朱色の空匣

紅夜チャン

第1話 深夜二時、外に出てはいけない

 深夜二時。一般的に丑三つ時と言われる時間。

 青く暗い遥か彼方の天蓋には、穿たれたようにぽっかりと開く穴が一つ。今夜は綺麗な満月であった。夜を照らす唯一の光は、周りの星座すらも霞ませる。丁度へびつかい座だろうか、半分ほどは月光にかき消されて見づらくなっている。

 六月にしては珍しく、今日は一切の雲のない快晴であった。

 そして、月明かりがあるにも関わらず、不自然なほどに地上は暗かった。

「―そんでさあ、坂野がご丁寧に忠告してきたんだよ。『祓郷の廃病院はマジだったからやめとけ』ってさ」

『へえ。祓郷のほうっていったらド田舎だろ? 確かに雰囲気出てるけど、実際どうなんかな。行方不明者が出たとかそういうのあんの?』

「噂はあるんだよな。なんか肝試しかなんかで入った男女グループが行方不明になってそれっきりとか、間違えて入り込んだ子供がそのまま帰ってこなくなったとか」

 電話をしながら歩く大学生が一人。電話の向こうの彼の声は少し眠そうだ。午前二時にかかってきた友人からの電話を無視しなかった時点で、十分にほめたたえられて然るべきである。

 電話を掛けた本人も、特段緊急性の高い理由ではなかった。ただ単に、街灯も少なく普通に暗い道を歩くのに一人でいるのが少々耐えられなかっただけだ。馬鹿正直に伝えてはいないが、電話先の友人は察してくれていたようで、話に乗ってくれている。

 古い街灯がじじ、と音を立てる。

『っていうか、なんで『だった』なんだよ? 坂野も行ったことあんのか?』

「ああ、それオレも気になって聞いたんだわ。そしたらなんか、『行ったことない。でも前は何かいた。もういない。けど曲がりなりにもマジのとこだったんだから触れないほうがいい』だってさ。なんか、ちょっと前に男が一人でその廃病院に入ったらしいんだよな。そんでしばらくしたらふつーに出てきて、それ以来行方不明者は出なくなったとかなんとか」

『ヤッバ。そいつ何者?』

 ウケるね、なんて電話口で友人は笑っている。そんなほいほいと霊能力者のような人物が出てくるなどまるで創作話のようだ。

 しんとした空間に、彼の声だけが響いている。

「あー、さっぶ。早く家に着かねーかな」

『え、なに? 外そんなに寒いか?』

「わっかんねー。もう夏のはずなんだけど、なんか半袖だとやたら寒いっていうか」

『あれだろ、お化けの話してたから寄ってきてるんだろ』

「やめろよ今オレマジで暗い夜道に一人なんだから!」

 夜が更けていく。

 気温が下がっていく。

 六月はこんなに寒いものだっただろうか。


 ずっと下に向けていた目線を、ふと前に向けた。


「……?」

 数少ない街灯の、その真下。光が照らしている空間。そこに、見知った姿を見た。

 そのくせ毛の茶髪も、わずかに目に掛かった前髪の長さも、おそらく平凡と言って差し支えない顔立ちも、平均より少しだけ低いその背丈も、割と他人には物腰の柔らかい彼自身を表すかのようなその服装も、今なおその耳に当てているスマートフォンのデザインも。

 全部、電話の向こうの友人と合致する。


「あ―天城⁉ なんだよ、なんでここに来てんだ⁉」

『は? 何言ってんだ吉譛ィ縲∽ソコ縺ッ莉雁ョカ縺ォはは、お前が一人で帰るの怖いって言うからな。来てやったんだ、感謝しろよ』

「お前この距離で電話越しに話すことねーだろ!」

 見知った顔に安堵して、思わず反射的に電話を切って駆け寄る。まるでスポットライトに照らされているかのように彼は光の中にいた。街灯の光には一切虫が寄っていなかった。普通なら蛾などが飛んでいてもおかしくないはずなのに。いまこの瞬間は、自分と彼しか生きていなかった。

「いやでもマジでお前が来てくれてよかった‼ ほんっとこの道暗いだろ⁉」

「確かになぁ。素直に一人が怖いって言えばいいのに、このツンデレさんめ」

「うるせー‼」

 げしっと軽めに小突く。思っていたのは半ば事実ではあるが口にするのは話が別だ。いかに幼馴染の天城と言えども言いたくない本音というのもある。

「まあまあ、そんじゃさっさと帰ろうぜ。置いてくぞー」

 そう言って、彼はマイペースに闇の中に消えようとする。友人のためにここまで来たとは思えない。慌てて彼の後を追って、光と闇の境界線を跨いで、



 ◆



「……吉木? もしもし、吉木?」

 ベッドに寝転がったまま、先ほどまでつながっていたはずの電話の向こうの彼の名を呼ぶ。それにこたえる声はなくて、ただ無機質な機械音だけが耳に残るだけだった。

(……最後、何言ってたんだあいつ? 俺がこんな時間に外にいるわけないのに)

 うつ伏せのまま話していた天城はごろんと仰向けになり、通話の切れたスマホの画面をぼんやりと眺める。通話時間は優に二十分を超えていた。

 何故だか、蟲が這い出るような気味の悪い不安が湧き出てくる。

 吉木は大丈夫だろうか。無事に家に帰れただろうか。双方もう大学生だというのに、妙に不安になってしまう。きっと大丈夫だろう、と言い聞かせて布団にもぐった。明日も用事があるから、もういい加減に寝なければ。

 そうして、部屋の電気を消した天城は、きつく目を閉じて意識を落とした。


 ―首のない友人が、俺を訪ねてくる夢を見た。







『深夜二時を回ったら、外に出てはいけない』


 それはあるマンションの住民の間に囁かれる噂話であり、言い伝えであり、戒めであった。そのマンションの立地は悪くはないがよくもなく、真夜中になれば人気は無くなる。田舎に近いために街灯も少なく、夜は暗くて危険だから、そんな理由かもしれない。とにかく、深夜二時を過ぎたら、外に出てはいけない。たとえ何があってもだ。それが、そのマンションの住民の間での暗黙の了解であった。



 午前二時。草木も眠る丑三つ時。

 住民は今日も、その戒めを破ることなく眠っている。

 その言葉の、本当の意味を、深く考えることもなく。



 ◇



 梅雨も折り返しに入りつつある、六月の下旬のことだった。

 梅雨の時期には珍しく、カラッと晴れた空は真っ青に染まっていて、東の空くらいしか雲はない。所謂快晴であった。

 肌を照らす日差しは暖かいというよりは熱いものに変わりつつある今日この頃。人通りの少ない道を、一人の青年が歩いていた。

 青年というべきか、はたまた少年と形容すべきか。大人びた風貌と落ち着いた雰囲気を纏ってはいるが、身を包んでいるのは高校の制服。風に吹かれて揺れるその髪は黒色で、瞳も同じ黒い色。友人に「美人さん」と言わしめたその整った顔は、目的地であるマンションを見上げたときには軽く歪められた。


「…………こんなところに住み始めたのか、あいつ」


 この男の名前は、泡沫時雨という。

 夏が顔を出し始めたというのにこうして外を出歩いていたのは、最近一人暮らしを始めたと言っていた友人……有体に言えば親友と呼べる女の子の部屋を訪ねに来たからであった。

 しばらく街と田舎の境を沿うように続く道を歩いていたが、まさかその道沿いにあるとは思っていなかった彼は、その立地の悪さや交通の利便性などに眉をひそめた。建設されてまだ間もないそのマンションは外観も綺麗ではあるが、何故こんなところに建てたのだろう。

 つぅ、と嫌な予感が背筋に伝った。

 土地的に嫌な雰囲気なのだ。北を向けば田んぼの広がる田舎が広がっている。あまり足を踏み入れたくない雰囲気を醸し出しているが、それが何故なのかはわからない。直感的に、立ち入るべき場所ではないと感じていた。

(……まあ、俺が住むんじゃないんだし。選んだのはアイツだから、文句言うことじゃないか)

 そう割り切って、時雨は目の前のマンションのエントランスへと足を運んだ。オートロックはないと聞いているので、きっとすぐに入れるだろう。

 ……このころから。

 得体のしれない奇妙な感覚を感じながら、時雨は親友の部屋に向かって行った。



 ◇



 一四〇四号室だと聞いていた。

 二十階まであるうちの十四階の部屋らしい。その階までエレベーターを使って昇った。流石に階段を使う気にはならない。そしてエレベーターから降りたときにふと、田舎の方の景色に目を向けた。

「…………神社?」

 ちょうど、同じくらいの高さだろうか。

 遠くの高台の上に、小さな神社があるのに気づいた。遠目だから細かいところはわからないが、随分とさびれている。もう何年も人が寄り付いていないのだろう。神主もいないような無人の神社だということだけは一目でわかった。

 少し、悲しくなる。

 伯父が神社の神主をしているため、神社については少し思い入れがあった。あの小さな神社の状態は、決して良いものではない。神主も参拝者もいないその場所、そこに祀られている神様は大丈夫なのだろうか。

 

 ―ふと、見つめ返された気がした。


 我に返った時雨は、その神社から目を離して目的地へと急いだ。見るべきではなかった。あの手のものに同情は禁物だと、伯父から再三念を押されていたのを忘れていた。

 そして気づいた。下にいたときに感じていた土地的な嫌な感じは恐らくアレのせいでもあるのだろう。詳しくはわからないが、合っているような気はしていた。


 この階は、親友以外は住んでいないと聞いていた。

 故に人一人いない。だれともすれ違うことなく目的の部屋に着いた。鍵を持っているわけではないので、大人しくインターホンを鳴らす。そのまま数秒ほど待てば、中からばたばたと音がして、やがて一人の少女が扉を開けた。


「―よう。思ったより遅かったな、時雨」


 まず特徴的なのが、日本では珍しい金髪。染めているわけではなく地毛であり、それを後ろでひとくくりにしている。そして瞳も日本人離れしている青色で、名を名乗らなければ外国人だと間違われるかもしれない。

 彼女の名は、神代朱梨。

 最近になってここに一人で住み始めた、時雨のたった一人の親友である。

「ああ、歩いてきたしな」

「そっか、お疲れさん。ほら上がれよ。特に面白いもんは置いてないけど、据え置きのゲーム機くらいはあるぜ」

 ぐっと扉を押して、朱梨は時雨を部屋の中へ招き入れた。

 意外にも、綺麗な雰囲気の造りだった。そして思っていたより広い。女子高校生の一人暮らしなのだし、何より朱梨自身の性格からもっと簡素な部屋を選ぶと思っていた時雨は、その内装を見て少しだけ面食らった。極論だが、神代朱梨という人物は三畳程度のワンルームでも普通に生活できるほどに物への執着がないし、なにより狭い場所が落ち着くと公言していたのだ。どういう心境の変化があったのだろう、と首を傾げながら靴を脱ぐ。玄関の土足部分だって、人が二人立ってもまだスペースがある。奥のドアに繋がる廊下の側面には少なくとも三つは扉がついていて、風呂トイレ別と考えてもまず確実に一部屋洋室があるだろう。長年親友をやっているからすぐにわかる、絶対こいつは一部屋余らせてる。見なくてもわかる。絶対に物置部屋にしている。

「わはは、バレたか。あの部屋今空っぽ。お前の部屋にしてもいいぜ」

「同居させる気か? 悪いが俺は帰る家があるからいらん」

「まあぶっちゃけあの部屋じゃ寝られないからマジで物置にするしかないんだけどな。お前なら寝れるだろ」

「なんて部屋押し付けようとしてんだ、絶対寝ないからな」

 けらけらとふざけたように笑っている朱梨は、まあいいやとその部屋の隣に位置する扉を開けた。そっちは別に問題ないらしい。見ろよこれ、と言われたので覗き込むと、そこは脱衣所兼洗面所のようだった。一人暮らしにしては洗面台が大きいし、脱衣所も広すぎる。洗面台と洗濯機、諸々の収納のための棚などを置いてもまだ余りあるほどのスペースだ。

 これを見せられた時点で、なんとなく浴室も想像がつく。

「……朱梨、お前これ一人暮らしの物件じゃないだろ」

「ああ。多分二人とか三人用じゃねえかな」

「馬鹿か? 家賃とかちゃんと考えて決めたんだろうな」

「あったりまえだろ。聞いて驚け、月三万だ」

 脱衣所の扉を閉めながら、ぴ、と三本指を立てた。

 それだけ言って奥の部屋に続くドアを開けようとした朱梨に、時雨は待ったをかける。

「……三万? 風呂トイレ洗面所別、リビング抜いてもこの広さの物件が?」

「ついでにエアコンもついてたぜ」

「……まさかとは思うがお前、ここ瑕疵物件じゃないだろうな?」

「……大正解。心理的瑕疵つき、超特大級の事故物件だ」

 なんせ過去に五回は死んでるらしいし。

 なんて、まるで今晩の献立を告げるかのような無関心さで言い放つ。そのまま奥のドアを開けて中に入っていってしまった。朱梨の告げた言葉を処理するのに一瞬遅れた時雨は慌てて彼女の後に続いて部屋に入る。

 リビング兼寝室として使っているらしく、LDKの空間にはベッドとテレビとローテーブルとソファが共存している。テレビの向こう側にはキッチンもあるようだが、朱梨が使うことはそうそうないのだろう。

 薄いレースのカーテンが引かれた向こう側は掃き出し窓になっていて、街並みが見下ろせる。

「お前馬鹿、本当に馬鹿、なんでよりによって一人暮らしするのに事故物件選んだんだよ、もっと他の所があっただろ」

「いや割とマジでここが家賃の最低ラインギリギリだったんだって。そりゃあ一万二万のとこもなかったわけじゃねえけど、流石に治安と防犯面で却下せざるを得なくてな、」

「それは英断だし、一人暮らしは金掛かるのもわかるから家賃安いとこにするのもわかる。でもできれば事故物件って時点で弾いてほしかった」

「え、お前別に事故物件とか怖がる性質じゃねえだろ」

「お前の身を案じてるんだよこっちは」

 そこまで言って、ようやく合点がいったらしい。

 ああ、と気が抜けるような声を上げた。

「いや、大丈夫。マジの奴は一応出てこないし、対話も成立した。一先ず身の安全は保障されてる。普通に暮らす分ならな。どっちかっていうと、この家賃の安さはピンポイントにこの部屋というよりはこのマンション周辺のせいってのが大きい。内覧の時見たけど、部屋による金額の変動に大差はなかった」

「……本当か?」

「マジマジ。嘘ついてるように見える?」

「普段の行いのせいでついてるようにしか見えないな」

「それは残念」

 まあくつろいでいけよ、なんて言いながらキッチンのほうに消えていく。おそらく飲み物でも用意してくれるのだろう。立ったままなのも不自然すぎるので、彼女の言葉に甘えて傍のソファに腰を下ろした。

 掃き出し窓は南側にあるため、薄いレースカーテンだけでは日光が防げていない。しかしそのおかげで、部屋全体が明るくなっていた。事故物件、なんて言われてもそう気にしない程度には。

 見た感じ厭な感覚はしない。

 仮にも朱梨が選んだのだから、最低限の安全くらいは保障されているはずだと思いたいのだが、彼女はああ見えて結構自分の安全に対して無頓着なところがある。時雨にとってはそれが一番心配だった。

「そんなに心配するなよ。選んだのは私なんだから、何か起こっても私が全部何とかするし。お前に迷惑はかけないつもりだから」

「いやむしろちゃんと迷惑かけてくれ。一人で解決しようとせずに相談してくれ」

「えっうそマジで? 超ド級の心霊現象とかに巻き込んでもいい?」

「積極的に関わりに行くのは話が違うからな」

 キッチンの冷蔵庫から大きなペットボトルのアイスコーヒーと、二人分のコップを持ってきてローテーブルの上に置いた。よく時雨が飲んでいるメーカーのものだった。

 未開封だったその蓋を開けてコップに注ぎながら、朱梨はくく、と笑っている。

 コップに注がれたコーヒーの黒い水面に、彼女の顔が反射していた。

「別に、私は好き好んで心霊スポットに行ってるわけじゃないんだぞ。好き好んでいってるのは部長のほうだろ」

「それ絶対部長の前で言うなよ。ぶん殴られるぞ」

「容赦ねえな」

「……それより、マンション周辺がヤバいっていうのは?」

「あ? あー……なんだろ、土地がわりいのかな、向こうのほうにある神社のとこ辺りから悪い気が滲んできてる気がする。そのせいで怪異が多発してるんだってよ」

 コップに注いだコーヒーをまるで水を飲むかのようにごくごくと飲んだ朱梨は、半分ぐらいに中身の減ったコップを置いて、何かを思い出そうとしているように、ああでもないこうでもないと頭を悩ませた。

 ひとしきり悩んで、時雨がコーヒーに入れる砂糖を要求するころになってようやく思い出したようで、テーブルの隅に置いてあったシュガーポットに手を伸ばしている最中にばっと顔を上げた。


「思い出した。『午前二時に外に出てはいけない』っていうのを、いろんなところから聞いてる」


 それは戒めのように重く、そこいらの噂話のように軽い一文だった。その言葉自体に呪いはない。それでも身体の奥底にするりと入り込む奇妙な感覚。

 目の前の彼女はそれがわかっているらしく、珍しく眉間にしわを寄せている。

 その言葉を聞いた時雨も、思わず砂糖を入れる手が止まってしまうぐらいだった。五杯目でやめるとか珍しいな、なんてちょっとズレた感想を抱きつつある朱梨をよそに、ティースプーンをコーヒーに入れてかき混ぜながらシュガーポットのふたを閉めて、少し難し気な表情を浮かべた。

「……午前二時? それはまたおあつらえ向きの時間だが。鬼でも出るっていうのか」

「さあね。ただ口を酸っぱくして言われたんだ、この一文だけを」

 管理人さんとか、下に住む主婦さんとか、サラリーマンっぽい人とか、不審者っぽいおっさんとか。

 まるで小さな子供に言い聞かせるかのようなその文言は、どうにも呪詛めいたような、心を縛るような感覚があったのを覚えている。本当に呪いの効果があるわけではないけれど。

 気味が悪いなあ、なんて思いつつも聞き流していたせいで、思い出すのに時間がかかってしまった。

「ふうん。でも、要は二時に出なければいいんだろ。なら、お前には何の関係もないな。そんな時間に出歩いていたら、補導待ったなしだぞ」

「そ。それに変に突いてヘビが出るのも嫌だし。出歩く予定は今のところないよ」

 そうか、と時雨は安堵の息を吐く。なんだかんだでこの神代朱梨という女の子は危なっかしい行動ばかりして目が離せないのだ。今回も、一人暮らしを始めたと唐突に言われて結構心配していた。今日ここに来たのも、ちゃんと生活できているか確かめるためだったりする。


 その後、しばらく経って。

 据え置きのゲームを二人で遊んだり、だらだらとしゃべったり、課題の残り(時雨は全部終わっていた)をやっていたりするうちに、日が西の方へ傾いていた。

「……朱梨。日が沈んできたし、そろそろ俺は帰るぞ」

「えっ」

 素っ頓狂な声を出す朱梨。それに対し、時雨は少し眉をひそめた。

「えってお前、流石に女の子一人暮らしの所に泊まるわけにもいかないだろ」

「私が許可します。ので泊まっていってください」

「馬鹿言うな。第一寝るとこないだろうが」

「ソファ‼ ソファあるから‼ だからもっと遊ぼう‼ 一人暮らし意外とさみしいんだよぉ‼」

「あーもう足にくっついてくるな! 165センチのお前がくっついてくると邪魔なんだよ離れろ‼」

「お前が泊まるって言うまで離れねえ‼」

 まるでコアラのように引っ付いている朱梨を振り払うかのように、ぶんぶんと足を振る時雨。それでもなかなか離れてくれないあたり、朱梨も必死なのだろう。

 しばらく、このような攻防戦が続いた後。

「―歯ブラシあります! 体洗うタオルもあります! シャンプーボディーソープいずれもお前んちと同じものです! お前用のコップも多数買いそろえました! 明日の着替えも寝間着もばっちりです!」

「用意周到過ぎて引くんだが」

「―下着もちゃんと買ってます‼」

「親友やめていいか?」


―結局、時雨が折れて泊まることで、この争いは無事終結した。双方、決して少なくない心の傷は負ったが、それは別の話だ。



 ◇



 ふと、目が覚めた。

 特に音がしたわけでも、何かが動いた気配があったわけでもない。起きるべき時間にふっと意識が覚醒するように、ぱちりと目が開いた。

(……………………、やだな)

 渋々といった具合に上体を起こして頭を搔く。

 時計は二時手前を指していた。薄いレース越しの掃き出し窓からはちらほらとビルの明かりが差し込んでいる。月明かりはないが、薄ぼんやりとした空間はそれなりに好きなはずだった。

 ……今日は違う。

 より正確に言えば、今日も違う。

 この部屋に引っ越してきてから、この時間にはいい思い出がないのだ。

「……なんか水、あったっけ」

 気だるげにベッドから降りる。

 目が覚めてから、ひりつくようなのどの渇きを覚えて仕方なかった。気休めに口の中の唾液を飲み込みながら、ふらふらと台所のシンクに近づく。冷蔵庫の中を確認することすら面倒に思えた。

 覚束ない様子でシンクにたどり着いて、弱く蛇口をひねった。緩やかに水が流れ落ちて、わずかに音を立てている。コップを出すことも忘れてそのまま手で掬い取った水を口に運んで、


「ごぼっ、おえ、っごふっ、がはっ……!」


 思いっきり吐き出した。


「うぁ……、うえ、ごほ、まず……!」

 不味い。舌がしびれてしまいそうだった。口からこぼれ出た水がぼとぼととシンクに落ちていく。透明なはずなのにまるで腐りきった泥水を口に入れたように感じて、思わず反射的にえずいた。口の中に広がる不快感が凄まじい。何度手で口を拭っても一向に良くならない。それなのに、起きた時に感じたのどの渇きはまた迫り来ている。

 シンクの水は飲めない。とてもじゃないが、飲めたものじゃない。濡れたままの手で蛇口をひねって水を止めた。これ以上は水道代の無駄だ。代わりに冷蔵庫の中に何か飲料水でも入っていないかと思い、真後ろにあった冷蔵庫の扉を開けてみた。

 ……ない。

 元々あまり食材などはおいていないが、今日は輪にかけて少なかった。ジュースもなければ水もない。今日ほど過去の自分を恨んだことはなかった。

 のどの渇きが増幅していく。

 耐えがたいほど苦痛だ。無意識にのどを引っ搔きだした朱梨は、何の違和感も抱かずに、玄関へと向かっていく。家に飲めるものがないのなら、外に買いに行くしかないのだ。幸いにも外に出ても問題ない格好をしていたため、スマホさえ持っていれば大丈夫だろう。

「……」

 そういえば、とソファに目を向ける。一向に起きる気配のない時雨を起こすべきかと悩んだが、少し出てくるだけだ。わざわざついてきてもらう必要もない、と判断した。朱梨は自分が女の子なのだということが頭からすっぽ抜けている節があるため、こうした危うい考えをすることがざらにある。

 だから気づけない。自分の体に発生した明らかな異常に気が付かない。

 暗いままの玄関で靴を履いて、ドアを開けて外に出た。



 外は快晴だったようで、星が空に散っている。今夜は新月だから、どこを見ても月はない。マンションの十四階から下の道を見下ろすが、街灯が極端に少ないせいでほとんど視認できない。玄関は北側にあるのだが、マンションの北といえば見渡すばかりの田んぼと点在する古民家があるばかりで、光源らしい光源は見当たらない。暗すぎて、このマンションが最北端でその先の世界のデータが丸っと消えてしまったかのようだ。

 そんな光景を一瞥して、なんのためらいもなくエレベーターの扉のほうに足を向ける。朱梨は別に暗闇に恐怖することはない。当の昔に慣れ切ったものだからだ。

 幸運にもエレベーターは十四階で止まっていたようだった。ひとりで乗り込んで、一階のボタンを押す。エレベーターのドアがゆっくりと閉まる。そのままスムーズに箱は降りて行って、何にも邪魔されることなく一階についた。

 ぬるま湯に浸かったような、鳥肌が立つ風が肌を撫でた。

「……なんだ、これ」

 思わず二の腕をさすった。寒いわけではないはずなのに、ぞわぞわとした感覚が収まらない。たとえるなら風邪をひいたときの感覚に近い。

 このままマンションの敷地外へ出るか逡巡したが……どうにも、のどの渇きが限界だった。このまま部屋に戻ってベッドに入ったところで、もだえ苦しむ未来しか見えない。奇妙な感覚を無視して、朱梨は駆け足で近くのコンビニへ向かっていった。


 コンビニまでは徒歩で五分もかからない。あっという間にコンビニの看板が見えてきたのだが、

「……しまった。ここ、二十四時間営業じゃないのか」

 店を見て肩を落とした。普段であれば煌々と光っているはずのコンビニは、店内も店外も真っ暗だ。珍しいことにこの店舗は十一時ごろで営業終了らしい。近くにコンビニはない。しまっているのならば、あとはもうそこらの自動販売機で買うしかない。

 幸いなことにすぐ近くに稼働している自販機があった。

(……あんまり、気乗りしないけど)

 しぶしぶ自販機に近づく。実は朱梨は一度、路上の自販機で買ったジュースを飲んで腹を壊したことがある。それ以来道端の自販機で飲料を買うのは避けていたのだが、腹に背は変えられない。のどがもうひりひりしだしていたのだ。

 光につられて虫がこびりついている。

 鈍く稼働音が鳴っている自販機の決済部分にスマホを当てて、電子マネーで缶ジュースを一本買った。ガコンと音を立てて缶が落ちてくる。かがんでそれを取り出せば、缶の冷たさが手に伝わる。

 こびりついた虫はすべて内側で死んでいる。

 先ほどのぬるい風で悪寒がしていたので、こうした冷たさは特にありがたくもなんともない。水分でのどを潤せればそれでいいので、大して気にしなかった。

 古い街灯がじじ、と音を立てる。

 爪を引っ掻けてプルタブを開ける。指先が妙に震えていて、まるでアル中みたいだなぁと一人笑った。

 しんとした空間に、彼女の声だけが響いている。

 缶を開けて、口をつけて―


「やめろ馬鹿ッ‼」


 突然の怒声にビクッと体を震わせた朱梨。声の方向に振り替えると同時に、手に持っていた缶ジュースが叩き落とされた。せっかく買った、ようやくありつけたジュースがどくどくと地面にあふれ出していく。その光景を呆然とした目で見て―思わず、声の主の胸倉につかみかかった。

「おま、え……! ようやく飲めると思ったのに! やっとこの苦痛から逃れられると思ったのに! なんてことしやがんだ時雨ッ!」

「なんてこと、はこっちのセリフだ。お前、今、何飲もうとしてた」

 朱梨に胸倉をつかまれた時雨はしかし、彼女にしてはいささか不自然なほどの怒りをぶつけられても落ち着いたままで、わずかに乱れた呼吸を整えながら缶に目を落とす。

 きっと走ってきたのだろう。首筋に汗が浮かんでいた。

 そんなことも気に留めずに、朱梨は錯乱したかのように声を荒げ続ける。

「なにってジュースだよジュース‼ 見てわかんねーのかよ⁉ 起きた時から死にそうなぐらいのどが渇いて、のど、のどがっ……‼」

「……朱梨、」

「うるさいうるさいうるさいっ……‼ みず、なんで、なんで水道の水はあんなにまずくて、クソっ、もう限界で、」

「神代朱梨!」

 バチンッ!

 時雨が大声で名前を呼んで、両手で彼女の頬を勢いよくたたいた。その衝撃が功を奏したのか、彼女の怒号が止まる。両手で彼女の顔をつかんだままぐいと上を向かせて無理やり目を合わせる。その目の中を見て、時雨は面倒そうに顔をしかめた。

「いいか、今から俺が言うこと復唱しろ。

『私は神代朱梨です』」

「……私は神樔サ譴ィ梨です」

「もう一回」

「私は神代朱梨です」

「よし。正気に戻ったんなら、改めて足元のそれ、見てみろ」

 疑似的な暗示によって朱梨の目に光が戻る。ぱちぱちと確かめるように二、三度瞬きをして、そろそろと手を放して、先ほど買ったはずのそれを見てみた。


 ―それは。

 ジュースにしては、些か紅すぎた。


「……これ、は、」

 流れ出ている赤色の液体と、それに混じって見えている白っぽい個体。たとえるなら以前どこかで見た魚の白子に似てるなあと片隅で考えて、ようやく思い当たる。


 血液と、人の、脳だ。


「……はは、うそだろ」

 無意識に一歩後ずさった。

 こんなものを自分から飲もうとしていたと考えるだけで吐き気がする。誰の血液かもわからないものを飲み込むなんておぞましいにもほどがある。時雨が止めてくれなかったら、と考えて身震いした。

 そんな朱梨に、時雨は少し非難めいた目を向ける。

「……大体、なんで飲み物飲むのに外に出たんだ? シンクの水でも飲めばよかっただろ」

「それが、すげーまずかったんだよ。とてもじゃないけど飲めなかった」

「……? まずかった?」

 朱梨の返答に思わず復唱する。

 朱梨はまだ気づいていないようだった。

「なんだよ、お前も部屋に戻って水飲んでみればいいじゃん。泥でも飲んだかって感じだから」

「―……なんで、まずいってわかったんだ」

「は? そんなんわかるもなにも、飲んだらすぐに感じ……て……、いや、待って、なんでだ……⁉」


「……そうだろ、朱梨。お前、味覚がないのに何で味がわかったんだ」


 最大の矛盾点を指摘した。

 ―神代朱梨は、味覚の機能が死んでいる。

 人間に備わった五つの感覚のうち、味覚と嗅覚が機能しない。これは幼いころからの障害だった。医者からも治る見込みなしと告げられている。なんの治療も行っていないのに、突然機能が復活するなどほぼありえない。

 だから。

 今、ここにいる彼女は。

 明確な異常を以て誘い出されたのだ。

「……時雨。一応聞くけど、今何時だ」

「午前二時十八分。急いで戻るぞ、完全に罠だ」

「―……っ、だめだ、ごめん、遅かった。巻き込んだ」

 足元に転がる缶のラベルを一瞥して、瞬時に悟る。

 血液と脳が詰まったその缶は先ほどまでは普通のパッケージだったはずなのに、今はもう見たことのないものに変わっている。全体的に黒、文字は赤。その文字も文字化けしてしまっていて、かろうじて読めるのは『吉木』という文字だけだ。

 多分、人名だ。

 時雨はその文字を見て、瞬時に脳内で情報を洗い出す。『吉木惇太』―半月前から捜索願が出されていたと記憶している。彼も真夜中に出ていったきり帰ってこなかったそうで、多分、このような状況に巻き込まれたのだろう。

 つまりは、朱梨と時雨もこの缶ジュースのような憂き目に遭う可能性が非常に高い。

「……どうする。一回、私の部屋に戻ってみたほうがいいか?」

「……ああ。現状、何も手立てがない。いったん戻って、俺が部屋に結界を張って、それから―……ッ‼」

 ふと朱梨の肩越しに向こうを見て、硬直する。

 異変に気付いた朱梨がとっさに振り向こうとしたが、時雨が強い力で彼女の肩をつかんで押さえてしまったので、見ることは叶わない。小さく低い声で、見るな、と告げられた。

「……しぐ、」

「……まずいな、逃げるぞ。走れるな?」

「……。ヤバくなったら、見捨てて構わねえから」

「そうか、考えとく。―……走れッ!」

 ―瞬間。

 二人はほとんど同時に、元来た道を走りだした。

 本能的な恐怖と焦燥をエネルギーにして、ひたすら早く足を動かし続けた。


『お翫↓縺斐▲縺難シ』


 りかい、が。

 理解が、できない音だ。

 何の言語にも当てはまらない、ただこちらの精神をぶち壊しにかかるだけの音が、少し後ろから聞こえてきた。

 背筋に液体窒素でも流し込まれたかのような、強烈な悪寒が駆け巡る。そうそう感じることのない異常な感覚に朱梨は足がもつれそうになって、慌てて足元の感覚に集中する。

「―……は、はは、ちょっと待てなんだアレ無茶苦茶やべー奴じゃねえか⁉」

「追いつかれたら一発アウトだ、絶対止まるなよ!」

 運動神経がよくて本当に良かったと、心の底から自分たちの才能に感謝した。

 同時に時雨は、何故今日に限って怪異に対抗する装備を何一つ持ってきていないのかと、自身の準備の悪さを恨んだ。気を抜いていたのではと言われるとぐうの音も出ない。これではあとで結々祢さんに大目玉を食らってしまう。いや、もしかしたらその前にここで死ぬかもしれない。間違いなく生きてる中で最大級のポカミスだ、と自責の念に駆られた。

「……神代。今お前の部屋にあるもので、怪異に対抗できそうなものはなんだ」

「ああ⁉ 覚えてるかよそんなもん! 確か塩と一升瓶に入ったお神酒くらいはあったと思うけど⁉」

「符は? 俺が渡した奴はまだあったか?」

「あるにはある! けどお前が使うには数が足りなすぎる! もう十枚もなかったぞ!」

 とっさに苗字呼びに切り替えて、全力で走りながら言葉を交わす。これだけ大声で話しても誰も出てこないあたり、本当に現世とはズレたところに迷い込んでしまったのだろう。おそらく朱梨一人だけだったら、解決策も何も浮かばないだろう。本当に心の底から、泡沫時雨の存在に感謝した。彼はある意味、このような状況のエキスパートだからだ。

 時雨はちらりと後ろを確認して、まだソレらと距離があるのを視認した。

 それと同時に、直感で遠くの前方にも同じようなやつがいることを悟る。それがちょうど帰り道をふさいでいる形になっているため、苛立ちで小さく舌打ちした。ハンドサインですぐそこの角を曲がることを朱梨に伝えて、二人同時に勢いを殺さないまま曲がりきる。少し遠回りになってしまった。

「四枚あれば充分だ。あと、和紙と筆と墨は?」

「和紙はある! 筆ペンじゃダメか⁉」

「いい。大丈夫だ。それだけあるなら、やっぱりお前の部屋に戻る価値はある」

「ところで訊いていい⁉ 後ろの奴ら見る勇気出ないんだけどどんな奴⁉」

「顔があるべきところに穴が開いてるのが三体。明らかに腕の長さが長すぎるのが一体。肌の色が青白すぎる子供が一体ともうそもそも人の形とってないやつが一体だ」

「よしなんとか想像の範囲内で安心したぞ!」

 ひひ、と歯を剥いて笑うが、彼女の頬には冷や汗が流れている。

 続くコンクリートの道には街灯の光は一つもありはしない。そのことがまた更に不安を掻き立てる。マンションまでそう遠いものでもないはずなのに、なかなかたどり着けない錯覚に襲われた。まるで自分の中の一秒を力ずくで無理やり引き延ばされているみたいだ。

 息ができなくなるような暗闇を通り抜けて、ようやくマンションのエントランスが視界に入る。時雨の直感頼りのナビゲートがあったおかげで、迂回はあれど正面切って襲われることはなかった。親友が高スペックすぎる。


―だから、少しだけ気が緩んだ。


「危ない神代ッ!」

「―……ッッッ‼」

 強い力で腕を引かれて、その直後に大量の血で染まる。

 ……なんてことはない。直前まで朱梨がいた位置に、投身自殺の死体が落ちてきただけのこと。時雨が気づかなかったらおそらく朱梨は巻き込まれてぺちゃんこだっただろう。明確な殺意の塊に、無意識に朱梨の喉がひゅ、と音を立てた。

 顔はつぶれている。

 ほんとうに?

 割れた頭蓋の中から、何かが這い出ようとしている。

 駄目だ。これは駄目だ。直視してはいけない。視認してはいけない、目を、合わせては、

「ぐ、ぁ……ッ⁉」

「悪い、加減ミスった!」

 咄嗟に時雨が朱梨の脇腹を肘打ちして、痛みで正気に戻す。反射的に身をかがめた朱梨をそのまま小脇に抱えるように抱きかかえて、エントランスの中に走った。力加減を間違えるあたり、時雨もそれなりに焦っている。

「泡沫、あっち! 階段!」

「わかってる!」

 抱えられたまま、エレベーターの横にある階段を指さす。言うまでもなく、エレベーターは使えない。あの密室の箱の中に行くなど自殺行為に等しい。それは時雨もわかっていたようで、迷うことなく階段へと向かい、二段飛ばしで登っていく。脇に抱えられた朱梨は手や足が何度も段差にぶつかりそうになるが、そんなことを気にする余裕はなかった。朱梨の足ではここまで速いスピードで階段を上るという芸当はできない。

 一階分上がるのに五秒もかからない。

 このマンションの一階分の段数は約十五段。時雨は今二段飛ばしで駆け上がっているから、歩数としては五歩で事足りる。だから、異常なまでに多いこの足音の数はすべて、追いかけてきている霊たちのものなのだろう。

「……マズいな、結構ギリギリだ」

「部屋につくのがか⁉」

「ああ。今ちらっと見えたが、俺の倍以上のスピードで上がってきてる」

 うそ、と背筋が凍る。

 今もずっと下から聞こえる大量の足音、あれがすべて一つの霊のものだって言うのだろうか、それならほんとうに文字通り猛スピードで駆け上がっているということじゃないか。

「―……は、下ろせ泡沫! 私抱えてなかったらもっと速く上がれるだろお前!」

「馬鹿言うな、お前こそここまで速く上がれないだろ、大人しくしてろ!」

「うるせえさっさと下ろしやがれ! 巻き込んだ挙句共倒れとか、流石に私の数少ない良心が痛むんだって!」

「勝手に殺すな!」

 言い争いをしている間にも、駆け上がる足音は着々と近づいている。現在時雨たちは十一階を通り過ぎようとしているところだが、下の足音は音を聞く限り七階付近にいる。速さを考慮すれば、本当に部屋につくのが先か追いつかれるのが先かの瀬戸際だった。

 抱えられている朱梨の頬に冷や汗が伝う。

 今にも段差に当たりそうな指先や足先にやけに感覚が集中してしまって、思わず体を丸める。四十数キロの人一人を抱えてなお駆け上がるスピードを落とさない時雨は、驚くことに呼吸も僅かにしか乱れていない。普通の人なら十階の高さなど上がるだけでも疲れるというのに、この男の肺と心臓はどれだけの強度を持っているのだろう。なんて感心することでしか、迫りくる恐怖をやり過ごす術が朱梨にはなかった。

 その後二十秒経つか経たないかといったところで、ようやく十四階へと辿り着く。朱梨の部屋は1404号室、階段を出て三つ扉を通り過ぎた場所。もう目と鼻の先だ。幸運にも駆け上がってくるなにかに追い付かれることはなかった。

 時雨は朱梨の部屋の鍵を持っていない。

 それ故、朱梨を追って外へ出た時、鍵を開けたままにしておいたのだが、結果的にそれが功を奏した。ドアに鍵を差して回して開ける、なんて時間は残念ながら残されていない状況だ。朱梨も朱梨で、合鍵とか渡さなくてよかった、と一人安堵している。

 1404号室のドアノブに時雨の手がかかる。

 辿り着いた。

 重たいその扉を、ぐっと引っ張って、

 隙間が広がるのがやけに遅くて、




『                      』




 耳元で、鼓膜を震わせずに情報を流し込まれる感覚がした。

 朱梨は気づいていない。


 追いつかれた。

 違う。

 外側から這い上がってきたのだ。


 後ろからゾッとするほど冷たい手が時雨の首を掴む。その後の展開が嫌でも予想できた。部屋の中に入るにはもう時間も何もかも足りない。僅かに空いた隙間には時雨が体を滑り込ませられるほどのスペースは開いていない。

 ……だから、その判断を下したのは反射的なものだった。

「―ッッ‼」

 僅かに空いた隙間にねじ込まれるように、朱梨の体だけが部屋の中に放り投げられた。玄関の土足部分に身を投げられた朱梨は、急な衝撃に目を瞑ると同時に勢いよく扉が閉まる音を耳にして、それがどういうことなのか一瞬で悟ってしまって、弾かれるように立ち上がって半狂乱でドアノブを乱暴に回す。あかない。あかない。あかない、あかないあかないあかない……っ‼

 時雨がいない。

 彼だけが、扉の外に取り残されてしまった。

「しぐ―、泡沫ッッ‼ おい泡沫ッッ‼ 返事しろ‼」

 拳をドアに叩きつける。手から血が出て汚れていくがそんなものは知ったことではない。

 駄目だ。それだけは駄目だ。

 だって時雨には何の非もない。あるとしたら全部彼女のせいであり、彼がこのような目に遭う謂れはどこにもないのだ。それなのに、それなのに私は無傷で逃れられて、彼が襲われるなんてまかり通るわけがないのに! どうして! となんどもなんども喉から出そうになって、それでも変なところで冷静だから、ずっと彼の名字を呼ぶことしかできなかった。

 朱梨の心臓が鋼の琴線にでも締め付けられたかのように縮こまり、彼女の呼吸はあっという間に早くなる。最悪の想像しかできない。

 返事をしない、ということはきっと首を絞められている。ドアを隔てたすぐ向こうに気配があるから、ドアが開かないことを考慮するとおそらくドアを背に押し付けられている感じか。首を絞められた場合、気道が確保できずに酸素不足で窒息するか、あるいは頸動脈が圧迫されて頭に血液が行かずに死ぬか、あるいは首の骨が折れて死ぬかの三択だろう。

 嫌なシーンばかりが脳裏によぎる。ドアが開かない以上どうすることも出来ないし、ドアスコープをのぞいてみても向こう側は真っ暗なままだ。状況判断すらままならない。

 どうしよう。どうするのがいいんだ。

 叩いていた手から力が抜けて、ずるずると血痕を付けながら落ちていく。足から血が抜けたかのような感覚がして、思わず玄関にへたり込んだ。

 私が外に出なければ。

 のどの渇きなんて無視できるぐらい強かったら。

 いいや。

 せめて、時雨が起きてこなければ。

 あるいは私だけひっそりと行方不明になるだけで済んだのに―


『―、―……めい、……―』


 聞きなれた声が、ほんの僅かだけ朱梨の耳を掠めて、思わず顔を上げる。

 それとほぼ同時に、


 ―ダァンッッッ‼


 何かが、派手に吹っ飛ばされて壁に激突したかのような音が響いた。ドアに振動は来ていないから、きっと外廊下の壁に当たったのだろう。

 低い、呻き声が聞こえる。しかし時雨の声ではない。

 続いてキュッと靴が擦れる音、そしてゴッ、と鈍い音。

「……いや、嘘だろアイツ」

 耳がいい朱梨は、音だけでどのような状況なのか明確に思い浮かべることができる。時雨の動きならなおさら。

 ドアスコープを覗くまでもない。

 ドアの向こうの時雨は、自身の首を掴んでいた幽霊を吹っ飛ばしたその後に―

 ―その怪異の体を踵で蹴り上げて、壁外に叩き落とした。



 ◇



『……いや、嘘だろアイツ』

 ドアの向こうから、呆然としたかのような声音が聞こえる。聴力の高い彼女のことだから、こちら側の状況が手に取るようにわかっただろう。

「―……ッ、!」

 ずき、と痛む首を咄嗟に押さえた。先ほどまで押さえつけられていた部分が、まるでサビてしまったかのように痛んでいる。強すぎる力で絞められていたわけではなかったので、物理法則外の力によるものだろう。怪異パワー的な。

 ほっとしたのもつかの間、ドアノブが動いたため反射的にドアを強く叩いて開かないようにした。

「―だ、めだ。もう開けるな」

『なんで、お前無事だろ⁉ 急いで中に入れ!』

「いいから開けるなッ‼ ……閉じた空間を作れ、鍵も閉めてドアスコープも塞いでろ。少ししたらそっち行くから、それまでに盛り塩と、お札書く準備しててくれ」

 べちゃ、べちゃ、と廊下の向こう側から音が聞こえる。

 先ほど怪異を蹴り上げた足の裾を少し捲り上げる。辛うじて所持していた神符を右足に貼っていたおかげで、幽霊相手に物理攻撃が効いたのだが、その神符ももう半分ほど黒ずんでいる。出来てあと一撃が限界だ。もう怪異相手に戦えない。

 先ほど時雨たちが駆け上がってきた階段のほかにも、反対側に階段がある。ほかの怪異がそちら側の階段から上ってきていないことを祈りながら、そちらで駆け上がるしかない。

『お、まえっ―……わかった。準備するから、早めにこっち来いよ。あと―』

 子供、か。

 ぽたぽたと雫を落としながら、その怪異は廊下の奥に佇んでいる。

 眼窩がぽっかりと開いている。

 皮膚が削げて、肉や骨が見え隠れしている。

 それなのにニタニタと気味の悪い笑みを浮かべている。

 ―ああ、溺死したんだな、と。

 そう理解したと同時、子供の形のそれは動き出す。一瞬たりとも目を離さなかった時雨は、弾かれるように反対の階段に向かって走って―

『―あと、うち食用の塩しかねえんだけどそれでも大丈夫だよな⁉』

「大丈夫だから、頼むから気の抜けること言うな神代‼」

 後で小言言っても許されるだろこれ。

 残念ながら神代朱梨はこういう人物であり、扉の向こうの彼女は真剣な顔で言っている。

 全速力で逃げ出したから、もう扉の向こうの音は聞こえない。辛うじて、慌てたような足音が聞こえたため、準備はしていてくれるだろう。一先ず朱梨のことは頭の隅に追いやって、現在の自分の状況だけを考える。

 朱梨を抱えていない今なら、追ってくる怪異との足の速さは互角。先ほど以上の速さで、勢いよく階段を駆け上がっていく。時折赤い服の女性が落ちていくのが外廊下の向こうに見えるが、そんなものにいちいちビクついてなどいられない。

 建物の外見と、朱梨が言っていた情報を頭の中で照らし合わせる。先ほど朱梨と駆け上がってきた階段と、現在上っている階段の二つには、少しではあるが違いがある。屋上に行けるかどうか、という点だ。前者は二十階で終わりの階段であるが、後者は二十階の先に階段室があり、そこから屋上に出られる。……唯一の、問題は。

(……鍵が開いているかどうか、だな)

 開いてなくとも力技でどうにかする算段はあるのだが、如何せんこの状況だ。開いていればスムーズに行けるが、もしかかっていた場合後ろの怪異に追いつかれる恐れがある。

 べちゃべちゃと不快な足音がじわじわと近づいている。

 こればかりはどうしようもない。賭けだ。

 チッ、と舌打ちする。

 時雨は賭けは割と好きなのだが、あらゆる不確定要素を排除した、完全に天運のみに左右される賭けが好きなのであって今のこのような状況が好ましいとは微塵も思えていない。むしろこのような状況で真価を発揮するのは朱梨のほうだったりする。

 なんて、考えているうちに。

 時雨の足ではあっという間に六階分の階段を上がりきってしまい、問題の階段室にたどり着く。

 勢いを殺さないまま、屋上に繋がる扉のドアノブに手をかけた。これがすぐに回ってくれれば賭けは時雨の勝ち、回らなければ彼の負け。かかっていないことを祈りながらドアノブを回して―


 ―ガチャン、と。

   嫌な手ごたえを感じてしまった。


「―ッ、クソッ」

 祈りもむなしく、ドアノブは回ってくれない。

 そしてその数秒が、致命的だった。

『おぉ……オ、まえも、一緒にぃ……! 一緒、いっしょぉぉぉぉおおぉぉ……‼』

「―……ッ、」

 子供の形をした怪異が、時雨の足にしがみつく。追いつかれた。ぞわぞわと凄まじい悪寒が背筋を伝って、本能が拒否反応を起こしている。その怪異の様子はまるで沼底に引きずり込むような、溺死者なかまを増やすような―


「―よかった。お前が俺の右足を掴んでくれて」


 それを見下ろす時雨の口角が上がる。

 それと同時、彼は怪異ごと扉を蹴破った。

『ガッ、アァ……⁉』

 彼の右足は、先ほども幽霊を蹴り落した足だ。

 つまり、幽霊に対して物理攻撃が可能な神符を張り付けている部位であり、それにより強烈なダメージが怪異に入った。その証拠に、先ほどまで足にしがみ付いていた怪異は、ひしゃげた扉のさらに向こうまで吹き飛ばされている。

 呻き声が聞こえるため、まだ息絶えて(幽霊であるためある意味息絶えてはいるのだが)いない。衝撃で首が折れていようと、血が噴き出ていようと動き出すのが怪異だ。息をつく間もなく、時雨は屋上の一方向を目指して走り出す。

 掴まれた足がじわじわと痛みだす。

 背中に脂汗が浮かぶ。首が痛む分にはまだいいが、足はまずい。機動性に関わる。二、三度息をして、脳内麻薬の放出を促した。

 屋上には、高くはないが低くもないフェンスが設置されている。走った勢いのまま、時雨はそのフェンスを飛び乗って軽やかに向こう側へと乗り越えた。

 そこはマンションの南側。

 本来あるはずの光が全部消えてしまった、模型のようなビル群が立ち並ぶ都心部。

 ちょうど、朱梨の部屋から見える景色と寸分違わない。


 風が吹いている。

 フェンスを掴んでいた手を離す。

 真下を覗き込めば、小指の爪より小さな自動車が幾つかあるだけ。

 人が落ちれば、簡単に五臓六腑が弾け飛ぶ高さだ。


「……問題ない」

 彼のつま先が、その断崖絶壁に差し掛かる。

 彼の瞳に恐れはない。

 風が吹いている。

 まるで投身自殺の直前のようだ。

 その綺麗な黒髪を風に揺らしながら、時雨は最後に一度だけ振り向いた。

 もうあの怪異は立ち上がっていて、首が折れた格好のまま、向こう側からフェンスを掴んで恨めしそうにこちらを見ていた。

 自分たちは水に落ちて死んだのに。

 おまえはそらに墜ちていくのかと。

 そう、恨めしそうな顔でフェンスの向こうに佇んでいる。彼らは境界線を越えられない。どうやったって、時雨のいる向こう側に行くことは叶わない。境界線を踏み越えられるのは生者だけの特権だ。

「……悪いな。俺はお前を救ってやりたいけど、それ以上に死にたくないんだ」

 時雨を捕まえようと、フェンスの隙間から無数の手が伸びる。指のひしゃげた、真っ青な爪をした、血の通っていない冷たく濡れた手が伸ばされる。

 それよりも早く。

 一切の躊躇いもないままに。

 ―昏い闇の中に飛び込んだ。



 ◇



「―……準備不足が過ぎるぅ……」

 神代朱梨は絶賛頭を抱えていた。

 食塩で盛り塩が作れたのはまだよかった。とりあえず玄関とリビングのドアに置くことで二重の境界を作ったため、もし玄関が突破されたとしても多少は安全だろう。

 ピンポーン。

 ピンポーン。

 現在鬱陶しいのはこのチャイム音だ。インターホンに映る玄関前には不気味な男がたたずんでいる。頭部が丸々ないためその意図はいまいちわからない。

 話を戻す。

 現在朱梨の部屋には空っぽになった塩の瓶、ありったけの和紙、筆ペン三本。御神酒がないのが一番の痛手だ。いつもは御神酒の入った瓶でぶん殴るという荒業で対処しているのだが、それができないのはとても厳しい。誰だ酒飲んだやつ。そういやベランダにぶちまけたまま補充忘れてたな。戦犯私じゃねえか。

 仕方がないので、そばにあった手ごろな人形に抜いた髪の毛を一本絡ませる。ついでにダメ押しで神代と書いた紙を張り付けて、一先ず即席の身代わり人形の完成。これを何体かに施していく。無いよりはマシ、というやつだ。

 ピンポーン。

 ピンポーン。

 相変わらずチャイムの音は鳴りやまない。

 今なお外にいる時雨は大丈夫だろうか。室内が完全に安全だという保証はないけれど、怪異がいない以上は外よりもよほど安心できる場所だと思う。

 時雨。時雨は本当に大丈夫だろうか。扉の向こうで聞こえた声はちゃんと時雨のものだったのだろうか、と疑心暗鬼が生まれてくる。大丈夫。彼は私より強いから、どうにかしているはずだけれど、でもアイツ最終的にはこの部屋に来るって言っていたけどどうやって来るつもりだろうか。

 その疑問が朱梨の脳内に滑り込む。

 朱梨は時雨に言われた通り玄関のドアのカギをかけ、チェーンもかけた。もう開けるな、と言っていた以上玄関から入るつもりはないのだろう。第一、今は玄関前に首のない男やその他もろもろが群がっているのでもう入れない。しかし、玄関以外に外に繋がっているものはなく、強いて言うならベランダが外に面しているだけで―


 ―ガンッッ‼


 金属の手すりに何かがぶつかったような音が耳に届いて、咄嗟に顔を上げる。そしてその音が意味するところを一瞬で理解して、弾かれるようにベランダに駆け寄った。

 ……そこには。

 辛うじて片腕でベランダの柵を掴んでいる時雨がいた。

「ウッソだろお前⁉ 何、屋上からここまで飛び降りたの⁉馬鹿なんじゃないのか⁉」

「やれる、って思ったから、飛んだだけだ。悪い朱梨、できれば引っ張ってくれ」

 そうだねそうだろうねえ‼ と絶叫しながら朱梨は時雨の腕を掴んで引っ張り上げる。この馬鹿は自分にできると判断したらどんな無茶も平気な顔して実行する悪癖がある。たとえそれが今回のように死と隣り合わせなものだったとしても。やってる本人は平気でも、隣にいる身としては心臓がいくつあっても足りない。


 ひとまず、二人とも無事に安全地帯に逃げ込めた。ベランダから部屋に入ってすぐに時雨は部屋にあった神符を四隅に貼り、ついでにリビングのドアにも一枚張り付けて祝詞のようなものをしばらく呟いた。幽霊除け、というよりも怪異除けの結界のようなものだ。

 それが安定したのか、今はもう神符作成に入っている。見惚れるほどきれいな姿勢で和紙に筆を走らせていた。

 朱梨は現状何も手伝うことがないため、リビングのドアを背に座ってただ彼を見ているだけだった。

 神符、一般的な言い方をするとお札。泡沫時雨は、この神符を用いた不思議な力が使える。「お前が思っているような修行みたいなことは特にしていない」と言っていたから、天性の才能の部類だろう。先ほど幽霊を撃退したのも、このお札の力によるものだ。

 世間一般的に言えば、霊能力者のようなものだろうか。

「―朱梨」

「ん、どうした」

 しばらくぶりに名前を呼ばれて、意識を時雨に向ける。時雨は朱梨に目を向けることなく、さらさらと滑らせる筆先に意識を集中させたままだ。

 どこから話すべきか、とでも言いたげな空白の後。

「……お前は、穢れと聞いて思い浮かべるのは何だ?」

「……? やっぱ怪異だろ。あいつら穢ればっか纏ってるし。ほら、お前の首だってまだ残ってる」

 そういって、朱梨は時雨の首元を指さした。彼の首には未だ黒い痣のようなものが残っている。じわじわと小さくなっているものの、依然としてまだ黒ずみは目立っていた。

「そうだな、間違いじゃない。じゃあ怪異が穢れを纏っているのはどうしてだと思う?」

「え、そういう存在だからじゃないのか?」

「……ああ、答えとしては正解だ。そもそも穢れっていうのは、人間が忌避すべき事柄に付随するものだ。溜まった水は言わずもがな、病気や出産、死体に出血。水はどうしても溺死の可能性が付きまとうし、病気や出産だって、昔は本当に命に係わることだった。死体は衛生的に危険で、血はどうしても死に結びついてしまう。人間にとって危険だと、近くにあってはいけないものだという存在には多かれ少なかれ穢れが付随するんだよ。だから、怪異は穢れを纏った存在なんだ。人間を害する存在だからな」

 そう話す間にも、よどみなく筆は走り、何枚もの神符が完成されていく。一枚書き終わるたびに、空間が澄んだものになっていくような感覚があった。

「……なるほどね。でもそれがどうしたって言うんだよ。確かにあいつらは幽霊の怪異で、ヤバい穢れをひっつけてるのはわかる。でもそれがこの状況を打開するのに繋がるか?」

「あいつらの話じゃない。この世界の話だ」

「……はあ?」

「いいか、この世界に来てからの空気は淀み過ぎてる。大気に穢れが充満しきっているんだ。最も恐ろしいのは追いかけてくる幽霊たちじゃない。ここの空気、吸い込み過ぎたら戻れなくなるぞ」

 思わず、口元を抑えた。

 なんだそれは。毒ガスが充満した部屋に放り込まれたかのようではないか。

 そんな彼女の様子を横目で見て、時雨はふっと笑った。

「安心しろ、何のために結界張ったと思ってる。少なくともここにいる分には大丈夫なはずだ」

「バッカ先に言え! つまりあれだな、元の世界に戻る算段が付くまで本格的に外には出られないってことだよな? どうすんだよ、情報集められないんじゃ逃げの算段の付けようが、」

「いや、見当はついてる」

「言えや‼ これだから頭いい奴は自分一人で完結しやがって、これじゃ私が心配した意味なくなるじゃねえか‼」

 相変わらずドアに背を付けたまま、ぎゃんぎゃんと喚き散らす朱梨。

 そんな彼女の抗議もどこ吹く風、通算五十枚目の札が完成して筆ペンを取り換える時雨。ちょうど墨がなくなったようだった。

「まずは、そうだな……この空間を構成しているものについて話すか」

「……? それはさっき言ってただろ。穢れが充満してるって、」

「ああ。それは間違いじゃないが、俺が言っているのは外殻の話だ。この大気中には穢れのほかにももう一つ……『霊的粒子』が多量に存在している。本質はきさらぎ駅と同じ、『限りなく非実在に近い実在』と同種だ」

「―この空間自体が幽霊だってことか」


 ―そもそもの話。

 怪異というのは三種類存在する。

 『幽霊』『妖怪』『呪物』の三つだ。各々に明確な定義が存在し、『幽霊』は『命を保有していた人間ないしは動物が死後に成る怪異』であり、『妖怪』は『科学的に成立する生態系に組み込まれない、命ある別種の怪異』であり、『呪物』は『それ自体に生命反応が存在せず、道具と見なせる怪異』である。

 故に各々の対処法が違う。

 特によく聞く『霊感がある』というのは、ほとんどの場合が対『幽霊』にしか作用しない。

 そして、その『幽霊』カテゴリの怪異は、他二つよりもとりわけ異質な存在だった。その体を構成しているのが、『霊的粒子』と呼称される粒子体であるためだ。


 人の魂の構成物質。

 『限りなく非実在に近い実在』。

 それで構成されるものは遍く、存在が不安定になるもの。


 科学的には存在が立証できないにも関わらず、何故か存在している粒子であり、幽霊の体を100%構成している物質だ。

 そして、この粒子を目で捉えられるか否か……別の言い方をすれば、その粒子にピントを合わせられるかどうかで『霊感がある』『霊感がない』が区別される。神代朱梨は完全なる前者であり、泡沫時雨はまた特殊な立ち位置なのだが現在の彼らの状況とは特に関係はない。彼らはともに同じ程度の霊感の強さ……粒子保有量の少ない、存在が消えかけな霊がどのレベルまで見えるかの段階は同程度である。

 もっとも、この粒子の重要な点は、『存在が不安定になる』という一点に尽きる。存在が立証できなくなるのだ。


「―ああ。つまりこの空間は、『存在していない』空間に限りなく近い。俺たちという証人がいるから多少は存在側に傾いたかもしれないが、そもそも外殻が霊的粒子でできているみたいだからな。多分、俺たちごと非存在側になってるから向こう側からの発見は難しいだろ」

「待ってくれ。いつもみたいに相手の思考レベルに合わせたフィルターをかけて喋ってくれ。IQに差があるんだ」

「つまり現世からの救援は無理。俺たちで脱出しないといけない」

「よーし理解理解。あとなるほどな、そもそもこの世界が穢れと霊的粒子で構成されてるから、幽霊たちにとってはガンガン補充も出来る超快適バフ盛り放題空間ってワケ」

「しかも俺たちにはデバフかかる完璧空間だ。地の利どころか空気の利まで向こうに渡ってるぞ」

 やってらんねー、とけらけら笑い出す朱梨。

「ただ幸運なことに、この空間は完璧な異界じゃない。あくまで現世をベースにした空間だ。……そうだな、お前にもわかるように言うなら……レイヤーが違う、と言えばいいか?」

「レイヤー、ってデジタルで絵を描くときのあのレイヤー?」

「そうだ。同一座標上の別世界、いつも暮らしてる世界が第一レイヤーなら、今いる世界は第二レイヤーだ」

 なら、と朱梨が声を上げる。

 デジタルでよく絵を描いている朱梨はこのたとえ話がよく理解でき、そしてそれ故に異常性がすぐにわかった。どうしてレイヤーを移動できてしまったのだろうか。たとえるならこれは、第一レイヤーに描いていた線のうち一本のみを第二レイヤーに移した形だ。それはあまりに難しい。

「……午前二時にあの付近に近づくことが、第二レイヤーに落ちる条件なのか? まあ、確かに霊的粒子ってなにかしらの制約っつーか条件がそろったときだけ実在側に傾くことあるもんな……」

「それだけだとまだ不十分だな。そこでさっきの穢れの話に戻る。これは俺の仮説にすぎないんだが……おそらくこの空間に充満している穢れは、元は現世で発生したものじゃないかと思われる。日常で出た微細な穢れがこちら側の空間に流れ着いているんじゃないか」

「……穢れって、そんな移動方法するもんなの?」

「何を今更。太古の昔から、人は穢れを川に流して海の底に送っていたんだ。形は違えど本質的には同じことだろ。……ああ、そうか。吸い込む力があったから、自然と流れができていたんだ」 

「……つまりどういうことだ?」

「お前と俺は、現世から穢れを吸い込む『穴』に流されたんだ。おそらくではあるが、現状その穴だけが現世と繋がっている可能性がある」

「……なるほど。なら、もう一回下の道に行けば、現世に戻れる可能性がある?」

「可能ではあると思うが、リスクが高すぎるな。どこにその穴があるかわからない。幽霊に追いかけられながら、吸い込む大気にも気を使いながら探すのは流石に無理だ」

 ということで、と言いながら、ちょうど書き終わった神符を隅にやって新しい和紙を用意する時雨。くるりと回す筆ペンはまだ残量も大丈夫なようだった。

「次はその穴が現世と開通する条件だ。……朱梨、穢れが溜まりやすい場所はどこだと思うか?」

「……人間にとって危険な場所、か? 溜まった水場とか……ああ、たしか死の穢れとかって黒不浄とか言うんだっけ。なら墓場……いや、河原とかもか。昔は百姓の遺体があったりとかで衛生的に危なかったとかなんとか聞いたことある」

「まあ、普通はそのあたりが思い浮かべるよな。ただ、穢れの溜まりやすい場所……言うなれば『良くない』場所は他にもある。―境界だ」

 境界。内と外を仕切り、空間を分断するそれは、怪異にとって非常に重要な役割を持つもの。

「得てして境界線には穢れが溜まりやすい。いわば仕切りと同じだからな、流れが滞るんだ。さっきも言ったように、昔から穢れの対処法として『流す』というのがあるが、その流れてきた穢れが境界に引っ掛かって溜まりやすい。……よく、幽霊は辻に現れるっていうだろ?」

 時雨曰く、それは溜まった穢れにより幽霊が一時的に力を付けているからだという。ほーん? といったように聞いていた朱梨だったが、辻にいる幽霊を見たことはないためあまり想像できていない。

「このマンションの立地と、2020年の六月二十一日っていう日付から、もうなんとなくわかるだろ」

「…………うわ、うわうわ嘘だろマジか、おい時雨、確か半月ぐらい前にも行方不明者が出たって聞いたけど、その時の月って満月の日だったか⁉」

「―ああ。六月六日、ちょうどストロベリームーンの日だ」

 うそだろ、とうわごとのようにつぶやく。

 深く考えなかった今日の日付が何を意味しているのかを瞬時に理解してしまって、その重なり具合に身震いした。

「―今日、六月二十一日は新月。そして夏至。極めつけに日食が起こる。…………完璧に重なりすぎだろ……」

「ああ、ぶっちゃけ俺も気づいたときはビビった。太陽の力が弱まる日に満ち欠けの境界線と日長の境界線が重なるなんて、随分とお誂え向きな日だ。お前を呼べたのも、力が強まっていたからなのかもしれないな」

「そんでもって立地か。確かに、この付近はちょうど都会と田舎の境界線みたいなところだからな。確かにぴったり条件は一致する。穢れが溜まって、結果私たちは押し流されたわけだ」

「より正確には、あの辺には微弱な結界が張られているらしい。おそらく俺たちが踏んだのはそれだ。ただ、その結界の明確な位置がわからないから、帰りにその穴を使うのは無理だ」

 境界により蓄積した穢れが吸い込まれるのはわかった。しかし、その穴が開くに足る境界がどこにあるのか、朱梨はまだピンと来ていない。

 一方の時雨はもう結論まで出尽くしているようだった。このようなところで如実に地頭の差が出てしまっている。未だなお筆を走らせる手を止めることなく、さらに時雨は言葉を紡いだ。

「あるだろ? お前は特に、出かけるとき絶対目にしてるはずだけどな」

「出かけるとき? 玄関……いや、違う、そうか! 祓郷の方にある廃神社の鳥居か!」

 ぱちんと指をはじく。

 確かに鳥居であれば境界に足りうる。あの廃神社であれば、溜まった穢れも相当だろう。嫌なものだ、とは薄々感じていたものの、まさかその嫌なものに助けられる日が来るとは思わなかった。

「より正確に言えば、鳥居にかかっているしめ縄の方なんだがまあ、どっちにしたって一緒みたいなもんか。……最終的な結論としては、この空間と現世を繋ぐのは穢れを吸い込む穴のみ。そしてそれは穢れが非常に多く溜まりやすい境界に位置する場所、そして境界となる日時にのみ出現する。そのため俺たちは、境界線である廃神社の鳥居を、境界となる時間に踏む必要がある」

「……一番近い境界の時間は、……日の出、だな」

「そういうことだ。六月二十一日の日の出時刻は四時二十二分、その時間に鳥居をくぐるぞ」

 そう言って、書いていた札のうち一枚を朱梨の方へひらりと飛ばす。持っておけ、とでも言うのだろうか。時計を見ればまだ午前三時、日の出までは少し時間がある。

 あと一時間ぐらいは籠城だ、と時雨は言う。やれるだけの札は作っておくと言い、また札のほうに意識を向けてしまう。

「……ちなみに聞くけどさ、この結論に辿り着いたのいつ?」

「……まあ、怪異に追いかけられてる最中にはあらかた考えついてたな」

「マジでお前の脳みそどうなってんの??」

 今に始まったことではないが、相変わらずの洞察力だ。きっと朱梨一人だったら、短時間にここまで考えつくことはできないだろう。むしろ彼女は、直感で行動して正解をつかみ取るタイプの人であり、ここまで理詰めで行動することはできない。

 時雨から提示された解決策を脳内で反芻させる。

 きっと一人ではここまでできなかった。

 絶対に帰還に数日以上かけるだろう。

 それを否が応でも痛感してしまって、次第に顔を伏せてしまっていた。

「……どうした」

 集中しているはずの時雨が、再び朱梨に声をかける。その声に返答するか否か一瞬だけ迷って、でも結局、ずっと抱いていた本心を吐露することにした。

「……巻き込んでしまって、悪かった」

「……」

「考えたらさ、全部私の責任なんだよ。私が外に出なければこんなことにはならなかったし、そもそもお前をここに泊めなければお前を巻き込むこともなかった。それなのにお前ばっかり死にそうになるから、さっきからなんか、心臓に石いれられたみたいに痛いんだ」

 そう言って、縮こまる朱梨。

 ……。

 少し考えたのちに、時雨は静かに筆ペンを置いた。

「……朱梨。お前のそれは、俺を巻き込んだことへの罪悪感、であってるよな」

「……多分」

「そうか。なら言うが、お前がそんなものを感じる必要はどこにもない」

 正座していた足を崩し、体ごと朱梨の方に向き合った。

 表情はいつもと何ら変わらない。

 いつもの、親友の泡沫時雨だ。

「朱梨。お前は、今日俺がここに泊っても何不自由ないように物を揃えていたよな。日用品は下のコンビニとかで揃えられるだろうけど、服とかは流石に前日ぐらいに買いに行っただろ。それは、今日絶対に俺をここに泊めておかないといけないって直感したからじゃないか?」

「…………そうだ。急に、ヤバいと思ってお前用の服を買ったんだ。強迫観念めいたなんかだった」

「……やっぱり直感か。ならいいんだ。大丈夫だ朱梨。

 それで正解なんだ。

 生き死にがかかった時のお前の直感は、これまで一度だって外れたことはないんだから」

 テストのヤマはことごとく外す癖に、と笑う。

 彼の言う通り、朱梨の直感は局所的ではあるが当たる。嫌な予感がして電車を一本意図的に乗り過ごすとその電車が事故に遭っていたり、訳もなく通学の道を変えたところ、本来通るはずだった道に建材が落ちてくる事故があっていたり。こういった事例は何も朱梨本人だけでなく、よく彼女と行動を共にする時雨も助かることがままあった。

 だから、今回の直感で時雨が必要だとされたのも、その結果彼を巻き込むことになったのも、この状況下では最善策なのだ。

「お前がこの夜を越えるのに俺が必要だと判断されて、俺を必要としてくれたのなら、数ある選択の中で俺が最善策なんだって言うのなら、俺はむしろ嬉しい」

 それに、と続く。

「―朱梨。俺の仕事を忘れたのか?」

 その言葉に、朱梨がパッと顔を上げる。

 仕事。この一言で、彼の言わんとすることが全て理解できた。時雨は相変わらず、誠実な目で朱梨を見据えている。

 怪異。そしてそれによる人的被害、その救出。

 これらは全て、泡沫時雨の領分だと。

「―……ああそっか、そうだよな。そうじゃん、お前この道のプロじゃん。本業じゃん。……そうか。頼っていいのか」

「プロではないが、まあ。好きなだけ頼れ、そのための専門家だ」

 そっか、そうだな、と何度か呟いて、漸く朱梨の体から力が抜ける。心のわだかまりが解けてほっとしたのと同時に、ゆるゆると疲れが迫ってくる。先ほどまでどうすればいいのかわからなかったのが、もう脱出の方針まで見えてしまったのだ、多少気が緩んでいても仕方がない。

 彼女の様子に安心したのか、時雨もふっと笑ってまた机の方へと身体を戻した。また神符作成に戻るのだろう。

「朱梨は少し休んでろ。悪いけど次はお前を抱える余裕はなさそうだ」

「……ああ、悪い、そうさせてもらうわ。四時ごろになったら起こしてくれ」

 ああ、という返事を聞いて、安心したかのように瞼を落とす。時雨から手渡された札を握りしめたまま。数分も立たずに、朱梨の意識は闇に落ちていた。



 ◆



 ―深い眠りから急に引き上げられる。

 不自然なほどあっさりと、眠気が引いていった。

「……しぐれ、今何時だ」

 すぐそこで神符を書いているはずの時雨に問いかける。

 ……?

 待てども返答はない。

 何の音も聞こえない。

 和紙に筆が滑る音も。

 彼の服が擦れる音も。

 彼の呼吸の音すらも。

 その強烈な違和感に、朱梨は顔を上げる。だって私の目の前には絶対に時雨がいるはずで、いなくともこの部屋のどこかにいるはずで、だってこの部屋唯一のドアは私が背にして座っている。

 それなのに。

 それなのにどうして、どこにも泡沫時雨の姿がないのだ。

「―……ッ、泡沫―」

 反射的に立ち上がって部屋を見渡した。

 彼の姿がない。

 彼が書いていた神符もない。

 彼がこの部屋にいた痕跡がどこにもない。

 どういうことだ、と頭の中でうるさいほどの警鐘が鳴り響く。なにか良くないことが起こっている。絶対に、私の身に危険が迫るような何かが起こっている。

 何が起こっているのかわからない。ただ自分の直感だけが、状況の悪化を捉えていた。

「―……」

 全神経を集中させる。

 一つの異常も捉え零さないように。

 ……例えばこちらが現実で。

 さっきの時雨の言葉がすべて幻だったとしても、この世界を出る糸口はもう掴めている。大丈夫、これまでだって一人で全部潜り抜けていた。今回だって、時雨ほどスマートにはできないだろうけど絶対生き残ってやる。私は時雨がいなくても―

『―朱梨』

 唐突なその声に、大袈裟なほど体がビクつく。突然の声に心臓が口から飛び出るかと思ったが、よくよく聞いてみればその声は時雨のものだった。

 ちょうど、朱梨が背にしていた扉の向こうから聞こえる。

 すりガラスに、ぼやけた人影が写っていた。

『朱梨、起きたか。もう四時だ、そろそろ行こう』

『お前が寝てる間に、さっと周りを見てきた。今ならあいつらも少ない。今ならいける』

『早く来い。置いていくぞ』

 ……どうして、扉の向こうにいるのだろう。

 どうして入ってこないのだろう。

 向こうにいるのは、本当に泡沫時雨か?

『ああ。おれは泡沫時雨だ』

 まるで見透かされたかのように言われて、思わず体が凍り付く。足元を見た。置いていたはずの盛り塩はもう全部黒くなってしまっていて、朱梨の見ている前でパキリと皿が割れてしまった。

『ああ。おれは泡沫時雨。泡沫時雨だ。なら、この扉も開けられるな』

 四隅に貼っていた札はすべてが燃えてしまったかのように黒ずんで、ぼろぼろと崩れていってしまっている。握りしめていた札も、もう何の字が書いてるのかすらわからない。

 かひゅ、と喉から音が鳴る。

 境界線を越えるのは生者だけの特権で、彼らは結界を越えられない。

 だから。

 すりガラスの向こうのあれは。

 泡沫時雨に『成った』のだ。


 暗い部屋の中。

 自分以外に誰もいない状態で。

 扉のドアノブは、今にも動き出しそうで。

 動き出して。

 駄目だ。

 駄目だ。

 見てはいけない。

 すりガラスのぼやけたそれに確固たる輪郭を持たせてはいけない。駄目だ。ドアが開いていく。ギイギイと気味の悪い音を立てながら、蝶番がサビてしまったかのようなその音を聞きながら、それでも何故かドアから目を離すことができずに、

 ―その形が、もう、見えて、



『―朱梨、起きろ』



 ◆



 見開いた目は瞳孔が開いている。

 びっしょりと汗をかいたまま、ただ一点を見つめたまま朱梨は短い呼吸を繰り返していた。そんな彼女を、心配そうに時雨は見ている。起こすために肩を叩いた手を引っ込めるタイミングを見失ってしまったようだった。

「……大丈夫か」

「あ―ああ。ちょっと……悪夢を、見ただけだ」

 そう言って立ち上がろうとして―

 ―扉の向こうに、同じ気配を感じてしまった。

 四隅を見る。もう、黒ずんでぼろぼろの状態だった。朱梨の座り込んでいるところのすぐそばに置いていた盛り塩も、もう八割方黒く変色してしまっている。

「……朱梨。もう四時十分だ。走る速度を考えれば、そろそろ動き出した方がいい。もうここも持たない」

「……ああ。ありがとう。お前はいつも、ちゃんと間に合ってくれるよな」

「……? 間に合う?」

「起こすタイミングがばっちりだったってことだ。おかげで見たくねえもん見なくて済んだ」

 そんだけだよ、と言って歯を見せて笑う。何の不安もないときにする朱梨の笑い方だった。時雨はこの笑顔をかっこいいと思っていて、見るのが結構好きだった。

 この一時間半で書き終えた大量の神符をまとめて、時雨はベランダの掃き出し窓を開けて外に出る。東の空が白んでいた。聡明な彼は今の状況のほとんどを理解していて、それ故朱梨がドアを背に座ったまま動けないのもわかっている。彼女が退いたら、恐らく最後の境界線は突破される。

「……神代。今から俺がしようとしてること、わかるよな」

「ああ。もう最短ルートで行くしかない。飛び降りるんだろ、十四階から地上まで」

 時雨が神符を持っている手に力を籠める。しかし、それは決して札を握りしめるわけではなく。

 やがて、神符自体が淡く青く光りだす。

「俺のこの、神符と霊力の紐を命綱にして一気に下に行く。自信はあるけど、それでも上手くいく保証はどこにもない。もしかしたら転落死するかもしれない。……神代。それでも、俺と一緒に飛んでくれるか」

 それはまるで、心中の誘いのようだった。

 なんて素敵な誘いだろうかと、朱梨の口角が自然に上がる。

 ドアに背を押し付けながら立ち上がった。

「……ハッ、いいぜ。死ぬときは一緒だ、なんも怖いことなんてねえよ」

 それは勝利宣言のように。

 覚悟をめいっぱい織り交ぜた、強気な声音で返した。

 今日、これまでの中で最も彼女らしい声だった。


 そして。

 彼女はドアから身を離して、全力でベランダへと走った。柵に足をかけた時雨がいつでも飛べる体勢で待機している。朱梨はその体に一瞬でも早くしがみつくだけだ。

 後ろで扉が開く音がした。時雨が身構える。しかし朱梨に後ろを見るだけの余裕は存在しない。

 真後ろに迫っている。

 捕まっていないならそれでいい。

 伸ばされた時雨の手を掴むようにめいっぱい手を伸ばして、掴んで、強い力で引き寄せられる。

 そして、それと同時に。

 ―二人は、暁のそらに飛び込んだ。



 ◇



「―待ってくれまだ膝ガクガクしてるんだ走りに支障が出てる‼ やっぱバンジージャンプってクソだわ‼」

「お前、飛び降りる前の威勢どこにやったんだ?」

 結論から言うと。

 二人は無事にバンジージャンプを成功させ、現在全速力で北側の祓郷旧神社に向かっている最中である。いくら神符と霊力で編んだ伸縮性がある紐だといえど、それを片腕で持っていたのだから肩への負担は相当なはずだ。しかしそれをおくびにも出さずに、地面に降りた次の瞬間には腕を振るって神符に通した霊力を操作して全ての神符を回収していた。ちなみにその間朱梨は四つん這いになって浮遊感を消そうと必死になっていた。先ほどのかっこいい笑みをした朱梨はどこに行ったのだろう。

 そして今に至る。

 道中、邪魔をするかのように何体かの幽霊が襲い掛かってくるものの、その全部を神符装着済みの足で蹴り飛ばすことで対処した。幽霊は粒子体故に攻撃がすり抜ける。そのくせ幽霊側は外殻の粒子密度を上げることでこちらに干渉できるのだからとてもとても面倒くさい相手である。そのため、対幽霊には霊的粒子に干渉できる術式を引っ提げてくるのが必須条件なのだ。

 二人で必死に走る。もう夜明けが近い。

 この時間を逃せば次は日暮れまで待たなければならない。そんな余裕は正直言って無いし、多分心が折れる。何が何でも間に合わせなくてはならない。

 田畑のあぜ道を二人で走る。彼ら以外に生きた人間はいない。死んでるやつらは後ろにいっぱいいるけれど。

 神社は目と鼻の先。

 あっという間に、石段に差し掛かった。

 正直この神社はあまり近づきたくはないが、それでも上らなければならない。未だ震え続ける足に叱咤をかけて、適当な段数飛ばしで駆け上る。

 四時二十分。

 後二分で日の出だ。

 もう空全体が明るい。ああ、そういえばこの時間は一番好きな時間だと頭の片隅で思いながら、一番上の鳥居だけを見続けた。

 境内はすぐそこだ。

 ぼろぼろで、しかし今でもしっかりと残っているしめ縄が朝の風に揺れている。

 最後の段に足がかかった。



 ◇



 ―あ、駄目だと直感した。

 泡沫時雨の推測通り、そこに現世と繋がる場所だった。

 それに間違いはない。

 行きと違うのは、彼らは流れに逆らう必要があるわけで。

 ―朱梨の足では、逆流するに足る威力が僅かに足りない。

 そこに存在しない何かの力に僅かに負けて、境界線を踏む足が僅かに遅れた。ゆらり、と僅かに体が後ろに倒れこむ。

 咄嗟に、前方へ手を伸ばす。

 何も掴むことはないはずの、虚空の空間。

 ―伸ばされた手を、白く綺麗な手が掴んで引き寄せた。



 ◇



 ―四時二十二分。

 天文台の計測に寸分の狂いもなく、境内に朝日が差し込む。

 通常、人がいるはずもない時間。普段から人が寄り付かない場所ならばなおさら。そのはずなのに、この早い時間から、祓郷旧神社の境内には二人の人影が転がっていた。

「―はあっ、はあっ、……っ、無事か泡沫ぁ……」

「ああ、多分、成功、だ」

 さわやかな朝の光が、石段を照らす。

 そこに、追いかけてきていた無数の幽霊はどこにも存在していなかった。

 それを確認して、二人はドッと力が抜ける。今にも倒れこんでしまいそうだ。……ふと、朱梨は自分の右手を見る。誰かに掴まれた感覚があって、誰かに引き寄せられた感覚があったはずなのに、この境内には朱梨と時雨以外、誰の気配も存在していない。

「……終わった、か?」

「ああ。空気も正常になってる。戻ってこれたぞ」

「そう、か……なあ、本当にこの境内、誰もいないよな」

「ああ。……最後、お前を引っ張ったの、誰だったんだろう」

 二人して、首を傾げた。特に朱梨は、掴まれた手の感触を明確に覚えている。あれは幽霊などではない。体温のある、れっきとした人間の手だった。

 遠く、遠くの田んぼの畦道に、老人のような人影が歩いている。見れば、祓郷のいくつかの民家にはもう電気がついているようで、早起きな老人たちが今日一日の生活を始めているみたいだった。

 二人とも、その遠くの生者を確認したことで、本当に元の世界に戻ってきたのだと実感できて、深く深く息を吐く。

 もう十分疲れた彼らは、柔らかい寝床で寝たいという欲求に従うように、重そうな足取りで来た道を引き返す。一応、鳥居は潜らないでおいた。踏み外さないことだけを注意しながら、来た時の三倍ぐらい遅い足取りで降りていく。石段をおりて、砂利だらけの畦道を歩いて。

「……時雨。朝日、案外きれいだぜ」

「本当だな。この時間帯、テンション上がるから結構好きだ」

「わかる」

 なんて、とりとめのない話をしながら。

 ゆっくりのんびりと、二人は帰路に就いた。



 ◇



 ―後日。

 無事に戻ってこられた通常世界を謳歌しながら、朱梨は何事もなく新生活を満喫していた。あれ以来謎の喉の渇きは起こらない。やはり条件がそろわなければ干渉してこないし、できない怪異なのだろう。

「―で、そっちはどうなんだ、霊障とかないか?」

『問題ない。むしろ心配なのはそっちだ、また出歩いてたりとかしてないだろうな』

 してないしてない。

 心配してくれるのはありがたいが、どんだけ信用がないんだろうか。流石に同じ轍を踏むのは馬鹿のやることだ。

『……まあ、大丈夫ならいいんだが。次からは金取るからな』

「わはは、親友割効かせといてくれよ! な、凄腕祈祷師の泡沫時雨くん?」

 はあ、と深いため息が聞こえた。呆れているのだろう。

 泡沫時雨は霊能力者ではない。

 彼はれっきとした、『祈祷師』と呼ばれる怪異専門家の一人である。『幽霊』、『妖怪』、『呪物』すべてのジャンルの怪異を相手取るオールラウンダー。十五歳の若さで、呰見及びその周辺の怪異の対処を請け負う実力者。

 間違いなく、同業者の中でも上位に食い込むスペックだ。

「ま、自分のことぐらい自分でどうにかするから心配すんな。手に負えなくなったらすぐに言うからさ。ところで、今回の怪異、祓郷の廃病院とどっちがヤバい?」

『廃病院のほうがずっとマシだ。あの空間、そもそも土俵の規模が桁違いすぎる』

 もう金輪際行きたくない……と言いかけて、やがて何かに気付いたかのように大きくため息をついた。

『……いや、俺もう一回行かされるかもしれない』

「は?」

『あの空間、結々祢さんに報告書持っていったら速攻で伝達されて、ものの二日で七大怪異の仲間入りだ。すぐに、とはならないだろうけど、いずれ突入するだろうな。今から気が重い……』

「……席番は」

『第六。欠員が出てたところに新しく入った形だな』

 ふうん、とスマホを耳に当てたまま勢いよくソファに寝っ転がる。部外者の朱梨にこう情報を与えていいのかという疑問はあるものの、彼曰く一般的な情報だから話しても構わない範囲らしい。

『それで昨日、この空間に名前が付いた。って言ってもそのまんまの『心霊空間』だけどな』

「へえ、まあいいじゃん。空間自体が幽霊なわけだし、あながち間違いじゃないよ。蒼さん辺りも駆り出されるんじゃねえの?」

『ああ。昨日蒼さんと話したんだが、本業があるので棄権したいとか言ってたぞ。実際最近は霊の報告が多くなって、兼業が本業になりそうな状況らしいが』

「ウケる」

 なんて、頭も使わず適当に話しているとき。

 差し込む日光に、ぼうっと意識が飛びそうになっている中。

 ピンポーン。

 気の抜けた機械音で飛び起きる。

 脳裏にあの時の部屋が映るが、チャイムの音は一回だけ。あの時のようなしつこいほどの連打はない。

 ほっと、肩の力を抜いた。トラウマ、というほどではないが、しばらくは神経質な反応が続きそうだ。

「悪い、来客だ。電話切るぞ」

『ああ。それじゃまた学校で』

 プツ、と通話を切って、玄関の方へ向かう。

 向かいながら、今日来客の予定はあったかと頭の中をひっくり返してみる。宅配は来る予定はないし、時雨はこれから結々祢とかいう人に会いに行くと言っていたから違う。リビングのインターホンを見忘れたので誰なのか見当がつかない。友達……は時雨とあと一人ぐらいしかいないし。

「はいはーい、今出まーす」

 適当に声をかけて、ドアのチェーンを外す。

 何故だかはわからないけれど、ドアを開ける前から、向こうにいる人物は安心できる人物だと錯覚していた。だから、相手も確認せずチェーンを外すという無防備な行動を取ってしまっていた。何も情報を得ていないはずなのに。

 かちゃりと、鍵を回す。

 重い扉を開くと、そこには―



「こんにちは。先日、お隣に越してきた者です。

 結染優里菜、っていうの。これ、つまらないものだけど。

 ―是非、仲良くしてくれると嬉しいわ」



 ―見惚れるような金髪と、宝石のような緑の瞳をした、

   まごうことなき美少女が、佇んでいた。

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