第64話学ぶべきこと
「ふ、副社長……?」
「そうです。まぁ本来なら君が相応のポジションについてしかるべきなのでしょうけれど、君はまだ未成年ですから。アイリお嬢様の一種の配慮と思って納得してくれると有り難いのですが……」
「い、いや、それは全然構わないし不満にも思ってないんですけれど、あの……」
俺は地面にへたり込み、恐怖の表情で烏丸さんを見上げている冬子さん、そして涼しく微笑む烏丸さんの顔を交互に見た。
「あの、失礼ですけど、今まで冬子さんと何を……?」
「そりゃあ、新生ダンジョンイーツの社長として恥ずかしくないように、経営者としての知識や身の振り方を教授させてもらっていたんです。まずごく基本的なことから……」
ニコリ、という感じで烏丸さんが微笑んだ瞬間、まるで爆発するかのように烏丸さんの背後からどす黒いオーラが噴き出し、俺を圧倒した。
これは――俺は内心、脂汗が吹き出してくる思いがした。
俺は藤堂アイリのような正のオーラも苦手だが、もうひとつ苦手なオーラが、この人が今全開にしたオーラだ。
そう、つまり、「社会的にエリートである人間」が持つ、研ぎ澄まされたかのような鋭いオーラが――俺たち姉弟は物凄く苦手なのだ。
「ダンジョンイーツ社は我がD Live社注目の新事業ですからね。ゆくゆくはこんにちのダンジョン探索のあり方を変えうるかもしれない。それなのに今後、事業の急拡大に際してそのトップが無能では事業の根幹自体が危うくなる――」
俺が内心震えていると、ふむ、と鼻を鳴らして烏丸さんがへたり込んでいる冬子さんを見た。
「ということで、まずは会社資料関係の読み方から指導していたんですが――逃げ出すとは悪い子だ。夏川社長、これは早速にもお仕置きが必要ですねぇ――」
途端に、冬子さんの顔からぶわっと脂汗が噴き出し、全身がカタカタと震え始めた。
震える冬子さんを見て、烏丸さんは何故なのか喜んだらしく、口の片方だけを持ち上げ、実にサディスティックな微笑みを浮かべた。
あ、ヤバい。
この人は冬子さんが世界で一番苦手なタイプの人間だ。
俺が止めようかどうか迷っていた瞬間、スマホの着信音が鳴り、おっ、と烏丸さんが声を上げた。
「おお、噂をすればアイリお嬢様からですね。――電話に出ても?」
「え? あ、ああ、どうぞ」
俺が頷くと、烏丸さんはダークスーツの内ポケットからスマホを取り出して電話に出た。
「烏丸です。――ええ、ええ、いえ、順調かと問われるとそうでもありません。一時、対象に監視体制を破られ逃亡を許してしまいました。それにつきましては謝罪を――必要ない? はい、それは失礼いたしました」
対象、監視体制って――まるで諜報組織の一員のような台詞に俺が顔を顰めていると、パッと烏丸さんの視線が俺を見た。
「アイリお嬢様からお二人へメッセージがあるそうです。よくお聞きください」
簡潔にそう言って、烏丸さんはスマホをスピーカーモードにした。
同時に、さっきまで聞いていた藤堂アイリの声がスマホから聞こえてきた。
『ガンジュ君、そしてガンジュ君のお姉さん、聞こえてますか?』
「あ、ああ、よく聞こえてるぞ」
『よかった。それでは私の方からも烏丸さんに関しての紹介をさせていただきます』
藤堂アイリはそれから流暢に説明を開始した。
『烏丸さんは我がD Liveが誇る若手のホープです。入社してそれほど長くはないのですが、既に大きなプロジェクトを複数成功に導き、若干二十七歳にしてウチの新事業開発部課長という大抜擢を受けた敏腕ビジネスマンです』
いやぁそれほどでも、というように烏丸さんは顎を斜め四十五度に持ち上げて目を細めた。
如何にもナルシストなその所作に俺が若干ヒいているのにも構わず、藤堂アイリは説明を続けた。
『烏丸さんはそれまでの経歴も凄いんですよ。某一流国立大学に首席で入学、首席で卒業なさった後、引く手あまたを断り、鳴り物入りでD Live社に入社したスーパーエリートです。彼なら新生D Eats社の副社長に相応しい。私たちはそう判断し、今後は新事業開発部と副社長を掛け持ちしてもらうことにしました』
やっぱり、物凄いエリートなのか――俺はその説明に再びゲンナリした。
俺も冬子さんも人間力が皆無のクソザコナメクジであるから、こういうバリッとノリの効いたタイプの人間が苦手だ。
隣にいられるだけで自分が惨めな気持ちになるし、数年間着続けているヨレヨレの部屋着の如き生活を送る俺たちにとっては、行儀よく真面目な人間はある種猛毒のようなものなのである。
『これで大体の説明は終わりですが――ガンジュ君のお姉さん』
「はっ、はい!?」
『烏丸さんは優秀ですがその反面、物凄く厳しい方です。それはもう、己にも他人にも』
くすくす、と藤堂アイリは何故なのか可笑しそうに笑った。
『多分、ガンジュ君のお姉さんにとっては、これからは少し忙しい日常になると思います。けれど――烏丸さんは決して悪い人ではありません。これは試練だと思ってなんとか耐えてくれると助かります』
「う……!」
冬子さんが自信なさげに眉尻を下げ、烏丸さんが手に持ったスマホを不安な視線で見つめた。
これから病院に行くよ、と言われた柴犬のような冬子さんの目に、俺も本当に大丈夫なのかと懸念せざるを得なかった。
何しろ、冬子さんは単純な人間力だけなら俺と同等かそれ以下であり、いい歳してコンビニのバイトすらしたことがない。
大学を卒業した後も定職につかず、ほぼ事業として成り立っていなかったD Eats社のお飾り社長という肩書きに今日まで縋って生きてきただけの人間なのだ。
それがいきなり、D Live社が社運を賭けて立ち上げる新事業の社長に――?
冬子さんでなくとも自信がなくなって当然だろう。
だが、次の瞬間――藤堂アイリは少し意外なことを口にした。
『それと――烏丸さん』
「はい、なんでしょう」
『烏丸さんも、ガンジュ君やガンジュ君のお姉さんから大いに学んでくださいね』
「は――は?」
一瞬、烏丸さんは物凄く意外そうに目を見開いた。
俺も、冬子さんも、藤堂アイリの今の一言の真意を測りかねて首を傾げた。
この人が? 一流国立大学を卒業して既に社会的成功を複数修めている人が、俺たちから学ぶ? 一体何を?
俺と冬子さんが顔を見合わせると、その間抜けな表情を予想したのか、再び藤堂アイリがくすくすと笑った。
『烏丸さんは限りなく完璧に近い人ですけれど――却ってそれだから学べていないことだってある。これは烏丸さんにとっても大いに学びの時間になるでしょう』
「お嬢様、失礼ですがそれは一体どういう――?」
『大丈夫です。私が今言わなくても、すぐに学びの機会が来るでしょうから。――ガンジュ君のお姉さん』
「はっ、はい!」
『ウチの烏丸さんをどうかよろしくお願いしますね?』
なんだかよくわからない一言に、その場に沈黙が落ちた。
言うべきことは言った、というような深呼吸の後、さて、と藤堂アイリが言った。
『烏丸さん、今日はもう午後八時を回ってます。そろそろガンジュ君のお姉さんを解放してあげては?』
「ふむ――まぁ確かに、もう時間が時間ですからね。最初からあまり根を詰めるのもよくない。今日のところはこれぐらいにしておきましょうか」
意外にもアッサリとその言葉を受け入れた烏丸さんは、スピーカーモードにしていたスマホを通話モードにし、何事か一言二言藤堂アイリと会話した後、通話を切った。
「というわけで、夏川社長。今日のレッスンはこれぐらいにしておきましょう」
さっきの不意を突かれたような表情から一転、一瞬でエリートビジネスマンの仮面をつけ直したらしい烏丸さんは、このどす黒いサディスティックなオーラさえなければ実に魅力的と言える微笑みで冬子さんに笑いかけた。
「資料は残していきます。予習は欠かさないでくださいね」
「よ、予習――!?」
「えぇ、当然でしょう? すべての学習には予習。復習、再度復習が肝心です。私は近くにホテルを借りていますから、今日はそちらに引き返します」
途端に、烏丸さんの背後から例のエリートオーラが噴き出し、へたり込んだままの冬子さんを威圧した。
「私は明日もまた来ます。今日の続きをしますから、備えていてくださいね?」
ひいっ! と、冬子さんは涙目になって身を固くしたが、烏丸さんは言うべきことは言ったというようにエリートスイッチを切り、それでは、と涼しく右手を目線の高さに上げて踵を返した。
嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった男の背中を俺が眺め続けていると……冬子さんが今更その可能性に思い当たった、というように頭を両手で抱えた。
「も、もしかして、これから私、毎日あの人とレッスン……!?」
あああああ、と呻き声を上げ、頭をガリガリと掻き毟りながら半ば錯乱している冬子さんを、俺は慌てて抱え上げ、力ずくで部屋の中に引きずり込んだ。
その後、半狂乱になった冬子さんがやっと疲れて寝入ってくれるまで――実に三時間を要したのだった。
◆
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