第2話 スーサイダーズハイ

 七月十九日、午前十一時半。呰見市中央区、呰見中央駅地下プラットフォーム一番線にて。

 日曜特有の人ごみに紛れるように、泡沫時雨は一人でひっそりと電車を待っていた。時刻表によれば、あと数分でつくだろう。今日は、彼一人だけの用事があった。

『一番線に、電車が参ります―……』

 無機質なアナウンスがプラットフォームに響く。同時に、減速した電車がやってきて、目の前で止まる。落下防止の壁についているドアと同時に電車のドアもあいて、すぐに車内に乗り込んだ。人が多いから、座れそうにない。仕方がないのでドアの近くに寄り掛かって、ゆっくりと流れていく外の壁をぼんやりと眺めていた。

 呰見市は広い。

 地下鉄やモノレール、電車などを駆使しなければ市内であっても相当に遠い場所もある。時雨が今向かっているのもその一つだ。

 呰見市南区には、大きな屋敷があることで有名だ。

 呰見は中心部こそ相当な発展を遂げているが、市の境は田舎の風景が広がっているところも珍しくない。それゆえ住宅街や田んぼ等があっても何らおかしくはない。そしてそこにある大きな屋敷というのが、目的地だ。


 ―それが、真宮家の屋敷だ。


 現状、怪異に対抗する人々は大きく分けて五種類いる。

 一つが、時雨も属している祈祷師。これはそのまま祈祷を行う人、という枠組みにとどまらず、『幽霊』『妖怪』『呪物』と分けられた怪異のカテゴリの、そのすべてを対処する人々を指す。

 二つ目が除霊師。こっちは『幽霊』にカテゴライズされた怪異に対処する人々だ。

 三つめは退魔師。『妖怪』にカテゴライズされた怪異に対処する人々で、泡沫家は代々退魔師の家系であった。

 四つ目に浄化師。『呪物』にカテゴライズされた怪異に対処する人々を指す。これに関しては他と毛色が違い、複数人で行動することが多いため浄化班ともいわれたり、呪具師と呼ばれたりもする。

 そして最後に交渉人。神様相手に交渉を行う人々らしいが、時雨はまだお目にかかったことはない。希少すぎて一生に一度見れるかどうかのレベルらしい。

 このように怪異の専門家は多岐に渡るが、その中でも『最強』と謳われたのが、時雨の雇い主でもある真宮結々祢だ。

 最強であるゆえに相当な多忙であるのだが、どうにかこうにか都合をつけてもらった。

 今日はどうしても、結々祢に相談しなければならないことがある。

「……」

 きぃ、と耳鳴りのような感覚がする。

 窓の外を見たまま、苦し気に顔を歪める。

 頬を伝う冷や汗を感じながら、時雨は必死に瞼を閉じた。



 バイトで雇われている、といっても、真宮結々祢の所に訪ねるのはそう多くはない。

 基本的にはメールや電話でやり取りするだけだ。結々祢自身がほとんど屋敷にいないのが大きな要因。重要な物を渡す際に屋敷を訪ねることはあるが、その時は基本的に使用人にお願いするだけだ。 結々祢本人に会うのは片手で数えるほどしかない。


 今日もまた使用人の方に案内してもらって、結々祢のいる部屋に通してもらった。

 ……屋敷についたばかりなのだろうか。いつもは屋敷の中では和服を着ているはずなのに、今日はスーツ姿のままだった。目元を隠した面布は相変わらず。記憶にある真宮結々祢と寸分たがわない姿にほっとした。今回は九州のほうへ行ったと聞いていたので、内心心配していたのだ。

 大きなテーブルの向かいに座るよう促される。用意されていた座布団に腰を下ろすとすぐに使用人の方にお茶を出された。それと同時に、結々祢が話を切り出した。

「……会うのは久しぶりだな、泡沫君」

「お久しぶりです。お忙しい中わざわざ時間を割いていただいてありがとうございます」

「礼はいい、君はよく働いてくれてるから。それで、話はなんだ」

 無駄話を嫌う結々祢は、早速彼に今日の本題を促す。時雨は二、三度周りを見て、自分ら以外誰もいないことを確認して、手短に切り出した。

「結々祢さん。俺に、何か憑りついていたりとか、何らかの怪異の影響を受けてるとかって、わかりますか」

「……いいや。何かがいるわけでもないし、君自身が何か怪異の穢れをまとっているわけでもない。これぐらい自分でもわかると思うが……どうした、何があった」

 結々祢の返答を聞いて、わずかながらに顔に影が落ちる。

 この先のことを言おうかどうか逡巡して、重々しく口を開いた。

「……最近、影のようなものが見えるんです」

「ほう。影、か」

「はい。黒いなにかです。立体で、大きさはその時によってまちまちですけど、おおよそは人の形をとってるみたいで……ただ、こんなものが見える理由に全く心当たりがなくて。結々祢さんなら何かわかるかもと思って来たんですけど、どうですか。何か、おかしな点はないですか」

 ふむ、と結々祢は時雨のほうに意識を集中させる。

 結々祢は全盲であるため視覚情報は全く得ることができない。その代わり心眼によりほとんどのことを把握することができる。これは意図したものであり、視覚情報に惑わされないために結々祢は十五歳の時に自分で目を潰した。それ以降は今のように目元を隠している。

 故に怪異関係であれば殆ど把握することができるのだが。

「……駄目だな。どこにも異常がない。流れている霊力も純麗そのものだ。不可思議な縁もない。これでは私でも手の打ちようがないな」

「……」

「黒い影が関わる怪異はいくつか頭に入れている。何の害もない、というなら一番に思い当たるのは石狩市のほうの『ニシヲカムイ』だが……それなら君にだけ見えるのはおかしいな。あれは公式に『妖怪』カテゴリに入れられているし、そもそも君は北海道には行っていないだろう」

「……そうですね。結々祢さんからの仕事以外ではほぼ呰見を出ませんから」

「それ以前に一つ気になることがある。何故君はそれを『影』と表現した」

 組んでいた指を解いて、指さしながら結々祢は問うた。

 泡沫時雨は観察眼やそれによる状況把握力が高い。怪異に対抗する仕事をしているのだから当然のスキルである。故に、彼が『幽霊』や『妖怪』などではなく『影』だと表現したのも、確固とした理由があるのだ。たとえそれを、彼が意識していなくとも。

「君はさっき、影は『立体である』と言ったな。普通影というものは平面的な存在だ。それにも関わらず『影』と表現したのは、平面云々関係なく『影』と言わなければならない理由があるからだ。何故か? それは『存在しないもの』、つまりは幻影であると、無意識下に理解したからではないかな」

「…………幻覚、と言いたいんでしょうか」

「あくまで私の見解だがな」

 そう締めて、結々祢は少しぬるくなった緑茶を啜った。

 対面に座る時雨は黙ったまま、湯飲みに手を付けようともしない。ただの幻覚だといわれて気でも悪くしたかと訝しんだが、やがて時雨は悪いものでも吐き出すかのように一つ大きく息を吐いて、改めて結々祢に向き合った。

「……わかりました。なんにせよ、怪異が絡んでないのならよかったです。これが幻覚だというのなら、少なくとも俺が気にしなければ何の問題もないですから」

「とはいえ精神的に疲弊しているだろう。どうする、しばらくは仕事はやめておくか」

「……一か月で何とかします。夏場は怪異の報告が多いですし、来月には復帰します」

「わかった。療養期間ということにしておくから、もし怪異に遭った場合はすぐに私に連絡を入れろ。君に割り振る予定だった案件は、蒼にでも回しておくから安心しておけ。どうせ暇しているだろうからな」

 そう言って、テーブルの隅に置いてあったタブレットを手に取って操作する。時雨に回す予定だった仕事を変更しているのだろう。心眼って電子機器の画面も見えるのかと、若干ズレた感想を抱く時雨をよそ目に、手早く操作していた結々祢の、ととと、と操作をする指がふと止まる。

 元々時雨に割り振る予定の無かった仕事の一つ。そのなかに、気になることが紛れ込んでいた。

「泡沫君。一つ、気をつけておかないといけないことがある」

「……? 何かヤバそうなものでもあるんですか?」

「ああ。マジのマジでヤバいものだ。七大怪異は第一席以外すべて知っているな?


 ……その第三席に位置する呪物、『リョウメンスクナ』と思わしき反応が確認されている」


「……!」

 『リョウメンスクナ』。祈祷師、除霊師、退魔師、浄化師そのすべてで名を知らない者はいないほどに有名な怪異。カテゴリーは『呪物』、正しく呪いが発動すれば日本本土すべてを滅ぼすと言われているほどに脅威度が高い代物。しかし恐ろしいのはその脅威度だけではない。

この呪物は、複製可能である点だ。

「……二番目に作られたリョウメンスクナは現在東北の神社で供養されていますよね。なら現状行方不明である、初代物部天獄が作ったリョウメンスクナが近くに来てるってことですか」

「おそらくは。反応を知らされてすぐその神社には連絡して、所在を確認済みだ。……あるいは、可能性は低いが、第三のリョウメンスクナが生まれたということも考えられる」

「……考えたくないですね」

 そうだな、と苦言を呈す。

 面布越しに、結々祢が眉間にしわを寄せているのが見て取れた。

「君は一度リョウメンスクナと接触しているだろう。また触れれば、アナフィラキシーショックのようなことも起こるかもしれない。


とにかく、『箱』だ。いかなる大きさであろうと、呪術的加工の施された箱には触れるな。ただ、可能であれば探してくれると助かる。見つけたとしても、すぐに私に連絡を入れろ。絶対に手出しするなよ。

……君の言う、朱梨とかいう女の子にも警告してやれ」





 七月も半ばを過ぎたある日。もう梅雨も過ぎてしまって、以前ほど雨の日は多くない。アスファルトの跳ね返す熱気が日ごとに熱くなっていく。まさに夏の訪れといった時期で、本日はちょうどほとんどの学校が終業式であったようだ。

 それは朱梨や時雨の学校も例外ではなかったようで、午前中のうちに式を済ませて昼食前には帰路についていた。今日はまた今年の最高気温を更新したらしく、熱したフライパンの上を歩くような感覚がやけに地獄のように思えて、この夏の間はもう金輪際外を出歩かないと固く誓った。流石に不可能なうえによく考えれば八月に一日だけ出校日があることを思い出したおかげで、その誓いは一日で破棄されることになるのだが。

 あつい、あついと亡者のように繰り返しながら朱梨と時雨はマンションのエントランスに入り、ちょうど来ていたエレベーターに駆け込んだ。危ないと言われるかもしれないが、誰もいないのでセーフだ。空調が効いているわけではないのでさっさと降りたい。無意味なのを承知の上で、朱梨は十四階のボタンを連打した。

「…………あつい」

「言うな、もうすぐ着くから」

 上へと移動し始めた感覚を感じて、二人は力が抜けたように壁に寄りかかった。暑さは思ったより体力を奪っていたようで、時雨のほうは脱水による軽いめまいが起きつつある。横目で彼を見てそれを悟った朱梨は、部屋に着いたらいの一番にお茶を飲ませてやろうと決めた。

 ……お茶作ってたかどうか思い出せずに頭を抱えた。

 きっとあるはず。無かったら最悪水道水飲ませればいい。今朝見たはずの冷蔵庫の中が全く思い出せないくらいには朱梨の脳みそも鈍くなっていた。

 一階から十四階まで昇る間、幸運なことに人は一人もいなかった。

 そしてこれは校舎を出たときからだが、二人も何も言わなかった。

 暑さに参っていたのだ、二人とも。


 チン、と短い電子音とともにエレベーターの扉が開く。外の空気と隔離されていない通路は当然のように暑い。

「暑い。死ぬ。今お前がぐにゃぐにゃして見える。お前の部屋どこだ? 一四四四号室?」

「この階そんなに部屋ねえよ。ぐにゃぐにゃしてるってことは本格的に脱水だな。あと少しだから落ち着いて歩いてくれ……お、」

 双方ふらふらとした足取りで通路を歩いていると、前方に人影が一ついるのが見えた。この十四階に住んでいるのはなぜか、朱梨を含めて二人だけであるのでそれがすぐに隣人の女の子だということに気づけた。

「よう、優里菜。こんな暑いのに外出か?」

「あらこんにちは、朱梨さん。ちょっとお買い物よ。すぐに戻るわ、とっても暑いしね」

 白いワンピースを着た隣人、結染優里菜という名前の女の子がちょうどドアのカギをかけるところだった。

まるでお嬢様のような雰囲気を纏う彼女はその通りお嬢様であり、最近朱梨の部屋の隣に引っ越してきた可愛らしい隣人だ。十人に問えば十人とも綺麗だと答えそうな美少女の彼女は、どういうわけか一人でこんなところに住んでいる。まるっきりの箱入り娘ではないらしい。

「酷い暑さね。学校はもう終わったの?」

「ああ。今日から夏休み。特に予定はないけど、もしどこか遠出する時は鍵預けるから」

「そう。わたしもずっと居るから、いつでもいらしてね」

 時雨さんもこんにちは、と会釈して彼女はエレベーターの方へ歩いていく。優里菜の手には白い日傘が握られていて、きっと刺すような日差しの中でも悠々と歩くのだろう。自分も日傘を買うのもいいかもしれないな、と朱梨はふと考えた。

 この夏は外に出ない誓いを立てたことを思い出したので、買わないことにした。夏さえ過ぎれば日傘など、朱梨にとって不要なものなのだ。


 そして朱梨の部屋である一四〇四号室に着いたので、朱梨は制服のポケットから鍵を出して鍵穴に差し込んだ。くるりと回せば、カシャンという音を立てて鍵は開く。そのまま重たい扉を開ければ、薄暗いフローリングの廊下が見えた。

 殺風景過ぎる空間だ。

 奥のドアの先にある部屋には一応ベッドやテレビや据え置きのゲーム機くらいはあるがそれだけだ。女子らしさなどひとかけらもない。しかし部屋の広さに対して家賃はかなり安かった。それが理由でここに住み着いたようなものである。

 ドアを閉めた朱梨はそのまま靴を脱いで奥の部屋へ行った。時雨もそれに続く。フローリングはやけに生ぬるい温度で、靴下越しでも不快感が伝わってきた。しかし奥の部屋は、どうやら朱梨が朝クーラーをつけたままにしておいたらしく、快適なくらいには涼しかった。

「あー、マジ暑かった」

「本当にな。朱梨、悪いけど水くれ」

 電気をつけることはせず、閉め切られていたカーテンを勢いよく開けることで光源を確保する。そんな彼女を見つつもソファに倒れこんだ時雨は、うつ伏せになったまま水を要求している。そんな彼に、寝転がったままだと水飲めないぞーと一応の指摘をして、朱梨は冷蔵庫の扉を開けた。幸運にも未開封のサイダーが一本残っていた。

「サイダーあるぞ。ほら、ついでやるから起きろ」

「……」

「時雨?」

 取り出したコップに冷えたサイダーを注いでいた手が止まる。無言になった時雨を疑問に思ってふとキッチンのカウンター越しに彼を見た。伏せたまま寝たのかと思ったがしかし、時雨はしっかりと上体を起こしていて目も開いていた。

 しかし様子がおかしい。開かれたというよりは見開かれた目はたった一点だけを見つめていた。その瞳孔は開いている。朱梨から見て右側の壁を見つめているが、その先には何もない。

 わずかに瞳が動いた。まるで動く何かを目で追っているようだが、朱梨の目には何も映らない。

 何もいないはずの空間に、彼は何かを捉えていた。

「時雨、 待て。何見てるか知らねえけど目を逸らせ」

「…………」

「おい時雨!」

 ずかずかと時雨に近寄った朱梨は、そのまま動こうとしない時雨の目を左手で覆い、強引にその視界をシャットアウトさせた。空いていた片方の手で彼の頬に触れてみれば、僅かに冷や汗をかいているようだった。よほど恐ろしいものを見たのか。しかし朱梨には何一つとしておかしなものは見えなかった。朱梨と時雨の霊感はほぼほぼ同じ強さであるため、時雨の見えるものは私も見えるはずなのに、と訝しんだ。

「……影」

「っ、影?」

 若干震えている指先で朱梨の左手首に触れて、時雨は一言呟いた。

 朱梨が時雨の視界を遮っていた左手をゆっくりと離すと、時雨の目はもう瞳孔は開いておらず、何かが見えている様子ではなかった。

「影、が、……影が、動いてるのが見えた。悪い、それだけのことだ。気にしないでくれ」

「影……そこの壁に影だけが映ってたってことか?」

「……いや、違う。あれには多分質量があった。平面じゃなくて、立体だった」

 ふむ、と理解した朱梨は立ち上がって、恐らく時雨がその影とやらを見たのであろう場所に立ってみる。何かあれば感覚で分かるが、今は霊特有のぞわぞわした感覚すら起こらない。訝しげな表情をした朱梨は、その位置で動かずに時雨に声をかけた。

「おい時雨。その影とやらを見たのは、この位置で合ってるか?」

「……ああ。大体その位置だ」

「ならどう動いた? お前のさっきの視線を考えると……こう、すーって横に動いたな?」

「ああ。そんで……そこで止まって、そのままこっちに来た」

「近づいた……こう、か」

 時雨の言う通り、ソファのそばに近寄った。こうして影の動きを再現したはいいものの、特に何も見えないし感じられない。さて困ったと頭を掻いた朱梨は、とりあえず時雨の隣に腰を下ろして彼の目を見た。

 恐れと困惑でまだ瞳は揺れている。それでもその黒色の目に光は消えていない。

 霊的なものではなさそうだと判断した朱梨が次に疑ったのは、彼の目あるいは脳の異常だった。そうなると素人である朱梨ではもう判断がつかない。

(……いや待て)

 そもそも時雨は何をそんなに怖がっているのだ?

 先程の動きを再現した限り、その影の動きは時雨に対し害を与える動きをしていない。確かに近づきはしたがそれだけで、恐らく止まった位置もそんなに近くではない。あの距離ではどう頑張っても腕のリーチが足りない。……その影とやらが人と同じ形をしているのならば。

 いやそもそも、泡沫時雨はそれほど怖がりではない。先月、怪異に誘い出された朱梨を連れ戻しに行った挙句に霊の大群に追いかけられた際も、正確な判断が出来るほどには冷静でいたはずだ。それなのにただ動くだけの正体不明の影が怖いのは、どこかちぐはぐな感じがしていて不気味に感じられる。

 朱梨が思考を巡らせている中、時雨がぽつりぽつりと話し出した。

「……結々祢さんのとこに、行ってきたんだ」

「結々祢? 確か、真宮とかいうとこの?」

「そう。現状、最強の祈祷師で俺を雇ってくれてる人。その人に、この異常を伝えたんだ。

 ……駄目だった。あの人にも、何にもわからなかった」

 その言葉に、朱梨は目を見開いた。

 朱梨はまだ真宮結々祢という人物に会ったことはない。それでも、彼の言葉を聞く限りでは本当に優秀な人物だとわかる。そんなひとでも何もわからない、なんて、明らかな異常だろう。

「……いや、でも、そうだな、俺が気にしなければいいだけの話だ。今のところ、穢れも何も感じられない。どうしても、目が離せないだけで害はないからな」

「いつから?」

「……一か月ぐらい前、ちょうどお前と一緒に怪異に遭った時ぐらいから」

 すわ、あの時の後遺症か何かかと身構えた。

 精神に何か異常をきたしたのか、と疑念を抱く。しかしこの一か月、異常らしい異常は見当たらなかった。幻覚という説もあるにはある。というかこれが一番可能性が高そうだ。

 ……泡沫時雨が?

 怪異専門の仕事を(バイトとはいえ)こなしている彼が、言ってみればあの程度の怪異で精神に異常をきたすだろうか? 答えは否だ。あの時の怪異は危険度こそ高いが所詮そこまで。怪異慣れした人を発狂させるほどの恐怖性は持ち合わせていなかった……と、思う。朱梨と時雨の精神構造は違うので断定はできない。

「……それで?」

「それからいつもは、いても目を逸らして意識から外していた。なんというか、見るべきものではないように感じたからな。でも最近は何でかわからないけど目が逸らせない。意識から外せなくて、でもそれが何なのか理解ができない。その正体不明さに恐れを感じた」

「ああなるほど。つまりお前が恐怖を感じる対象って、生命を脅かすものではなくて、自身の理解が及ばない何かなのか」

 ちょっと本題とズレているが、ピンときた。

 基本的に人が怪異に対し恐怖を抱くのは、その根底に『理解ができない』という要素があるためであると彼らは考えている。怪異という枠組みの中にいる彼らは基本的に常識の範囲内から外れている。そのために彼らに対して恐怖を感じてしまうのだ。故に、その正体を暴いてしまえば多少なりともそれが緩和する。それが何なのかということを理解してしまえば、朱梨や時雨にとって怪異というものは『ちょっと常識の範囲から外れただけのもの』になり下がる。怪物は正体不明であるのが最適だって、前に読んだ本に書いてあったと朱梨は言っていた。

 しかし稀に、この対処法が逆効果となってしまう怪異も存在しているらしいが、朱梨と時雨はまだその存在に出くわしたことはない。

 頭の回転が速い時雨は、そういった『理解する』という方向においては朱梨を遥かに凌ぐ。地頭がいいのは確かだが、精神衛生上よろしくないものを理解するまで見るその精神力も人並み外れている。

 ……とはいえ。

 現象自体の原因がわからないのに変わりはない。

「……時雨、お前って今十五だよな?」

「ああ。どうした」

「……………………肝臓悪くした? それとも盲腸でもやったか?」

 朱梨が唐突に呟く。その内容を聞いて、一拍子おいて理解した時雨は、吹き出すように笑った。

「っはは、突然何言うかと思えば! 六三除けだろ、それ」

「いやほら、原因不明だしさ。ワンチャンねえかなって」

「はは、いや、別に悪いって言ってるわけじゃない。ただお前、母親と同じこと言ってるからおかしかっただけだ」

 ははは、とまだ笑っている。ちょっとツボに入ったのだろう。

 彼の気が済むのを待っていた朱梨だったが、時雨の言った『母親』という言葉で、不意にピンと閃く。

「…………わかった。じゃあ、予定変更。今日は時雨んちに行っていいか?」

「は? どうした、急に」

「気まぐれ」

「……お前の気まぐれは本当にわからないな」

「いいだろべつに、人間いつ死ぬかわかんねーんだからその時やりたいことやんないとだめだろ。ほら立った立った」

 こう言いながら、朱梨は無理矢理時雨を立たせた。渋々といった感じで立ち上がった時雨は、

 ―ぐらり、と視界が回るのを感じた。

「―、あ」

「え、おっとぉ⁉」

 めまいによりふらついた時雨は、そのまま前方に倒れこんだ。運の悪いことに朱梨は時雨の目の前にいたため、それに巻き込まれる形で倒れてしまった。

 つまりは、押し倒された形である。

「いてて……大丈夫か、時雨」

「…………あー、うん。目が回っただけだ、すまん」

 いくら体幹のいい朱梨と言えども、力の抜けた身体がのしかかれば流石に体勢を崩してしまう。朱梨が無意識的に時雨のクッション代わりになったおかげで、彼はあまり強く打ってはいないようだ。

 いまさら恋愛感情など抱かない二人は、特に赤くなったりすることなくやり過ごした。何の面白味もない。まだ視界がぐらぐらしている時雨をどかした朱梨は、水を取りに立ち上がった。今の今まで忘れていたが、時雨は暑さのせいで脱水気味になっていたのだ。

「ほら、水っていうかサイダーだけど。持てるか?」

「ああ、持てる。ありがとう」

 そうは言うものの、若干震えている手のせいで不安が募る朱梨。零しはしなかったが、一度に飲む量が多かったらしくむせていた。だから炭酸だと先に断っておいたのに。

「……」

「…………どした?」

 じっ、と時雨は朱梨を見つめた。いつの間にか空になっていたコップを彼から手渡されるが、視線のせいで動けない。仕方がないので見つめ返して数秒後。

「…………いや、少し安心してただけだ」

「はい?」

「お前、以前はほとんど肉もついてなかっただろ。ぽっきり折れそうで少し怖かったんだよ」

「……そう。それはよかった。まあお前の好みの体形に近づけてたつもりだったから、そう思うのも当然だろ」

「でもこの間抱えた時無茶苦茶軽かったぞ、もっと飯食べろ」

「うるせえな食事にそんな金かけてられっかよ。一人暮らしなめんな」

「お前みたいなやつが一人暮らし始めちゃ駄目だろ……いっそうちに養子に来いよお前……」

 冗談めかしく言った時雨のその一言に、朱梨は面食らったようにぱちぱちと二、三度瞬きをして、顔をほころばせてふにゃっと笑った。

「……養子ね、そっか……はは、いいかもねえ、それ。でもだめだな、すごく残念だけどだめなんだ、それ」

「……? まあ、お前が本気で養子になるのを希望するって言うのなら、俺が親父や母さんに話してみるけど」

「ははは、うん、すげえいい提案。でもまあ、今はいいや。私はまだ神代でいなきゃいけないんだわ。全部終わったら、うん、まあ、考えてみる」

 朱梨は確かに嬉しそうに笑っている。でもその目の中にはわずかに悲しみもあるような気がして、時雨はそれ以上何も言えなかった。何が駄目なのだろう。どうして神代にこだわるのだろう。疑問が浮いては頭の中で消えていく。そのなかで、断られて落胆している自分を見つけて少し驚いた。時雨自身、軽い冗談のつもりだったのに。

 時間だけが過ぎていく。

 時間は十二時過ぎ。外に出るには些か日差しが強すぎる。時雨の休息もかねて、もう少しだけ朱梨の部屋で待機することにした。



 ◇



 相変わらずの気温だった。

 外に出る時間を少しずらしても何の意味もなかったらしく、じりじりと容赦なく熱を与えてくるのは本当に地獄と称してもよいほどである。できるだけ日陰に入りながら、朱梨と時雨は大通りを歩いていた。

「…………ほんと、思うんだけどさ。こんなに暑い理由の一つに絶対ヒートアイランド現象もあるよね、これ」

「まあな。こんなにアスファルトとビルに囲まれれば、そりゃ熱も逃げないだろ」

 てくてくと歩く二人。立ち並ぶビルディングのおかげで、思ったよりは日陰となる場所が多かった。

 朱梨の住んでいるマンションの玄関から見える景色が、閑散として田んぼばかり見えるド田舎である故に忘れやすいが、朱梨の部屋のベランダから見える街並み、つまり南側はかなり発展した都市である。ビルは立ち並び、二車線以上の道路が張り巡らされ、大きな駅もある。他の市へのアクセスも容易なこの街は、年々人口も増えていた。

 便利だと思う。便利だと思うが、こうして気温が高くなるのは勘弁してほしかった。名古屋のようにフェーン現象が合わさらなかっただけまだマシなのだが。

「……よくよく考えるとさ。お前の家と私の住んでるマンションってそこそこ距離あるよな」

「まあな。俺もお前みたいにバイクの免許取ろうかなってよく考えてる」

「お、いいじゃん。もし取ったらいつか二人で日本一周とかやろうぜ」

「いつか、な。多分そろそろ俺も親父みたいに遠出すること多くなるだろうし、きっと近いうちに免許も取る」

 ……などと、雑談をしながらも歩みを進めるうちに。

 いつの間にか、時雨の家の近くまで来ていた。

 時雨の家は平屋の一軒家である。というか屋敷に近い。そのためビルの立ち並ぶ街の中心からはほんの少し外れたところにあった。

「…………あれ?」

 時雨の家の前に、人影があった。金髪で真っ白なワンピースを着た女の子。白い日傘を差しているせいで顔は見えないが、もう片方の手で幼い少女と手をつないでいる。

 しかし朱梨たちには見覚えがあった。

 つい数時間前にすれ違ったばかりだった。


「…………優里菜、なんでこんなとこにいるんだ」


 結染優里菜。

 朱梨の隣人であった。

「あらこんにちは、朱梨さんに時雨さん。お散歩してたら、迷子の子を見つけてね。この子の話を聞きながら、おうちまで送ってあげることにしたの」

 そう言って、手をつないでいる幼い少女を二人に見せるように一歩引いた。ぐすぐすと泣きべそをかいていたその女の子は、

「…………! お兄ちゃん!」

「……深雪? また迷子になってたのか?」

 泡沫時雨の妹だった。

 時雨とは似ても似つかぬ真っ赤な髪と薄く赤みがかった瞳のせいで、優里菜もわからなかったのだろう。驚いている優里菜の手を離して、深雪はとてとてと時雨のほうへ駆け寄っていった。

「あらあら、まさか時雨さんの妹さんだったなんて。じゃあここは時雨さんのおうち?」

「はい。すみません、深雪が迷惑かけました」

「いいのよ。とてもかわいらしい妹さんね」

 しがみついてきた深雪を抱え上げて、時雨は優里菜に礼を言った。小学一年生程度の深雪は、あっさりと抱えあげられてしまった。大体いつものことだ。

「折角ですし、うちに上がっていきます? こんな暑さじゃ帰るのも一苦労でしょう」

「あらいいの? お言葉に甘えちゃうわよ?」

「……? 別にいいですよ。あ、でも多分今母親いますけど、それでもかまわないのなら」

 なぜか、優里菜は目をぱちくりさせながら戸惑っている。理由はわからないが、泡沫家の敷居をまたぐことを躊躇っているようだった。そんな彼女を見かねた朱梨は、優里菜の肩を強引に組んでずるずると半ば引きずるように連れて行った。

「え、ちょっと朱梨さん、」

「いーじゃん、時雨もこう言ってることだし。な、いいんだろ時雨」

「ああ。優里菜さんが嫌じゃないのなら」

「ほらほら。嫌なのか、優里菜?」

「…………わたしは嫌じゃないけれど。でももしこの家の不都合になったら……というか、朱梨さんは大丈夫なの?」

「ん? まあ私は小さいころからお邪魔してるし、時雨のお母さんからも歓迎されてると思う。だから優里菜も大丈夫だって、な?」

 強引に説得され、渋々と優里菜も玄関をくぐった。

 時雨の腕の中から降ろされた深雪は、すぐに靴を脱いで足早に何処かへ行ってしまった。恐らくは母親のいる居間だろう。時雨たちもすぐに靴を脱いで居間のほうへ向かった。

「…………時雨さんのおうち、かなり厳重な警備になっているのね」

 周りをきょろきょろと見ている優里菜が一言呟いた。

「ああ、確かに。ここはほとんどなにも入ってこれないレベルだよな」

「…………ああ、結界の話か。まあ、母親がそういうの得意だからな」

 泡沫家の家は、敷地の内と外の境界に沿って結界が引かれている。霊的なものを退けるために引かれているそれは、一切の妖を寄せ付けない。ここにいる限り、霊的なものからの襲撃はないと言ってもいい。

(……さっき、深雪ちゃんに時雨のこと訊けばよかった)

 ひそかに悔やんだ。家で時雨とよく一緒にいる深雪なら、時雨の普段の様子も知っているだろう。

「……なあ時雨。さっき言ってた影のことなんだけどさ。あれ、病院とかって行ったのか?」

「行った。でもなんにも異常はないって言われてさ。母親からも別に霊的な何かに憑かれてるわけじゃないって言われたから、本当にわからない」

「…………? 影って?」

 廊下を歩いている途中、ふと疑問に思ったことを訊いてみる。目か脳の異常かとも思っていたが、それではないらしく、これでは本当に朱梨でもお手上げだった。

 しかし影について知らない優里菜は首を傾げていた。

「なんかコイツ、動く黒い何かが見えるらしくてさ。万が一怪異とかだったらやだからさっさとこっちに来たんだけど……なあ優里菜、お前から見て、時雨の目ってどうなってる?」

「…………普通の目よ。綺麗な瞳だと思うわ」

「……そういうことド直球に言われると恥ずかしいんでやめてください」

「うふふ、でも本当よ。……あ、ここが居間かしら?」

 話しているうちに、居間にたどり着いた。テレビの音が聞こえるため、恐らく時雨の母親もいるのだろう。すっと障子を開けると、予想通り、深雪とともにテレビを見ている時雨の母親の姿があった。

「……ただいま。朱梨ともう一人友達連れてきた」

「んーおかえりー。友達? 朱梨ちゃん以外の人連れてくるとか珍しいね」

 時雨の母親―泡沫麗華が、テレビの画面から目を離して時雨たちのほうを向いた。

 黒い髪に黒い目。美人の部類に入る女性であり、恐らく時雨の大部分はこの人に似たのだろうと思わせる。

 朱梨はよく会っているので軽い挨拶だけでいいが、初対面の優里菜はそうもいかない。時雨の後ろから一歩踏み出した優里菜は、ぺこりと頭を下げて挨拶した。

「こんにちは。時雨さんの友達の結染優里菜です」

「あらあらこんにちは。綺麗な子ね、時雨と仲良くしてくれてありがとね。……あと、深雪のこともありがとうね」

「いえ、特に用事もありませんでしたから」

「顔めっちゃデレデレしてますよ、時雨のお母さん。相変わらず綺麗な子好きなんですね」

「大丈夫大丈夫、朱梨ちゃんもとっても可愛いわ。ね、朱梨ちゃんもうちの子にならない?」

「……あはは、それさっき時雨にも言われました」

「断られたけどな」

 いつの間にかお茶を用意していた時雨が口を挟んだ。

 麗華は綺麗な子や可愛い子が好きらしい。朱梨は良くこのような冗談を言われていた。

 時雨がお茶と茶請けを出したあたりで、麗華は深雪を抱え上げて席を立った。時雨たちの邪魔をしないようにだろう。用があったら向こうの座敷に来たら居るからね、と言い残して部屋から出ていった。

「……そういや時雨、お前のお父さんは?」

「さあ。確か東北のほうに行くって言ってたな。次帰ってくるのは二週間ぐらい先だろ。帰ってきたらまた俺に稽古つけてそのまま次の仕事だ」

「あら、時雨さんってなにかやっているの?」

「剣道やってます。厳密に言うと剣術ですけど」

 時雨のその答えに、優里菜は少し首を傾げた。

「……? その二つってどう違うのかしら?」

「いろいろ違いはありますけど、まあ大雑把に言うなら剣道はスポーツで明確なルールがあるものですね。で、剣術は特に決まったルールは無く、多くの流派が存在するもの。要は人を斬るための術です」

「こいつ、かなり強いよ。対人戦なら必ず相手の首を斬れるんじゃないかってくらい」

 時雨の隣に座っている朱梨は、彼の説明にかぶせる形で付け足す。茶化すような声音であるものの、朱梨の言うことはほぼほぼ事実であった。

 泡沫時雨は、常人に比べ非常に演算能力に長けている。その場の状況から先を予測することや、相手側の思考を読む能力が剣術においては重要となってくるが、時雨はこれらにおいては普通の人の数倍先を行く。この一点においては、師である彼の父親ですら凌いでいるレベルだった。

「必ずって言ったって、まだ親父には一度も勝ててない。それに対人戦で強くても意味ないんだよ、俺には」

「ああ、そういうこと。時雨さんが習っているのって、幽霊や妖怪と戦うためなのね」

「ええ、まあ。だからそういう化け物の思考も読み取れるようになれればいいんですけど」


「それは止めておけ」

「それは止めておきなさい」


 唐突に、朱梨と優里菜が同時に否定した。

 目を伏せて首を振った優里菜は、朱梨の言葉を代弁するように口を開いた。

「……あなたの気持ちもわかるけれど、止めておきなさい。向こう側の思考を理解したが最後、きっとあなたも染められてしまうわよ」

「優里菜の言う通りだ。アレを理解するのは表面だけでいい。中を覗けば、思考回路が人間じゃなくなるぞ」

 唐突なその言葉に面食らったが、時雨も馬鹿ではない。二人の言いたいことを理解した彼は、一先ず先程の考えを改めた。

「わかった。忠告ありがとう。これからは周りの状況で予測するのに専念する」

「素直でよろしい。……なあ時雨。私さ、ちょっと前からお前んちの血……いやもうぶっちゃけるけどさ、お前とか真宮結々祢とか、そこら辺の祈祷師やら退魔師やら、あとその家系について知りたいんだけど、聞いてもいいか?」

 時雨に差し出された茶請けをおもむろに齧りながら問う。

 ただの知的好奇心、というやつだ。別に朱梨は祈祷師だのといった仕事をしているわけではなく、ただ一般的に広まっている怪異と自分の見える世界を照らし合わせた知識を持っているだけだ。そんな彼女に優里菜は咎めるような目を向けたような気がしたが朱梨は気付かないふりをした。

「別に、知りたいなら話すけど、俺もそんなに詳しいわけじゃないぞ」

「構わないよ。優里菜は? なんか聞く?」

「わたしは別に興味ないわ。勝手に話していて」

 朱梨は興味津々の様子だが、優里菜は反対に関心を持っていないようだった。優里菜は自分以外のことはあまり気に留めていないのだから、当然といえば当然か。

 ……とはいえ。

 了承はしたが、詳しいというわけではない。

 さてどういうことから話せばいいのかな、と考えていて、


 ―キィ、と耳鳴りのような感覚がした。


 あ、来る。

 直感的に理解した時雨は、無意識のうちに目線を僅かに右にずらしていた。

 防衛本能が働いたわけではない。

 だって、危機回避のための動きなのなら、今こうして視界の中に黒い影が動いているはずないのだから。


 影は小さな子供くらいのサイズだった。

 てこてこと走り回っている。そのまま、朱梨たちの後ろを通り過ぎて、部屋の隅に蹲っていた。

 ぞわりと鳥肌が立つ。

 ただ一点を見つめる時雨の目は、朱梨の部屋にいたときと同じように瞳孔が開いていた。

「……時雨」

 全て察した朱梨は、咄嗟に手を伸ばして時雨の肩を叩く。その行為ひとつで、時雨はこちら側に帰ってこれたらしく、びくっと反応したのちに、目線は自然と朱梨の方へ向いていた。

「どうした。影、見えたのか」

「……」

 こくり、と頷いた。

 時雨の異常を目の前で見ていた優里菜も、自然と真剣な表情になる。優里菜の目にも、時雨に見えていた影は映らなかったのだ。

 心配そうに朱梨が時雨のそばに寄る。

 恐る恐る時雨の頬に触れると、やはりあの時のように僅かに冷や汗をかいている。目線は影からはずれたものの、全身は石のように硬直している。本当に恐怖しているときの症状だ。

「……気休めかもしれねえけど、まあ、行かないよりはマシかもな」

「……っ、どこに」

 ぐい、と引っ張り上げるように強引に時雨を立たせる。

 よろよろと立ち上がった時雨はふらついている。こんな彼は朱梨も初めて見た。

 

「……呰見神社。真宮結々祢が無理だったんなら意味ないかもしれないけど……まあ、少しの間ぐらい神様のそばにでもいたほうがいいんじゃない?」


 そう言って、半ば無理やり連れだした。



 ◇



 日差しは強い。

 できるだけ日陰の多い道を選びながら、朱梨と時雨は二人で呰見神社への道を歩いていた。

 優里菜はいない。

 心配そうにしていたものの、時雨の家の前で別れた。『時雨さんは心配だけど、わたし、その神社には行けないの。申し訳ないけれど、わたしは先に帰るわね』なんて言って、白い日傘を差して優雅に帰って行ってしまった。

 優里菜の事情を知っている朱梨は、特に苦言を呈すこともなく見送った。彼女にも彼女の事情があるのだ。

「……時雨、まだ何か見える?」

「いや、今のところは大丈夫」

 そうは言うものの、彼の神経はかなり衰弱していた。聞こえる音に逐一ビクついている様は見るに堪えない。『自分だけが見える何か』というのは、思いのほか彼の神経を毒のようにゆっくり蝕んでいっていた。

 無言で歩く。

 時雨の家から呰見神社までの、ちょうど中間点くらいだろうか。ふと、時雨は何か見慣れないものを見たかのように立ち止まった。

「……あれ、こんなとこに石碑なんてあったかな」

 そうつぶやく。

 文字がかすれて、若干汚れているから、最近建てられたものではないのだろう。それにしたって、記憶の中にはこのような石碑はなかったと思うのだが。

「石碑?」

「……いいや、ただの思い過ごしだと思う。行こう」

 くい、と朱梨の手を引いて再び歩き出す。

 ただの記憶違いだろう。特に意識するべきものでもない。時雨が何も感じていないのなら、朱梨にも無関係なのだろう。そう結論付けて、その石碑の前を通り過ぎた。



 ◇



「じゃあ、行ってこい」

 呰見神社への階段に着いたとき、唐突に朱梨が言った。

 三段上った状態で、時雨は朱梨の方を向いた。朱梨は階段を一段も上ることなく立ち止まっていた。まるで敷居をまたぐのを躊躇っているようだった。

「……お前は行かないのか?」

「うーん、まあ、なんていうかさ。

 ―神社、出禁にされてるんだ」

 ……。

 …………。

 ………………。

「何したんだお前」

「その目やめろ。私は何もしてない」

 そんなわけないだろ、という言葉が喉まで出てきそうになる。関係者以外立ち入り禁止というわけでもないのに出禁にされるなど、相当なことがない限り起こりえない。

 じと、と呆れたように見ている時雨は、未だに疑いの念を抱いていた。

「信じてくれよ、ホントに何もしてないんだって。ちょっとあるものを壊しかけただけで、故意じゃなかったから出禁以外特にお咎めもなかったし」

「それをしてるって言うんだ。……はあ、わかったよ。俺だけで行ってくるけど、お前は先に帰るか?」

「いいや、ここで待ってるよ。でも話聞きたいから、電話つないでてくれないか?」

 上に着いた時でいいから、と言って手を振る。

 渋々納得した時雨は、朱梨の要求を呑んで一人で長い階段を上っていった。

 ミンミンと鳴くセミが耳障りだ。

 頬を伝う汗を手の甲で拭って、神社を目指していく。


 呰見神社は、時雨にとっても馴染み深い場所である。小さい頃はよくこの敷地で遊んでいたものだった。時々菓子を出してくれるから、結構足繁く行っていたと思う。

 この神社の宮司が、時雨の伯父であるのだ。

 呰見神社は、代々泡沫家の人間が宮司を務めていた。この地域で最も血筋が古いためであると聞いたが、それにしては多少の食い違いがあったりして時雨はいまいち腑に落ちてはいなかったりする。

(折角ここに来たんだし、ついでに訊いておくか)

 石畳を歩く。

今日は暑いせいか、珍しく参拝客が一人もいなかった。遠くの砂利の上に、陽炎のようなものが出来ているだけだ。

 ふと思い出して、スマホで朱梨と電話を繋げた。

「…………もしもし朱梨、聞こえるか」

『全く大丈夫。この感じだとスピーカーにしてるな?』

「ああ。参拝客もいないしな。かなり周りでセミが鳴いてるけど、聞き取りにくくないか?」

『ん? いいや、鳴き声は全く聞こえない。どっかの怖い話で言ってたけど、セミの鳴き声が電話越しでは聞こえないっていうの、本当だったんだな』

 くくく、と笑う声が電話越しに聞こえてくる。その気味の悪い笑い声を無視して、時雨は右側から裏手に回り込むように歩き、縁側のある方へと向かった。

 きっとそこに伯父がいる。

「…………やっぱり。伯父さん、人がいないときはいつもここ居るよな」

「お、なんだ時雨か。……いやーな気配すると思ったら、神代のとこの嬢ちゃんと電話つないでんのか?」

「あんたが出禁言い渡したとかで、朱梨は下で待ってるからな。電話くらい許してやれよ」

 腕を組んで少し非難する声音で言い放つ。

 縁側に座って茶を飲んでいた時雨の伯父は、少しだけ険しい顔をしていたが、やがてその怖い顔も消して、いつもの朗らかな表情に変わった。

「まあ、そうだな。神代の嬢ちゃんの出禁はやむを得ないもんだが、電話越しぐらいなら大丈夫だろう。ほら、時雨も上がれ。菓子ぐらいは出してやる」

「いや、俺は菓子をたかりに来たわけじゃないからな」

『こんちわ昊天さん。ご無沙汰してます。早速なんですけど真宮結々祢って人から連絡来てます?』

 早速電話越しに本題に入る朱梨。

 それを聞いた時雨の伯父―泡沫昊天は、すっと真剣な表情になった。

「ああ。話は聞いてる。ただ……結々祢ちゃんで駄目なら、俺にもどうしようもないぞ」

「……薄々そんな気はしてた。今日来たのはただの気休めなんだ。少し神様の近くにいたらどうだっていう朱梨の助言で」

「はは、神代嬢ちゃんそんなこと言ったのか! 似合わんな」

『自覚してますよーだ。それよりほら、時雨をどっかで休ませてあげてくださいよ。もう見てるこっちがハラハラしてきたぐらいなんですから』

 電話越しの朱梨が言う通り、今の時雨はどことなく足元がおぼつかない。決して熱中症などではなく、どちらかというと影によるストレスでちゃんとした睡眠がとれていないことによる不調だろう。そんな状態を見せられて心配しないはずもない。近くに寄るよう手招きした昊天は、ちょうど空になっていた湯飲みに茶を注いで時雨に差し出した。

「これ飲んで拝殿で休んでろ。今日はどうせ人は来ないし、来たところで賽銭だけだろうよ。場所はわかるな」

「……悪い。迷惑かける」

 少しバツの悪そうな顔で一言告げて、渡されたお茶をぐっと一息に飲み干す。暑い日に熱いお茶など正気ではないと思われるだろうが、このお茶は魔除けや霊力循環の効果がある特別製である。再び空になった湯飲みを昊天の横に置いて、時雨は拝殿のほうへ足を向けた。

『……あ。悪い時雨、私ちょっと昊天さんに聞きたいことがあるからスマホも置いといてもらえないか』

「……? ああ、わかった。お前、流石にこの暑さだから先に帰ったほうがいいぞ」

『気遣いありがと。私は平気だからお前は自分のことだけ考えとけよ』

 繋げたままのスマホを昊天に手渡して、今度こそ一人で拝殿へと向かった。

 場所は知っている。室内と屋外の境界線を跨いだ瞬間、空気が変わるような錯覚を受ける。入ってきた障子をそっと閉めると、そこは畳と障子に囲まれたしんとした空間に切り替わる。防音なんて無に等しいはずなのに、セミの鳴き声がとても遠くの音に聞こえていた。

 本殿ではないので、当然ご神体はいない。その代わりに本殿や幣殿のほうに繋がる扉、祈祷のための玉串や榊などがある。この空間が、昔から時雨は好きだった。

「……失礼いたします。少しの間だけ、そばで休ませてください」

 柱の近くに正座して、本殿のほうに頭を下げながら断りを入れる。小さいころから習慣として叩き込まれた所作の一つである。顔を上げた時雨は、そのまま深く息を吸い込んでは緩やかに吐きだす。正座したまま、軽くそばの柱に寄り掛かると、それだけで疲労のようなものが押し寄せてくる。摩耗した精神ではそれを振り払うことも困難で、いつの間にか彼の意識はふわふわと落ちていった。



 ◇



「……で、何の用だ、神代嬢ちゃん。時雨の話し相手にでもなってやらないのか?」

『そうすね。そうしたいのはやまやまですけど、それよりあんたに聞きたいことの方が重要なんですよ、私にとっては』

 ところ変わって縁側。時雨が拝殿に行き、昊天と朱梨のふたりになったところで、ようやく朱梨は猫をかぶるのをやめて、何も取り繕わない口調で話し出す。

「なんだ? 神社のことならなんでも聞いていいが?」

『いや確かにこの神社も気になりますけど。でも私が興味を持つのは須らく泡沫時雨のことだけですよ』

「お前らそれでなんで付き合ってねえの?」

 は? という声を飲み込む。朱梨としてはどうしてこう邪推する人が多いのか疑問でならないのだが、そこをいちいち突っ込みだすと面倒になる。故に総スルーして本題を切り出した。

『泡沫が何なのかとか、真宮結々祢が何者だとか、いろいろ知りたいことはあるんですけど、兎にも角にもコレ訊かないと話にならないんですよね。



 ―なあ昊天さん。「泡沫時雨」って、誰が名付けたんだ?』



 ミンミンとセミの声が反響している。

 夏の暑い日差しは縁側の屋根に遮られ、明確に光と影の境界線を作っている。寿命の尽きた蝉の死骸が酷い日差しにジリジリと焼かれていた。

『名前の重要性を理解しているあんたら(祈祷師)にしてはおかしすぎるでしょ、コレ。ちょっと悪趣味すぎないか? 名は体を表すとか言うけど、思いっきり名前に魂が引っ張られすぎてる。……脆すぎる。儚すぎるって言えばいいの? ただでさえ「泡沫」の姓が不安定な存在にしてるって言うのに、よりによってなんで「時雨」にしたんだ?』

「……」

『「時雨」って、言うなればまあ通り雨のことだよな。ふらっと降ってすっと晴れるような、すぐに通り過ぎてしまうような不安定な存在。姓が「泡沫」じゃなければ、あいつの家が退魔や祈祷をしてなければ別になんとも思わなかっただろうけど、こうも重なると違和感があるんだよ。これ、誰が名付けたんだ? 昊天さん? それとも時雨の親父さん?』

「……流石だな。普通、小さいころからの親友の名前なんて疑問すら抱かないもんだろうに」

 そう言って、昊天は遠くの青空に目を向けた。大きな入道雲ができているその空は、本格的に酷暑を告げているような錯覚すら呼び起こす。その空を眺めながら、二三考えるように黙り込んで、そして不意に口を開いた。


「……神様だよ」


『……は、』

「神代の嬢ちゃん、この神社に祀られている神様の名前、知ってるか?」

『……さあ。氏神様じゃないのか』

「それで間違いはないさ。それでもこの神様特有の呼び方をするなら―無名無貌の神様、だ」

 無名無貌。

 その通り、名前も顔もないかみさま。

 名前が無い、顔が無い、存在を象徴するものが無いその状態はまさしく不安定そのもので。

 それが、どうして、時雨に繋がってしまうのだろう。どうして時雨の名付け親として呼ばれるのだろう。それが意味することを、考えたくはないのに、悲しいかな決して鈍くはない朱梨のその脳みそは感情なんて関係なく結論をはじき出してしまう。

『…………いやまさか。存在の揺れてるもの同士をダブらせて重ねようって言うのかよ?』

「ま、端的に言えばそうだよな。俺たち泡沫家は代々この神様にお仕えしてきた一族だ。「泡沫」を名乗るのはその点が大きい。…………時雨が生まれた時、だれが決めるまでもなくあいつは時雨と呼ばれた。俺が知っている中でそんな現象が起きたのは、俺や氷雨の弟だけだ。ま、そいつももう死んだがね」

『…………その弟さんは、神降ろしができた?』

「ああ。つっても名前がよくなかったんだろうな、不完全な同調だった。それに比べりゃ、時雨の名前は完成されてる。きっと完璧に合う器に付けるつもりで温存しといたんだろうなあ、「時雨」って名前は」

 ……なんだよそれ、と吐き出すような苦言が電話越しに伝わる。自分にとって一番の親友を『器』扱いされれば朱梨でなくとも怒るだろう。だってそれは、ガワとして泡沫時雨の存在が必要とされているだけで彼の人格は必要とされていない。非実体の存在を実体化させるための神降ろしなのだから、そこに彼の人格の安全は保障されない。きっと神様の存在に塗りつぶされてしまうだろう。

 ……そんなもの、ただ体裁のいい生贄に過ぎない。

『……昊天さん、あんた時雨がこんなことになってるのにどうも思わないのかよ?』

「人聞きが悪いな。思うところが無いわけじゃねえよ。ただまあ、これは泡沫家の悲願の一つでもあったからなあ」

『はぁ? やってる事ただの人体実験だし、第一この科学全盛の時代になんで神降ろしを必要とするんだよ』

「決まってるさ。この科学全盛の時代においてもなお怪異は存在するからだよ。……まあ、」

 ふっと一人で彼は誰に向けるまでもなく笑う。

 その声が聞こえたのか、電話の向こうの朱梨は眉をひそめた。笑う要素など一つもありはないはずなのだが。


「神を必要とする程の怪異なんざ、もうそうそう居やしないだろうがねぇ」



 ◇



神社の階段のそばの木陰は、やはり木の近くであるせいなのかセミの鳴き声が煩かった。適当な段差に腰かけるようにして通話を続けていた朱梨の頬に汗が伝う。いかに日陰と言えども、纏わりつくような蒸し暑さは変わらない。それでも、その暑さを全く意に介さないほどに話の内容に気を取られていた。

「……そうそういない、か」

『ああ。ほとんどが科学で説明できる時代だ、怪異の神秘性や信仰なんて地の底まで落ちてる。神様の力を借りなくても、十分人の手でどうにかできるのさ、大概の奴は』

 たとえば、という言葉に続いて出てきたのは、『真宮結々祢』の名だった。

『結々祢ちゃんは凄い。あれは人として持ちうる限界に近いな。とてもじゃないが二十五歳とは思えんよ。八尺様……はちと厳しいかもしれんが、姦姦蛇螺相手なら条件次第じゃ勝てるかもしれん。まあその条件がとてつもなく厳しいんだが』

「……ふうん。なら、『リョウメンスクナ』相手ならどうなんだろうな」

『……さあな。でもまだ現存するってことは、破壊するより封印する方が都合がいいんだろうよ。変につついて死者が出たんじゃ、たとえ破壊できたとしてもよろしくないしな』

 ……。

 濁すようなその声音に、朱梨は少しだけ思考を回す。

 そしてそれを悟られないように、思考にかぶせるようにして次の話題へ移る。

「……まあ、つまりさ。時雨には神降ろしだとかそういう資格はあるけど、実際のところそういうの使う機会はほぼないし今のところその予定もない、ってことでいいんだよな?」

『そういうことだ。だからまあ、お前さんがそこまで心配する程の事でもない。なんかあってもまずは俺や結々祢ちゃんが出るだろうし』

「そうか。ならまあいいや。で、まだ訊きたいことはあるんだけどいいか?」

『おうおうどんとこい。知ってる事なら答えてやろう』

「じゃあまあ遠慮なく。七大怪異の序列、教えてくんない? 風の噂で聞いたんだけど、六番目が消失したらしいじゃん? 今どうなってんのかなーって」

 『七大怪異』。その名の通り、存在する怪異の中でも特に力が強いことや有名なことから、祈祷師や退魔師などの間で知られている総称である。

 朱梨の疑問を聞いた昊天は、おやと首を傾げた。

『なんだ、時雨から聞いたことないのか』

「だってあいつなんか第一席のこと知らないし。昊天さんから聞いた方が確実だろ」

『……あー、まあそうだよな……神代嬢ちゃん、一応あいつの名誉のために言っとくが、あいつは第一席……八尺様の知識がないわけじゃない。認識阻害の呪いがかかってるだけだからな』

「だけってレベルじゃねーだろ大問題じゃねえか⁉」

 思わず電話口で叫んでしまう。朱梨の言う通り大問題なのだが……昊天曰く、それ以外に実害がないことと、深層心理の奥の奥、本当に深い部分に作用しているせいで解呪の手立てが何もないため放置されているらしい。

『ま、とりあえず話を戻すぞ。今言ったように第一席は『八尺様』だ。さっきの話の流れからして、第三席までは知ってるんだろ?』

「ああ。第二席が姦姦蛇螺で、第三席がリョウメンスクナだろ、呪物の方の」

『合ってるな。『両面宿儺』はまた別枠だから気にすんな。で、四番目が『きさらぎ駅』。五番目が『旧宮代神社の悪霊』、七番目が『くねくね』。そんで、消失した六番目が『障芽池の怪』だったんだが、これがまあ村ごと消し飛んだもんでな。今はもう結々祢ちゃんが封印に封印を重ねた誰も入れない禁足地と化しちまってんだよ。だからもう七大怪異には数えられちゃいない。で、それに代わって新たに台頭してきたのが『心霊空間』。お前たちも行ったことがあるだろう? 幽霊のみが跋扈する異常空間だよ』

 朱梨の脳裏には今なお鮮明に浮かぶ、あの恐ろしい空間。生者などどこにも存在しない、誰も彼もが死と怨念を纏っていたあの世界が、七大怪異の第六席に加わったというのだ。

 暑さのせいじゃない、冷や汗が彼女の頬を伝う。

「……四から七席、解説してもらっていいか」

『大筋はインターネッツを活用しろやと言いたいが、詳細は知られてないしな。四番目のきさらぎ駅は知っての通り異界の駅だが、一応カテゴリー的には呪物らしい。でも最近は幽霊説も出てきたんでマジで意味わからん状況になってる。まあ、行こうと思って行ける場所でもないし、研究は進んでないんだろう』

「あれのどこが幽霊って言えるんだよ……」

『報告例が少ないからなあ。廃駅の思念が霊的粒子を得てきさらぎ駅になった、なんて仮説もあったらしいが、それが割と当たらずとも遠からずらしい。詳しいことは知らんが』

 次行くぞ、と切り上げる昊天。あんまり知らない、というより実態が知られていないらしい。

『五番目の『旧宮代神社の悪霊』。そのまんまだな。旧宮代神社にいる悪霊のことだ』

「宮代神社? 埼玉の方の宮代町のどっかか?」

『いいや。岡山の方の神社だな。ちなみに宮代神社は今でも存在してる。問題なのはその旧社だ。死んでもいいなら行ってみろ。本当に死ぬから』

「やだよ死にたくねえし。幽霊の中でも最高位の力持ってるから七大の中に数えられてるわけね」

『そういうこと。単純明快で大助かりだ』

 電話を繋げたまま、朱梨はスマホの地図で検索をかける。昊天の言う通り、岡山のほうに該当する神社があった。ただし、これは現在の神社であり旧社は表示されない。怪異のたまり場となっているので当然の措置だろう。行く予定はないので別に困らないが。

『六番目は説明する必要ないな。で、七番目だが』

「待って確かに心霊空間は肌で実感したから別にいいけど、『障芽池の怪』なんて初耳なんだが」

『面倒だな。ネットで障芽池って検索したら出てくるぞ。ググレカスだググレカス』

「は? んなわけねえだろ仮にも七大怪……ウッソだろマジで出てきやがった⁉ しかも例によってまた掲示板だし」

 掲示板……世間でいうところの5chの書き込みが検索に引っ掛かる。掲示板は割とこうしたオカルト話が集まりやすいのだが、今のところ七大怪異の八分の六が掲示板の書き込みに存在するというのはどうなのだろう。

 流し見するようにスクロールして軽く読んでいく。禁を破り結果的に村が一つ滅んでしまったその話だが、ある一点を見て朱梨は眉をひそめた。

「……昊天さん、この話によると村が滅んだのは二〇一四年より大分前みたいだけど。でも私は最近除籍されたって聞いたんだが、このタイムラグはなんだ?」

『ああ、村民がゼロになって事実上廃村になったのは二〇一四年以前で間違いない。ヤバいレベルの厄災の溜まり場ってことで第六席に加わった。問題はその後でなぁ、つい最近その障芽池が爆発したんだ』

「ばくっ、え、は? なに、ガスでも噴出したの? どこの雛見沢だよ」

『雛見沢がどこか知らんが、ガスじゃねえぞ。怪異だ。つまりはまあ、ヤバいのは村の土地でも鬼小屋でもなく、伝説通り沼の底だったわけだ。おかげでその村の周辺一帯に甚大な被害が出た。危うく九州の二の舞になるところだったぞ。結々祢ちゃんが三日三晩寝ずに対処したほどだ、絶対に突くなよ。出てくるのはヘビどころの話じゃねえからな。……だからもう、誰の目にも触れない。何人たりとも接触できない怪異になったから、七大怪異に数える必要がなくなったってわけだ』

 なるほどなあ、と手の甲で汗をぬぐいながら納得する。てっきり真宮結々祢により消滅させられたから数えられなくなったのかと思っていたが、その逆だったとは。とはいえこの方法は妙手である。誰にも触れさせない、誰にも訪れさせないことで人の記憶から風化させ、やがてその存在を非実在に等しいものとするのは怪異の力を無効化する手段の一つである。怪異というのは何も真っ正面から戦って勝たなければならない相手ではないのだ。

『……長くなったな。で、最後の第七席、『くねくね』についてだが……ぶっちゃけ、何もわからん』

「……だろうなあ。認識したら最後とち狂うんだ、情報があるほうがおかしいわな」

『そういうことだ。神代嬢ちゃんも時雨も、とにかく真夏の田んぼは気を付けろよ。いつあの白い何かが出現するかわからんし、気がふれるのは一瞬だぞ』

 ……特に時雨は危ない。彼は理解力に長けている。遭遇すればいの一番に発狂するだろう。精神的なガードの何もかもを透過してダイレクトに発狂させたという報告例も上がっているらしい。兎にも角にも、認識しないようにするしかないのだ。

 ……それにしても。

 話が一段落したからなのか、むわりとした蒸し暑さが彼女に襲い来る。否が応でも汗が噴き出るその暑さにそろそろ音を上げそうだ。本当に、今年は酷暑になるようで嫌になる。時雨にはああいったものの、彼の言葉に甘えて先に帰ってしまおうかな、なんて考えた刹那。



 ―道路を挟んで向かい側に、人型の黒い影を見た。



「―ッ‼ は、何で……ッ⁉」

 その異常事態に、右手に持っていたスマホを落としそうになる。すんでのところで掴みなおした朱梨は、すぐに耳に押し当てたままその影を凝視した。

 影。しかし平面ではなく立体的。目も鼻も口もないが確かに人の形をしたソレ。そしてそれを認識すればするほど這い上がってくる背筋の悪寒。

 ……最悪だ。

 時雨の言う影と、まるっきり同じではないか。

 なんどもなんども自分の精神状態を鑑みても、こんな幻覚が見えるような状態ではない。あんなものが見えることに心当たりなどない。あるとすれば、一つだけ。

『見聞きしたものに訪れる怪異』の類だったということだ。

「……っ、あの馬鹿不注意が過ぎないか⁉ 昊天さん、昊天さん! 時雨の言ってた影の話、あれもしかしたら、いや多分確実に感染系だ!」

『なんだと⁉ いや、そんなはずは……!』

 電話の向こうの昊天の声が動揺に染まる。ガタッと大きな音がした。ビデオ通話をしているわけではないので向こうの状況などわからないが、おそらく昊天のほうに影は出てはいないだろう。神社の境内など、そう易々と怪異は出没できはしない。

「クソ、気持ち悪いな……! 昊天さん、とりあえず私はあの影を追ってみる! なんかしらのヒントはあるかもしれないし、なので時雨のこと頼みます!」

『……ああ。無茶すんなよ。なんかあったら時雨が泣くぞ』

「あいつがそう簡単に泣くもんか! 私も怖いのは嫌いだし、深入りはしない程度にしとくって言っといて! 真宮結々祢、忙しそうだから増援は見込めなさそうだし!」

 確かにな、なんて電話口で聞こえた声を確認して、朱梨は長かった通話を切った。

 彼女の足元に、蝉の死骸が転がっている。

 まるでアスファルトが茹っているかのように、遠くの空間が揺らめいて陽炎ができている。

 ゆっくりと、不規則な歩みでその影はどこかに行こうとしている。それを追うように、目線を外さないまま朱梨は日陰と日向の境界線を跨いで歩き出した。



 ◇



 緩やかに意識が浮上する。

 心地のいい何かの声が聞こえていた。

 神社の拝殿で休んでいた時雨だったが、想像以上に疲れていたのを実感したのか、指一本動かせそうにない。というより、意識を落とす前は柱に寄り掛かっていたというのに、いまはもう身体全体が横になっている感覚すらある。意識のあった時との差異に少し頭が回らない。

「……起きましたか」

 不意に頭上から声がかかり、反射的に目を開く。

 ……そこには。

 時雨の真横に正座した巫女服の女性が、時雨の手を取って何か真言めいた言葉を呟いていた。何より驚いたのは、その女性の顔は布作面のように布で隠れていたところだ。神職の中ではこういうものを着用することもあるが、日常的につけている人はそうそう居ないだろう。

 指が動かなかったのはこの所為か、などとぼんやり考えていたが、ふと頭を見ればそこには二つ折りにして高さを合わせた座布団が枕代わりに敷かれていた。きっとこの巫女さんのご厚意だろう。ようやく頭が回りだした時雨は、一先ず体を起こすことにした。

「すみません。拝殿で寝転がってしまうなんて、」

「大丈夫。あなた、麗華さんの息子さんでしょう。おじさんから話は聞いています。もう少し寝ていても大丈夫ですよ」

 見ての通り、今日は参拝者もいないみたいですから。

 布の向こうで紡がれたその言葉は静謐な声音だったものの、その口調はどこか取り繕ったような雰囲気が否めない。きっと素の口調はまた違うのだろうなと感じさせるような話し方だった。

 時雨にとって、何度か目にしたことのある人だ。神社の中にこもりきりな彼女とは、あまり話す機会がなかったけれど。

「……ああ、そういえば名前を言う機会がなかったですね。私のことは葵と呼んでもらえると助かります」

「葵さん……って、ひょっとして、結々祢さんの言っていた方ですか?」

「…………アイツが私のことを何と言っていたかは知りませんが。『呰見神社の巫女』『酒飲み退魔師』『アル中下戸女』あたりのことを言っていたならそれは私のことですね」

「いや流石にそこまで酷い物言いじゃなかったです」

 冗談ですよ、と僅かに布を揺らして葵は笑った。実際は本当に言われた言葉の数々なのだが、流石に時雨には伝わっているわけもない。本人同士の軽口の一環だ。

「結々祢からも少し話は聞いています。あなたが寝ている間に一通りのことはやってみましたが、やはり穢れ等の異常は見られませんね。……あ、すみません。勝手に手を取っていましたが、不快ではなかったですか」

 そう言って、時雨の掌に触れていた葵の手がするりと離れる。落ち着いたその動作は綺麗と形容してもいいくらいだ。とてもではないが『アル中』なんて言われそうにない。

「いえ、大丈夫ですが……結々祢さんが言っていたんですけど、お酒嗜むんですか?」

「ええ、人並み程度には。あなたに符の術式という独自性の強い術式があるように、私にもそういったものがあるので」

「……酒、というか御神酒関係の術式ですか?」

「おや、察しがいいですね。……ということで、少しばかりこちらを飲んでみてください」

「…………話の流れから察するにこれは」

「御神酒ですよ。身体に異常がないならば少なくとも変な味はしません」

「未成年に酒を勧めるとか傍から見たら悪い大人ですよ」

「腹に背は変えられませんよ。飲むのが嫌なら口を湿らせる程度で結構です」

 葵から差し出されたそれは、鮮やかな朱で塗られた立派な盃であり、そこには透明な液体が入っていた。葵の背後、板張りの床の部分には酒樽のようなものも置いてあり、おそらくはそこに入っていた酒だろう。今の時雨が飲めば確実に未成年者飲酒禁止法に引っ掛かるのだが、生憎とこの場所には飲酒を勧める悪い大人しかいない。一応の正当性もあるので、時雨はその朱塗りの酒盃を手に取ろうとして、

「……、礼手、した方がいいですか?」

「別に人前でもないですし、格式張る必要もないですが。まあ、あなたがしたいのならすればいいですよ」

 その返答を聞いて、改めて居住まいを正した時雨は一度手を打ち、その後に酒盃を両手で持ち上げる。本来であればこの時神職の人に酒を入れてもらうのだが、今回はもとから入っているのでそのまま口を付けた。飲むわけではないので、ほんの少量だけで口を離す。

 ……。

 特に不快な味はしない。

 酒の味だ。その味自体が少々苦手なところはあるのだが、それでも世間一般的には美味と称される味だろう。

 それをそのまま伝えたところ、葵は一言、そうですかと残念そうに呟いた後に、酒盃を受け取る。怪異に侵されていればよかった、なんて思いたくはなかったけれど、今の時雨の状態ではむしろそっちの方が好都合だったのだ。原因のわからない異常など厄介この上ない。

 葵は盃の底を片手の指先で持ち、もう片方で面作布を少し捲りあげる。その後、残っていた御神酒を三口で飲み干して、空になったその酒盃を畳の上に置いた。

「……異常はないようですね。少しでも体内に呪いなどがあれば、口を付けた時点で酒全体が不味くなるんですが……、あれ、これは……、」

 不意に袖で面作布越しに口元を抑える。舌に広がるその味に微量の違和感を覚えた葵は、二三何かを呟いた後にすっと立ち上がった。

「……少々、おじさんに伝えたいことができました。少し席を外します。時雨くん、あなたはこのままここで休んでいてください。出来る限りすぐに戻りま─」

 そうして、葵が出入り口に向かおうと踵を返した瞬間。

 スパンッと大きな音を立てて、障子が開かれた。

 そこにいたのは、やけに慌てている様子の昊天だった。

「―と、ちょうどよかった。おじさん、少々伝えたいことがあったのですが……その前に、何かありましたか」

「ああ、緊急だ。その前に葵、時雨の中には何かいたか?」

「いいえ何も。流麗そのものでした。しかし、二三気になることが」

 そう言って、葵は昊天の耳元で何かを呟く。その内容は小声過ぎて時雨には聞こえない。しかし、昊天は何か納得がいったのか、目を伏せて少々考えるような仕草をしている。

「……おじさん。それよりも、先ほどの緊急とはどのような案件ですか」

 昊天の思考を遮るように、葵が先ほどの彼の言葉に説明を求めた。ああ、と我に返った昊天は、通話の切れた時雨のスマホを彼に投げ返して言った。

「怪異だ。神代嬢ちゃんが黒い影を見た」

「は……⁉ なんであいつが影を見たんだ⁉ 見えるのは俺だけじゃなかったのか……⁉」

「……感染系、ということですか? それならば私やおじさん、結々祢も見ないと話が合いませんが。時雨くん、その神代のお嬢さんという方に影の話をしたのはいつですか」

「ほんの数時間前です。話した後、俺は一度影を見ましたがその時は朱梨は見えていませんでした」

 その返答に、二人は難しそうな顔をした。

 何かが食い違っている。

 どこか繋がらない感覚がある。

 言葉にしようのない、僅かな違和感が散りばめられている。

 三人とも黙り込んだまま、数秒ほど静寂が訪れて。

 不意に、葵が時雨に手を伸ばした。

「時雨くん。その携帯を貸してください。神代のお嬢さん……神代朱梨、というのでしたか。彼女にもう一度連絡を取ります。おじさんは本殿で結界の強化を。浄化能力を高めれば、あるいは自然消滅も見込めるかもしれません」

「ああ。時雨、お前はとりあえず神社の敷地からは出るな。少なくともここなら呰見一安全だ」

「わかってる。……どうぞ、葵さん」

 朱梨の電話番号を打ち込んだスマホを葵に手渡す。その間にも、昊天は本殿へと姿を消していた。再び二人きりになった拝殿で、葵はスマホを耳に当てて、はっきりと言い放った。


「……時雨くん。神代朱梨さんが見た黒い影というのは十中八九怪異でしょう。この呰見の土地は怪異の発生しやすい土地ですから。

 ―……ところで、時雨くんはごく最近の論文、

特に綾乃高校オカルト研究部現部長さんの書いた、『風化した怪異の再発生に関わる要因』を読んだことはありますか?」



 ◇



 酷い日差しが、コンクリートの地面を焦がしている。

 ともすれば熱射病にすらなりそうなその気候の下、神代朱梨は険しい顔をして歩いていた。現在、朱梨は呰見市中央区の大きな道路沿いを歩いており、対向車線に先ほど見つけた黒い影が歩いている。ビル群、というほどの都市部ではないが、店や住宅街が近いその場所は、本来ならば人通りの多いはずの道だ。生憎と、連日の猛暑で真昼に出歩く人が少なくなってしまったため、今は通り過ぎる車ぐらいしかない。

(……どこに行くつもりなんだ、こいつ)

 現在時刻は午後二時過ぎ。

 いい加減暑さで倒れそうだ。もしかしてこれ熱射病で脳がおかしくなって見えている幻覚なのでは? なんて疑いだしたころ。

 不規則な動きで移動し続けた黒い影が、ふと歩みを止めた。そこはちょうど、呰見市の中でも一番大きな河川が流れているところであり、それに架けられた大きな橋の前だった。

 河川の名前は堅洲川(かたすがわ)。一級河川に指定されているその川は北から南にかけて呰見を分断するように流れており、都心部に近いところなどでは相当に大きな河川敷があるほどに整備されている。

 ……何か、この川に関係のある怪異なのだろうか。額に流れる汗を手の甲で拭いながら訝し気に影を睨む。橋も今日は人通りは少なく、向こう側から男性が一人歩いてきている程度だ。影は未だにゆらゆらと佇んでいる。陽炎みたいだ。

 気持ちが悪い。

 その影の形は、時間が経つにつれ徐々に輪郭が浮かび上がっていた。それが酷く歪なのだ。確かに五体満足ではある。頭部と思わしき部分も、手足と推察される部分もきちんとそろっている。しかし、右足と思われる部分が極端に細い。まるで棒切れみただ。そしてそれ以上に、顔の部分に目のような器官が存在しているが、これが一つだけなのも酷く違和感を煽っている。

 まるで元は一眼一足だったかのように。

 何かがおかしい。

 文字通り酷く歪なのだ。姿ではなく、存在が。

 その時、不意に影が動き出した。

「―ッ‼ まずっ……!」

 その動きは、今までの緩慢な動きとは似ても似つかない。まるで何かの獲物を見つけた獣のように、俊敏な動きで進んでいく。

 まるで、ではない。それは決して比喩ではなく、本当にその影は標的を定めて動いていた。

 橋の向こうから渡ってくる男性。橋の折り返し地点に差し掛かるくらいの位置を歩いている彼に向かって、まるでスライドするかのような動きで迫っていた。一瞬遅れて、朱梨も走り出す。しかし朱梨は道路の向かいの歩道にいたため、道路を突っ切るのも容易ではない。どうやったって彼女は影に追い付けない。

 そうして。

 影と男性がぶつかる、と思われた瞬間。

 朱梨は一瞬、通り抜けた、と錯覚した。

 しかしそれは間違いだ。だって、男性の背後から影は出てこなかったのだから。

「…………入った、のか」

 想定外のことに一瞬思考が固まる。ようやく理解が追いついたかのようにぽつりと一言零した。

 ぶつかって、そのまま入り込んだ。影はあの男性にとりついたのだという事実を理解したころには、件の男性はただぼんやりと虚空を見つめているだけになっていた。

 訳が分からない。

 とりあえず男性に接触しよう、と車の通りが切れる瞬間を見計らって横断しようとして、


「―ぁ、あ、ああああああああぁああああああああぁぁあああああぁあぁぁああああああぁあぁぁあああああああ‼」


 ガンッ! ガンッ‼


 耳をつんざくような奇声とともに、男性が橋の欄干に頭や体をぶつけだした。不慣れな道具を使っているかのように覚束ない手や足の動き。恐怖感を煽るその動きと、零れてしまうのではないかと思ってしまうぐらいに見開かれた目が否が応でも恐怖心を引きずり出してくる。

 ―そして。

 豹変してからわずか数秒も立たないうちに、男性は何の躊躇いもなく橋の向こうへ身を投げた。


「―……」


 大きなものが水に落ちたような音が聞こえた。

 ……。

 …………。

 少し、遅れて。

「……時雨なら、きっと、」

 彼ならきっと、何を考えるまでもなく脊髄反射で飛び込むだろう。たとえ勝算が無かろうと、自分が溺れてしまう可能性があろうと。

 だから朱梨も躊躇いなく飛び込んだ。

 泡沫時雨ならこうするという、十一年の年月に裏付けされた確信に近い推測、ただその一つだけを理由にして。

 腰に巻いた赤いパーカーの裾がひらりと翻る。

 幸いにも朱梨のいる側は下流側だ。数秒の逡巡で男性は橋の下を流れてしまい、下流側にその姿が見えている。怪異が入り込んだその体は溺れないようにもがく素振りなど一切しておらず、放っておけばすぐに水死体になってしまうだろう。欄干に足をかけて飛び出した朱梨は、空中で身をねじって上手く男性のそばに着水した。

「―ぷは、ああクソ、服もこいつも重てぇ……ッ!」

 着水と同時に男性の服を掴む。そのまま引き寄せて、無理矢理顔を水面から引きずり出す。その瞬間男性は咳き込んだので、まだ息があることを確認できた。

 問題はここから岸に行くことである。今の朱梨は川底に足がついていない。川の流れに逆らうことすらできない今の状況で、成人男性を引っ張りながら岸に上がるのは相当に難易度が高い。服が水を吸って、朱梨を川の底へ落そうと引きずり込んでくる。

「…………、今死ぬか、後で死ぬかだよな」

 意味深な言葉を呟く。どこにも人はいないから、誰に聞かせるわけでもないその言葉はすぐに空気に搔き消えた。幸いに、ここに泡沫時雨はいなかったから。

 ……だから、少しだけずるをすることにした。


 川底に手が突っ込まれる。

 川の流れに逆らい始める。

 向こうから手を引かれる。

 引っ張られ投げ出される。


 ―

 ―、―

 ―。


「―……ッ、ごほっ、」

 朱梨の手が岸辺の地面を掴む。もう片方の手は男性の襟首をつかんだまま、腕に全神経を集中させて岸に這い上がる。水を吸った服もこの男性もそれなりに重たかったものの、どうにかこうにか男性を河川敷の地面の上に寝かせた。幸いにも男性は規則的な呼吸をしているし、胸に耳を当てて確認したところ心臓もきちんと動いていて、命に別状はないだろう。ただ、何度肩をたたいて呼びかけようと一向に意識を取り戻さないのが気になる。夏場とはいえ川でおぼれたのだ、体温の低下も考えられるこの状況で、一先ず朱梨は男性を横向きに寝かせた後にスマホのダイヤルで119を押した。

 すぐに繋がった電話先の声に応答しながら、朱梨は男性の手先や首筋にペタペタと触れて体温を確認する。通常よりわずかに低いその温度に顔をしかめた。遮蔽物のない場所に寝かせているため日当たりは良好だが、これで体温が元通りになってくれればよいのだけれど。スマホぐらいしか所持していなかった朱梨は温めるための布類など何も持っていない。

 必要な情報を伝え終わり、通話が終了する。五分もしないうちに救急車が到着するだろう。出来れば呰見総合病院の甲斐先生の方に話が通せればいいんだけど、なんて考えながら腰のパーカーを絞り、男性から目を離さないでいた時。

 …………?

 一瞬だけ、男性の頭部に黒く靄がかかったように見えた。

 

 朱梨はここで警戒して距離を置くべきだった。

 それができなかったのは、彼女自身も窮地から脱したという状況で無意識のうちに安堵して、僅かに気が緩んでいたからだろう。

 人間誰だってそうだ。

 泡沫時雨だって、危険な場所から安全地帯に逃れた直後は気が緩むし力が抜ける。

 彼と彼女が違ったのは。

 気のゆるみを自覚できたか否かという点であり、そしてその緩みを引き締めなおすのに彼なら瞬きの時間も要らず、そして彼女は数瞬の時が必要だった点だ。


 そうして。

 飛びのくことすらままならないまま、彼女はソレの射程距離に入ってしまっていた。


「―」

 声が出ない。

 男性はあんなにも気の触れたような叫びをあげていたというのに。男性。男性? 離れなければ。

 男性からにじみ出た黒い靄が、至近距離の朱梨に手を伸ばすのに一瞬の時間も必要としない。気づいたときにはもう遅くて、その黒い影は朱梨の中に入り込んでいた。

 脳みそに黒い翳りができる。

 声が出せなかったのは、言語能力を司る部分が黒く塗りつぶされてしまったから。侵食されていく。脳下垂体に纏わりつかれる。残っていた朱梨の意識が辛うじて男性とそして川辺から離れなければいけないと直■■る。川は駄目だ。また飛び込んでしまう。そ■を要求している。どこに行けばよいだろう■■小さくなっていく思考回路で考える。考えて、しかしその考えている■■■この影に筒抜■■■ずで、だから■■脳と体を切り離す■■にした。この状況を打開できる唯一の手段の■■■■■■■とだけを体にプログラ■■てただ■■■■■足を動かす、言う■■■無意識の応用だ。意識がある■■■■■■■って逃げて、もうな■■■■しまった後はただひた■■■■■■■■■■■からな■■■優■菜の■■方へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■あら、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■どう■■■■■■■■■■■■■■■随分■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■朱■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■梨さん。

「―起きて、朱梨さん」


 その一言で、意識にぶちまけられた黒い墨が綺麗に流れ落ちていった。急速にクリアになる視界。投げかけられた言葉の通り、たたき起こされた時のような感覚。

 目の前にいるのは、意識を失う直前に探していた少女。

 結染優里菜が、朱梨の手首を掴んで引き留めていた。

「―……、優里菜、」

「えらいわね、ちゃんとわたしの所まで来るなんて。上出来よ。時雨さんがいたならきっと褒めてくれるわ」

 わたしの目の前で急に走り出したときはびっくりしたけれど、なんて付け足す。

 優里菜から目を離して周りを確認してみれば、恐ろしいことに川の目の前だった。しかも朱梨の片足は水に浸かっていて、今にも川底へ身を投げてしまいそうな状態だ。ようやく優里菜の言っていたことを理解する。

 要は、意識を失う前に体に刻み込んだ『優里菜に会う』というプログラムが完遂されたために空白となり、そこに影の指揮系統が入り込んだために入水自殺を行いかけたのだろう。つくづく嫌な怪異だな、と思いながら片足を引き上げた。

「ひとまず、あなたの意識と身体に檻を作ったわ。これでその怪異に逃げられることはないわね」

「……ありがと。おかげで助かった」

「ふふ、どういたしまして。それより……携帯、鳴ってるわよ。出なくていいの?」

 ぴっと指差された腰のパーカーのポケットが僅かに振動している。急いで確認してみれば、そこにはいくつかの着信履歴とともに表示された『泡沫時雨』の名前。

 少し前からかかっていたのだろう。急いで通話ボタンを押して、ついでに優里菜もいるためスピーカーにして電話を繋げた。

「もしもし、悪い遅くなった」

『……神代朱梨さんで間違いないでしょうか』

 聞こえてきたのは知らない女性の声。その疑問を口にする前に、電話の向こうから葵という名であると告げられた。

『神代さん。黒い影を見たというのは本当ですか』

「はい。咄嗟にその影を追って、それで―」

 要点だけをかいつまんで、端的にここまでの経緯を話す。途中で時雨が口をはさんできたことから、彼も葵と同じ空間にいるのだろう。容易に川に飛び込むなと彼に言われたが、怪異が関わっていなければ朱梨だってこんな危うい救助方法ではなく推奨された救助方法を行っただろう。話が脱線しそうだったので言い返すのはやめておいた。

 そして一通り話し終わった後。

「―……ってなわけで、感染系かつ結構危険なんですが。泡沫、お前どっからこんな危険物拾ってきた?」

『用があるのはその件です。……最初に謝っておきます。あまり、詳しいことは言えません。ですが、


 ……時雨くんの見る影に感染性はありません。というよりそもそも、彼のこの現象は怪異に分類するべきものではないのです』


 極めて冷静な声音で、電話の向こうの葵は断言する。

 確信めいたその言葉。

「…………あんた、もしかして泡沫のその現象に心当たりがあるんですか」

『はい。しかし申し訳ないですが、私の口からもおじさんの口からも言えません。そういったものとして受け継がれたもののようですから。……特に、君は神代でしょう』

 受け継がれた。

 おじさんの口からも言えない。

 君は神代だから。

 引っ掛かる言葉ばかりが飛び出してくる。全部訊きたい気持ちをぐっとこらえて、たった一言だけ朱梨は、

「…………要するに、泡沫はほっといても無事ってことだな」

『ええ。彼の身に害のある異常が発現することはありません』

「ならもう興味はない。つまり、泡沫の見た影と私が見た影は完全に別物なんだろ? ならあの影はなんなんだよ。ここ最近で溺死のニュースは無いし、なら今発生したとしか考えられないだろ。このタイミングの合致はなんなんだ」

 通話のはじめから無言のままだった優里菜がポチポチと自身のスマホをいじって検索をかけていたが、最近の溺死者のニュースは一つもない。

 にも関わらず、同系統のように見える現象が二つ同時に発生したのは不自然極まりない。初め朱梨が感染系だと勘違いしたのも仕方のないことであり、むしろ普通はそっちだと考えるだろう。

『神代さん。あなたも時雨くんと同じ綾高に通っているのですよね?』

「え、あ、はいそうですけど」

『そして部活は彼と同じオカルト研究部に所属している』

「…………? そうですけど。なんか関係あるんですか」

『ならおそらく、綾高三年の桐島悠斗さんが書かれた論文を目にする機会があったのではないですか?』

 葵から告げられた名前には心当たりがあった。市立綾乃高校三年B組、オカルト研究部現部長。

 彼のためだけに作られた部活であり、その彼が執筆した論文を一度見せてもらったことが、彼らにはあった。

「…………内容あんまり読んでないけど。確か、人々の記憶から消えることによって信仰が途絶えた怪異がまた形を取るのに必要な要因がうんたらかんたらだったような」

『お前、仮にも部長の論文ぐらい目を通せよ。要点としてはあながち間違いでもないけど』

「堅苦しい文面だったから目が滑って……」

『時雨くんの言う通り、間違ってはいませんよ。この論文は私たち退魔師や祈祷師の間でも特に注目されてまして。結々祢なんて、この論文を読んで桐島さんを将来スカウトしようかとか言い出すほどで―いえ、話が脱線しましたね。この論文によれば、口伝、文書、人の記憶など、存在を確立するのに必要な認知度がゼロになった場合怪異は消滅するが、その怪異が再び発生するのに必要な最小認知度……知っている人が何人いるかについての記載もあります』

 ああいや、と訂正が入る。

『人数と言うのは不確かですね。より正確なのはコミュニティの数です。そのコミュニティの人数が一人でも構わない。要はそれぞれ異なる属性に存在する人が何人いるか、です。そしてその最小数値は七つという結果が出ている。

 ……さて時雨くん。あなたは今日まで、あなたの見た影について何人の人に話しました?』

『……母親、甲斐先生、結々祢さん、神代、結染さんの順ですね』

『そして今日の昼頃に結々祢からおじさんや私に連絡がありました。…………そして神代さんが影を見たのが今日の昼。わかりますね? 


つまり、『黒い影』『自分にしか見えないもの』という要素がかつて存在した影の怪異とニアミスして再発生の条件を満たし、結果再び怪異が発現するようになったのです』


「いやそんなことある⁉」


 思わず電話口で突っ込む。

 偶然に偶然を重ねたようなその経緯は通常起きるようなことではない。そもそも通常起きえない現象が起こるのが怪異なのだ。怪異ではないものがニアミスにより怪異を誘発するなどということはそうそう起こりえないのだ。

『……この街では死因の書き換えなどが何度も行われています。その中に、今回のこの怪異による溺死事故も含まれているでしょう。この街全体に記憶改編と事実の改竄、怪異について記載のある書物の焚書により認知度を完全にゼロにするという手が打たれていたのでしょう』

「つまり?」

『マジで本当に情報が一ミリも存在しない、ということです』

「マジでクソ怪異がよ……」

 本当にどうしろというのか。

 結構手詰まりになったこの状況に悪態をつかざるを得ない。朱梨の荒い言葉に、隣にいた優里菜が眉を顰める。

 と同時に、電話の向こうから時雨が朱梨に呼び掛けた。

『神代。……とりあえず、お前は無事なうちに呰見神社まで戻ってこい。外をうろつくのは危険すぎる』

「は? 嫌だよ。こいつどうにかするまで帰れない」

『駄目だ戻れ。死ぬ一歩手前まで行ったんだろ』

「死んでないから大丈夫だ」

『次は死ぬかもしれないんだぞ、考えなしに動くな』

「でもお前ならこうするだろ!」

 思わず語尾に怒気が混ざる。それに押されるように、時雨の言葉が詰まった。

「なあ泡沫答えろよ、お前なら私のこの状況に置かれたとして、放り出して帰るなんてことしないだろ。ならこれが正解なんだよ」

『……それは、』

「嘘なんてつくんじゃねえよ。私が何年お前の親友してると思ってんだ、お前のやること全部わかるんだからな」

『お前と俺は違う。俺がやるからってお前も後を追う必要はないんだよ。俺にできてお前にできないことだっていくつもあるだろうが』

「私にできてお前にできないこともある。いいからお前は神社で大人しく寝てろって。どの道この状況で動けるのは私しかいないだろ」

 朱梨の言葉で、時雨は黙り込む。彼女の言う通り、今この状況で動けるのが朱梨一人しかいないためだ。葵は神社から離れられず、昊天は結界の維持で動けない。結々祢は例によって遠方に出ており今すぐこちらに来れる状況ではないし、時雨の母親も依頼が入って仕事に出ているという連絡が入っていた。そもそも甲斐先生は医者であるだけの一般人であり、時雨は現在もダウン中。

 といったように、本当に朱梨と優里菜以外に自由に動ける人がいないのだ。認知度が上がれば怪異の力が増すのは明白。だから、ほかの人に話して協力を仰ぐわけにもいかない。

 なんどか、逡巡して。

 絞り出すように一言。

『……無茶するなよ』

「当然だ。死にたくねえし」

 安心させるように、軽い口調で返す。

 その後、葵と変わってもらって二言三言程度言葉を交わす。先ほど葵が言ったように情報が本当に何もない怪異であるため、葵のように怪異に精通した専門家であっても情報交換などはできない。ひとまずもう一度これまでの経緯の要点を箇条書きで言って確認した後、適当なところで通話を切った。

「……電話はおしまい?」

「ああ。別にこれ以上話しても特に成果はないだろ」

「……ありがとう。わたしのことぼかしてくれて」

「あ? 別に、お前あんまり存在知られたくないんだろ」

 先ほどの通話の内容には、一つだけ嘘があった。

 朱梨は怪異によって意識を失っていたのを、優里菜の言霊によって引き戻されたのだが、その部分を『自力で意識を戻した』と報告した。それ以外にも、この通話中に朱梨は優里菜の名前も、その存在も口にしていない。あくまで、今この場には神代朱梨しか存在していないのだと振舞っていた。

「それよりも、優里菜。この怪異さ、なんで入水自殺ばっかしようとしてるんだと思う?」

「さあ? そういう怪異なんでしょう」

「まあぶっちゃけ私も橋の欄干から飛び出したときまでそう思ってたんだけどさ、ちょっとこの川触ってみろよ。あ、私がまた飛び込まないように見張りつつ頼む」

 そう言って、朱梨は川辺にしゃがみこんでちゃぷりと手を川に突っ込む。現在いる位置は男性が飛び込んだ位置よりも上流に位置する部分であり、朱梨や優里菜の住んでいるマンションのある呰見北区に位置している。

 朱梨に倣って、優里菜も同じように手を川に差し入れた。

「…………、これは、」

「なあ、なんかこの川の水、ピリピリしてるだろ」

「その感覚はあなただけだと思うわ。でもそうね、確かにこれは神気を帯びた水よ」

 手のひらに掬って、やがてその指の隙間から流れ落ちていくその水は、優里菜の言う通り僅かに神気を帯びたものとなっていた。

 でもそんなことは通常あり得ない。

霊山と呼ばれるような霊験あらたかな場所に流れるような河や滝などであればこのような状態もあり得るだろう。信仰対象になりやすい場所であり、神様との距離が近いためだ。

 それなのにどうして、街中の一級河川がこのような状態になっているのだろうか。

「……よくわからないわね。川の名前から考えても、神気が混ざる所以はないはずなのだけれど……」

「……? 川の名前? 堅洲川、ってなんか意味あんのかよ」

「あら、聞いたことないの? 根之堅洲國が名前の由来でしょう、これ」

 ねのかたすのくに? と、朱梨の頭にはてなが浮かぶ。時雨が何度か口にしていたような気はするが、興味はなかったので調べていない。根っこにある国か、なんて適当に言ってみると、予想とは裏腹に肯定を含んだ返事が返ってきた。

「まあ間違ってはいないわね。古事記とか、日本書紀とかに出てくる異界の名前よ。黄泉と同じで、地下深くにある死者の国。祝詞にも出てきてるらしいけれど、そっちは詳しくは知らないわ。時雨さんに訊いたら答えてくれると思うわよ」

「……? なんでそんな国から名前とってんだ」

「それこそ知らないわ。源流が根之堅洲國から湧き出ているのかしらね。それならなおさら、流れるのは穢れであって神気ではないはずよ。……というか、本当に聞いたことなかったの? きさらぎ駅の隣駅に、やみ駅とかたす駅ってあるでしょう?」

「えっ、あっ、それなの⁉ マジか、ずっと意味のない名前だと思ってた」

「……前から思っていたけれど。あなた、少しは興味のないものでも目を向けたほうがいいと思うわよ」

「ガチ正論で何も言えねえ」

項垂れながら、川に突っ込んでいた手を引っ込める。優里菜の言う通り、朱梨は基本興味のないことをスルーするきらいがある。その分興味が惹かれれば頭の回転も速いし、観察眼も鋭くなるのだが。

今の朱梨の脳みそは、黒い影に関することしか入らない。目の前の怪異に関することしか考えられない。そうやって生きてきたからだ。

 それが意味することを、優里菜はある程度ではあるが理解している。だから、これ以上の正論は投げない。代わりに白いワンピースの裾を翻しながら立ち上がって、遠く遠くの上流を見た。

(……、わからないわね)

 うーん、と思案する。

 何か、わかるような気がするのに繋がらない。見えているような気がするのにその輪郭が掴めない。気味の悪い感覚は好きではない。はあ、と息を吐いた優里菜は、未だしゃがんだままの朱梨に声をかけた。

「朱梨さん。少し、行きたいところができたわ。ついてきてくれる?」

「―……ああ、うん、行きたいのはやまやまなんだけど―ゆり、ゆりな、わるいけどさ、私の手ひっぱって立たせてくれないか」

 そういって、顔を伏せたまま手だけが優里菜に伸ばされる。その指先は少し震えていて、朱梨は顔を上げようとしない。

 何故だか水面だけをじっと見ている。

「……なるほどね」

彼女の状態を悟って、すぐに優里菜は朱梨の手を取って引っ張り上げる。

朱梨の顔は。

電話していた時と打って変わって、虚ろな瞳をしていた。

「……悪い、離さないでくれ、今にも川に行きそうなんだ」

「そうねえ、溺死は嫌ね。でも、あなたのほうが力が強いのだから、このままだとわたしまで溺れちゃうわね」

「…………頑張ってるから、離さないで、」

「ねえ、朱梨さんは知ってる? 溺死者の状態。まずそうねえ、腐敗してガスが出て、皮膚が変色するんだったかしら。腐敗ガスのせいで体はどんどん膨れていって、ぷかぷかと水面に浮かんでくるの。眼球すら飛び出してることもあるくらい、酷い状況よ。そのあと体の組織が崩壊していって、最終的には骨になるわ。大抵の水死体は膨れてぶよぶよの状態で見つかるから、遺族の人とかに強烈なトラウマを与えることになるわね。浴槽で死んだ人なんて、ドロドロに溶けた状態で発見された事例もあったらしいわよ」

「…………………………」

「だからわたし、水死体は嫌いなのよね。見苦しいもの」

「……………………………………………………」

 優里菜のその言葉で。

 神代朱梨の頭の中に恐怖が滑り込む。

 それが鍵だ。

「…………、あ、」

 神代朱梨は決して、先ほどまで川に飛び込むのが恐ろしくて震えていたわけではない。


 水に入ることは幸福だと。

 呼吸が止まることは幸せだと。

 肺胞が濡れて腫れることは祝福だと。

 その先にある多幸感こそが人間への褒美だと。


 墨に塗れていないはずのクリアな朱梨の思考回路に、彼女が思うはずもない思想が混ざりこんで、事実彼女はその通りに思ってしまっていた。

 すぐそこに幸せがある、と。

 恐怖ではなく、歓喜で震えていたのだ。

「……朱梨さん」

 呼びかけて、優里菜は朱梨が逃げないように両腕で抱きとめて、彼女の耳元でささやいた。

「……ね、怖いでしょ? それでいいのよ。死なんて、生きてるものにとって恐怖の対象であって然るべきなの。わたしだって死にたくないもの」

 異彩を放つ不可解で自然な思想が、優里菜の言葉に塗りつぶされていく。結染優里菜が与えた恐怖が、快楽の波を引かせていく。

 こんなしょうもない死に方など許さない。

 まして、わたしの嫌いな水死体だなんて。

 檻のように回された両腕から伝わる抗議が、朱梨を溺死の魅力から引き剝がした。

「……不思議ね、さっきは何ともなかったのに。波がある、って感じなのかしら」

「た、ぶん。みず、水面見てたらきゅうに、」

「なかのものがしびれを切らしてきたのかしら? なんにせよ、悠長にしてる暇はなさそうね」

「わた、私、だいじょうぶか、これ、」

「しっかりしなさいな。あなたの意識はあなただけのものよ。いつも通りにしてればいいの。わたしがそばにいてあげる」

 檻が解ける。朱梨は立ち尽くしたまま、手は震えたままだった。それでも、川の方へ行かないだけ上々だ。朱梨の真正面でにっこりと笑った優里菜は、震えたままの彼女の手を取る。そのまま、指を絡めて強く握った。

 まるでこいびとのように。

 まるでデートにでも誘うように。

 その流麗な金色の長い髪を揺らして、優里菜はその艶やかな唇から言葉を紡ぐ。


「朱梨さん。今からわたしと、すこし旅行に行きましょうか」


 その翡翠の瞳が、蒼の瞳を貫いて脳髄へと語りかける。彼女の言葉を振り払える人間などそういないだろう。もう朱梨の瞳に河川は映らない。それに魅力も感じない。至極当然。


 ―魅了は、結染優里菜の領分だ。



 ◇



 結局のところ、今の朱梨の状態は、恐怖で意識をこちらに向けてその上で魅了をかけて、強い希死念慮から意識をそらしているだけなのである。

 だからそれが解けないように、優里菜はある程度考えながら振舞う必要があった。たとえば、恋人繋ぎのままずっと歩いているこの状況なんかがまさに。ついでに朱梨が突発的に動かないようにという意も込めてあるけれど。幸いにも抵抗は示さなかったので、ある程度効果はあるのだろう。朱梨も朱梨で、この状況をクラスメイトに見られたらどうするかな、なんて考えているだけだ。

 少し、時間が経って。

 時刻は午後二時半を回ったくらい。

 少し前まで手を繋いで歩いていた二人は、今は電車に揺られていた。

 平日の昼間だからか、乗客はまばらで席も空いている。セミクロスシートの車両の、ボックスシートに腰かけた二人。特に優里菜は、電車に乗る前に買った飲み物を窓辺において、窓の外を眺めている。

「……で、お前の言う通りついてきたけど。『沼芦』っつーことは沼芦村に行くのか?」

「そうよ。ちょうど、新しい包丁も欲しいと思ってた頃だったしね」

 呰見北区にある『北呰見駅』から電車で四十分ほどかかるその村は、呰見市の隣の隣にある小さな村だ。村の特産品として包丁などといった刃物系の品があるものの、基本的に田んぼが広がる農村である。四方を山に囲まれているため他市へのアクセスは電車、あるいはバスくらいか。

「えっ……殺人の計画がおありで」

「ないわよ。普通に、調理用の包丁が新しく欲しいの」

「ふーん。ならなんでわざわざ今沼芦に行くんだよ、今度でもいいだろ。……それともやっぱり、堅洲川に繋がる川が流れてるからか? 確か、御手洗川とかなんとかだったか」

「まあそうね。でも、着いたら先に道の駅にいきましょ。わたし、包丁のほかにも里芋とか買いたいのよねえ」

「お前やっぱ観光気分だろ」

 だから旅行って言ったでしょ? と言いたげな目をしつつも、優里菜は自身のスマートフォンを取り出してたぷたぷと何か操作する。扱いなれていないような印象を受けるその手つきでタップと続けて、一つの画面を朱梨に見せてきた。

「ね、この山奥のカフェ、行ってみましょ。今月はラズベリーメインのパフェがあるみたいだわ」

「本当にお前さぁ……」

「あら、一応真面目に言ってるのよ? 朱梨さん、現実を直視しすぎてるもの。少しは逃避した方がいいわ」

「いやお前にとっては喜ばしいことなのかもしれないけど、私一応死ぬかもしれない状況にいるんだからな?」

「だからよ。意識を乗っ取られるんじゃなくて、自分から死にたいっていう発作が起こるのが良くないの。状況を悲観的に見て希死念慮が強まったらそれこそ良くないわ。楽しいことして、楽しいなって思い続けてた方が安全よ」

「本音は?」

「帰りはおうどんが食べたいわね」

 このクソ女。

 これでも二割ぐらいはちゃんと心配してくれているから質が悪い。人に嫌われないタイプの性格の悪さだ。

「……と、わたしの観光事情はこの辺にしておくとして。一つ二つ、気になることがあるの。だから沼芦村に行くことにしたのよ」

 すっと、カフェのブラウザを閉じてもう一つのサイトを手早く開く。しかし朱梨には見せないまま、口元に当てる。

「朱梨さん、朱梨さん。あなたの言う黒い影が、あなたに入り込む前はどんな印象があった?」

「……なんか、陽炎っぽいなって思ったな。はっきり輪郭がない感じで……あと、ちぐはぐな感じがある。寄せ集め、とはまた違うな。混ざってる……? ような……?」

「なるほどね。

 じゃあ、一眼一足だ、とは感じなかった?」

「え? ……あ、ああ、確かに思った! なんか、足の動きぎこちなかったし!」

「うふふ、なら確定ね。実はあなたが意識を乗っ取られている間、片目を閉じて片足を引きずりながら動いてたから、もしかしたらと思ったのよね」

「ちょっと待てそれ傍から見たら不審者じゃねえか」

 え、通報されてないよな? と優里菜に焦りの目を向けるが、優里菜はどこ吹く風で飲み物を口にしている。

 一眼一足とは。

 その通り片目で片足の存在であり、その特徴を持つものとして、まず一番に来るのは『山の神』だろう。あるいは妖怪の『一本ダタラ』だろうか。しかし、一眼一足という特徴は民俗学の中でも比較的メジャーな部類であり、特に片足という概念を持つ妖怪は日本中に分布している。先の一本ダタラに加えからかさ小僧、一本足、雪婆、その他いろいろ。南の方の島にはイシャトゥだったかハタパギだったか、そういう名前の奴もいたはずだと朱梨はぼんやりと考えた。

 妖怪の間ではよくある特徴であり、神様という分類においても『山の神』といった、特定の神を指すものではないために絞れはしないな、と結論付けようとして。


「―いるわ。『一眼一足』の特徴を持った、特定の神様」


 そう言って、漸く優里菜はスマホの画面を朱梨に見せた。


 沼芦村は何の変哲もない、ただ田んぼの広がる農村地帯。人口はおよそ三千を満たすかどうかの瀬戸際の過疎地域。ただそこの特産品として、包丁や模造刀などの刃物系の品が有名であるだけであり、そして堅洲川に流れ込む川が一つ存在している。

 そう。

 刃物が有名なのだ。

 片足であり片眼の神様であり、そのご利益に鍛冶の守護や金属工業の守護……いいや、そもそもが鍛冶の神として崇められている神様、と言えば符合する存在は限られる。


「上流に鍛冶の栄えた村があって、そしておそらく川に関係するその怪異の形は一眼一足。これが揃ってくれたおかげで、思いあたるのは簡単だったわ。


 あるのよ、沼芦村の川の比較的近くに。

 ―『天目一箇神』を祀る神社が」



 ◇



駅に着くころには、朱梨の発作じみた希死念慮は鳴りを潜めていた。試しに優里菜が朱梨を、電車が侵入しようとしているホームの前に立たせてみても、特に異常な行動は見られなかった。やはり、堅洲川でなければならないらしい。

時刻は三時を過ぎたころ。まだ太陽は高い位置にあり、夏の日差しはいまだ健在である。『沼芦駅』の改札を出た先には、青々とした草が敷き詰められたような田んぼが広がっている。まるで波のように風で揺れるその稲は、あと二、三か月もすれば金色の穂を付けるだろう。間違いなく、呰見では見ることのできない景色だった。

 朱梨は降りてすぐにでも、優里菜に見せられたサイト……天目索神社に向かいたかったが、優里菜が先に道の駅で買い物をしていきたいと言うので渋々そちらについていった。優里菜が中で野菜などを見ている間、朱梨は特にすることもないので店で買ったソフトクリームをぺろぺろと舐めていた。

 相変わらず味はしない。

 ただ冷たさは幸運にも感じられるので、暑さを和らげるには最適だ。熱さ冷たさ辛さなどまで感じられなくなっていたら、いよいよ朱梨は食事をしなくなっていただろう。

「……いつ来ても、過疎ってんなぁ」

 最後に来たのはたしか、引っ越してきてすぐぐらいだっただろうか。その時も包丁ついでにふらふらと散策していた気がする。来ようと思えば来れるものの、普通なら特に用事はないため、訪れる頻度はそんなに高くない。

 道の駅と言ってもそう大きな建物でもない。

 駐車場からきょろきょろと周りを見渡してみれば、基本は田畑一色で、呰見ほどではないがある程度整備された河川。大きな看板に描かれたマップを見る限り、親水公園として扱われているようだ。

 少し遠く、森を背に立地しているのが目的地の天目索神社だろう。千年前からある由緒正しい神社だそうだ。川の流れを指で辿ってみて、ああと納得する。神社のすぐそばを沿うように流れているために、御手洗と名付けられたのだろう。御手洗川という名前は、河川名称のほかに「参拝者が手や口を清めるため神社のそばを流れている川」という意味合いも含まれている。

 ぐるりと、神社の周りを迂回するかのような道をたどって、山奥の方へ上流は続いている。あ、これめがね橋かな。

 ……いや、この立地流石にマズくないか?

 …………。よし。ちょっと川の方行ってみるか。

 優里菜に怒られるといけないから神社の方は流石に行けないけど、すぐそこの公園ぐらいなら大丈夫だろう。大丈夫。あいつに怒られるの妙に心に響くから嫌になるんだけど、それ以上に幸福を味わえるのだから差し引きゼロって奴だろう。大体もう子供じゃあるまいし川に落ちて溺れるなんてしないんだから。…………何故なんだろ、楽しいことが見つかったはずなのに心が躍らない。それどころか体が重たい。

 大丈夫。大丈夫。もしなにかあっても、川までは距離があるからもしかしたら優里菜が来てくれる。大丈夫。来なくていい。川は神聖なものであり穢れを洗い流してくれるものであり、そこに飛び込むことで私たちは日々蓄積していくどうしようもない穢れを洗い流し極楽浄土へと行くことができるのです。だから川に入ることはとてもとても幸福なことであり、その果てに得られる快楽こそがこの陰鬱とした世界を生きたことに対する褒美であり―


 脳裏にノイズを走らせる。

 水死体。

 膨れたその遺体。

 そこに美醜は存在せず、ただ目をそむけたくなるほどの惨状だけが残るもの。

 それを、自分に置き換えてみて。

 …………ああ、そういえばここには、時雨はいないな。

 嫌だな。死ぬときは一緒だって、この間も言ってただろ。

 死ぬのは別に怖くない。ああいや、確かに怖くはあるけど、すぐ先にある幸福に比べればなんてことはない。嫌なのは、死のその先に時雨がいなくて、私ひとりで放り出されるのは耐えられない。それが、とても、とても、とても怖い。


「―……ッ、う、ぁっ、はぁっ…………‼」


 無意識に、朱梨はそばにあった手すりのようなものに手首をぶつけた。ちょうどそこはリストカットの傷が残っていて、衝撃で傷口が開いてゆるく血が流れだす。

 これで目が覚めた。

 狂信者めいた異常な思想の波が急速に引いていく。洗脳を解かれたような感覚。

「いッ……‼ マジでこれ、どうなってんだクソッ……‼」

 痛みをこらえるように手首を掴んだまま、先ほどぶつけた

手すりに寄り掛かる。幸運にも朱梨は道の駅の敷地内を出ておらず、ちょうどその手すりというのも、敷地外と駐車場を仕切っている鉄製の柵だった。

(……なんだ、なにが引き金なんだこれ、つーかなんで川に固執するんだよ、……いや落ち着け考えろ、とりあえず目が覚める条件を探るのが先だ)

 柵に手をついて、コンクリートの地面を見つめながら思考を回す。恐怖による冷や汗でじっとりとした感覚が気持ち悪い。地面に落ちた血液は、暑さで熱せられたコンクリートのせいでもう水気が飛んでいた。

 ここまでの行動を順番に思い出して、やはり恐怖を感じることが、意識を戻すトリガーになるのだろうかと考える。呰見のときも、今も、恐怖をとっかかりにして正常な思考に戻すことができた。多分、これ自体に間違いはない。

(…………気になるのは)

 先ほどの発狂の中で起こった異常が一つある。

『心が躍らない』『体が重たい』

 これらの要素は、疑似的な幸福を示すうえでノイズでしかない。洗脳して向かわせるならなおさら、特に前者の要素は絶対に必要ないはずだ。

 だとすれば。

 この二つはどうやっても消せない性質であると考えたほうがよさそうだ。

 それらと恐怖がどうやってもつながらない。洗脳の際のあの幸福感を恐怖で上書きしているから目が覚める、これだとしても先ほどの異常が何故あるのかの説明がつかない。気持ちが悪い。すぐに正解が見つからない時のもやもやは結構嫌いなのだが、この怪異はことごとく逆鱗に触れてくる。

 こんなものが自分の体の中にまだいるのだと思うだけでイライラする。早いところ解決して部屋で寝ていたいな、と考えて―

(―……、イラつく?)

 不意に、右手首を見た。先ほど血の流れていたはずの傷は血管が収縮して血が止まっていた。

 血管収縮という言葉を、朱梨はごくごく最近聞いたことがある。無意識に、彼女は口元に手を当て呟きだした。

「…………交感神経が活発になった際、人間は戦闘に最適な状態になる。空腹を感じなくなり、心拍数は上昇し、血圧は高まり、そして失血しないよう、末端の血管は収縮される」

 神代朱梨は高校一年生。ちょうど、生物基礎を学んでいる最中。そしてそれに加え、幸運にも彼女は、ついこの間行われた期末試験の範囲に含まれていたある単元の表を、時雨の監視の元、完全に丸暗記していた。

 人間の体内に存在する物質であり、自律神経を調節する役割を持つもの。―ホルモンだ。

「……『心が躍らない』『体が重い』『恐怖を感じる』『痛みを感じる』『イラつく』『血管が収縮する』……はは、全部関係するやつあるじゃねえか」

 頭の中に思い描いているホルモンの表のおかげで、一秒も要らずに正解をはじき出す。

 血が止まっているおかげで気が付けた。今の彼女は、通常より多くのソレが分泌されていることだろう。

 そのホルモンの名は『ノルアドレナリン』。

 『心が躍らない』『体が重い』これは典型的な鬱の症状だ。鬱の多くは、セロトニン・ドーパミン・ノルアドレナリンの分泌バランスが崩れることで発症すると言われている。特にノルアドレナリンが不足した場合、物事への意欲が著しく低下すると言われている。

一方で、『恐怖を感じる』『イラつく』のも、どちらもノルアドレナリンによるものだ。特に苛立ちがそうだが、ノルアドレナリンが過剰に分泌された場合、攻撃的な感情が表に出やすい。鬱とは反対に、躁状態と呼ばれるような状態となる。今の朱梨のような、イラついた状態がまさにそれだ。


 そう、つまりは。

 怪異は朱梨の体の中の、ノルアドレナリンの分泌を止めることで鬱状態とし、希死念慮を煽っていたのだ。


「……なるほどね。私が正気に戻った時、トリガーになっていたのは恐怖というよりも、恐怖を引き起こしたノルアドレナリンの分泌だったのか。……つまり、ストレスや刺激を与えることができれば、ノルアドレナリンが分泌されて強制的に洗脳は解ける、ってわけだ。

 ……なんか、思ってたよりも科学的な怪異だなコイツ」

 ぐ、と傷口に爪を立てる。痛い。しかしこの痛みが神経を走るおかげでノルアドレナリンやセロトニンが分泌命令を出されて放出されるはずだ。

 痛みはある。痛みはあるが、恐らく鎮痛作用が働いているおかげである程度のもので済んでいる。

 対処法は得られた。

 一足飛びで解決まで行けたわけじゃないけど、確かな一歩だ。ここに時雨がいればもっといろんなことがわかってたんだろうなあとか思いつつも、それでも朱梨は歯を見せて笑った。傷口を抉る手にも力が入る。だらだらと血が再び流れ出した。

「朱梨さん」

 彼女の高揚感を遮るように、可憐な声で名を呼ばれる。

 すぐに顔を上げてみれば、買い物が終わったらしい優里菜が、白いハンカチを差し出していた。

「それ、大丈夫? 押さえてた方がいいわよ」

「……すぐ止まる、大丈夫。それより優里菜、あの洗脳の解除条件がわかった。あいつ、私のノルアドレナリンの分泌を止めることで鬱状態にして、入水自殺させようと操ってたんだ。だから、なんかしらの刺激を……手っ取り早いのは適当に痛みを与えたら、多分正気に戻るんだと思う」

 言いながら、朱梨は血の付着した手の平を一瞥して握りしめた。

 朱梨の推測は、当たっている確証はどこにもない。状況証拠から導き出した可能性の一つの域を出ないのだ。

 それでも当たっていることを信じて動かなければ、方針も何もなくなってしまう。五里霧中でやみくもに動くことが最も愚かしいことなのだと、朱梨は時雨の姿を見て知っていた。

 ふうん、と納得した優里菜は、唐突に両手を朱梨のこめかみに伸ばして、指先をあてた。朱梨が戸惑うそぶりを見せるより前に、

「……本当だわ。よく覗いてみたら、靄は二つに分かれてる。一つは言うまでもなく脳みそにとり憑いているけど、ちょうど身体の真ん中あたりに、小さく黒い靄があるわね」

「―確定だ。そいつ、副腎にも関与してるんだ」

 無意識に、みぞおち付近に手を当てた。おそらく腎臓と副腎が存在しているであろう場所。朱梨の目には黒い靄など見えないが、優里菜は少し特別なようで、やんわりと問題の部位に指を滑らせた。

「……どうだ」

「駄目ね、掴めないわ。弱すぎるのよ」

 その言葉の意味するところを、察せないほど朱梨は馬鹿じゃない。弱すぎる―『霊的粒子が限りなく非実在に傾いている』。そこにありながら存在していない、本当に影のようなものとなっているため、掴もうとしてもすり抜けるのだ。

 本当に、そこにありながら存在しない。

 時雨の言っていた『影』という表現は、対象に違いこそあったものの、限りなく正確な表現だったのだ。

「……でも、対処法がわかっただけ前進よ。根本を絶たないと解決じゃないけれど、少なくとも何の抵抗も出来ずに死ぬなんてことは無くなったわ」

「……やっぱ、こいつが一体何なのか知らないことにはどうしようもないよな」

 腹をさする。早く吐き出したい。脳内暗示によるホルモンの過剰分泌など、泡沫時雨の得意とすることの一つだ。コツでも聞いておけばよかったな、と後悔したが、今なお怪異に対する苛立ちがあるのならきっと正常にノルアドレナリンは分泌されている。しばらくは安定するだろう。

 ぐっと、覚悟を決めてしっかり地面を踏みしめる。

 こんな不快な怪異に負ける気などさらさらない。

「―それじゃあ。お待たせしたわね、行きましょうか」

「ああ。天目索神社は向こうの森の前だ」

 そういって、遠くを指さす。

 鬱蒼とした森を背に、人気のない神社が建っていた。



 ◇



 朱梨も優里菜も、実は神社という空間に入るのが少し苦手である。それでも今回は行く以外の選択肢はなくて、二人は苔むした石造りの鳥居をくぐった。

 森の前、というより森の中だ。言うなら、鎮守の森というやつだろう。たいした段差もなく、呰見神社ほど立派な造り

をしている訳でもない。しかし、木々に囲まれ木陰となっている境内は、適度な日の光や木漏れ日が差し込んでいて陰鬱とした雰囲気はどこにもない。古い造りではあるものの、人の手が加えられ、手入れが施されている神社だった。祓郷のような、無人の廃神社というわけではない。

 拝殿に手水舎、いくつかの石灯篭。参道の横にある案内板には、『天目一箇神』の文字が記載されていた。

「……手ぐらいは清めとくか」

「そうね。わたしたちのほかに参拝客はいないみたいだから、のんびりやって大丈夫よ」

 参道の横の方にある手水舎に近寄る。杓子で流れる水を汲んで、最低限手を洗い流しておいた。特に朱梨は先ほどの出血により右手が汚れていたのでちょうどいい。流石に神様の敷地内に堂々と穢れを持ち込むのも憚られる。

 手を清めて、参拝しようと拝殿の前に立つ。

「……優里菜」

「どうしたの?」

「小銭貸してくれ。電子マネーしか持ってない」

「……まったく。今の時代ってもう現金持ち歩かないの?」

「便利なんだよ。賽銭も電子マネー化してくんねえかな。まあ参拝することなんてそうないんだけど」

 呆れた表情をしつつも、優里菜は自身の財布から五円玉を朱梨に手渡す。サンキュー、と礼を言いながら、朱梨は片手で鈴を鳴らしつつ賽銭箱に五円玉を投げ入れた。それに続くように、優里菜もちゃりんと投げ入れる。

 二礼二拍手一礼。

 日本人の基礎教養の動きをしたあと、顔を上げた朱梨はきょろきょろと周りを見渡した。人の足音がしたからだ。

 高い聴力を持つ朱梨の耳は、確かに砂利を踏む足音を捉えている。やがて拝殿の裏から出てきた人影は、白衣に袴を着用した人物だった。

「おや、若い女の子とは珍しい。見ない顔だけど、観光かね。なんもない村やが、ようきたね」

ほかに人の気配は感じられない。服装から見ても、この人がこの神社の神主で間違いないだろう。

 物腰の柔らかい、穏やかな風貌のおじいさんだった。

「派手な髪をしとる。ひょっとして外人さんか?」

「ふふ、いいえ。わたしも彼女も、生まれも育ちも日本ですよ。こんにちは、神主さん。実はわたしたち、この神社に用があって参拝しに来たんです」

 朱梨を片手で軽く制して、優里菜が一歩前に出て神主に言葉を返す。優里菜の言葉を聞いた神主は、おやと驚いたような顔をした。

「こんな小さい神社に用かい。物好きやなあ。……ああ、御朱印が欲しいんか? 悪いけど、うちは御朱印はやってなくてなあ」

「いいえ。御朱印集めじゃないですよ。……実はわたしたち、高校の夏休みの課題でレポートを書かなくちゃいけなくて。ふたりで神社に関して書こうと決めたから、こうして参拝に来たんです。神主さんがいてくれてよかったわ」

 そう言って、優里菜は朱梨の腕を掴む。咄嗟にレポートのためだと嘘をついたものの、神主は疑う様子はない。

 朱梨はもちろんのこと、優里菜も高校生に見える風貌であるためだ。美少女と形容されるのであって、美女と言われるわけではない。まだ幼さを少し残した外見なのだ。

「そうかいそうかい、学校の宿題か。まだ夏始まったばっかやのに、熱心なのはいいことや。ほら、こっちきい。立ったままなんもよくないし、座って話をしちゃる」

 そう言って、神主は手招きして拝殿の裏手へと歩いていく。夏の暑い中、立ち話をさせないようにという気遣いだろう。

 彼の後についていくように、朱梨と優里菜も裏手の縁側に向かう。そこに座るように促された二人は、一先ずそこに腰かけて一息ついた。

 神主はお菓子を取ってくると言って向こうに行ってしまう。しかしすぐに戻ってきた彼の手の中には、籠目に編まれた木製の小さな器に入ったたくさんの駄菓子があった。

「好きなの食べり。爺くさいもんしかなくてごめんなあ」

「いいえ、ありがとうございます。いただきます。ほら、朱梨さん、何か好きなのないの?」

「……優里菜、どれが美味しいと思う? お前のおすすめ教えてくれ」

「わたしも食べたことないものばかりだからわからないわ。このこんにゃくのゼリー食べてみようかしら」

 そう言って手に取ったのは、色とりどりに着色した棒状のゼリー。ああ、そういえば祭りのときとかによくこの手のお菓子が配られてるなあと、ぼんやり思いながら朱梨も適当なにせんべいのような駄菓子を手に取った。

 しばらく、縁側に座って三人でもぐもぐとお菓子を食べながら話をしていた。しかし、やがて機を見計らって、優里菜が本題を切り出す。

「ところで、神主さん。この神社に祀られている、『天目一箇神』の話なのですけれど。どうして、この神様を祀っていらっしゃるの?」

「そりゃあ、ここが天目一神社の分社やけよ。ずうっと昔に、このなあんもなかった村に、『あめのまさま』をお招きしたんよ」

 あめのまさま。どうやらこの街では、天目一箇神のことをみな『あめのまさま』と呼ぶらしい。確かに、読み方としては『あめのまひとつのかみ』なので、何もおかしいところはない。

「この沼芦村が包丁とかで有名になれたのも、みいんな『あめのまさま』のおかげや。この村の住民は、みんなこの神社で『あめのまさま』に見守られながら育ったんよ。今じゃもう過疎地域になってしまって、お参りに来る人も減ってしまってなあ……」

 そう言って、寂しそうに笑う。

 その顔があまりに切なくて、朱梨と優里菜はなにも言えなくなってしまった。忘れ去られることがどんなに悲しいことか、二人にとってわからないことでもないからだ。

「……『あめのまさま』、か。その神様、目が一つだけで片足の神様って聞いてるけど、本当?」

「ああ。『あめのまさま』は単眼で片足なんよ。だからお祭りでは、片目を描いた布作面を付けるんよ」

 そう言って、神主は一枚の布切れを見せる。

 それは神主の言う通り、片目だけが中心に描かれたものとなっていた。顔全体が覆える大きさ。

 少しでも『あめのまさま』の加護を得られるように。

 村の人々は、毎年の祭りでこれを顔に着用して村中を練り歩くという。外から見ると不気味だが、昔から続く風習として村人の間では浸透しきっているのだろう。

 朱梨の目が僅かに細められる。

 その加護とはいったい何を指すのか。

 それを、朱梨は見逃すわけがない。

「……なあ神主さん。その『あめのまさま』、いったい何の加護を得るために呼んだの?」

 ……。

 今まで朗らかに話していた神主が、僅かに黙り込む。

 まるで、何かを隠しているように。

「……。不躾な質問だったらすみません。

 ―神主さん、あなたひょっとして、網膜色素変性症じゃないですか」

 優里菜の体越しに、神主さんの瞳を覗き込む。

 僅かに揺れて、ああ間違ってないなと直感した。

「……すごいなあ、お嬢ちゃん。ようわかったねえ」

「……親友が、同じ病気だったので」

 改めて、朱梨はすみませんと頭を下げた。いかなる理由があろうと、人の病気を暴き立てていい理由にはならない。優里菜も、ジト目で朱梨を責めるように見ていた。それでも、朱梨一人に非を被せたくはない。

「……そう、ですね。実はわたしたち、それも確かめたかったの。何故その神様がその地域にいるのか、レポートとして纏めたくて。でも、そういう理由なら書かないようにしますね」

 優里菜の言葉に、神主は力を抜くように、ありがとうねえと二人に言った。


『網膜色素変性症』とは。

 その名前の通り、網膜に異常が生じる病気である。網膜の視細胞が正常な働きをすることなく、主な症状として暗いところで目が見えなくなる、いわゆる夜盲が引き起こされる。その後視野が狭くなったり、視力の低下が起こる進行性の病気であり、難病指定されている眼病の一つだ。

 そしてこの網膜色素変性症の特徴として。

 遺伝性の病気である、という点がある。

「……昔から、この村じゃ目の病気を持ったひとがたくさん生まれてな。村の呪いじゃ、祟りじゃなどと謂れのないことも多くいわれてなあ。だからわしらのご先祖様は、遠い土地から『あめのまさま』をお呼びしたんよ。わしらは製鉄が栄えてほしかったわけじゃない。眼病の加護を得たかったんや」

「……そう。天目一箇神の加護は、何も製鉄や鍛冶だけじゃない。農業も然りだし、何より眼病加護があるのよね」

 優里菜の言う通り、天目一箇神には眼病加護がある。今のように、遺伝子云々などわからなかった時代だ。何故か眼病を持つ子供がたくさん生まれてくる、まるで呪われた土地のように思えても仕方のないことだ。

 だから、沼芦のご先祖様は、天目一箇神をお呼びしたのだ。

 この病をどうか、治してくださいと。

「……これは、レポートとか関係ない、私個人の興味に基づく質問なんですが。

 ……最近、多くなっていませんか。眼病を発症する人数が」

 この神社に来た、最大の目的を神主に問う。


 朱梨は、この神社に来る直前に、『網膜色素変性症』の発症人数を調べていた。そもそもが、この病気は難病と指定される病気であり、その人口は約二万人強。何千分の一であり、発症確率の高い病気とは言い難い。……その全体の人口数が、微妙に増え続けているのだ。

 あくまで確信には至らない程度。

 それ故に、朱梨は神主に直接訊くことにしたのだ。


「……そう、だなあ」

「……神主さん。いま、私の体にはある異変があります。詳しいことは言えません。言えばこちらが不利になります。ただ一つ、この神社に……天目一箇神に関係があるということしか言えないです。不義理をどうか許してください。

 神主さん。眼病の発症率が上がったのは、十五年ほど前からではないですか」

 朱梨は、縁側に出していた足の靴を脱いで、正座をして神主に向き合う。彼女の、持ちうる限りの誠実さで言葉を紡いでいく。これから彼女が言うことは、村人でもない部外者が言及していいことではないからだ。

「……ああ」

「……十五年前、沼芦村は、台風の影響で川が氾濫した記録がありますよね。ちょうど、神社の横を流れる御手洗川が大氾濫した」

「……」

「もともと、立地を見た時から違和感はあったんです。だってここは、川の流れの真ん中に建っている。迂回した川の、その中心に建っていたら、川の水が増水したとき一番に被害に遭うでしょう。氾濫して、一度神社にも被害が出たんじゃないですか」

 ……眼病の発症率の上昇と、川の氾濫による神社への被害。この二つが重なった、そのことが意味するのは。


「―神主さん。

 本殿、誰も入れないようになっていますよね。

 もしかして、十五年前の氾濫のせいで、御神体が消失したんじゃないですか」



 ◇



 朱梨と優里菜は、現在天目索神社から離れて、行きがけの電車で優里菜が言っていたカフェ……ではなく。おなかが空いたと言った優里菜のわがままのため、近くにあったうどん屋に二人で座っていた。座敷の席だったため、二人とも行儀の悪くならない程度に足を崩している。

 神社の神主は、朱梨の問いに、イエスともノーとも言わなかった。ただ曖昧に笑うだけ。

 ……おそらく、是だ。

 ただそれを、明確に言い切ることなどできはしない。信仰対象がもう存在しないなど、言っていいはずがない。それでも明確に否と言わなかったのは、質問の直前に朱梨が自分の身の危険を伝えていたからなのだろう。

 その後は、特に邪険に扱われることもなく、神社の鳥居まで見送ってくれた。本当に、全面的に失礼を働いたのはこちらだというのに、最後まで親切にしてくれて頭が上がらない。

「……堅洲川に神気が流れ込んでる、っていうのはこれで解決したな。氾濫により御神体が川の下流に流されて、川底かどこかに今でも埋まったままなんだろう。……ただ」

「天目一箇神が怪異化したわけじゃない。あくまで川に存在しているだけで、それそのものは神のままよ。そうじゃなきゃ、神気なんて発せられるはずがない」

「だよなあ……多分、別のナニカが神気を元手に成長していって、今の怪異に成ったんだろうな。……つっても、もう手掛かりなくないか?」

「そうね。本当に、風化の手段を取ったらこういう時に面倒なことになるのよね。あとのこと考えてほしいわ」

 二人で愚痴を言いながら、メニューを眺めている。優里菜はきつねうどんにしようかしら、なんてルンルンで見ているが、朱梨は特に気乗りしない。窓から差し込む日光が少しだけ傾いてきた気がするが、今は七月だ。日の入りは七時ごろとまだまだ先である。

「……そういえば。時雨さんって、網膜色素変性症なの?」

 何のデリカシーもない質問が優里菜から発せられる。神主相手の思慮深さはどこに行ったのだろうか。うげ、と嫌な顔を朱梨はしたものの、少し考えるそぶりをしたのちに。

「あーまあ、……小さい頃に、発症してた。真っ暗な暗所に、どれだけ時間かけても目が慣れなくて。小さいころから、あいつは祈祷師になるって決めていたから、暗所に対応できないのは致命的だった。まあ、だから早期発見できて、結果今はほぼ支障ないレベルにまでなってる。小さい頃はよく薬とか飲んでたな」

 昔の時雨を思い出しながら、当たり障りなく答える。別に優里菜は言いふらしたりするような性格はしていないし、時雨も別に病気を隠したりなどしていない。話題を振られたときは気にせず言っていいぞ、というのが本人談。

 思い返せば、時雨は見た目に反して様々な疾患を抱えている。特に一番印象的なのは、重度の花粉症であることだ。春先、花粉が飛び始めるころになるとすぐにマスクを装着していないと酷いことになるのだ。特に新学期なんて、ずっとマスクをつけているせいでほとんどの学生が時雨の顔を知らない、なんてこともある。時雨がマスクをしていないのを見て、漸く朱梨は「夏だなー」と実感するのだ。

 閑話休題。

 とにかく、あの泡沫時雨、幽霊を豪快に蹴り飛ばしたり、マンションの屋上から十四階のベランダに飛び降りるなどの無茶を平気でやるような彼は、実は病気がちなことが多かったりするのだ。

 時雨に一覧教えてもらったなあ、アレルギーの欄とか見せてもらったなとぼんやり考えて。

 あることに気付いて、メニューをなぞる指を止めた。

「……? 朱梨さん?」

 一点のみを凝視している。

 朱梨は急速に思考を回して、彼の言葉を思い出して。

 ……咄嗟にスマホを取り出して、その検索欄に彼の言葉を入れていく。


「―嘘だろ。アイツの疾患、全部遺伝性のものだ」


 思い出せる限り全ての、彼が言っていた病名を検索欄に入れて、その結果すべてに『遺伝性疾患』という言葉が並ぶ。

 今日の昼間の、昊天との会話が全て脳裏で繰り返される。

 神降ろしは、泡沫家の悲願だと。

 そう、言っていたな。

「―泡沫家は、」

 昔の時代から退魔の家系として有名だと聞いたことがある。それ以上に、特殊な才能を持つものが生まれやすかったのだと。今日、朱梨が時雨に訊きたかったのはこの部分だ。

 遺伝性疾患。

 悲願だって言うのなら、ずっとその悲願をかなえられるように努力するだろう。なにかしらの手を打つはずだ。

 遺伝。

 世界史の授業が脳裏によぎる。

 遺伝性疾患。

 劣性遺伝子が発現することにより致死性の性質が発現しやすい。

 滅んだ一族の写真が思い描かれた。

 ハプスブルク家。

 純粋な血を絶やさぬようにと近親相姦を重ねることにより遺伝子が無茶苦茶になり滅んだ一族。


 ―泡沫家は。

 おそらく近親交配、あるいはそれに近しい交配を行ったことで、遺伝的欠損を抱えている。

 対怪異の才能を得るためだけに。


 検索するために手にしていたスマホで、半ば無意識的に電話を掛ける。相手はもちろん、今もなお呰見神社で休んでいるであろう、泡沫時雨だ。

 この結論があっていたとしたら。

 数コールののち。

 ぶつっと機械的な音がして、通話が開始された。

『……もしもし。朱梨、今何してるんだ』

「あー、あー悪い。いまちょっとそっちの話より重要な話があって! 時雨、お前自分ちの家系図みたことあるか⁉」

『は? なんだ、藪から棒に。そりゃ、見たことあるが……』

「なら覚えてるってわけだな! なあ、お前の家系、近親交配している時期がなかったか?」

 数秒の沈黙の後。

『……、俺の爺さんの代。それより前は、ほとんどが血縁の近い者同士の婚姻だった』

「……なら、その理由を聞いたこと、あるか」

 ああ、と即答される。

 しかし、彼の言葉は、彼の思っていることは、朱梨が想像していたよりも斜め上の回答だった。

『俺が聞いたのは、特異な異能が発現しやすい血筋を純正のまま保つため、だとか何とかだったが。

 ……俺は、どうしてもそうとは思えない。

過去に発生した、泡沫家歴代の特殊な異能。

 そのすべてを、もう一度発現しやすくするために、じゃないかと思う』

 泡沫の血筋は、どういうわけか特異な形質の異能が発現しやすい。それ故朱梨も、時雨の言った前者―新しい異能を生み出すために血縁の近い婚姻を行ったのだと考えていた。

 しかし彼の主張はまるで逆。

 先祖返りを狙っているのだと、そう言っていた。

「―……、なるほど、受け継がれたって、そういう」

『恐らくな。さっきの伯父さんの言葉が気になって、今神社の奥の蔵にいる。書物を適当に読み漁ってるんだが、この近親交配になんとなく計画性が見える。それで、俺の父親の世代から変化が出てるんだ』

 ごほごほと、咳き込むような音が電話の向こうで聞こえる。埃っぽいところに長時間こもっているのだろう。……おそらく、現在時雨は一人きりだ。

『戦前の資料は、所々欠けた状態でしか残ってないから根拠としては不確定ではあるんだが。おそらくは、俺の爺さんの時代までは、先祖返りは一度も起きていない。新規の異能が発現しただけだ。……でも、俺の親父の世代が、先祖返りを発現した。詳しいことは言えないが、親父とまるっきり一緒の異能を持つ人が、過去にも記録されてる』

「……だから、近親交配はお前の爺さんの代で終わった」

『ああ。多分、親父の代で最適な遺伝子が完成したんだ。……いや、違うな。この世代に完成されるように計画された交配が行われたんだ』

 未知の新しい異能の発現に賭けるよりも、過去発現した異能を一点に集中させることを選んだのだ。泡沫家の資料を見る限り、この現代に生まれるように調整して。

「それが、正しいなら……おそらく、お前の見た謎の影って言うのも、過去に誰かが発現した記録があるかもしれないな」

『ああ、そう思って今探してる。ただ、やっぱり古い記録は残ってないものも多いし、望みは薄そうだな。……でもなんで、現代なんだろうな。もうそれほど強大な怪異なんて、ほとんど残っていないのに』

 何度読み返しても、時雨の手にある資料には、この現代に生まれるように計算されつくして交配された記録しかない。遺伝的欠損、劣性遺伝病をリスクに抱えてまで、この現代で『完成品』を作りたかった理由は何なのか、それだけがどこを探しても書いていない。

 はあ、とため息をついて、手に持っていた本をぱたんと閉じた。

『……やっぱり、リョウメンスクナなのか……?』

 電話の向こうから聞こえた小声、それを朱梨の耳はしっかりととらえてしまって、一瞬だけ息が詰まる。

「……お前、今リョウメンスクナって言ったか? なんで今第三席の名前が出てくんだ」

『……ああ、そういえばお前に伝え忘れてた。……多分ですけど、ずっと優里菜さんも一緒に居ますよね? まあ、怪異関係に首突っ込んでるんで、ついでに言っておきますけど……最近、呰見周辺で『リョウメンスクナ』の反応が観測されているらしい。二人とも、怪しい箱には絶対近寄るなよ』

 ……。

 ちらりと朱梨の様子を見た優里菜は、そのまま朱梨の手からスマホを取り、電話の向こうに声をかけた。

「もしもし時雨さん。ご忠告ありがとうね。気を付けておくわ。……ところでさっきから気になっていたけれど、あなたの体に描かれた術式、誰のもの? 興味深い形してるわね」

『、術式……? ひょっとして、葵さんにされた、真言みたいなやつですかね。こう、手を握って真言唱えてて……』

「あら意外。時雨さん、年上の女性に手を握られても平気なのね」

『俺を何だと思ってるんですか? ……って、かなり話それましたよね。今考えるべきは、俺の家系の話じゃなくて朱梨の怪異に関してだ』

 ああ、そうだったわね。と思い直す。と同時に、どさくさに紛れて頼んでおいたきつねうどんが運ばれてきたため、通話を繋げたまま、いただきますと言って食べ始めた。どこまでも自由な女である。

 優里菜の対面に座る朱梨は、適当に素うどんを頼んでいたらしい。味覚のない彼女にとって別に食事は金をかけるべきものでも何でもないのだ。

 パキッと割り箸を割りながら、朱梨はスマホを自分の方に引き寄せる。ずるずると麵を吸いながら、朱梨はスマホを耳に押し当てた。

『食事中に電話は行儀が悪いぞ』

「仕方ねーだろうどん来ちゃったんだから。それで、お前もなんか言いたいことあったんじゃなかったっけ」

『ああ。その前にまず、お前の今の現在地は?』

「沼芦村。天目索神社にはもう行った。ぶっちゃけ振出しに戻った感があるな。どっちかって言うとさっきからお前の家系の話だの、脇道に逸れちまってる気がする」

 そもそも天目索神社での神主との会話でも、重要なのは『御神体がおそらく御手洗川下流の川底に沈んで消失』という一点のみであり、それ以外の情報は怪異とは直接の関係はない。時雨がいないだけで、こんなに拗れた進み方をしてしまっているのがわかる。

 あと時間かかっているのは間違いなく優里菜の所為だ。

『……? なんで天目索神社に行ってるんだ?』

「え、あれ? 怪異の形が一眼一足みたいだったのと、堅洲川の水に神気が流れ込んでるって点から、上流にある天目索神社と『天目一箇神』に関係があるんじゃないかって思ったんだけど。違うのか?」

『……そもそも、俺は今初めて一眼一足の情報を聞いた』

 おっと、と朱梨は頭の中で情報を整理する。情報が思った以上に錯綜しているというか、報連相がうまいこと出来ていない。そのせいか、朱梨と時雨の間で怪異に対する推察に差異が出てきていた。

『……そうか。それで、その神社での収穫は?』

「おそらくそこの御神体が御手洗川下流に流されてるってとこだな。そのせいで堅洲川に神気が流れてるし、多分今回の怪異はこれを元手に怪異に成った、別のナニカがいるはずなんだ」

『……なるほどな。ああ、よかった。それがわかったのは大きい。……ああ。だから堅洲川にばかり行ってるのか』

 ぶつぶつと、電話越しに何かを呟いている。いつもは口に出すことなく、頭の中だけで考えを完結させている時雨にしては珍しい言動だ。今の今まで忘れてはいたが、一応今の時雨はコンディションのよろしくない状態だ。上手く頭が回っていないのだろうか。

 数秒そうしてから。

『よし、とりあえず沼芦にいるなら大丈夫だ。

 ……朱梨、先に謝っとく。悪かった』

「……は? お前それ何の謝罪………………、いや、お前もしかして、」

『ああ。……途中で、怪異の力が強くなったかもしれないが、あれ俺のせいだ。悪かった』

「ぶん殴るぞ‼ いやほんと帰ったら一発殴るからな‼ 通りで急に死にそうな気持ちになるわけだ‼」

 電話口で怒鳴る朱梨。一応店の中なのである程度声量は落としてあるものの、目の前にいる優里菜からしてみれば十分うるさい。きつねうどんのきつねの部分を食べながら、非難の目だけを朱梨に向けていた。

 怪異の力が強まった。

 つまりは、誰かにこの怪異のことを話したということだ。

『少し前のお前との電話を切ったすぐ後に、怪異の正体だけは、おおよそ見当はついたんだ。正体だけはな。それがわかったって、どうすればいいのかは全く情報がなかったし、調べようにも俺はここから動けない。………だから、一人だけに今回のことを話して、協力を仰いだんだ』

 朱梨の中の怪異に変化が起きたのは、時雨との電話を切った直後。本当に、迅速すぎる行動だ。

『朱梨、お前は今沼芦のうどん屋にいるって言ってたな。なら、そう遠くないはずだ。食い終わったら早めに行け。

 ―御手洗川上流にある一軒家。これだけ言えば、お前ならもうわかるだろ』

「―わかった。情報提供ありがとう。そろそろイライラも限界なんだ、今日のうちにカタを付けてそっちに戻る」

 お前はもう拝殿でぐっすり寝てな、と言い残して通話を切る。優里菜は不思議そうに見ていたが、まだ食べている最中だ。適当に食い終わっていた朱梨は今すぐにでも飛び出したい気持ちを抑えて、のんびりと食べている優里菜を、肩ひじをついて待っていた。

「………ごめんなさいね、少し待って頂戴」

「わーかってる、流石においてかねえよ」

 少し悪びれて、小さな口でうどんを啜る優里菜。

 結局、うどん屋を出たのは通話を切って十分を過ぎたころだった。



 ◇



 鬱蒼とした森の中を歩いている。

 もうこの周りに民家はない。天目索神社の裏手に回るような道のりで、道なのかも怪しい道を二人で歩いている。時刻は午後五時を回っていて、それでも夏場の日の長さのおかげで暗い道にはなっていない。

「……朱梨さん、朱梨さん。どこに行っているの?」

「……そうだな、お前は会ったことないんだっけ。この先にいるのは……有体に言ったら、オカルト作家」

 後ろを歩いている優里菜の方を見ることなく、質問に答える朱梨。オカルト作家、と言われても皆目見当がつかない。小首を傾げた優里菜は、朱梨の背を追いつつも周りをきょろきょろと見渡した。

 緩やかなようで淀んだような、それでも決して不快ではない空気が流れている。探せば妖精の類でも発見できそうだ。

 と、前を歩いていた朱梨が立ち止まる。

 どうかしたのか、と思って朱梨に近づくと同時に。


 ―白く長い、布のようなものが舞った。


「…………驚いた。一反木綿って、まだいたのね」

「ああ。こいつ、さっき言ったオカルト作家の友人。いや、友布……? 久しぶりだなもめん、蒼さんに会いに来たんだけど、あの人まだ生きてる?」

 朱梨の周りをぐるりととんだその白い布―一反木綿は、まるでうなずくかのような仕草をしたのちに、布の端を朱梨の腕に絡みつかせた。

 道案内のようなものだ。

 そう優里菜に説明した朱梨は、一反木綿に引っ張られるように歩いていく。優里菜もそれに続いて、人気のないその道を歩くこと十分程度。

 木々の切れ目を割くように、一軒の和風の家が建っていた。


 そこで一反木綿はするりとほどけて、家の裏手の方へ飛んでいく。家の玄関の横には狼にも似た大きな犬が、丸まって寝ていた。

 勝手知ったる様子で、朱梨は玄関横のインターホンを鳴らす。家の中からバタバタと足音が聞こえた。今日は倒れてないな、と安堵しつつ、朱梨は数秒玄関の前で待った。


 ―そして、出てきたのは。

 青みがかった髪に、糸目が特徴的な、普段着にするには珍しい和服を着た物腰の柔らかそうな青年だった。


「よ、久しぶり、蒼さん。時雨から連絡来てるだろ。早いところ済ませたい」

「ああ、久しぶり朱梨ちゃん。また背伸びたかな。時雨くんからの連絡、受けてるよ。大丈夫、全部出揃った。……おや、見たことない子がいるね」

 ―彼の名前は夜蔵蒼。

 この山奥の辺鄙な場所に居を構え、オカルト系の小説で生計を立てる、少し変わった人である。

 朱梨と時雨は、幼い頃に蒼と知り合い、そして今日まで交流が続いている。本業は作家であるため、しょっちゅう執筆に夢中になり、結果栄養失調で倒れるということを何度も繰り返している、ダメ人間一歩手前の人だ。おかげで、呰見総合病院でもそこそこの有名人になっている。

 本業は、作家。

 兼業として、『除霊師(・・・)』。

 対幽霊相手に除霊活動を行っている、れっきとした怪異専門家の一人であり、泡沫時雨の同業者だ。時雨が蒼に連絡を取ったのは、何も知り合いだからという理由だけではなく、むしろ同業者として協力を仰いだのだ。

 そんな彼と初対面である優里菜は、手慣れたように当たり障りもなく挨拶をした。

「こんにちは。初めまして。わたし、朱梨さんの友人の結染優里菜と申します。よろしくお願いしますね」

「優里菜ちゃん、ね。僕は夜蔵蒼。朱梨ちゃんや時雨くんとは、この子らが八歳ぐらいのときからの付き合いでね。これからも朱梨ちゃんと仲良くしてくれると嬉しいな」

 と、双方の自己紹介が終わるとすぐに、朱梨からの催促が入る。手早く終わらせたくて若干イラついているようだ。そんな彼女の様子に一先ず安堵してから、蒼はすぐに二人を招き入れた。

 室内のほとんどは和室の部屋で、かつそのほとんどが本で埋め尽くされている。その中でも比較的片付いている部屋に通された二人は、出されたお茶に手を付けることもなく蒼の方に視線を向けた。

「……蒼さん。時雨から、私の今の状態は聞いてるんだろ?」

「うん。黒い影、それから入水自殺。多分、時雨くんはこの二つのワードと、あとそれから堅洲川に何らかのかかわりがあるってだけで、正体は絞り込めてたんだと思うよ。だから、他の祈祷師とかじゃなくて、僕に話を持ってきたんだと思う」

 そう言って、蒼は机の隅に置いていた沼芦村の地図を広げて二人に見せる。今いる蒼の住居の位置を指で指した後、ほんの少しだけ御手洗川の上流へと指を滑らせた。

「ここ。僕の家から、川の上流へ二キロぐらい上ったところかな。今はもう廃墟になってる施設が一つあるんだ。

 ……とある宗教団体の施設だった。新興宗教だったけど、本当に邪教の類だったんじゃないかな。とにかく、いいものでも何でもない集団だったんだけどね。

 ―二十年前に、そこの信者が集団自殺をしてる」

 床に積まれた本の山から、一冊のファイルを手に取る。それは新聞のスクラップのようで、見せられた記事には確かに蒼の言う通りのことが書かれていた。

 ギィ、と屋根が鳴る。

「……どうして? なんで活動していたはずの宗教団体が、急にみんな自殺なんてしてんだ」

「それがその宗教の教えだったからだ」

 言い切った蒼は、ぴっと朱梨を指さす。いいや、朱梨を指さしているのではない。朱梨の中にいる黒い影を指さしている。彼女の中にいる怪異に、指を立てている。

「……朱梨ちゃんも苛立っているし、手早くいこう。苛立っているのはいいことなんだけどね。

 その宗教団体は、一応考え方としては神道寄りの所があったんだろう。しかしそれでも、やっていることは邪法中の邪法、噂ではクスリが大量に出てきたとかも聞いたね。まあ、そういう団体だったわけだが、その中でも異彩を放つ教えがあった。―自殺こそこの世で最も幸福なものだ、と」

 はあ? と朱梨が素っ頓狂な声を上げる。何がどうなって自殺に繋がるのかがわからない。そんな彼女の様子に、僕も初めはそう思ったよとうなずく蒼。

 ―そして、ああ、と納得する優里菜。

「……ねえ、蒼さん。その信者の方々は入水自殺であっているかしら? ……いえ、これ以外ありえないわね。だって、神道がベースになっているのなら、川の流れに自身の穢れを流すって考えても何らおかしくないものね」

「……、じゃあやっぱり、この影の正体は」

「……天目索神社に行く理由はなかったのかとも思っていたけれど、一応行ってて正解だったわけね。天目一箇神の情報が無かったら、ちょっと情報が不足して完答できないわ」

 優里菜のその言葉に、蒼の口元がにっと笑う。

 優里菜が正解にたどり着いたことを確信した彼は、今回の怪異のいわば核となる部分、その思想、度々朱梨を支配していたその考え方を、紐解いていく。

 ギィ、と家鳴りがしていた。

「おそらくだけど、時雨くんは、この影の正体が信者の霊だってことまでは推察できてたんだと思う。もしも霊だったなら、除霊してやってくれって言われたしね。でも何故自殺を繰り返す行動を取っているのかはわからない、だから僕に調べてほしいっていう連絡があったんだよ。しかも何故堅洲川ばかりに入ろうとするのかもわからなかったみたいだ。入水だけなら、近場の水辺ですればいいのに、って」

 おそらくは。

時雨は、先ほどの朱梨からの電話で、後者の答えを得たのだろう。この点だけは、一歩だけ朱梨たちのほうが早かった、 

……いいや、違う。

 死んだ死体は動けない。川に落ちたら、そのまま流される。その死体に憑りついているのなら、そのまま一緒に海まで流されるのがオチだ。

 それなのになぜ、呰見という、怪異の専門家が何人もいる、そして真宮結々祢という最強の祈祷師がいる街でなお『風化』という対処法がとられた?

「……憑りついた人物の自殺をで誘発する、ってだけなら、真宮結々祢が苦戦するはずがない。

 ―コイツ、神気を元手に増殖するんじゃないのか」

「……おそらくは。きっと、対処が不可能なほどに広がってしまったから、記憶消去と資料の削除で手を打ったんじゃないかな」

 いかに最強であろうと、真宮結々祢は一人のみ。被害者が死ぬたびに増えるのであれば、対処など追いつけるはずがないのだ。

 あの黒い影の怪異が、何度も何度も堅洲川に固執し入水を試みようとしたのかのロジックがここにある。

 つまり―天目一箇神の神気が満ちた、堅洲川の水中で死ななければ、次の個体が形どれない。

その結論に至ったことを確認した蒼は、うんと頷く。先ほど、追って時雨から来た連絡と寸分たがわないその言葉に、やはり二人は考え方が似ているなとぼんやり考えた。

 ここまでたどり着けたのならば、あと蒼が与えるべき情報は一つのみ。

 どうして、この怪異は自殺するのかだ。

「―朱梨ちゃん。君は、死ぬときがどんな感じなのか知ってるかい?」

「いいや。死んだことないからな」

「うーんまあそうだよね。じゃあこういう話は聞いたことないかい?『死の直前には、莫大な快楽を感じることができる』、という話」

 ―噂には聞いたことがある。

 曰く、脳内の物質が多量に放出されることにより、一生涯で得られる快楽の何倍も強い快感に襲われる、らしい。

 ……。

 …………。

 ……まさか、と朱梨の脳が結論に至る。

「……その、快楽のための自殺、なのか?」

「ああ。『その苦しみを乗り越えた、その先に待つ多幸感こそが褒美である』っていう考えがあった。そして彼らは一斉に川に入って命を絶った」

 不意に、洗脳状態のときに頭によぎった考えが再生される。

 川は神聖なものであり。

穢れを洗い流してくれるものであり。

そこに飛び込むことで私たちは極楽浄土へと行くことができて。

その果てに得られる快楽こそがこの陰鬱とした世界を生きたことに対する褒美であるのだと。

 ……鳥肌が立つ。先ほど優里菜が言っていたことと全く変わらない。穢れを流して、極楽浄土のその先の快楽こそを是として追い求める。

「それじゃ、必要な情報はこれで全部開示した。ほら、あとはもう朱梨ちゃんもわかっただろう?」

 続きを、朱梨自身に促させる。

 彼に言われるまでもなく。

「……ああ。私の中にいるこの黒い影は、二十年前に集団入水自殺した、信者たちの霊。怪異のカテゴリーとしては『幽霊』だから、こいつらの本質は霊的粒子で構成されている。

 おそらくだが、もともとはこいつら、ただそこにあるだけのよわっちくて無害な霊だったはずだ。それ故に、霊的粒子は非常に少なく、『限りなく非存在に近い存在』だったはず。間違いなく、人には憑りつけないくらいに。……ただ、十五年前。御手洗川の大氾濫で、川下まで流された。結果、時を同じくして御神体が流され神気が川下に垂れ流される現場に流れ着いて、『天目一箇神』の神気を外殻に形どった。ここでようやく、人の中に憑りつけるだけの力を得たってわけだ」

 ギィ、と天井から音が響いた。

 朱梨はその音を気にしない。

「怪異に成って変質したのか、それとも死んで霊になってすぐのときからこうだったのかは知らないけど。

 ―こいつらの原動力は『死の間際の強烈な快楽』。これをエネルギーにして、自分の存在を保ち、そして神気をもとに増殖する。川に入って快楽を摂取してそのエネルギーと神気で増殖して、陸に上がってまた人に入って水に落ちる、の繰り返しだったんだろ。ただその快楽を得たい、その多幸感にずっと浸っていたい一心で。

 ―ああ。ようやく思い出した。

 死の間際、脳内から分泌されるものとしてエンドルフィンが存在する。これは脳内麻薬と呼ばれるほどに強烈で、その効果はモルヒネの六倍以上、だったかな。そんなもんが脳みそを占めるんだ、さぞかし美味しいものだろうよ」

「―ああ。正解だ。死ぬ間際のエンドルフィンは、死の苦痛を和らげるために放出される。

 彼らが求め、それこそが幸福だとし、そしてそれをエネルギーとして、他者を介して摂取している。死してなお中毒になっているんだ。

 スーサイダーズハイ、これが彼らにとっての極楽浄土だよ」



 ◇



 ギィ、と屋根が軋んでいる。

 ギィ、と嫌な音が鳴っている。



 ◇



 不快げな顔で天井を見上げた蒼は、ほんの少しだけ顔を歪めた。

「……さっきから思ってたんだけど。蒼さん、この家の屋根の上、何かいんの?」

「……そうだね、最後に一つだけ。件の宗教団体には、信仰対象が祀られていたのさ。でも信者がみんな死んじゃったから、その信仰対象はどんどん力を弱めていった。

 今じゃ、本物の怪異に堕ち切っているよ。ここら辺には民家はないから、必然的に僕のところにきてるんだろうね」

 さて、と言いながら蒼は立ち上がる。二人も立つように促し、そばにかけてあった羽織を肩にかけた。

「時雨くんに頼まれたことはこれで全部だ。君たちは日が落ちる前に帰った方がいい。下の道まで送ろう」

 ギィ、と屋根がなっている。

 おそらくその何かがいるであろう場所を、蒼の金色めいた双眸が睨みつけた。



 ◇



「蒼さん」

「うん? どうしたんだい朱梨ちゃん」

「信仰対象っていうの、何なのか知ってるのか」

「―……、即身仏だと聞いているよ」

「……そうか。悪い、私のせいかもしれないな」

「そんなことはない。ほら、優里菜ちゃんと一緒に、呰見に帰りなさい。時雨くんにもよろしくね」

「蒼さんこそ、帰り道大丈夫か」

「心配はいらない。僕には一反木綿もいるし、何より心強い犬もいるんだ。転ばなければ問題ないよ」



 ◇



 終わった、と朱梨から連絡が入ったのは、午後六時半を回ったころだった。神社の前で待ってるから、早く降りてこいとのこと。時雨はその連絡を受け取ってすぐに、昊天や葵、結々祢に連絡して、例の宗教団体の敷地周囲の浄化をお願いした。どうやら結々祢が帰りに寄るらしく、全て任せてしまっても大丈夫そうだ。そして、葵と昊天に怪異が終息したと報告し、漸く敷地の外に出ることができた。

 外はもう西の地平線に太陽が差し掛かっていて、世界全体が茜色に染められてしまっていた。

 長い石段を降りていく。

 降りきったすぐそこに、適当な段差に腰かけた朱梨の姿があった。優里菜はそこにはいない。彼女だけが、夕日に照らされながら時雨を待っていた。

「……よ。約束通り、死なずに帰ってきたぜ」

「ああ。よく頑張ったな」

 ははは、と笑う朱梨。

 赤い赤い夕陽に照らされて、顔に大きな影ができていた。

「悪いな、ほとんど俺は役に立てなくて」

「何言ってんだ。いの一番に怪異の正体に気付いたのに、役に立てなかったも何もないだろ。ほんと頭いいね、って蒼さんも褒めてたぜ」

 ゆらり、と立ち上がる。

 疲れているのだろうか。

「……いや、俺はただ、堅洲川の上流で入水自殺の事件があったってことを覚えてたから、もしかしたら、って予想しただけだ。それが確信になったのは、全部蒼さんのおかげだよ」

「それでも、あの判断の速さはすげえよ。殴ってやろ、なんて思ってたけど、もうそんな気も失せちまった」

 ははは、と笑っている。

 おかしい。

 どこか違和感がある。

「……なあ朱梨。ちゃんとお前の中に憑りついた影……あの信者たちの霊、全部除霊したんだよな?」

 先ほどの連絡には、『霊だということが確定したので除霊してもらった』と書いてあって、そしてこの瞬間まで時雨はその言葉に疑いを持ってはいなかった。

 今の朱梨を見るまでは。

 何かが違う。

 神代朱梨のようで、そうではない感覚。


 朱梨が沈んでいく夕陽を背にして立っている。

 逆光で、顔が見えない。


「―いるよ。まだ、ここに」


 そう言って、朱梨は自分の頭を指さした。


「今回のこの怪異、死の間際の快楽を食べるって言うのが最終的な結論なんだけどさ」

「道中、こいつは私のノルアドレナリンを操作してた」

「なら、多分、快楽って言う感覚を食べてるんじゃないんだ」

「多分、ホルモン物質を食べてるんだ」

「エンドルフィンとか、ドーパミンとか、そういう快楽物質があの怪異にとってのエサなんだ」

「―だから、優里菜に頼んで、

 エンドルフィンとドーパミンの分泌を止めてもらった」


 笑いながら。

 笑ったふりをしながら。

 何でもないような顔で、神代朱梨は言い切った。


 思わず、時雨は朱梨に詰め寄ってその肩を掴む。

「―なん、で、なんで除霊してもらわないんだ。今からでも遅くない、伯父さん呼べば、それで済む話だろ……!」

「……駄目だ。駄目なんだ。

……駄目だったんだよ。蒼さんに訊いてみろ。この霊は憑りついているとき、そのすべてが肉体の内側に入ってしまってるんだ。だから、通常の除霊じゃ解決しない。ちょっと特殊な除霊が必要なんだけど……

……私は、その類の除霊を受けられない。お祓いも受けられない。……なあ、頼む時雨。お前は何も訊かないで、誰も呼ばないで、このまま怪異は消えたんだって、そのはなしのまま通してくれ。……お願い」

 肩を掴むその手を、すがるように握る。

 絞り出すような、今にも消えそうな声で懇願する。

 朱梨の顔は伏せられていて、時雨から見ることはできない。

「……つまりそれは、怪異が餓死するのが早いか、お前が心身に異常をきたすのが早いかの我慢比べだろ。……勝算は、あるのか」

「……まあ、ある程度はな。最悪、メンタル壊れても優里菜の言霊で何とかなるだろ」

 夕暮れで、世界が赤く染まっている。

 逢魔が時がやってくる。

 目の前の親友が、わからなくなりそうだった。


 少しの時間、逡巡して。

 時雨は、朱梨に右手を差し出した。

「―ドーパミンは、不足すると周囲に対して無関心になる。そんな状態で帰るのは危険すぎるから。……家まで送る。手、繋いで帰ろう」

 差し出された手を、きょとんとした目で見つめて―ああ、と返事をして、差し出されたその右手を柔く握った。

「―ああ、うん、良かった。正直さ、一人で家まで無事に帰れる自信、あんまりなかったんだ」

 そう言って、地面にできた長い長い影ばかり見つめて歩いている。


「明日から夏休みでよかった。外出歩ける状況じゃねえし」

「隣に優里菜いるんだから、そう心配する程の事じゃねえよ」

「鬱対策にさ、怖い話してくれよ。ストレス与えれば、ノルアドレナリン分泌できるし」

「夏休み、自由に遊び来ていいぜ。いつでもいるから」


 抑揚のない、いつもの彼女らしからぬ声音が響く。

 何故除霊もお祓いも受けられないのか、そんな疑問が喉元までせりあがるたびに、懇願が頭をよぎって終ぞ訊けない。


 そして、無事に彼女を部屋まで送り届け、その扉が閉まるのを見届けた後。

 手に爪が食い込むほどに、強く握りしめることしか、今の泡沫時雨にはできなかった。

 泡沫時雨の、完全な敗北だ。

 ―もう、空は完全に深い蒼色に染まりきっていた。



スーサイダーズハイ / 終

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