと寄っていきましょうか』

 そう言って、近くにあった駄菓子屋にすっと消えていく。その背をまた追いかければ、お姉さんはアイスの前で少し悩んでいるようだった。

『んー……時雨くん、何味が好き?』

『……普通のソーダ味かな』

『そう。ならこれ二本買いましょ』

 決めるや否や、さっさと会計を済ませてその店を後にする。出会って少し経つが、このお姉さんはかなりマイペースなところがある。きっと俺を助けたのも、そのあとこうして一緒にいるのもただの気まぐれなんだろう。でも、たとえそうだとしても、こうして二人で話していられるのはとても嬉しかった。そのまま二人で棒アイスを齧りながらのんびり歩いていた。

 呰見がどういうところなのかとか、お姉さんも怪異が見えることだとか、この村にはいたるところにお地蔵さんや祠といったものがあることだとか。最後の話題だけは、何故か少し拗ねたかのような声音で言っていた。

『なあ。今から行く神社って、どんなところなの』

『そうね、結構珍しいんじゃないかしら。ほら、もうすぐよ』

 そう言って、お姉さんはすっと森のほうを指さした。

 しかし見たところ神社らしきものはない。あるのは鬱蒼とした木々と、その中でもひときわ大きな大樹だけだ。訝し気にお姉さんを見ると、クスッと笑って指さした方向に歩いていく。慌ててその後を追って、大樹のほうへ近づいて、そこでようやく見えなかった理由が分かった。

 下り宮だったのだ。

 石の階段は古すぎる上に乱雑で降りにくい。そんなことを気にするそぶりもなくお姉さんはひょいひょいと降りていく。苔で足を滑らせそうで少し怖かった。

 若干の畏れも感じさせる薄暗い境内に、お姉さんはなんの躊躇いもなく降り立った。

『どうしたの? はやくおいで』

 お姉さんは俺に手を差し伸べるように伸ばした。

 見るからに廃れた神社。

 祀られていたはずの神様もどこかに行ってしまっていたようだった。決して大きくはない神社だったが、本殿が大樹に半ば飲み込まれている形なのが異質さを増していた。

 そんな中で、お姉さんは、何も気にするそぶりなく笑っていた。

 たどたどしい足取りで階段を下りる。

『……お姉さん、ここ怖くないの』

『怖くないわ。ここには何もいないもの』

『下り宮の神社なんて、初めて来た』

『そうねえ、草部吉見神社も、鵜戸神宮も、今はもう行けないものね』

 三大下り宮で残ってるのって、群馬の一之宮貫前神社だけかしら、と首をかしげる。これじゃあ三大なんて言えないわねと一人納得したらしい。

『お姉さんは、その二つに行ったことあるのか?』

『流石に行ったことないわ。資料で見たことがあるだけよ。……っていっても、ずいぶん昔の写真だけどね』

 鵜戸神宮は赤い立派な楼門があるのだとか、本殿は洞窟の中にあるみたいな感じだとか、そこに行くまでの下り宮の階段が結構長いのだとか。打って変わって草部吉見神社のほうはシンプルに一本、一直線の下り宮の階段になっているのだとか。するすると頭に入るような声で楽し気に話していた。

 はじめは異様で異質な場所に恐れを感じていたものの、こうしてお姉さんと話しているうちに慣れたのか、ほとんど気にならなくなっていた。周りは木に囲まれて、風で木々の葉が揺れる音と、話してくれるお姉さんの声しか聞こえない。廃れた神社の縁側に腰かけて、とりとめのないことを話しているだけでも十分楽しかった。お姉さんのほうはどうかはわからないけど、多分、微笑んでいてくれてたと思ってる。

 思っていたよりもマイペースな人で、不意に腰を上げたと思ったら、一本の木のもとに近づいてカブトムシを取ってきたりもしていた。当時の俺には全く届かない位置にいたはずのカブトムシを易々と捕まえていたから、多分結構背の高い人だったんだと思う。

 そうこうしているうちに、日がだんだんと傾き始めた。ゆっくりと日差しの色がオレンジ色になっていったぐらいに、お姉さんはそろそろ帰ろうかって言って、元来た道を戻りだした。

 俺の手を引くことは終ぞなかった。

 俺はお姉さんの後ろをついていく。お姉さんはどうやら少し上機嫌だったようで、小さく鼻歌を歌っていた。

 名残惜しい。このまま帰るのがもったいない。

 それでももう立派な夕方で、親父と約束した時間はもうすぐで、そもそもまだ子供の俺はどうしたって親の元に帰らないといけない。

 もう、帰るべき場所が見えてきていた。

 後ろ手のまま歩いていたお姉さんは、ふと遠くのある一点を見て立ち止まった。

『……時雨くん。ちょっと、ごめんなさいね』

『……?』

『少し、早歩きで行きましょうか』

 そう言うや否や、俺の右手を掴んで足早に進みだす。半分引っ張られるような形で俺も歩き出したが、どうして急に早歩きになったのかはよくわからない。まるで何かから逃げるような、見てはいけないものから目を背けるかのような感じだったが、お姉さんの表情には恐怖はなかった、と思う。

 パチリ、と嫌な感覚が自分の中でした覚えがあった。

『……うん、ここなら大丈夫かしら。まったく、相変わらずくねくねしてて気持ち悪いわね。時雨くん、早足で来たけど田んぼのほうは見てないわよね? ―時雨くん?』

 彼女は不思議そうな顔で俺の眼を覗き込んでいる。

 血が通っている。体温がある。人肌の温度が、自分の右手に触れている。知っている。この感触を俺はずっと前から知っている。ちょうど、この時みたいに暑い暑い日だった。いっそ溶けそうなぐらいに強い日差し。遠くに陽炎が揺らめいていた。アスファルトはカンカンに熱されている。盆入りのあの日。快晴。雲は一点も見られない。帽子をかぶった姉代わりの叔母がまぶしい笑顔を浮かべている。俺の手を引いたまま、交差点の横断歩道に足を踏み入れて―……瞬間、人が人でなくなる場面を幻視した。熱せられる肉片。熱により立ち込めるその匂い。残留する体温。十にも満たない子供が見るには凄惨すぎる事故現場が強制的に頭の中を支配して、

『戻っておいで、時雨くん』

『―……、ぁ』

 声に、引き戻された。

 相変わらず微笑んだままのお姉さんしかいない。

 ここは都会の交差点ではなく田舎のただの砂利道で、今は雲一つない青空の広がる快晴ではなく大きな入道雲のあるオレンジ色の夕方で、大勢のざわめきはなくただひぐらしが遠くで鳴いているだけだった。

『怖いことがあったのね、大丈夫。それはただの幻覚だから、落ち着いて息を吸って』

『ひゅ、……ぅ、あ、』

『大丈夫。わたしの目、見える? わたしの声は聞こえてる?』

 しゃがみこんだお姉さんは、伏せた俺の顔を覗き込むように見上げる。瞳の色は忘れてしまったけれど、まるで宝石のようだと思ったことだけは覚えていた。生理的な涙を浮かべて、断続的な呼吸を繰り返す俺に何度も声をかけてくれた。

『手、離したほうがいい?』

 優しく、あやすような声。

 ふるふると頭を横に振ると、お姉さんはもっと強く手を握り返した。

 日が沈んでいく。オレンジ色の空間に僅かに薄暗さが混じっていく。

 周りには俺たち以外誰もいない。遠くでひぐらしが鳴いて、空気を切り裂くように赤とんぼが田んぼの上を飛び回って、俺とお姉さんの影がゆっくりと長くなっていくだけの空間だった。発作じみた状態から回復するのに、決して短くない時間が経っていた。

 手を握ったままのお姉さんが、ぽつりと独り言を零した。

『……驚いた。コンタクトを入れてるわけじゃなかったのね』

 そう言って、片手だけ離して俺の目元に優しく手を当てた。親指でやんわりと瞼を引っ張られる。

 ……。

 …………。

 数秒、そうして。

 俺が落ち着きを取り戻したのを確認したのか、顔に添えられた手と同時に手を引っ込めて立ち上がった。

 くるり。

 くるり。

 まるで楽しいことがあったかのように、軽やかな足取りで回りながら俺から少し遠ざかる。逆光でその姿はシルエットでしか見えなかった。唯一判別できたのはその表情だけ。

 ―それは。

 まるで長年探していた失せ物が見つかったかのような。

 まるでずっと求めていたものを手に入れたかのような。

 とても、嬉しそうな、満面の笑みだった。

『そういう―ああ、そういうこと! うふふ、よかった! 十年は覚悟していたけれど、こんなに早く逢いに来てくれるなんて!』

『……? なに、を?』

『大丈夫、大丈夫。あなたは何も聞いていないのでしょう? こちらの話よ。気にしないで!』

 何を言っているのかわからない。この時の俺には圧倒的に情報が不足していて、お姉さんが俺に何を見出したのかなんて全く見当付かなかった。

 ああ、とてもうれしそうにしてるな、と。

 その喜ぶ顔がとても可憐で、どうしようもなく目を逸らせなくて固まった。

 そのまま、ふわりふわりと俺のそばに駆け寄る。

『……お姉さん。俺の目がどうしたの』

『うふふ。君のその黒くてきれいな目、わたしは好きだなって話よ。ねえ、時雨くん、』

 そのまま、俺の目線に合わせるようにしゃがんで。

 俺は。

 たじろぎそうになって、でも何故だか一歩も動くことはできずに、ぐっと近づくお姉さんの瞳から目をそらすことすらできない。

 声を聴いては駄目だと、俺の頭の片隅で警鐘が鳴る気がして、でもそれでもその警鐘の音も、お姉さんの声に比べたらずっと小さいものだったからすぐに掻き消えてしまってる。

 お姉さんの顔しか見えなくて、でもその顔がどんなものだったのかもうわからなくなってしまったから、この部分の記憶なんて本当に奇妙なことになっている。

 まるでスローモーションになったようだった。

 お姉さんの唇が動く。


『ねえ、時雨くん。君、わたしと―』


 手は握ってこなかった。

 お姉さんの手は彼女の膝の上にある。そのおかげで、さっきみたいな発作は起きない。それなのに正常な思考ができていない。

 あの人の姿しか見えない。

 あの人の声しか聞こえない。

 赤い日暮れもひぐらしの声も、空気を裂く赤とんぼも何もかも、脳みその中に刻まれない。

 俺は、その言葉を、その途中まで―


『―時雨』


 ふっと、正気に戻った。

 すぐそばに、親父が立っていた。

『……親父、』

『遅いぞ。お前の言っていた、お姉さんはもう帰ったのか』

 その言葉に、周りを見渡す。

 ……目の前にいたはずのあの人は、いつの間にかいなくなっていた。俺は混乱して、思わず少しだけ走り出しそうになってしまう。それでも、親父に腕を掴まれて、探しに行くことは叶わない。

 そのまま、親父に連れられて、知り合いの家に帰った。



 ◇



 本当ならその日は日帰りで家に帰る予定だった。親父は不愛想な人だけど、その分仕事はきっちりとやりきる人だからこの日も用事のほとんどは終わっていたと思う。少なくとも、本当に直前まではその日のうちに呰見に戻る予定だったはずなんだ。

 でも、なぜか一泊することになった。泊まったのは親戚の家、確かそう遠くはない親戚だったはずだけど、俺はその日初めてあった人だった。

 なぜか、子供でも分かるぐらいに張り詰めた空気になっていたことを覚えている。

夜中の九時ぐらい。

 二階の、ある部屋に通された。

『……時雨。悪いけど、今日お前はこの部屋で寝ろ。というか、朝になるまで部屋を出るな』

『……? なあ親父。なんで札貼ってるんだ』

 少しだけ、奇妙なな部屋だった。

 部屋自体は普通のもので、部屋の中央にテーブルが置かれ、適当なお菓子まで準備されて、そして部屋の隅に布団が置かれている、いたって普通の部屋だった。その中で、異様なものだったのが、部屋の四隅の札と盛り塩だった。

 この時の俺は、今ほどではないけどある程度札に関する知識もあった。それでも、その札の意味するところが全く読み取れないぐらいに、複雑な描き方をしていた。怖いと思うよりも先に、すごい、と感嘆したぐらいだ。

 今夜はこの部屋で寝なければならないらしい。

 まあ、結界が張っているってことは怪異などは入ってこれない場所だし、特に心配することはないかと思って了承した。どうして急に俺だけこの部屋に通されたのか、少しだけ疑問に思ったものの、親父が口を割る気配はない。仕方がないのであきらめて、一人でこの部屋で夜を過ごすことにした。

 親父はなぜか、俺を部屋に入れるとき、鞘に入ったままの刀を手にしていた。

 なぜか、いつも仏頂面のはずの親父の顔が、険しく見えた気がした。

 部屋の扉を閉めた直後。

 扉の前にいるが、お前の名前を呼ぶことはない。とだけ声をかけられて、親父が扉の前に座り込んだような気配がした。



 ◇



 ―パチリ、と目が覚めた。

 対してやることもなかった俺は、いつもより早い時間には布団を用意して、横になっていた。いつの間にか意識が落ちていたが、不意に、何の物音もしていないのに、目覚めるべき時間に起きるかのようにすっと目が覚めた。

 枕元に置いておいた、目覚まし時計を見る。

 時刻はまだ午前二時。

 もう少し寝るか、と思い布団を被りなおしても、一度引いていった眠気はなかなかやってこない。眼が冴えてしまったようだった。

 暇だったから、いろいろ考えていた。

 もうすぐ夏休み終わるけど、朱梨はちゃんと夏休みの宿題終わらせてるかな、とかな。……怒るなよ、実際この時お前の宿題ほぼ終わってなかっただろうが。あとはまあ、二学期になったら運動会があるなあとか、六年生は修学旅行に行くんだっけとか、あと暇な時にやっていた辞書暗記を思い出していたりとか、……昼間会った、お姉さんのこととか。


 ―こん、と音がした。


『……?』

 体を起こした。

 最初は音の出所はわからなかった。


 ―こん、こん。


 ガラスを、軽い力で叩く音。

 反射的に、窓の方に視線を向けた。カーテンが引かれていて、外の様子は一切見ることができない。まるで、控えめにノックをするような音だった。すぐに、布団の中から立ち上がる。何か起きてもすぐに反応できるように、身構えていた。

 多分、俺はここでミスをした。

 無意識のうちに、その音に向かって声を出していたんだ。普段なら考えられない、愚策中の愚策。本当に、第三者に操られるように発していた。

―『誰かいるのか』、と。


『……もう。わたしが言えた事じゃないけれど、こういう時問いかけちゃだめよ?』


 カーテンの向こう側から、声が聞こえた。

 明確な、人の声。

 知っている声。

 聴いた途端に、俺の警戒心も何もかもをとろかしてしまうその声。その声の主がだれなのか一瞬で悟った俺は、この異常な状況に一切の異常性を見出すことができなくなってしまっていた。

 軽やかな足取りで、窓辺に近寄る。

 引かれていたカーテンの端を掴んで、勢いよく開ける。パキリと割れた音が何なのか、今の俺にはもうわからない。

 窓の外。

 その縁に軽く手をついて、小さく手を振っているそのひと。


『―……こんばんは、時雨くん。こっそり、会いに来ちゃった。夜中にごめんね』


 一瞬で、窓の鍵に手をかける。かちゃりと音がして、やがてからからと音を立てながら窓が開いた。ドアの向こうにいたお姉さんは、おや、と驚いたような顔をした。

 ああ。うん。責められて当然の行動だ。結界が張ってあるその空間を、自分から破ってしまうなんて最悪中の最悪だ。招き入れるのと同義だし。それでもその時の俺は、ちゃんと怪異に対する知識もちゃんと備わっていたはずなのに、一切のことが考えられなくなっていた。

『……時雨くん、わたしは嬉しいけど、ほかでこんなことしちゃだめよ。……ああ、そっか。ごめんね、わたしのせいね』

『……? それより、お姉さんこそこんな夜中にどうしたんだよ。外寒いだろ、入っていいよ。お姉さんなら大丈夫だろ』

 まったくもって大丈夫ではないのだが、この時の俺は何も考えずに行動していた。惚れた弱み、とかいうやつなのかは知らないが、何もかもがこの人に有利なことしかしていなかったと思う。

 お姉さんの背後から吹き込んでいる風が、夏とは思えないほどつめたい。

 四隅の札が、どろどろに溶けている。

 窓の外、何も見えない。


 うごかないで、とお姉さんが言った。俺に向かってではない。でも誰に言ったのかはわからなかった。

 窓の外のお姉さんは、僅かに迷うようなそぶりを見せて、それでも軽やかに窓の縁を乗り越えた。

 床に足を付けないで。

 窓の縁に腰かけた。

『それじゃあ、改めて。こんばんは時雨くん。こんな夜更けにごめんなさいね。寝ていたでしょう?』

『いや、ちょうど起きてたから大丈夫』

『そう? ふふ、ならよかった』

 ふらふらと足を揺らしながら、お姉さんは笑っている。

 明確な用事があったわけではないらしい。ただ、昼間のときの延長線上のように、とりとめのないことばかりを二人で話していた。

 何もかもが異常すぎる。

 用もないのに、丑三つ時に窓から訪問するような人がどこにいる。きっとかなり強力だったはずの結界、それを構築する四隅の札が、そのすべてがドロドロに溶けるなんて事象をみて、恐れを抱かない方がおかしい。ドアと窓の近くに置いていた盛り塩が、完全に黒ずんで皿ごと割れているのにそれに気づかないのは異常すぎる。窓辺のものなんて、お姉さんと話していたら否が応でも目に入るのに、全く認識できていない。


 ……ああ、そうだな。

 きっとこのとき、お姉さんにとって不利な事象は、本当に認識できないようになっていたんだろう。

 本当に、あとになって異常性が浮き彫りになってくる。


『―ね、時雨くん』

 カチカチと時計の針が鳴っている。

 夜が進まない。

『ん、どうしたのお姉さん』

『ひょっとして、わたしのこと好きだったりする?』

 うあ⁉、と素っ頓狂な声を上げた。まさかこんなにもドストレートに訊かれるなんて思ってもみなかったのだ。まあ確かに、客観的に見てかなりわかりやすい言動だったなと思うけど、それをこんなにも直球で投げられたらそりゃあ動揺するのも仕方ない。…………笑うなよ朱梨。確かに逆だったら俺も笑うだろうけどさ。鏡はなかったんだが、多分顔は真っ赤になってた。見なくてもわかるぐらいだった。

『ふふ、図星みたいね。よかった、これではずれてたらわたしはずかしくて帰るところだった』

 なんちゃって、と笑っている。

 実際のところ、このお姉さんはきっと外れていたとしても別に恥ずかしくも思わないし帰りもしない、そういう人だ。

 僅かに身を乗り出す。しかしそれでも床に足を付けることはない。完全に中に入ることはしなかった。

『ね、時雨くん。わたし、君の瞳がとっても好きなの。その黒くてきれいな目、初めて見た時から気に入っちゃった』

『え、あ、ありがとう、でもこの目は、』

『知ってるわ。―ね、少しだけ、こっちに来てくれる?』

 招かれるまま、窓辺に座るお姉さんのそばによる。

 窓の外が見えない。

 星がいない。

 なにも。

 『…………目、だけなのか』

『うん? ああ、そっか。

 ―ごめんね。わたし、少し人と違う嗜好だから、君のことを恋愛的に好きっていうわけじゃないの』

 ……。

 少しだけ、時間をかけて。

 わかった、と返した。

『あら、随分あっさり。時雨くん、大人びてるとか言われたことない?』

『さあ。別に、言われたことはないはずだけど。……お姉さんが俺のこと好きじゃないって言うなら、別にそれでもいいやって思っただけだよ。別に、好きって気持ちが消えるわけじゃないし』

 胸に手を当てて答えた。

 それに嘘偽りはない。

 正直言うと、まあ、ショックがないわけじゃなかった。真正面から突き付けられて、何も思わない方がどうかしてる。でもまあ、別に好きになってもらいたいなんて言う感情なんてものは無くて、ただそのひとと話すことができたらとてもとても幸福で、それだけで満足できていたからそれ以上のことは別に必要としてなかったんだ。それを包み隠さずお姉さんに伝えると、そっか、と言って笑った。

『君、本質的に相手を必要としないのね。一人で生きていけるタイプ。……でも、うん。そっか。わたしが例外なのね』

『……?』

『ね、時雨くん。君、嫌いな人はいないでしょ?』

 その時の俺はその質問の意がいまいち汲み取れなくて、ただ正直にそうだと答えた。嫌悪している人物など、一人もいなかったからだ。

『時雨くん、きっと博愛主義者なのね。相対的、って言うべきなのかしら。

 特定個人からの見返りが必要ないから、みんなのことを愛してあげられる。みんなのために動いていける。

 一人で生きていけるから、相手の求める距離感に合わせられる。相手の望むままに振舞える。

 ……うん。とっても素敵な生き方だと思うわ』

 ……この人の分析は、今でも間違っていないと思う。

 正直なところ、俺は人から向けられる感情の大きさを、そっくりそのまま同じ大きさで返した接し方をしているつもりだ。つもり、というより多分素の性格がこうなんだ。どうやったって、俺からの矢印が先行することはない。

 だから、例外っていうのはそういうこと。

 お姉さん側に俺への恋愛感情が無かったのに、俺の恋慕が先行した、唯一の例外だったってわけだ。


『愛された分だけ愛し返す』

『来るもの拒まず去る者追わず』


 そういう類の博愛主義者だと、お姉さんは俺に言った。


『……君のその性質を利用するみたいで心苦しいけれど。ね、時雨くん。……わたしと一緒についてきてくれない?』

 そう言って、お姉さんは俺の方へ手を差し出した。

 え、と戸惑いの声を上げる。

 理解するのに、数秒の時間を要した。

『―それ、は、どういう、』

『言葉通り。わたしは君についてきてほしい。君個人に興味はないけれど、君にしてもらいたいことはあるのよね』

『してもらいたいことって、なんだ?』

『それは言えない。

 ―でも、君にしかできないことよ』

 ……。

 …………。

 暗に、『君はわたしのことが好きなんでしょう?』と言われている気分だった。いや、きっとこの人のこの言葉のすぐ裏にはこの意味が存在していた。

 差し伸べられた手を、じっと見た。

 衝動的に手を取りそうになる。手を取れば、きっと何も見えない暗闇に引きずり込まれることになるのだと、直感で理解していた。それでも、そんな理屈を蹴り飛ばすように、その人と一緒に居たい気持ちが脳みその中で強くなっていく。

 その人は、今もなお内と外の境界線上に座っている。

 背後は何もない。

 星が見えない。

 見えない。

 見えなくなる。

 手を、

 ………………………………………………………………………………………………………………………………………。


『…………………ごめん。俺は、行けない』


 伸ばした手を、途中で止めた。

 その人の手に触れることなく、俺の手は落ちた。


『……理由、訊いてもいい?』

『きっと、お姉さんについていったら、これまで関わってきた人とはもう会えなくなると思う。お姉さんは何も言っていないけど、俺はなんとなくそんな気がするんだ。

 ……ごめん。それだけは、駄目なんだ』


 直前まで、本当に、この人と一緒ならなんだっていいかな、なんて考えもあったんだ。手を取った結果俺がどんなに酷い末路を辿ったとしても、きっと手を取ったことに後悔は絶対にしない。だって初恋だったんだ。初めて好きになったひとで、そのひとが望んだことだったんだから。

そうおもって、手をとろうとして。


 ……。ふと、さ。

 朱梨おまえのことを、考えたんだ。


『……俺には、一人だけ親友がいる。五年前からの大親友だ。俺はそいつを置いていけない。お姉さんが言う通り、多分きっと俺はどんな人のためにでも動けるのかもしれない。でも、俺の親友はそうじゃないんだ。

 ……あいつは今、俺のためにしか動けない。自分自身のためにすら、満足に何かをしてやれない。だから、今ここで俺がお姉さんの手を取ってしまったら、きっと。

 ……あいつはどこにも行けなくなってしまう』

 それだけは駄目なのだと、俺はその人の目を見て言い切った。絶対に、この一点だけは、どうやったって許容できない。

 ……ああ。この頃はまだ、滅多に笑いもしないし何かしようとすることもないような性格だっただろ。……それが、どうしても心残りになりそうで、ついぞ俺は手を取れなかったんだ。

『……驚いた。君は、他人のためなら自分の感情すら捨てられるのね』

『そんな大層なことじゃない。俺は、俺の初恋と他人の人生を天秤にかけて、後者を選んだっていうだけだ。……でも、うん、そうだな。俺は貴女とは行けない。俺の初恋も、ここでおしまいだ』

 窓の外には何も見えない。

 星が一つも存在しない。

 真っ黒なその空間を行く道筋はもう途絶えてしまって、飛び込み口は封鎖されてしまった。

 だからもう、これ以上先に進めない。

 ここが終着点だ。

『そっか。残念ね』

 そう言って、その人はふわりと笑った。

 出会った時の笑みと、まるっきり同じものだった。

『……だけど、そう。その在り方は嫌いじゃないわ。大丈夫。きっと君のその生き方なら、この先多くの人を救えるわ』

『……でも、貴女のことは救えなかった』

『ふふ、そんなことを気にしているの? 君はまだ子供なんだから、今一番救い上げたい人のことだけを考えていればいいのよ。

 ……そうだわ。じゃあ、次はわたしがあなたの所に会いに行ってあげる。今度こそ、わたしもまとめたみんなを救えるほど、強くなっていればいいの』

 小さく、手招きをされる。

 それに従って、俺はこの人のそばに近寄った。

 さよならが近づいていることが、否が応でも感じてしまう。

 その人の冷たい指先が頬に触れて、顔を両手で包み込まれる。外気に晒されたその手は、体が震えるほど冷たかった。

 うん、と微笑んで。

『君は将来、美人さんになるわね。わたしが保証してあげる。……これは、ちょっとした仕返し。君の記憶の中から、『わたし』の視覚情報と名前だけ、消してあげる。あとはまあ、わたしのことがわからないように少しだけ認識阻害もかけさせてもらおうかしら。この先一生、君は、今日この日に『顔も名前もわからない相手に恋をした』っていう記憶だけを抱えて生きていけばいいわ』

 そう言って、この人の指先が俺のこめかみに触れる。


 ……正気に戻ったような、なにか膜のようなものが洗い流されていったような感覚がする。

 目の前の人の顔がわからない。その人の瞳も髪も鼻筋も輪郭も全て見えているはずなのに。脳みその中に刻まれてくれない。その人の存在が解けていく。

 声も聞こえない。空気の振動は確かに俺の鼓膜を揺らしていて、その言葉もちゃんと伝わっているはずなのに、その声音も抑揚も何もかもがが再生できない。ただ、その言葉に含められた情報しか記録されていない。

 認識できない。

 きっと一目惚れだったはずなのに、それを裏付ける要素が何一つとして消え去って、全部あの人に取り上げられてしまった。何もわからない。これでもう、俺はこの人を探せなくなってしまった。姿を声を名前を思い出すことすらも許されないなんて、少し意地悪が過ぎやしないか。

 それがとても悲しくて、酷いことをするな、って思ったけれど、当然口に出せるはずもない。

 最後まで、俺のいる室内の領域に完全に入り込むことはなかった。

 ここでようやく。

 俺は、この人に関する視覚情報が一切入らなくなったからなのか、ようやくこの人以外の情報が脳みその中に入るようになる。


 見えていなかった、どろどろぐしゃぐしゃの札がいつからか壁からはがれて、床に落ちて黒ずんだシミを作っていた。

 盛り塩はとうに機能していない。割れた皿はもう粉々になっていて、一部はもう塩と皿の区別もつかない。

 がしゃん、と大きな音が背後で鳴る。咄嗟に振り向いた。後ろには神棚があったけれど、そこから榊の入った榊立てが両方とも落ちていた。神鏡に大きなひびが入っていた。神棚があったことすら忘れていた。磨き上げられていたその鏡には、俺だけしか映っていない。まだその人はそこにいるのに。

 その人の座る窓の縁の外は、粘ついたような暗闇が広がっていて、何も存在していない。まるで表面張力が弾けるように、どろりと窓の縁を越える。越えている。窓を開けた時から、ずっと。

 幻覚が解ける。現実が認識される。

 何の変哲もない、ただの部屋で、ただその人と話ができていたその楽園が、さあっと消えていく。

 ついていたはずの電気は、電球が割れて消えてしまっている。その破片が俺の裸足に突き刺さっていて、床にはたくさんの血の跡がついてしまっている。痛みすら感じていなかった。机の上に置いてあった食べ物はそのすべてが腐りきってしまっていた。その腐臭すら捉えられていなかった。あの人の座る窓のカーテンはびりびりに破れてぼろぼろになっていた。その惨状すら見えていなかった。一晩にして、まるで廃墟の一室のようになっていたその部屋を、俺はずっと認識できていなかった。暗い。暗く暗く、その空間を楽園と誤認したまま、俺はずっと。それを理解して、この場所がもう何に塗れているのかも完全にわかってしまって、異常を異常だとちゃんと認識できるようになって。

 ……ようやく、俺は何に恋をしたのか理解した。


『―』


 ぴ、と指を突き付けられる。

 最初から、この部屋に闇が入り込んでいたから。

 ……星が、一つも見えない。

 どこにも光がいない。


 そこで、記憶が途切れた。



 ◇



 朝になって、俺は親父にたたき起こされた。

 俺は窓のそばで、倒れるように眠っていた。意識が戻ってすぐに、全身の皮膚の痛みで悶えることしかできなかった。まるで黒い痣のような、黒ずんだ痕ができていた。それを見た親父は、すぐに俺を抱え上げて車に乗り込んだ。

 乗る直前、親父は昨日持っていた刀を抜刀して、俺の目の前で勢いよく振るった。

 多分、縁切りだ。

 そのまま俺は親父の車の助手席に座って、やがて車は出発した。親戚が見送ってくれていた。

 親父は何もしゃべることなく、俺も一言も発しなかった。その村はそう広い地域でもなかったから、すぐに他市との境界線を跨いでいたと思う。

『……なあ、親父』

『どうした。痛むか』

『ううん、別に。

 ……なあ、親父。俺も親父や未夜ねえみたいに、怪異相手に戦うような仕事、したい』

 ……ああ、そっか。お前は知らないんだっけ。別に俺は、物心ついたころから祈祷師になるつもりでいたわけじゃない。うちの家系は退魔を生業としてるけど、それでもうちの両親は俺の好きなことをすればいいって言って、怪異専門家の道に縛り付けるようなことはなかったんだ。俺も、親父の話を聞いてて、危険が高いって知ってたから、別に絶対なりたいとは思っていなかった。

 昨日の、あの人の言葉を聞くまで。

 強くなっていて、と言われたあの言葉が、どんな声でどんな抑揚で言われたのかもうわからなかったけど、それでもそういうことを言われたのだという情報だけは残っていた。

 多分俺には、怪異に対抗する才能がある。

 驕りでも何でもなく、ただ事実としてそれを知っていた。

 なら、それを生かさないわけにはいかない。あの人が俺に求めていたのが何なのかは知らないけれど。

 だから、おれはこの日を境に祈祷師として生きていくことに決めたんだ。

 親父は、少しの間黙ったまま、前を向いていて。

『……俺が教えることはできん』

『……』

『だから、今から俺の知り合いの所に行く。その痣の祓いのついでだ』

 そう言って、車を走らせた。

 その知り合いがだれなのか、俺は親父に訪ねた。


 ……真宮結々祢。

 当時は成人していなかったにもかかわらず、すでに最強と称されていた、今の俺の雇い主。


 名前だけなら聞いたことがあった。

 俺の突発的な要望にも、すぐに応じてくれた親父だけど、相変わらず表情が変わらないから、このとき何を思っていたかはわからない。

 ありがとう、とだけ告げて、俺はまた窓の外ばかりを眺めていた。

 ……心のどこかで。

 追いかけてきてくれないかな、という願望が無かったと言ったら嘘になる。でも終ぞあの人がまた現れることは無くて、無事に俺は呰見へ戻った。

 ……これで、おしまい。



 ◆



「……以上。別に面白くもなんともなかっただろ」

「…………あのさあ」

 頭を抱えた朱梨は、絞り出すような声を上げた。言いたいことがありすぎて喉元で渋滞しているようだ。

「…………ああ。認識阻害って、そういう」

「うん。ちょっとお前、思い当たる正体言ってみろ」

「八尺様」

「…………うん。お前の言っている言葉、日本語だってわかるのに異常な発音にしか聞こえないんだ」

「…………背の高い女性の姿で、帽子をかぶった黒髪の奴で、背丈が二四〇センチあることからその名前が付けられた」

「日本語のはずなのに、理解できないんだなこれが」

 うわあ、と頭を抑える。

 この分だと多分文字を見ても同じことが起こるだろう。

「…………まあ、帰った直後はヤバい怪異か、それに関係するひとだったんだろうなーってしか思ってなかった。……結々祢さんに会って、怪異関係の仕事しだしてから、七大怪異の第一席の情報が全く認識できないことが分かった。だからきっとあの人は、第一席の怪異で、最強格の怪異なんだって、全部終わってしまってから実感したんだ」

 そう、言っている時雨の顔に恐れはない。ただ、少し寂しそうな顔をするだけだった。

 それが朱梨には気に入らない。怪異に没頭するなど、どのみち破滅しか待っていないことを彼女はよく知っていたからだ。

 気に入らないけれど、それでも目の前のこの男は、自分の恋情、その火にずっと木をくべていられるような幸せな状況と、神代朱梨の存在を天秤にかけて、それでも後者を取ったのだ。その事実が、朱梨にとっては何よりも嬉しくて。

 それを噛みしめて、うん、と笑った。

「じゃあお前が今こうして生きてるのは私のおかげってことだ。感謝しろよ」

「ああ。お前のことを思い出さなかったら、きっとここには立っていない。ありがとな」

 包み隠さず、素直に感謝の意を伝える。

 ああ、とそれに応じた朱梨は、ふと部屋の時計を見た。時刻はもう午前零時を回ろうとしていた。緩やかに迫ってきた眠気に、無意識にあくびが出る。案外色恋の話も面白かったな、と思いながら朱梨は布団の中に潜り込むことにした。

「……もう寝るか?」

「ああ、眠い。私もう寝るから、好きな時に電気消しといて」

 話、ありがとなと言いながら、朱梨は時雨に背を向けて目を閉じた。

 時雨も、すぐに寝ようと思って部屋の電気を消す。

 もう定位置と化してしまったソファに寝転んで、


『うたかた』


 硬貨が、紙の上を滑る音がした。

 掃き出し窓からは、ビル群から漏れ出た淡い光と、真上に上った月明かりが差し込んでいる。

 それを背にして。

 余宮零が揺れていた。

「……余宮。出てきたのか」

 朱梨はもう寝ていて、その規則正しい寝息が僅かに聞こえている。彼女を起こさないように、小声で声をかけた。

『うたかた もうねるの』

「ああ。なんか用なのか?」

『ねるの あんまりよくないよ』

 いつの間にか出されていたそのこっくりさんシートに、十円玉がすいすいと滑る。

 彼女の言うことに、眉をひそめた。

「……? どういうことだ?」

『うたかた いまたぶんよくない いいや いまじゃないのかな ずっとまえからよくなかった さっきのはなしでわかった』

「よくない、って?」

『うたかた さっき はくあいしゅぎとかいってたよね そうたいてきなやつ そのせいしつがむかしからあったから そっか きみはじたとのきょうかいせんがあいまいになってる きみ たましいがかぎりなくからっぽにちかいとうめいなんだ』

 素早いスピードで、硬貨が動く。

 急に言われたその言葉に、時雨は目を白黒させるばかりだった。魂が空っぽ、それに近い透明。

 ……いいや、その言葉に心当たりはある。

 だって時雨は、『神降ろしに調整された存在』なのだから。

『  さっき きみ かこしがどうとかいってたでしょ ちがうよ たしかにかこはみているけど それはせんりがんみたいな とおくをみているわけじゃない』

「……お前、何か知っているのか」

『わたしはただみえただけ きみがひるま そこのそふぁでねてるとき


 きみのたましいが きみのからだをぬけだしたところ』


 その、言葉に。

 ひゅ、と息が詰まった。


「……どう、いう、いや、幽体離脱、か?」

『ひと たぶん ねてるときだって たましいはにくたいとゆちゃくしてるはずだよ ゆうれい ええと なんかちいさなりゅうしでできてるんだっけ それがせいぜんのかたちをしているのは いきているあいだはそのりゅうしがからだにとじこめられてかたちをおぼえているからだって あかりいってた きみ たぶんねてるとき そのりゅうしがからだのがいかくから ぬけだしてた』

 ―幽霊を構成する霊的粒子。

 それは、実は人間の体の中にも存在している。曰く、人間の魂……意識を構成しているのが、この粒子。でもあくまでそれは肉体という物質の中にあるため、その人の存在自体が非存在になるというわけではない。

 それが、肉体から抜け出ている。

 ……意識が、独り歩きしているのだ。


 自他との境界線が曖昧に。

 肉体という、檻からすり抜けて。

 ……ああ、と納得した。

 自分の名前、それを今一度確認して。


「……そっか、俺の名前は、泡沫時雨で、……肉体自体が普通より非存在に近いのか。だから霊体が、魂が抜けやすくなってるんだ」

『たぶんね あとふつうに きみのせいかくというかせいしつが たしゃにあわせることができるものだったから きみのたましいのいちがふていになってたんだとおもう』

 とにかく、と硬貨が滑る。

 零の顔は変わらない。

 それでも、言葉には心配がまじっていた。

『あまり ひとのいるところでねないほうがいいよ きみがさっき かこしができたのは きみのりゅうしが あかりのなかのりゅうしにまざって いしきをたどって あかりのむかしのきおくをみたんだとおもう つぎ まじったら もしかしたら きみのいしき ちゃんともどるほしょう ないかもよ』

「……なあ、余宮。俺はこれまでなんどかここに泊まったけど、俺は寝てるときいつも、今回みたいに幽体離脱してたか」

 顔を伏せて、時雨は問う。

 十円玉が、イエスの部分に滑った。

『でも すこしだけだった きょうはちがった たぶん からだのなかにあるほとんどがぬけでてた はんぶんゆうれいだったよ きみ』

 そこで、止まる。

 彼女の首を絞める縄が、そこにないにもかかわらずぎしぎしと音を立てている。寝ている朱梨が起きるかもしれないけれど、でも予想に反して朱梨は身じろぎ一つしなかった。

 考える。

 この、自分の性質の意味するところを考える。

「……余宮。つまり俺はさっき、朱梨の体の中に霊的粒子を入れ込んだっていうことだよな」

『そうだね あかりじゃなかったらなぐられてるよ あかりでもなぐっちゃうか』

「……そうか。それだけ聞ければ十分だ。余宮、一つ頼みがある。お前、ポルターガイストみたいに物を操作できるよな」

『うん』

「なら、霊的粒子を操作することは?」

 その、時雨の言葉の意味を。

 零はいまいち汲み取れなかった。何のためにそのようなことを言ったのか、その結論にたどり着けない。

『できる とおもう かくしんはないけど でも どうしてそんなこときくの ねてるときぬけだしたりゅうし からだのほうにもどせばいいの』

「いいや、逆だ。もう一度、朱梨の外殻の内側に入りたい。お前の力で、粒子を朱梨の方へ持って行ってくれないか」

 ―。

『きもちわるいよ』

「そういう意味じゃないし、別にどうこうしたいわけじゃない。……なあ余宮も聞いてるだろ、今現在の朱梨の状況。

 ―黒い影が、今もなおあいつの体の中で存在してる。あいつは勝てるって言ってたけど、僅かに負け筋が見え隠れしてるんだ。そろそろ、限界みたいで、今日だってずっと手先が震えてた。

 俺は、もう傍観できない。

 元々、俺がきっかけで発現した怪異だ。俺の手で、決着を付けたい」


 ―そのために、彼女の外殻を突破して。

   この手で影を掴むのだ、と。

   もう目は逸らせない、と。


『    さっきもいった もどれなくなるかもしれないって はなし きいてたの』

「承知の上だ」

『からだ ないじょうたいで かいいのまえにたつんだよ りすく とてもたかいとおもうけど』

「リスクが高いことなんて、いつものことだ」

 そう言い切って、頼む、と頭を下げた。

 零はそんな彼を一瞥して、朱梨の方を見て、しばし悩んだ。

 ばかだなあ、と思う。放っておいてもきっと朱梨は耐えきって、ちゃんと怪異を消滅させるだろう。時雨がこんな危ない橋を渡らなければならない道理はないはずだ。生体の霊的粒子が混ざり合うことがどういうことなのか、それがわかっていないはずがない。体に戻れない、というどころか、今ある泡沫時雨の意識そのものが破損する可能性がある。

 それなのにこうして頭を下げているのは、きっと、泡沫時雨の本質がそういうものだからなんだろう。


 泡沫時雨は祈祷師。

 それは職業的な話だけでなく。

 きっと、根っこの部分からそういう存在なのだ。


『わかった やるだけやってみる うたかたをきょうもとめたってことは あかりはべつに うたかたにかこをみられてもいいってりょうしょうしたようなもんだから わたしはなにもいわない きみがあさ しょくぶつにんげんになってても わたしはなんともおもわない』

「……ありがとう」

 窓の外の、ほのかな光に照らされている。

 きらきらと、零の指先が光っている。

 道案内、とでも言いたげに、動いていた十円玉が朱梨の枕元の方に投げられた。



 ◆



『―おいで』

 扉の向こうから声がする。おじいちゃんの声だ。息も絶え絶えだったわたしは、全体重をかけて、寄り掛かるように扉を押し開ける。重たい扉は苛立たしいほどゆっくりと開いていって、その向こうにはわたしの祖父が一人で立っていた。

『生き残ったか。よくやった。腹が減っただろう。ご飯を用意している』

 そう言って、わたしの腕を掴んで引きずるように引っ張る。老人のくせに、どこにこんな力があるのか不思議でたまらない。歩くこともいやになるほど疲れていたわたしは、大人しく引きずられるままだった。

 和室の、ある一室に通される。

 上座に、立派な盆に置かれたお供え膳のような料理がぽつんと置かれていた。

 わたしをこの部屋に放り込んで、祖父は一歩も中に入らずに襖を閉めた。今日のご飯はここで食べなければならないらしい。いやだな、と思いながら渋々用意された食事の前に座って手を合わせた。

 広い、広い部屋に私一人だけ。

 いいや。

 この部屋は満席だ。

 わたしは怪異とともに食事をしている。


 吐きそうになる。


 もう慣れたな、と思いながら料理を口に運ぶ。味はわからないが、間違いなく穢れが口に入っている。気にすることなく、わたしは食事を続けた。

 主菜に手を付ける。


 駄目だ、と思った。


『……?』

 なぜだか、箸が止まる。何も嫌なことはないのに、意識していないのに、一瞬だけ腕がこわばった。

 ほんの一瞬だけ。すぐに何ともなくなって、わたしは首を傾げた。周りの怪異たちはただ何かを食べているようで、わたしのことなど見ていない。まあいいか、と頭の片隅に追いやって、わたしは箸を進める。


 ……。

 ここではない、と直感して、俺は地を蹴って離れた。

 急速に景色が変化していく。まるで早送りにした映像のように、景色が移り変わっていく。

 極力、止まらないことだけを考えた。

 用があるのは神代朱梨の外殻の内側にいる黒い影の怪異であって、彼女の意識である霊的粒子に触れる必要はどこにもない。出来る限り、できる限り、流れる景色を認識しないように心がけて俺は一人で駆けていく。

 神代朱梨が、何を隠しているのか知りたくないわけではない。でもそれでも、彼女が一切の抵抗をできない状況で知るのは明らかにフェアじゃない。そんなことをしてまで知りたいわけじゃない。

 彼女が、自分から言ってくれるまで。

 泡沫時雨は待つことしかできない。相対的博愛主義、とはまさにこういうところなのだ。相手が空ける距離の分だけ、時雨も距離を空けてしまって踏み込めない。


 たぶん意識の深いところに来すぎたな、と思って上の方へと上がるような仕草をする。完全に直感的な動きだったが、案外間違いではなかったらしい。糸のように綿々と続く意識の紐を辿るように駆け抜けて、

 ―一か所だけ、黒くくすんだ場所を見つけた。

 そこで止まる。早回しで見えなかった景色が見えるようになる。そこはまるでこの影たちの発生源である、沼芦の宗教施設のようだった。

 

『……っ、』


 風なんて吹くはずがないのに、ぶわっと風が当たったかのような感覚に見舞われる。とても嫌なものがすぐそこまで迫っている。咄嗟に腕で防ごうとして、そういえば今は霊的粒子のみとなっているんだったなと思い至った。零が言っていた通り、ほとんど無意識に粒子は体の形を取っている。

 そして、


 ―足りない。

 わたしたちはこの世界を生き抜いた。

 相応の褒美が必要である。

 足りない。

 足りない。

 あの、魂すらもとろけそうなほど強烈なあの感覚が、霊体になっても求めてやまない。一番奥底に刻まれてしまって、わたしたちはそれなしに生きられない。

 どうして。どうして。どうしてこの体は一切の快楽を示さない。このままでは消えてしまう。消えてしまう。嫌。いや、嫌。わたしたちは極楽浄土にいたかっただけ。


『―極楽は、もうどこにもないぞ』


 俺はその、もう残留思念のようになってしまった、黒い墨をぶちまけてしまったような、不快感を煽る怪異に声を投げかけた。

 ……こんなものが。

 こんなものがもし自分の意識の中に潜んでいると考えて、寒気がした。なんでこんなものを抱えたまま、長い間耐久レースなんてものをしているんだ。自分の不甲斐なさに怒りが湧いてくる。

 影が、こちらを向く。

 一眼一足の、黒いその姿。

 死してなお死に際の快楽を追い求めるその成れの果て。

 あの日、この怪異の正体を追っていた中で、朱梨がほぼずっと苛立っていた気持ちがよくわかる。

 ズルいな、と。

 本来死後に感覚は残らない。本当であれば、もう外部からの刺激を得ることはないのだ。それなのに、目の前のこの怪異はそれを捻じ曲げて、他者を使ってまでその快楽を得ようとしている。それがとても、とても神経を逆なでる。


『―』


 何か言っている。

 もう声も出せないようで、その影の輪郭が崩れてぼやけていく。ぼやけ、いや違う。

 咄嗟に飛びのいた。

 先ほどまでたっていた場所から、まるで黒い杭のようなものが飛び出る。串刺しになるところだったが、この程度であれば恐れるものではない。

 空間が捻じ曲がる。もうここにいるのも限界なようで、どんどん周りの景色が歪んでいく。それなのに目の前の怪異は攻撃をやめずに、四方八方から俺を貫こうとしている。

 ……俺が来たから。

 もう自分を構成する、霊的粒子が消えかけているのだ。


『―』

『……何を言っているのかは知らないが。お前たちの終着点はここだ。お前たちはもうどこにも行けないし、これ以上は俺が存在させない』


 いやだ、いやだ、いやだと黒が嘆いている。

 杭が生える。

 そんなものは気にせずに、俺は。

怪異の頭部を容赦なく掴んだ。


『―余宮ッッ‼』


 ありったけの声を上げた、その瞬間。

 ―強制的に、意識が引き上げられた。



 ◆



「―ッッ」

 朝の五時を回るころに、泡沫時雨は飛び起きた。

 窓から見える空は、雲一つなく僅かに明るくなっていた。

 余宮零も未だ居る。

時雨は、一切の状況判断も忘れて、ただ己の右手に怪異の成れの果てを掴んでいることだけを覚えていて、咄嗟にその右手を、用意していた大量の神符の中に突っ込んだ。

「―、―‼」

 声のない絶叫が、響いた気がした。

 大量の神符の間に時雨の霊力が循環し、それが怪異の体を突き刺して、突き刺して突き刺して突き刺して、燃えた。

「……っ、く、……‼」

 燃えていく怪異を掴む時雨も、苦悶の声が漏れだす。やけどするような熱さと、手のひらを侵食する穢れの痛みが時雨の神経を焼いていく。彼の額に汗が流れて、でもそれを拭うことすらできない状況で、目の前の怪異を消し去ることだけを考えて神符に力を籠める。

 そうして、息の詰まるような攻防の後。

 怪異は、空気に溶けるように消えた。


『おつかれさま』


 床にへたり込んだままの時雨のそばに紙を飛ばして、零は硬貨を滑らせた。

 零の方を見る。

 彼女の背後では、綺麗に澄んだ、白んだ空ばかりが広がっていた。



 ◇



 午前七時。

 泡沫時雨は神代朱梨に全力で蹴られていた。

「おッッッまえマジでいい加減にしろやクソ野郎ッッ‼」

「ごふっ、」

 ゴッ、と鈍いわりに大きな音が部屋で鳴る。

 朱梨から繰り出されたのは重たい回し蹴り、奇しくもあの六月の怪異に時雨が繰り出した技と寸分たがわない動きだった。それを甘んじて受け止めた時雨は、想像以上に重たい一撃に声が漏れる。思っている以上に朱梨が成長していて感動するが、それ以上に痛い。結構ヤバいところに入った。

「―幽体離脱の件もわかった、でもそれで『せや、入れるんなら怪異引きずり出して始末したろ!』とはならねえだろ」

「それがなってしまったんだよ……」

「本当に馬鹿だろ反省しろ。肉体防御のない状態で怪異とバトるとか正気の沙汰じゃねえ。六月のときもそうだけど、お前本当に無茶が過ぎるぞ」

「うん……流石に俺もちょっと反省してる……」

 痛みで床に転がりうずくまったまま、時雨はこれまでの自分の行いを顧みて反省する。そんな彼らを、窓辺で揺れる零はジト目で見ていた。

『ところで あかりはもとどおりになったの』

「ああ。さっき優里菜が来てただろ? パパっと元の状態に戻してくれた。やっぱ暗示ってすげえよな」

 朱梨の言う通り、先ほど優里菜がこの部屋を訪ねてきたのだ。寝起きの朱梨の姿を一瞥し、もう大丈夫ねなんて言ったと思えば、朱梨のこめかみに手を当ててあっという間に正常な状態に戻してしまった。

 しばらくぶりの高揚感。そして体が軽い。

 とても快適、だけどそれとこれとは話が別である。いまだ蹲る時雨を見下ろして、朱梨は深く深くため息をついた。

「ったく本当にさあ、放っておいたらどの道解決してたのに。なんで手荒なことするかね」

「…………お前が、辛そうだったから」

「マジでほんと、昔からそうだよな……」

 呆れた、とため息をつく。

 あとついでに燃えカスのようになっている大量の神符にも目をやって、さらに呆れる。除霊中に上がった炎は時雨の霊力によるものだが、そもそも炎が上がるほどに霊力をぶつけるなんて、体が壊れてもおかしくない荒業だ。火災報知機は鳴らない炎であるのは唯一の救いだろう。

 一枚手に取って朝日にかざす。端がボロボロと崩れていた。

「……はあ、まあいいや。きっとお前はそういうやつで、この先も変わんねえし変えられないもんなんだろ。ならどうこう言っても無駄だし、いいや」

「……ごめん」

「謝るぐらいなら改善してくれませんかね……」

 そう言われて、押し黙る。

 きっとこの部分だけは彼は変えられない。怪異が関わっているのなら、泡沫時雨は自分の身を投げうってでも飛び出すだろう。ある意味で、祈祷師に必要な性質ではあるのだが。

 それをこの十年ちょっとの年月で痛いほど知っているから、神代朱梨は何も言えない。それどころか、彼の行動をなぞりがちな彼女にとってブーメランである。

 最後のため息。

 と同時に、十円玉がスルスルと動き出した。

『あかり うたかた きょう はれみたいだよ せっかくだしひさしぶりにでかけたら』

 十円玉を動かしながらも、リモコンを操作してテレビを付ける。ちょうど天気予報が流れていて、今日は終日晴れの予報だった。そんな零の行動に、朱梨は少し驚いた顔をした。

「なんだ、零。ちょっとパワーアップした?」

『ぱわーあっぷ うたかたのりゅうしのそうさ むちゃくちゃむずかしかったからね あかりのなかからひっぱりあげるの とてもくろうした』

「その節は本当にありがとうございました……」

『ふふん もっとほめるべき』

 ぶんぶんと身体が揺れる。

 そんな彼女を二人して褒めたたえて、やがて朱梨は部屋のクローゼットに近づいて、何枚かの服を時雨に投げつけた。

「―ほら、いつまで寝転がってんだ時雨! せっかく解決したんだ、今日外に出ない選択肢なんてねえだろ! さっさと着替えて、遊びにでも行こうぜ!」

 そう言って、朱梨は歯を見せて笑う。

 しばらく見ていなかった、本当の彼女の笑顔だった。

 それを見て時雨は、顔を僅かにほころばせて微笑んだ。よかった、いつもの親友の姿だと安堵する。

「―ああ。折角だ、優里菜さんも誘って三人でどこか行くか」

「私としては、今猛烈にあいつに中指立てたい気分なんだけどな! まあいいや、ほら早く準備しろ! 零、なんかほしいもんでもあるか? 買ってくるよ」

 意気揚々と、二人は行動を開始する。零もすいすいとほしいものをピックアップして、朱梨にたくさん伝えていた。

 空は雲一つなく、快晴が広がっている。

 掃き出し窓を開ければ、涼しい風が入り込んでカーテンを揺らしていた。

 陰鬱な雰囲気など欠片も存在しない。

 文句なしの、鮮やかな日だった。


(―……)

 そんな、テンションの高い彼女を見て。

 時雨は、彼女がちらつかせた異常が何を意味しているのか、少しだけ考えた。除霊を拒み、食人の経験があり、怪異と食を共にしていたその過去。

 たぶん、きっと。

 彼の頭なら、結論に至ることだって可能だろう。

 でも、それを拒んだ。

 思考回路にロックをかける。彼女にとってこれが、知ってほしくない事実なのであるのなら。目を逸らしていてほしいことなのならば、泡沫時雨はただ神代朱梨の望むようにふるまう、ただそれだけのことだから。

 いつか、彼女が自分で知ってほしいと望むまで、この思考にかけた鍵は捨てておく。


 目を引く赤のパーカーを腰に巻いた朱梨が、その赤を翻して玄関へと向かっていく。

 窓辺の零はもういない。

 時雨も後を追うように、その広いリビングの電気を消して後にする。


 重い扉が開かれた先には、まぶしいほどの日の光が、燦々と世界を照らしていた。


水沫の檻を抜け出して / 終

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朱色の空匣 紅夜チャン @kouya016

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