竹内昴

第1話 蝶

 今朝がたから、妙な気持ちになるもんだ。ふと、目をやると、少しかしこまった感じで飛ぶ蝶に出会ったのだ。元来、蝶は行動の本質上、花の周りをひらひらと飛ぶもんなんだが、何故か、この蝶は非形式な形で飛んでいる。「ちょっとおかしくないかい?君は」思い余り、つい問いかけたくなった。「蝶ってのは、もっと、人の気持ちをなでるようにひらひらと飛ぶもんだよ?なのに君はなぜ、そんな必死そうに飛ぶんだい?」人の装いもさながらに、頭をよぎる、空白の理念は、その蝶の容姿にとらわれる、自分のいもじき感単な気持ちに、少し自照気味に思えたのだった。しかし、蝶はその姿に恥じぬよう必死に花の周りを飛んでいる。まるで元来の自分の敵はいるかのごとく、周りの目を気にしている自分の弱さに負けじと頑張っている。どこかしら、一陣の風がこの蝶の頑張りをあざ笑うかのごとく、ぶわーと襲ってくる。その、有様たるや目を覆いたくなるものに思えるほど、確固たる進化の過程で、手に入れたその見事な羽をあしはらうが如く、妙につっかかった光景を見せてくる。「蝶よ、君は、すごいんだね、ただのあしらいのような風にも、君は、堂々たる、飛翔を見せてくれる。きっと、僕には出来るもんかと感じてしまうほどに」なかなかの見ごたえのある、その堂々たる飛翔っぷりに思わず、自分の中のナルシストなイメージが答えをはぐらかすかの如く、違う答えを持ちたがるのだ。あたかも、今、自分は蝶になっているのかと、曇り気味の自分の内心に秘める、春のそよ風のような、清々しさに、横柄な自分の心変わりを感じるのだ。久方ぶりに味あう、ごちそうのまえに、気味がいいほど、酔えているような、まるで蝶がいま花の蜜に甘んじている感覚に思えて来たのである。人とは気持ちの上で、この上ない希望を見出すと、人以外の生きものにこんな感傷的になれるのかと、生き勇みたくなる気分だった。がんじがらめの感情のなかで人はいそいそと自分の人生を踏ん張り、自分らしい生き方をするものなら、自分らしきおこがましさで、人を忌み嫌い、あざ笑うかの如く、人生は二転三転するものである。そのおかしくなりそうな気配の前に、その蝶は、私に語りだした。「人間てのはきままなもんだよな、私たちが必死に生きてると微笑みながら、がむしゃらに、呆然と、僕らのゆとりをねじろうとして、自分たちは人間だって演じきる、その感覚になかに溶け込む風景の一部だってことに、私は感謝しつくせない、あるまじき、答えを持ちたくなる。」これは、どういったことなんだろうか。この前まで深い感動に酔えていた自分の感情のコントロールがほどけた感じの、いまいち、納得できない、感じ方のとうぼけと思うような、傍観者としての自尊心の暁に到達する、自分のエゴのメカニズム。すなわち葛藤の奥地に潜む、むごたらしい自分の会話の中身が、必死に、自分をとりつくっているかの如く、しまりが悪い。そんな、卑怯な自分のポリシーが、憎まれ愚痴をいう時の、あこぎな性分にしても、所詮、人間さという、言い訳の形が、蝶にしてみたら、こそばゆいのかな?と思ったりした。「君が、蝶として意味がある存在ならば、答えはもどかしくとも、今ある人生のすべてに答えらしきなんてものはないと思いたい、自分がそういう個体であり、君は所詮飛ぶことしか能がないといえるから、なんでもいい人間の万能感におごりでも感じるのかい?」いいだろうと思えた。所詮私も、人間である。一切の努力もむなしく徒労感に終始追われて生きている身分でもある。だれしも、このむなしさに感じる心の刻み様、とかく意味なんてないなんて、百も承知だ。しかしながら、期待している自分もいる。強迫観念というべきか?いらぬことへの関与のおこぼれか。自分のトラウマに対する答えが空しすぎていることへの贈呈式。「私は言おう。おめでとう、君という存在のありかが、私の中で目覚めた気持ちとしての感謝の意味は、きっと、

起こりえるすべての出来事に対する、自発的な究極の選択に思える、自発的な人生の暗黙感に対する霧の張りめぐらしかたにピリオドがきたのだよ。必死に生きようとも堕落して生きていようとも、自分は安心してその人生のルールに従えていることの証こそが、自由なんだと。」私は安心した。正直な気持ちだった。自分がそういう存在なんだと、根っから思う、気分の選りすぐりの中身が、大まかな気持ちの代弁者としての、あからさまな嘘の方便と思う、心の解放感に酔いしれた。だが、しかし。気がかりなのは、自分がその蝶の心の感じ入り方のくたびれた気持ちの無い承認の気持ちを見たとき思うのだ。自分だって他人をそういう風に許せてもいいのかと。

それは、いまある姿の自分の許容範囲を超えた、ずるがしこさの表れだった。私は蝶に問うた。「自分が変身願望として君のようになりたいといえば、君はどう思うかな?」

いささか、不慣れななれそめに悩む、自分の本性の感じ方の向き不向きに冠たる、チャンスが来たんだと、大いに自信をもっていいんだと、心構えに備えるべく、自身の本能に呼びかける絶好の機会だと思えた。

蝶は答えた、いや、答えてくれた「すべての生物の生態系のなかで、いかにも、自分らしい誇りの中で生きる意味として、私は蝶であるという自覚はない。それに関しては、君は私になるべく、どんな形の姿を想像するのだろうか?」私は失笑した。そんなもの私にも言えることだと。すなわち、もう少し踏み入ってしまえば自分にもない姿の寛容がすこぶる気に入る、君の羽みたいに美しく見えるだろうさと。君は間違った形のいびつな模様の羽を見たことがないんだね?それを僕に露呈したのなら、君自身の想像のすべてを僕がまかなうことは可能だよ。人格の中のすべての

感じ方の奇跡を僕は育んできたのかもしれない。君が優雅な身のこなしで、飛んでいく術を見極めて行くことに、なんのとまどいもないのだよ。でも、ぼくが言える、すべての情報のなかの一部として、インプットされた君のデータ化された孤独の意味を知っている、

僕の気持ちは、自意識の変化にに思えて地味な気持ちの払拭感に思う、意識の変化に憂うのだよ。ところが蝶は言った「答えは簡単だ

。今からいう事をなぞらえて信じて欲しい

。君はぼくになりたいのならという願望の形を興味に変えていくことに重点をおいてくれよな。自分のあいまいな気持ちに囚われず、

僕のように自分を想像していいよ。」

自分がそういう答えを待っていたと気づいたときに、一匹のカマキリがその蝶を捕まえたあげく、むしゃむしゃと食べだした。私とは

言えない気分に沈み、私は、自分を取り戻したのだった。人は夕暮れどきに、ふと悩むこともある、自分ていうのはどんな人間であるのか、あるいは、とてつもない悩みを抱えた動物なのか。きっと存在を明るみにすることの意味の無さに蝶のような嫌われそうにない答えの意味を見出しては、自分という素直な

人間の一面を見つめなおしていくのだろうと。

そこに、人間のすべてを見出せることはなく

、表面的な事実のみが介在する、人のシンボライズされた美しさの感嘆が浮き沈みしていくことに、本質的な意外性を見てははいて捨てるほどにかかわってくるすべての衝動的事実に向き合いながら、人として愛し、人として好まれて、この世を去っていくのだろうかか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

竹内昴 @tomo-korn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ