邂逅

 唐突に朱梨からの呼び出しを受けた。

 もう七月も近いある日に、『ちょっと会わせたい人がいる』と一言だけメッセージが入っていた。主な交友関係は時雨くらいしか無い彼女が誰かを紹介するのは珍しい。少々疑問に思いつつも、断る理由も特にない時雨は、ほとんど無意識に了解と返事をしてしまっていた。

 障子の向こうから聞こえる、耳障りなセミの鳴き声にふと気が付いて、外出を躊躇いそうになったのは半ば仕方ないことだろうと思う。今日も暑くなるだろう。

 一人で留守番していたために自分以外誰もいない和風の屋敷を通り抜けて、玄関に鍵を閉めて、そこそこ行き慣れつつあるマンションへの道を歩き出した。


 そして、今に至る。

「こんにちは。あなたが泡沫時雨さん?」

 緩やかなウェーブを描く金色の髪は、朱梨とは似て非なるものに見えるほど流麗で、否が応でも目を引かれる。綺麗に切りそろえられた前髪から覗く瞳は綺麗な翡翠色。整った顔立ちは、まさに美少女として形容するべきほどであった。

 だから、そのような美少女に、入室一番に迫られて名前を訊かれれば、流石に戸惑いを隠せないのだ。

 それを察した朱梨は、苦笑いでその少女の後ろ襟をつかんで容赦なく引きはがした。

「こら。時雨困ってるだろ、とりあえず一旦座れ」

「……むぅ、わかったわ。ごめんなさいね」

 渋々といった形ではあるが、朱梨の言葉に従って腰を下ろす少女。この人が会わせたい人だと理解した時雨も、一先ず朱梨の横に腰を下ろした。

 その少女とは真正面になる。時雨の目線が少女に向くと、彼女はにっこりと可愛らしい笑みで笑った。

 ……途端。

 心臓付近を無理やり引き抜かれたようなそんな感覚が走った。痛みはない。例えるなら心の欠けた一部を指でひょいと摘み上げられたかのような、そんな感じだった。

「っ、?」

 視線を逸らして胸に手を当てた。

 何ら異変はないはずなのに、そこにあったはずのものがないかのような妙な喪失感だけがそこにある。それなのに厭な感じはしないのがまた不思議だった。

 くすくす、と控えめに笑う声がする。

 時雨の異変を感じ取った朱梨は、ため息をついたのちに非難する目を少女に向けた。

「……おい、優里菜。時雨で遊ばないでくれ」

「ごめんなさいね。でもこの人、とっても可愛らしいからつい出来心で」

 優里菜と呼ばれた少女は、まったく悪びれもせずに笑っている。そして、時雨に向かって人差し指をスッと横一文字に滑らせた。

 それと同時に、時雨の中で渦巻いていた喪失感のようなものはすぐに溶けてなくなった。

「…………いろいろ言いたいことはありますけど、まず貴女の名前を訊いてもいいですか」

「あ、そうだったわ。わたしは結染優里菜よ。朱梨さんの横の部屋に引っ越してきたの。よろしくね」

「優里菜さん、ですね。俺は……もう既に朱梨から聞いてるでしょうけど、泡沫時雨です」

 よろしくお願いします、と言って軽く頭を下げた。

 互いの自己紹介も終わったところで、時雨は説明を求める目を朱梨に向けた。そのアイコンタクトを受け取った朱梨は、テーブルに肘をついて口を開く。

「優里菜の今のやつ、一般的に言うと魅了。優里菜はそういうのがちょっと得意なだけの一般人だぜ。変に勘ぐっても無駄だよ」

「……ああ、魅了か。てっきり洗脳の類かなと」

「やり方次第ではできるわよ? やってみましょうか?」

「遠慮しておきます」

 優里菜の提案をばっさりと断る。

 先程の感覚には特に厭な感覚はなかったが、かといって良いものであるはずもない。回避できるのなら回避したいというのが時雨の正直な考えだった。

「優里菜、時雨で遊ぼうとするのやめろってば。お前のそれって同性より異性のほうが効き目強いだろ、やめとけよ」

「うーん……まあそうね。ごめんなさい、遊びが過ぎちゃったわ」

 そう言ってはいるものの、悪びれた様子はまるでない。

 相変わらず優里菜はくすくすと上品に笑っているが、先程のような魅了の効果はなかった。

 ――時雨から見て。

 結染優里菜という人物は、特に何の危険もない無害な一般人だとしか映らなかった。

 魅了という異能が使える、ただそれだけの無害な少女。それが、時雨が下した最終的な結論である。

(……別に、朱梨に危害を加えそうな人じゃなさそうだし……朱梨もそこそこ気を許してるみたいだから大丈夫か)

 そう結論付けて、終わりにした。人を品定めするような行為はあまり気分のいいものではないので、長々と続けたくはない。

 優里菜は朱梨と何か話している。

 それを聞き流しながら、時雨は先程のようにそっと胸に手を当てた。

(……さっきの、あの感覚)

 心地の良い喪失感。

 そしてそれを埋めるかの如く侵入してくる自分以外の意志。その意志が残りの心に多大な影響を与えていた、まるで心を乗っ取られたかのような感覚。

 形容するならば、心を奪われた、ということだろう。

(……いや、違う。こんなに生易しいものじゃない。あの人ならいまの一瞬で廃人寸前にだってできたはずだ)

 過去の誰かと重ねて、それを即座に否定した。

 時雨は優里菜の顔を見た。見覚えなんてない。声だって聞き覚えのない鈴のような声だった。そもそも歳が違う。優里菜の外見年齢は時雨たちと同い年程度で、どう頑張ったって年齢計算が合わなくなる。

 視線に気づいた優里菜は、小首を傾げながら問いかける。

「……? どうしたの、時雨さん?」

「……あの、」

 言おうかどうか、わずかに逡巡した。

「……優里菜さんって、お姉さんとかいたりしますか」

「いないわよ? わたし、一人っ子だもの。どうしたの、急に」

「あー、いや、その……優里菜さんみたいな人に、昔会ったことがあって。もしかしたら、って思っただけです」

「あらそう。いつぐらい?」

「六年前の夏の終わり頃ですね」

 ……。

 数秒の沈黙の後。

「……ごめんなさいね。心当たりはないわ」

 先程と同じように、にっこりと笑って。

 優里菜は何でもないかのように答えた。

「……そうですか。すみません、変なこと言いました」

「いいのよ。思い出したら言ってちょうだい」

 会話が途切れた。

 数秒間の間があって、ふと思いついたかのように朱梨が口を開く。

「優里菜、お前って霊感あるほうなんだよな? いや、この部屋に住む時点でかなりの霊感持ちかとんでもないぐらいの零感かの二択だろうけど」

「大丈夫よ、お化けなら結構見えるわ。対抗手段も少しくらいは心得てるから問題なしよ」

「了解。……で、時雨。知っての通りこの階は軒並み事故物件かつやべー部屋だ。こいつは問題なしとか言ってるけどもし仮になんかあった時のために連絡できるようにしとけ。ていうかもうSNSのグループ作ったから」

「ちょっと待てこの階軒並みとは聞いてないぞ。事故物件に進んで住む馬鹿はお前ひとりじゃなかったのか」

「ちなみにトップクラスでヤバいのが私の部屋、その次にヤバいのが優里菜の部屋だ」

「馬鹿が増えてしまった……」

 少女二人の惨状に思わず目元を抑えた。どうして本来であれば安息の地であるはずの住居をそんなにも危険な場所に選んでしまうのだろうか。まったくもってわからない。

 そんなこんなしつつも、スムーズに連絡先交換まで進んだ。

 SNSに『結染優里菜』という文字が並んだことを確認したと同時に、思いのほか時間が経っていたのを知る。

 そろそろ帰るべきか、と思い時雨は腰を上げた。

「ん、帰るのか?」

「ああ、そろそろ深雪が帰ってくる頃だからな」

 この会話を聞いていた優里菜が首を傾げる。

「……深雪?」

「深雪ちゃんはこいつの妹だよ」

「そうです。あとそろそろバイトなので。それじゃ、俺はそろそろお暇します。あとは女子二人で楽しんで」

 じゃあの、と朱梨はいつものように手を振った。優里菜も時雨に向かって小さく手を振っている。それに返した後に、時雨は部屋を出て扉を閉めた。


(……優里菜さん、か)

 朱梨の部屋を出てから、少しだけ扉に寄りかかって考えていた。

 魅了の異能のこと。その時のあの感覚のこと。

 身体に焼き付いた喪失感と充足感が、今も記憶として時雨を蝕みつつある。


『―  ね、あなた      別れ  。私    いことがあ  ら、もうすぐ       けれど。いつか、あなたが    を好きって            会いに行き     ?

 ―             次、いつか、私に会うまでに、人を殺せるぐらい         』


 過去の、ぼろぼろに欠け切った言葉が、頭の中で不出来に反響する。もう顔もわからない。それだけが名残惜しかった。

「……やめとくか」

 記憶に再度蓋をする。

 父親から、もう思い出すなときつく言われているため、あまりいい思い出ではないことは確かだ。

 寄りかかるのをやめて、エレベーターを使ってマンションから出た。

 西の空が、夕焼けに染まっている。

 真っ赤に染まった空は、やがて物の怪の時間が来るということを暗に示しているようであまり好きではない。

 面倒なことに巻き込まれないように、時雨は早足で家まで歩いていた。



 結染優里菜。

 魅了の異能が使えるだけの一般人。

 ただの無害な少女。

 ……これが、泡沫時雨の導き出した結論。

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